Month: April 2022

新金貨物線 – Wikipedia

停車場・施設・接続路線 新金貨物線(しんきんかもつせん)は、東京都江戸川区にある小岩駅[1]と葛飾区にある金町駅[1]を結ぶ総武本線の貨物支線の通称である。路線名は新金線(しんきんせん)と呼ばれる。 路線データ[編集] 金町駅付近(新小岩信号場駅起点6.0 kmポストから金町駅寄り)のみJR東日本東京支社、それ以外の区間は同千葉支社の管轄である。 明治期及び大正期の(鉄道院→鉄道省→)国鉄総武本線の東京側の終着駅は両国橋駅であった。隅田川への鉄道橋の架橋がなかなか行われなかったためである[2]。そのため国鉄の貨物列車は次のような経路で千葉県内外との連絡をはかっていた。総武本線亀戸駅/東武亀戸線亀戸駅 -(東武亀戸線)- 曳舟駅 -(東武伊勢崎線)- 東武北千住駅/常磐線北千住駅[3]。あるいは、千葉県内から輸送されてきた貨物は両国橋駅で荷馬車や船に積み替えて隅田川を渡り、隅田川西岸へ運ばれた[2]。 総武本線の貨物列車が隅田川を渡れないことは物流にとって非常に不便なことであり、千葉県の経済にも影響が大きいため、1920年(大正9年)に総武本線新小岩信号場 – 常磐線金町駅を結ぶ本貨物線 (7.1 km) が計画され、1926年(大正15年)7月1日に開通する。同時に貨車の入換を取り扱うために新小岩操車場も開業する。本貨物線の開業により、総武本線の貨物列車は本貨物線と常磐線を経由して隅田川西岸へ直通することができるようになった[4]。 その後、両国橋駅止まりだった総武本線は関東大震災の復興計画として中央本線御茶ノ水駅まで延伸することになり、総武本線は隅田川西岸へと伸びることになる[5]。ただし、ここで延伸された御茶ノ水 – 両国間は、秋葉原駅の前後が電車列車のみ通過することを前提として33 ‰の急勾配で敷設されたため、その後も貨物列車は本貨物線経由で運転された。

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西亦次郎 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “西亦次郎” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年5月) 西 亦次郎(にし またじろう、1909年5月28日[1] – 1974年)は、福岡県出身の実業家。元西鉄ライオンズオーナー・社長。日本プロ野球(日本野球機構)におけるドラフト制度の生みの親と言われる。 人物・功績[編集] 旧制福岡中学校(現:福岡県立福岡高等学校)を経て、1930年九州帝国大学法文学部卒業[1]。西日本鉄道の前身会社の九州電気軌道に入社[1]。小倉営業所長、東京出張所長、西鉄本社運輸局次長、小倉支社副支配人となり[1]、戦前のプロ野球チーム・西鉄軍においてはチームと本社間のパイプ役を務めた[2]。戦後の1950年、前年暮れに創立[3]したばかりの西鉄クリッパース(翌1951年、西日本パイレーツを吸収し西鉄ライオンズに改称)オーナーに就任。1952年、球団社長の座に着き、15年間球団社長を務めた。 西鉄ライオンズに三原脩を監督として招致し、その後球団は1954年に初のパ・リーグ優勝、1956年からは日本選手権シリーズ三連覇を成し遂げ、黄金期を画する。三原が1959年のオフに退団した後も、3年連続3位ののち1963年にリーグ優勝(西鉄ライオンズとして最後の優勝)を果たすなど下位に転落し続けたわけではなかったが、親会社である西日本鉄道側の赤字が続いた。 その当時、この経営赤字に危機感を持った西は、アメリカのNFLにおけるウエーバー方式のドラフトを知る。 この制度を日本のプロ野球に導入してみてはどうかと考えた西は、これを元に原案を作る。そしてこの草案を1964年7月24日のパ・リーグオーナー懇談会にて発表し、パ・リーグ全球団の支持を得る。一方、セ・リーグにおいては大洋ホエールズしか支持を表明をせず、資金力があり、有望選手をほぼ自由に獲得できた読売ジャイアンツ(巨人)や阪神タイガースはドラフトは不要なものとして反対した。この2球団を擁するセ・リーグ側は賛成が全球団の4分の3なら賛成するという厳しい条件を出し、反対を貫く。 西は当時のプロ野球界が新人選手の争奪が激しくなるにつれて、人件費がはね上がってしまい、資金力のない球団ほど非常に不利な状況になってしまう当時の日本の野球界の現状を懸念し、ドラフト制度の導入の必要性を訴え、セ・リーグ側球団の説得を続けた。その結果、国鉄スワローズ、中日ドラゴンズが賛成に回り、条件の9球団に達するに至った。

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フィラレート (キエフ総主教) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “フィラレート” キエフ総主教 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年2月) キエフ総主教フィラレート(ウクライナ語: Філарет;1929年1月23日 – )は、ウクライナの最大正教会組織であったウクライナ正教会・キエフ総主教庁の首座主教である。1995年10月に着座した。公式称号は「キエフと全ルーシ=ウクライナの総主教」。俗名は、ムィハーイロ・アントーノヴィチ・デヌィセーンコ[1]。1992年までロシア正教会の府主教。2018年12月15日にウクライナ正教会・キエフ総主教庁とウクライナ独立正教会などが統合し、新生「ウクライナ正教会 (2018年設立)」が発足し、新首座主教としてエピファニー府主教が選任されたことに伴い、総主教職を離任し、新生ウクライナ正教会の「名誉総主教」とされた[2]。 ムィハーイロ・デヌィセーンコは、ウクライナ東部のドネツィク州アムウローシイウカ地区(Амвросіївський район)のブラホダートネ村(Благодатне)の労働者の家庭に生まれた。 オデッサ神学校 とモスクワ神学大学で神学教育を受け、後者においては 当時のモスクワ総主教アレクシイ1世と近しい関係となった。1950年、修道誓願を立てて修道名フィラレート(Филарет)を授かった。1950年1月には修道輔祭に叙聖され、1951年6月には修道司祭に叙聖された。 卒業後、モスクワ神学大学にとどまり1952年から教授として教鞭をとり、神学大学監督の上級補佐を務めた。1956年、サラトフの神学校の監督に任命され、典院に昇叙(しょうじょ)された。1957年にはキエフ神学校の監督に任命され、1958年7月には掌院に昇叙され、さらに神学校の校長に任じられた。

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アインメディオ – Wikipedia

株式会社アインメディオ(英: AIN MEDIO.INC..)は、かつて存在した愛知県名古屋市中村区に本社を置く調剤薬局チェーンである。 アインホールディングスの子会社で調剤薬局の「アイン薬局」、「ナイス薬局」を愛知県を中心に、「リジョイス薬局」を京都府中心に、「サンウッド薬局」を富山県に展開している。2009年(平成21年)10月1日に同じくアインファーマシーズ(現・アインホールディングス)の子会社であったリジョイス薬局と合併し、アインメディオに商号を変更。2010年(平成22年)4月1日にはサンウッド株式会社を吸収合併した。 なお、かつて行なっていたドラッグストア事業については、親会社のアインファーマシーズへ吸収分割している。 1918年(大正7年)5月 – ヨコイ薬局として創業。 1981年(昭和56年)10月1日 – 「株式会社ショーワドラッグ」を設立。 1991年(平成3年)3月 – 昭和薬品株式会社の100%出資子会社となる。 1997年(平成9年)8月 – 「ナイスドラッグ株式会社」に商号を変更。 2002年(平成14年)6月 – 株式会社アインファーマシーズと業務提携。

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メフィスト (プロレスラー) – Wikipedia

この項目では、メキシコのプロレスラーについて説明しています。アメリカ合衆国のプロレスラーについては「グレート・メフィスト」をご覧ください。 メフィスト(Mephisto、1968年12月10日 – )は、メキシコのプロレスラー。メキシコシティ出身[1]。 父は日本の団体であるW★INGプロモーションに参戦した経験のあるカオス。叔父にエル・ギャロ・ギロ。従兄弟にIWRG、AAAを主戦場にしているアストロ・デ・プラタ。IWRG、チランガ・マスク(Chilanga Mask)を主戦場にしているアストロ・レイ・ジュニア。 父であるカオスの元で英才教育を受けて1988年7月、UWA(Universal Wrestling Association)にてカオス・ジュニア(Kahoz Jr.)のリングネームでプロレスラーデビューを果たす。 1992年10月、メキシコのメジャー団体であるEMLLと契約を交わして入団。リングネームをアストロ・レイ・ジュニア(Astro Rey Jr.)へと変更して活動。 1995年、アルカンヘル・デ・ラ・ムエルテやドクトル・ワグナー・ジュニアといったトップレスラー達とタッグを組む機会が多くなり11月17日にはNWA世界ミドル級王座争奪トーナメントに出場。1回戦でエル・イホ・デル・サントの胸を借りて対戦するが敗戦した。 1996年、東京プロレスへの参戦で初来日を果たす。アストロ・ジュニア(Astro Jr.)のリングネームで月光、増田明彦などと対戦。 1997年1月21日、1Dayタッグトーナメントであるトルネオ・デ・パレージャスにスペル・アストロと組んで優勝を飾る。タイトルを獲得した事をきっかけにステップアップし、10月よりリングネームをセンデーロ(Sendero)へと変更。エル・イホ・デル・ソンタリオ、オリンピコなどといったレスラー達と組んで出場。 1998年10月17日よりリングネームをアストロ・レイ・ジュニアへと戻す。 1999年1月31日、メキシカンナショナルウェルター級王座を保持するアルカンヘル・デ・ラ・ムエルテに挑戦するが敗戦してベルトを奪取するに至らなかったが、3月22日に再び王座戦が組まれリベンジを果たすと共に王座を戴冠した。 2000年8月4日、Entre

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両シチリア独立運動 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “両シチリア独立運動” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年2月) 支持者が用いる両シチリア王国旗 両シチリア王国の領土 両シチリア独立運動は、ネオ・ブルボン運動とも呼ばれる南イタリアの政治運動。 イタリア統一戦争においてサルデーニャ王国に「征服」され、北イタリア人を中心とするイタリア王国(現在のイタリア共和国)への併合を余儀なくされた南部を中央支配から離脱させる事を目標とする。運動の名称は、かつてこの地域を統治した両シチリア王国(南イタリアのナポリ王国とシチリア王国の合同により成立)と、その王家であるナポリ=シチリア・ブルボン家(ボルボーネ家)に由来する。 運動の支持者達はブルボン家による立憲君主制と文化的統一を支持し、イタリア統一後の南部冷遇によって南部住民が海外移住を余儀なくされ、イタリア系移民の離散(そのほとんどは南イタリア出身であった)を生んだと考えている。また運動家達は両シチリア文化の権威向上にも熱心で、ナポリ語の保護も目標の一つに掲げられている。 インターネット上に点在する同運動に関連したウェブサイトは、北イタリア(旧サルデーニャ王国をはじめとする北部諸州)と南イタリア(旧両シチリア王国)は歴史的にも言語的にも文化的にも異なっているとし、サルデーニャ王国による征服は不当であり、統一戦争は北イタリアによる南イタリアへの支配と植民地化の始まりであったと主張している。彼らにとってはイタリア統一の英雄とされるガリバルディですら南部の54の町を破壊し100万以上の両シチリア王国民を虐殺した侵略者に過ぎず、そもそもガリバルディの千人隊による遠征そのものが近代的な宣戦布告の要件を満たさない両シチリア王国への侵略戦争であったと考えている。 更に彼らは、南部主義者がしばしば主張することではあるが、「北イタリアによる略奪」を強く糾弾している。その最たる例が両シチリア王国の首都ナポリの略奪である。ブルボン王政下のナポリにはイギリス政府の援助によって建設された工業地帯が存在していたが、その全てが統一イタリア王国の中央政府となった旧サルデーニャ王国政府によって北部へ持ち去られたとしている。また、これ以外にも王国の資産と呼べるものの全てが北部に持ち去られ、ピエモンテ、リグリア、ロンバルディアのいわゆる三角工業地帯を発展させるために流用されたとする。彼らは中央政府が「戦後処理」と称して行った行為を「10年の内戦」と皮肉り、この「略奪」こそ南イタリア住民が農業などの過酷な産業に取り残され困窮から海外に大量移住せざるを得なかった理由であると批判している。 2003年の騒乱[編集] イタリア王国最後の王太子であり、ナポリ公爵でもあったヴィットーリオ・エマヌエーレが亡命先からの帰国をイタリア共和国政府に許された(それまで旧イタリア王家たるサヴォイア家の人間はイタリア入国を禁止されていた)際、彼はナポリを滞在先に選んだ。王党派のグループがこれを歓迎した一方で、ネオ・ブルボンの運動家達は「サヴォイアの子孫よ、亡命先へ帰れ!」というスローガンとサヴォイア家の紋章に重ねて禁止マークを描いたステッカーを販売した。これについて、熱心なネオ・ブルボンの支持者として知られる映画監督のパスクァーレ・スクイティエーリ(英語版)は「我々を苦しめた人間を迎えねばならないのは残念だ」と答え、ネオ・ブルボン運動の幹部であるジェンナーロ・デ・クレシェンツォは「南部人はサヴォイアの復帰を祝う必要は全くない。彼らはただ我々の栄光を奪っただけだ」と語った。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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回路設計 – Wikipedia

回路設計(かいろせっけい)とは、回路の設計を行うこと。 回路設計の大分類としては、アナログ回路設計、デジタル回路設計などが挙げられることがある。 アナログ回路の中でも、低周波用の回路の設計と高周波回路の設計は異なっている点が多々ある。高周波回路設計には独特の技術・知識が必要とされ、一般に高周波回路の専門技術者らが行っている。 高集積化が進んだ現代ではIC、LSI、VLSI等の設計もある。一言で「ICの回路設計」と言っても、ICにもアナログICとデジタルICが存在し、アナログ回路とデジタル回路では設計手法が異なっており[1]、CADツールが異なっている[1]。 近年ではASIC、FPGAも存在し、それらを含んだ回路設計も行われている。 デジタル集積回路の設計[編集] デジタルICの設計の流れは以下のように分類できるともされる。 システム設計 → 機能設計 → 論理設計 → 回路設計 → レイアウト設計[1] システム設計は、IC全体の構成、回路仕様、用途、備えるべき機能等を考慮しながら行われる。 機能設計では、システム設計で定めた内容に基づいて、IC全体の回路動作を決定する。近年ではデジタル回路の機能設計の自動化が進み、ハードウェア記述言語(HDL)で回路動作や機能をプログラミングできるようになった。 論理設計では、上記HDLの記述を論理ゲートのレベルへと変換する。その変換には自動ツールで行い、論理合成、論理最適化、マッピング処理などを経て、論理ゲートの接続関係を示す図 (logic diagram) が生成されることになる[2]。 ここでの回路設計では、トランジスタ、抵抗、容量などを理論解析しつつ決定し、設計回路の特性解析を行う。 レイアウト設計では、基本セルをチップ上に配置し、配線する。 アナログ集積回路の設計[編集]

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