渡邉千真 – Wikipedia

渡邉 千真(わたなべ かずま、1986年8月10日 – )は、長崎県南高来郡国見町[2](現・雲仙市)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・横浜FC所属。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。

兄の渡邉大剛[3]、弟の渡邉三城[3]も元サッカー選手。

プロ入り前[編集]

7歳[1](小学校2年生[3])の時に兄・大剛の影響で[4][5]サッカーを始め、2002年、国見高校に進学する。同校サッカー部では1学年上の平山相太、兵藤慎剛らと共に攻撃をリード[6]。2003年度のインターハイでは得点王に輝いた。さらに同年度の全国高校サッカー選手権を制覇[7]。当時は主に攻撃的MFを務めていたが、平山らが部を引退した3年時からはFWでプレー[8]。2004年度の高校サッカー選手権にはキャプテンとして出場し[3]、厳しいマークに晒される中でも正確なプレーで[9] ベスト4入り[7]

3年時の秋には、翌年開催されるワールドユース・オランダ大会の予選を兼ねたAFCユース選手権2004のU-19日本代表として、高校サッカー部から唯一招集され、平山とポジションを争った[10]。準決勝・対韓国戦で1得点を挙げたが、ワールドユースメンバー選出は叶わなかった。

2005年、早稲田大学に進学。ア式蹴球部に入ると、1年時から出場を重ね、2年時からはレギュラーに定着し[11]、2006年、2007年と2年連続で関東大学サッカーリーグ得点王を獲得。関東大学リーグ戦では当時のリーグ記録となる通算62試合で37得点を挙げた[12]。大学サッカー界では「天才」「怪物」とも称され[4][5]、4年時には複数のJリーグクラブによる争奪戦となった[13][14][15]

横浜F・マリノス[編集]

横浜F・マリノス監督の木村浩吉の「ポジションを空けて待っている」という口説き文句もあり、2009年、横浜FMへ入団[16]。兵藤とは高校・大学に続きプロでもチームメイトとなった。新人ながら背番号「9」を与えられ[7][注 1]開幕戦でスタメン起用されると前半3分に初得点を決める[注 2]。4月14日にはこの年のJリーグ新人選手の中では最速で[20] プロA契約を締結した[21]。チームの得点源として[22] 活躍し、城彰二以来、史上2人目となる新人でのリーグ戦二桁得点を達成。またJ1第32節神戸戦でシーズン13点目を挙げ[23]、城が記録した新人最多得点記録を更新した[24]

同年12月21日、アジアカップ最終予選を戦うA代表に初招集され、翌年1月6日のイエメン戦で先発出場し、国際Aマッチ初出場を記録[25]。平山相太の得点をアシストし[26]ハットトリックをお膳立てした。

2010年に横浜FMの監督に就任した木村和司からは、攻守の切り替えや味方へのパスの要求を課題に挙げられ[27][28]、出場機会が徐々に減少。2010年にはチーム内での最多得点を挙げたものの[29]、目標としていた2年連続での二桁得点[30] には届かなかった。2011年のJ1第2節川崎戦では鬱憤を振り払う逆転ゴールを決め、ユニフォームを脱いで喜び警告を受けている[27]

同年末には、神戸[31]浦和[32]、FC東京[2] など複数クラブから獲得の打診を受け、横浜FMとの契約更新を固辞[31]

FC東京[編集]

2012年、FC東京へ完全移籍[33][34]。ポジション争いは厳しくJ1での出場機会は限定されたが[35]、自身初参加となったAFCチャンピオンズリーグではFWルーカスに代わって1トップでの先発出場を続け[36]、自らの得点でグループリーグ突破に貢献した[35][37]。苦手としてきたポストプレーに取り組みながらも[38] J1第12節鳥栖戦にて自身初となるJ1でのハットトリックを達成した[36][39]

2013年は、新加入の李忠成らとの熾烈なポジション争いを制して[40] 開幕からレギュラーを確保。前線からの守備や[40]ポストプレーを向上させた[41] ことに加え、ポジショニングを高め[40]得点を量産。プレーの幅を広げて[42] ルーキーイヤー以来4年ぶりとなる2桁得点を記録し、J1第19節大分戦でリーグ戦自己最高となる14得点目を挙げた。しかしシーズン半ば以降は、スペースメイクに優れ、渡邉と好連携を築いていた東慶悟が[43] トップ下からサイドハーフへとポジションを移したことも重なって、得点ペースを落としたがリーグ通算で17得点をマークした。

2014年はチームの2トップと[44] 3トップの併用に伴いウイングにも配され、サイドから得点を狙った[45]。不振の続く中で[46]武藤嘉紀の台頭もあり[47]、第20節鳥栖戦で約1年ぶりの[48] リーグ戦ゴールを記録したものの、同年は出場・得点共にFC東京加入以来最小の数字を残してしまった。

ヴィッセル神戸[編集]

FC東京との契約を残すも[49]、2015年1月にヴィッセル神戸へ完全移籍[50][51]。1stステージはマルキーニョスとの併用でセンターフォワード中心に配されたものの、中々得点を挙げる事が出来ず不調に終わった[52]、2ndステージにレアンドロが加入して以降はポジションを1列下げての起用が続いたが[53]、10月には2nd第15節山形戦のハットトリック[54][55]を含め公式戦5試合で6得点[56] とチームにフィットし、自身3度目のリーグ戦二桁得点を記録。チームをJ1残留争いから救った[57][54]。同年のヤマザキナビスコカップでは、出場8試合で大会最多の7得点を挙げる活躍でチームを過去最高成績のベスト4にまで押し上げた。

2016年、監督のネルシーニョからチーム内での振る舞い、リーダーシップ、人間性などを評価され、自身初の主将に任命された[58]。同年度は中盤左サイドで年間を通して安定したプレーを見せ、2トップのレアンドロ、ペドロ・ジュニオールとともにゴールを量産。リーグ戦33試合出場12得点を挙げる活躍で2年連続の二桁得点を達成した。専門誌採点では通年平均点においてチーム最高を記録し[59]、クラブからも年間MVPとして表彰された[60]

2017年シーズンはレアンドロが開幕戦で負傷・長期離脱することになったためFWとしてプレーする機会が多くなったが、シーズン初ゴールは第11節の鹿島アントラーズ戦まで待つこととなった。キャリアにおいては2009年以来8年ぶりに全試合に出場した(途中出場含む)。

ガンバ大阪[編集]

2018シーズンは、若手や新加入選手の活躍もあり、先発出場が21節終了時点で10試合にとどまっていた中、J1残留を目指すガンバ大阪からオファーが届く[61]
当初、神戸側は渡邉の放出に消極的だったが、要求した長沢駿の期限付き移籍をG大阪が受け入れることで進展し[62]、8月13日にG大阪に完全移籍する事が発表された[63]。初戦となったベガルタ仙台戦ではスタメンで出場し、移籍後初ゴールも挙げた[64]。また、第34節・柏レイソル戦でJ1リーグ300試合出場を達成した[65]。G大阪ではリーグ戦13試合3得点の成績でチームの残留に貢献した。

2019年は前半戦は8試合の出場にとどまり無得点であったが、後半戦で出場時間を増加させ3得点を記録した。

2020年10月7日、第10節・サガン鳥栖戦にて史上15人目となるJ1通算100得点を達成した[66]

横浜FC[編集]

2021年、横浜FCへ完全移籍[67]。シーズンを通してチームの主力として30試合4得点の成績を収めるも、チームはJ2降格を喫する。

2022年もチームに残留し、自身初のJ2を戦うシーズンとなる。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 リーグ杯 天皇杯 期間通算
2002 国見高 24 3 0 3 0
2003 7 2 3 2 3
2009 横浜FM 9 J1 34 13 8 4 3 4 45 21
2010 24 8 6 1 2 0 32 9
2011 30 7 5 2 5 1 40 10
2012 FC東京 11 27 6 3 2 1 0 32 8
2013 9 33 17 4 1 5 1 42 19
2014 26 3 4 0 3 1 33 4
2015 神戸 19 28 10 8 7 4 3 40 20
2016 33 12 7 3 2 2 42 17
2017 34 8 7 0 5 4 46 12
2018 19 4 5 3 2 0 26 7
G大阪 39 12 3 12 3
2019 18 3 7 0 1 0 25 3
2020 33 6 2 0 2 0 37 6
2021 横浜FC 30 4 4 0 0 0 34 4
2022 J2
通算 日本 J1 381 104 70 23 35 16 486 143
日本 J2
日本 5 3 5 3
総通算 381 104 70 23 40 19 491 146

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2012 FC東京 11 7 3
通算 AFC 7 3
ハットトリック

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 1試合 0得点 (2010年)

出場[編集]

タイトル[編集]

国見高校
早稲田大学
個人
注釈
  1. ^ 新人に9番を与えるのは固定背番号制になってからは横浜FM史上初[17]
  2. ^ 試合開始時間が早かったこともあって[18]、同年のJリーグにおいても最初の得点となった。日本人の新人がリーグ第1号ゴールを決めたのは1994年の城彰二に次ぐ史上2人目[19]。また、兄の大剛も同年の開幕戦で得点を挙げている。
  3. ^ 翌2010年からは同賞の対象年齢が引き下げられたため、渡邉が大卒選手としては最後の新人王である。
出典

関連項目[編集]

外部リンク[編集]