若宮八幡宮社 – Wikipedia

清水焼発祥之地 石碑

若宮八幡宮社(わかみやはちまんぐうしゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。陶器神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。

応神天皇・仲哀天皇・神功皇后(八幡三神)を主祭神とし、左相殿に仲恭天皇、右相殿に椎根津彦大神(陶祖神)を配祀する。

天喜元年(1053年)、仏説による末法末世の世の1年目にあたることから[要出典]、後冷泉天皇の勅願により源頼義が左女牛(さめがい)西洞院にあった自邸内の坤の隅に造営された石清水八幡宮の若宮(新宮)であったために左女牛八幡宮と称され、また左女牛通の北を六条大路が走り、頼義邸はその間に位置したために六条左女牛若宮六条八幡宮とも称され、毎年8月に放生会を行う例とされたが、その後保延6年(1140年)正月に石清水八幡宮が火災によって社殿焼失に遭った際には左女牛の若宮に遷座したとの夢告ありと京中の道俗男女の参詣が盛んとなったという[1]。爾来源氏の氏神として同氏からの崇敬を受け、源頼朝は大江広元の弟の季厳阿闍梨を別当職に任じ、文治元年(1186年)12月には土佐国吾川郡の地を寄進[2]、翌年幕府によって大規模な社殿の造営があり、8月に遷宮している[3]

頼朝は建久元年(1190年)と同6年に上洛の際には石清水八幡宮と唯2社のみの社参を行い[4]、以後鎌倉時代を通して将軍家代々の社参が恒例とされたり[要出典]、武家尊崇の大社として地方的にも篤い崇敬を受けた。

承元2年(1208年)4月、付近一帯の大規模な火災[5]によって焼失するが、翌年12月に再建が完了し遷宮した[6]。嘉禎元年(1235年)12月将軍藤原頼経の病気平癒の祈祷の使者が執権北条泰時より遣わされた[7]。文永11年(1274年)に再び焼失する[8]が、翌年鎌倉に「造営用途支配状」(幕府に対する造営費用:6,734貫文)が届けられている[9]

室町時代になっても足利尊氏は7種の神宝や社領知行安堵状、義政は51ヶ所の地所を奉納したり[要出典]、足利将軍家から三条坊門の御所八幡宮社と並んで代々の社参が行われるなど石清水八幡宮に次ぐ幕府の宗祀と崇められ、その結構は京中では祇園、北野に次ぐ規模であったが[1]、応仁の乱の兵火に罹って社殿を焼失するなど荒廃し、足利義輝及び義昭の発起により諸国の武家に寄付を募って再建されたものの昔日の規模には至らなかった。

ほか織田信長、大内義隆、毛利三家、細川、三好、朝倉氏などより神地、神馬、太刀等を奉納される。

天正12年(1584年)、羽柴秀吉による京都改造により御旅所のあった東山に移されて旧地は本願寺の寺域とされ、同16年には方広寺の北に、秀吉薨後の慶長2年(1597年)6月には現社地に三遷された。元和元年(1615年)、徳川家康より神領73石8斗余を寄進され、同3年に後水尾天皇の勅命で社殿造営、承応3年(1654年)にも後光明天皇が父後水尾上皇の考えにより社殿を造営している(現本殿)。

明治10年(1877年)、宮内省によって伏見街道十六町(現東山区本町十六丁目)の円丘上にあった塚本社から仲恭天皇の神霊が奉遷され[10]、同24年に陶祖神として椎根津彦大神を合祀。

戦後は神社本教に参加し、その本部が置かれている。

三度の移転により氏子地域を有さない神社となっている。

年中行事[編集]

  • 1月元旦:元旦祭
  • 1月3日:家運隆盛、商売繁盛祈願祭
  • 1月7日:七種粥神事
  • 1月15日:成人祭、新年祭
  • 2月3日(又は4日):節分祭(本社)、初午祭(末社稲荷社)
  • 2月15日:初卯祭
  • 3月17日~21日:春の感謝祭
  • 4月29日:天長節祭
  • 5月4日:菖蒲祭
  • 6月30日:大祓式
  • 8月7日~10日:若宮八幡宮大祭、陶器神社大祭(陶器まつり)
  • 8月7日:仲恭天皇・孝明天皇祭
  • 8月8日:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇祭(若宮八幡宮例祭)
  • 8月9日:陶器神社祭 – 清水焼の陶器市に併せて斎行
  • 9月秋分の日:秋季祭
  • 11月1日:弁財天大神火焚祭
  • 11月8日:(本社)末社稲荷社火焚祭、末社秋葉神社火焚祭
  • 11月15日:七五三詣
  • 11月23日:新嘗祭、火焚祭
  • 12月31日:大祓式、除夜祭
  • 毎月1日・15日:月次祭

本殿は三間社流造銅板葺。身舎正面の庇部分を前室とし、更にその前に向拝(こうはい)を付けた前室付流造という京都では珍しい形式を持ち、屋根は当初檜皮葺であった[11]。昭和59年(1984年)6月1日に京都市の文化財(建造物)に指定された。

境内末社[編集]

  • 本殿(附棟札2枚) – 京都市指定文化財(建造物)
  • 若宮八幡宮社関係資料108点 – 南北朝時代から明治にかけての資料で、中世を通じて歴代足利将軍に篤く保護された事を証するものでもあり、特に「足利将軍参詣絵巻」は将軍の社参の絵画資料として貴重である[12]。平成16年(2004年)4月1日に京都市の文化財(美術工芸品)に指定された。
  1. ^ a b 『神道大辞典』。
  2. ^ 『吾妻鏡』同年12月30日条。
  3. ^ 海老名尚、福田豊彦『六条八幡宮造営注文について』「国立歴史民俗博物館研究報告」p.p.350、1992
  4. ^ 『吾妻鏡』建久元年11月11日条、同6年3月6日条。
  5. ^ 『吾妻鏡』同年四月二五日条
  6. ^ 海老名尚、福田豊彦『六条八幡宮造営注文について』「国立歴史民俗博物館研究報告」p.p.351、1992
  7. ^ 『吾妻鏡』嘉禎元年12月24日条
  8. ^ 『続史愚抄』同年七月十四日条
  9. ^ 海老名尚、福田豊彦『六条八幡宮造営注文について』「国立歴史民俗博物館研究報告」p.p.352、1992
  10. ^ 塚本社のあった円丘は仲恭天皇の御陵であると伝えられ、塚本社は廃祠となったが、円丘は同天皇の陵墓参考地とされている(東山本町陵墓参考地)。
  11. ^ 京都市文化財保護課、「京都市指定・登録文化財-建造物」(平成22年5月31日閲覧)。
  12. ^ 京都市文化財保護課、「京都市指定・登録文化財-美術工芸品」(平成22年5月31日閲覧)。

参考文献[編集]

  • 『神道大辞典』(平凡社、昭和15年刊の縮刷復刻版)、臨川書店、昭和44年ISBN 4-653-01347-0

外部リンク[編集]