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静岡県バスケットボール協会 – Wikipedia

静岡県バスケットボール協会(しずおかけんバスケットボールきょうかい)は、公益財団法人日本バスケットボール協会の下部組織(静岡県)のひとつ。任意団体であったが現在は一般社団法人への移行が完了している。しかし、移行準備の過程において県や市の税金を原資とする補助金を協会内部で不正に会計し、資金を蓄えていたのではないかという余剰金問題[1]が発覚した。 余剰金問題[編集] 一般社団法人化へ向けた手続きの中で、同協会会長が協会内部に「ABC基金」という5,000万円を超える不明朗な資金[2]の存在を確認。マスコミを通し基金の存在とその返還を表明した[3]ことで問題が表面化した。発表によると1995年と1999年のオリンピックアジア予選の際、県から約3,700万円、市からは約7,400万円、さらに日本バスケットボール協会からも含め計約2億円の補助金を得ていた。 余剰金について会長らは、前述のオリンピックアジア予選の大会経費について「一部役員らが県や市の補助金を原資にした余剰金約8,800万円を裏金として蓄え、国債や地方債の購入などに流用していた」とする調査結果を公表[4]した。また調査結果では約1,600万円の使途不明金も確認されている。会長側の指摘に対して理事長をはじめとする事務局側は、「余剰金に公金が含まれていたとの認識はない」などと反論している。 その後市民らが、協会に補助金を交付した静岡県と静岡市に対し、詳しい調査を求めて住民監査請求を行った[5]が、客観的な証拠がないなどとして県、市ともにこの請求を棄却した。[6]請求が棄却された後、市民らは、静岡県バスケットボール協会が国際大会の余剰金を裏金化したのは違法であると、2017年3月3日、補助金を交付した県と市に対し、同協会に損害賠償を請求するよう求める住民訴訟を静岡地裁に起こした。[7] そして3月14日、会長らから指摘されている問題について、事務局側は第三者による調査結果[8]を公表した。これは事務局側が独自に選定し依頼をした弁護士らによって構成された特別調査委員会で、「(資金の)財源は補助金とは別の協賛金と見るべきで、補助金や助成金として返還すべき性質なものではないと推認できる」と発表。一方で調査資料が乏しく、「新たな資料が出れば推認が覆ることもある」とした。この調査結果に関して会長側は「覆す資料はあり、近く開示します」とコメント。さらに「今回の特別調査委員会には、会長側が関与する形で委員を選び直すか、もしくは追加するか要望してきたが、いずれも拒否されている。調査結果は中立公正とはいえず、認められない」としている。 また、特別調査委員会は協会内に約1,000万円の使途不明金が見つかったことを発表した。しかし、2月5日に調査で面談予定だった協会財務委員長が、前日4日に死去(死因は未発表)した為、調査が難しくなったことも明かした。協会の理事長は、資金管理の甘さを認めた上で「1,000万円の行方を解明して、責任の取り方を考えたい」と謝罪した。 ここまでの流れとして、オリンピックアジア予選の大会経費について会長側は「一部役員らが県や市の補助金を原資にした余剰金約8,800万円を裏金として蓄え、国債や地方債の購入などに流用していた」と主張。「裏金だった余剰金を一部役員が協会基金に組み入れた」として、県や市に返還する方針を示している。これに対し、事務局側から委嘱を受けた特別調査委員会は「基金の財源は自治体からの補助金ではなく、大会経費とは別の協賛金と推認される。返還すべきものではない」とする調査結果を公表。[9]双方の主張は真っ向から対立している。 3月23日、会長側が静岡市内で記者会見し「一部役員が国際大会開催時に架空名義で開設した口座に企業から協賛金を振り込ませていた」と説明した。[10]会長側の調査チームによると、問題の口座は1995年と1999年に静岡市内で開催されたABC大会といわれる女子のアジア選手権のうち、99年大会に合わせて開設された。代表者でもない人物が、県協会代表者として口座を開設。調査チームは、無断で会長印を押した請求書を送付し、振り込まれた約3,300万円を、95年の大会の際に一部役員が余剰金を隠匿するために設けたABC基金に裏金として、組み込んだとみている。ABC基金は二度の国際大会の余剰金約8,800万円で形成。95年の大会で約4,000万円の余剰金が出たことから、会長側は「99年は補助金申請対象の大会ではなくなったにもかかわらず、県と静岡市から補助金を受けたのは詐欺的行為」と主張。事務局側の渡辺正知理事長と三浦昭彦副理事長の2人に対し、「混乱を招いた責任は回避できない」などとして23日付で解職を通知したことを明らかにした。[11] Wリーグの県内開催試合にも波及[編集] 杉山明宏副会長は3月23日の記者会見で、自身が部長を務める女子Wリーグのシャンソン化粧品の来季地元戦が開催できないと発表した。[12]試合は各都道府県協会が希望日程を女子日本リーグ機構(WJBL)に申請する。県内では例年4試合程度を開催していた。杉山副会長は「何も知らされないまま不開催になった。(基金の扱いで対立する)渡辺正知理事長ら事務局側の報復」と主張した。一方、渡辺理事長は「WJBLに正規に申請した試合が他県と競合したため」と反論。県協会の担当者は「シャンソンの担当者と話し合った上で4試合を申請し会場も確保した。不開催になったこともシャンソン側に伝えた」と話した。WJBLは「静岡県協会の申請は提出されている。さまざまな要素で競合相手側の開催になった」としている。しかしながら過去18回行われたWリーグにおいてシャンソン化粧品の試合が地元静岡県内で開催されなかった年はない[13]ことなどから、静岡県協会、WJBLともにその説明には疑問が残る結果となった。 県から是正勧告[編集] 県は3月24日、県バスケットボール協会に対し、事務執行が不適切として是正勧告した。[14]4月10日までに協会内の対立解消や会計処理などの是正を求め、改善されるまで2016年度分の補助金交付を保留するとしている。県スポーツ振興課によると、同年度分の補助金は827万7千円で、既に570万円を交付済み。例年は4月に前年度の事業報告を受けて残額を交付するが、勧告では「適正化されなければ、交付済み分の返還も求める」とした。県は「2大会に対する補助金の目的外使用は確認されていない」としたが、基金が協会の代議員会で報告されておらず、10年度に約1,000万円の使途不明金が生じたことなどを問題視した。 役員一覧[編集] ^ 県協会の社団法人化、ABC基金ついて(ご報告)2017年1月16日 – 静岡県バスケットボール協会 ^ 基金五千万円「不明朗」県バスケ協会長、県や静岡市に返還検討(2016年9月9日)

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フレデリック・イングリング – Wikipedia

フレデリック・イングリング(Frederick Yuengling、 YING-ling)、1848年1月26日 – 1899年1月2日)は、アメリカ合衆国で最も歴史が長いブルワリー(ビール醸造所)D・G・イングリング&サンの2代目の社長、オーナー。 フレデリック・イングリングは、父デイヴィッド・イングリングとその妻であったエリザベス (Elizabeth)(旧姓:ベッツ (Betz))との間の子として、1848年1月26日に生まれた。「Pennsylvania State College」と称していた時期のペンシルベニア州立大学に学び、次いでニューヨーク州ポキプシーのマンハッタン・ビジネス・スクール (Manhattan Business School) に学んだ。1871年、父はフレデリックをヨーロッパへ送って、醸造法をさらに学ばせ、彼はミュンヘン、シュトゥットガルト、ウィーンで学び続けた[1]。 イングリングは、1873年4月3日にブルックリンでミナ・ドールマン (Minna Dohrman) と結婚した。ミナは、ニューヨークの「最上級の社会階層 (uppermost social

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悪魔の鎮魂歌 (アルバム) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “悪魔の鎮魂歌” アルバム – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年9月) 『悪魔の鎮魂歌(レクイエム)』 (Diabolus in Musica) は、アメリカのスラッシュメタルバンド・スレイヤーの7作目のスタジオアルバムで、アメリカン・レコーディングスより1998年にリリースされた。 原題の「Diabolus in Musica」とはラテン語の音楽用語で「音楽の中の悪魔」と呼ばれる不協和音から取られている(この音程を聞くと性欲が掻き立てられ悪魔を呼び出せるという伝説もあり、中世ヨーロッパの音楽では使用が禁止された)。楽曲が実験的要素が多分に含まれており、スレイヤーとして初めてC#までチューニングを落としたり、ボーカルにエフェクト音をかけたり、当時メタルシーンを席巻していたニュー・メタルをかなり意識した曲作りなどがされている。 アルバム製作に当たってほとんどの曲がギターのジェフ・ハンネマンが作曲しており、ハンネマンは「メンバーで曲を書き始めた時に、何かぶっ飛ばしたいもの作りたかったがうまく思いつかず、印象に残るものもなく、攻撃的でヘヴィなものを自分にインスパイヤしてくれるものがなかったので、自分で全部書かなければならなかった」と話している。 アルバム収録時のメンバー[編集] スレイヤー

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藤枝MYFCの年度別成績一覧 – Wikipedia

藤枝MYFCの年度別成績一覧 (ふじえだマイエフシーのねんどべつせいせきいちらん) では、藤枝MYFCおよびその前身チームの各年度ごとの成績を記す。 年度別成績[編集] 凡例 太字はリーグ、カップ戦優勝 表中の略記・着色セルの内訳は以下の通り リーグ、カップ戦優勝 リーグ、カップ戦準優勝 リーグ、カップ戦3位 J3:J3リーグ 天皇杯:天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会 JFL:日本フットボールリーグ 東海:東海社会人サッカーリーグ 静岡県:静岡県社会人サッカーリーグ 藤枝ネルソンCF[編集] この節の加筆が望まれています。 年度 所属 順位 勝点 試合

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スコット・プルーイット – Wikipedia

エドワード・スコット・プルーイット(英語:Edward Scott Pruitt、1968年5月9日 – )は、アメリカ合衆国の政治家、法曹。 1968年5月9日にケンタッキー州ダンビルに誕生し、少年時代にレキシントンに移住した。ケンタッキー大学で野球の奨学金を得た。その後、1990年にジョージタウン大学で政治学とコミュニケーションの学士号を得た。オクラホマ州のタルサ大学で、1993年に法務博士号を得た。プルーイットは1998年から2006年までタルサ郡とワゴナー郡を代表してオクラホマ州議会上院議員を務めた。2006年には共和党側のオクラホマ州副知事の指名を受けようと活動を行ったが失敗に終わった。 2010年にプルーイットはオクラホマ州司法長官に選出された。在任中は法における信教の自由を堅持することに努め、人工妊娠中絶、同性結婚、医療保険制度改革、環境規制に反対して闘争した。 一部の評論家はプルーイットを地球温暖化に対する懐疑論を唱えていると批評するが[1][2] 、実際には気候変動は起こっておりその原因は人為的な物だと考えている[3]。 環境保護庁長官[編集] 2016年12月8日にオクラホマ州司法長官在任中のプルーイットはドナルド・トランプ次期アメリカ合衆国大統領により、環境保護庁長官に指名された[4]。2017年2月17日、賛成52対反対46で上院はプルーイットの環境保護庁長官への就任を正式に承認した[5]。 スーザン・コリンズ議員は共和党で唯一反対票を投じた。またジョン・マケイン議員とジョウ・ドネリー議員は棄権した。一方、民主党議員ではジョウ・マンチン議員とハイディ・ハイトカンプ議員の2名がプルーイットの就任に賛成票を投じた。オバマ前大統領が導入した環境規制にプルーイットが強く反対していると報道された[6]。しかし、上院環境公共事業委員会の指名承認公聴会では「地球温暖化はでっち上げではない。実際に起きている」と述べている[7]。 プルーイットは長官就任後、2017年3月28日にトランプ大統領が署名する大統領令により、オバマ政権が火力発電所からの温室効果ガスの排出を制限したクリーン・パワー・プランが撤廃されると表明した。前政権は化石燃料を目の敵にする戦略を取っていたが、この撤廃により製造業と石炭産業の雇用が回復すると述べた[8]。 その後、プルーイットは数々のスキャンダルに見舞われる。2017年6月14日にはプルーイットが上院にメールアドレスは1つだけと答えたにも関わらず、オクラホマの検察官であった期間、政府のメールアドレスを2種類使用していた疑惑が報道された[9]ほか、公費の使い方や言動を巡る批判が相次ぎ辞意を表明、2018年7月5日にトランプ大統領より了承された(7月9日に退任)[10]。 外部リンク[編集]

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真昼の悪魔 – Wikipedia

『真昼の悪魔』(まひるのあくま)は、遠藤周作の小説である。『週刊新潮』に1980年2月から7月まで24回にわたって連載され、1980年12月に新潮社から単行本が刊行された。1984年12月24日には新潮文庫版が刊行された。 2017年2月、フジテレビ系でテレビドラマ化された。 あらすじ[編集] テレビドラマ[編集] 2017年2月4日から 3月25日まで 東海テレビ制作・フジテレビ系「オトナの土ドラ」枠で毎週土曜日23時40分 – 翌0時35分に放送された。主演は田中麗奈[1]。 キャスト[編集] 大河内葉子 演 – 田中麗奈 関東女子医大付属第三病院外科医。大手ホテルグループ御曹司・大塚と婚約しており三年後には結婚している。さらに彼との間に一人娘をもうけている。 難波聖人 演 – 中村蒼 入院患者で、葉子の担当患者。塾のバイト講師で小説家志望。

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蚕養国神社 – Wikipedia

蝅養國神社(こがいくにじんじゃ、蚕養国神社)は、福島県会津若松市蚕養町にある神社。式内社で、旧社格は県社。別称として「蠶養宮」とも。神紋は「会津三ツ葵」[1]。 養蚕に関する神社として知られる。 祭神は次の3柱[1]。 創建[編集] 社伝では、弘仁2年(811年)の創建という[1]。 『延喜式』神名帳では、この蚕養国神社以外に社名を「蚕養国」とする官社はなく、この社名は当社が唯一のものになる。社名に見えるように蚕養国神社の創建には養蚕業が関係すると考えられているが、会津で養蚕が盛んだったことにより祀られたというよりは、会津で養蚕を盛んにしようとする中央政府の政策のために祀られるようになったと見る説が挙げられている。その背景として、『日本後紀』延暦15年(796年)11月8日条に見える、伊勢・三河・相模・近江・丹波・但馬等の国の婦女2人ずつを陸奥国に遣わして2年間養蚕技術を教えさせたという記事の存在が指摘される。 概史[編集] 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では陸奥国会津郡に「蝅養国神社」と記載され、式内社に列している。会津郡の式内社は蚕養国神社と伊佐須美神社(大沼郡会津美里町)のみであった。 この蚕養国神社について国史に記載は見えないが、社伝では承和年間(834年-848年)に陸奥・出羽国按察使兼鎮守府将軍の藤原富士麻呂の奏上により官社に列したというほか、寛弘7年(1011年)には県令の石部少将道秀らによって社殿が創設されたという[1]。その後、兵火により社殿を焼失し衰退するが、会津藩初代藩主の保科正之によって復興され、社殿造営と社領20石の安堵を得た[1]。さらに寛保3年(1743年)には神階が正一位に進み、文化4年(1807年)には火災によって社殿を焼失したが、文政2年(1819年)に8代藩主の松平容敬によって再建されたという[1]。 明治維新後、明治9年(1876年)11月に近代社格制度において県社に列した。 本殿は皇子造(王子造/熊野造)[1]。他の社殿として幣殿・拝殿・神饌所・神楽殿等がある[1]。 また拝殿前に立つ桜の古木は樹高14メートル、樹齢1,000年以上とされ、特に「峰張桜(みねはりざくら)」と称される[5]。社伝では、寛弘7年(1011年)の石部少将道秀らによる社殿創設の際に植えられた桜になるという[5]。この桜は会津若松市指定天然記念物に指定されている[5]。 五社稲荷神社[6] 鬼渡神社 護忠霊社 宗像神社・瀧直神社 和霊々社 月次祭 (毎月1日・15日)[7] 元旦祭

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