プラマック・レーシング – Wikipedia

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プラマック・レーシング
アレックス・エスパルガロ 2010年
2021年の
チーム名
プラマック・レーシング・チーム
本拠地 イタリアの旗 イタリア カーゾレ・デルザ
代表 パオロ・カンピノティ
ライダー 5. フランスの旗 ヨハン・ザルコ
89. スペインの旗 ホルヘ・マルティン
53. スペインの旗 エステベ・ラバト
マシン ドゥカティ・デスモセディチ GP21
タイヤ ブリヂストン
ライダーズ
チャンピオン

プラマック・レーシングPramac Racing ) は現在ロードレース世界選手権に参戦するレーシングチーム。2000年にイタリアの企業プラマックによって設立された[1]。2005年からはダンティーンMotoGPチームと共同で、プラマック・ダンティーンとして参戦していたが、チームの代表だったルイス・ダンティーンが2008年シーズンの途中でチームを脱退している。

ダンティーンMotoGP ( 1999 – 2004 )[編集]

ダンティーンMotoGPチームは、1999年にスペインの元GPレーサー、ルイス・ダンティーンにより設立された。チームはスペインの2人のライダー、フォンシ・ニエトとダビド・ガルシアを擁してヤマハのマシンで250ccクラスに参戦を開始した。

2000年には500ccクラスにステップアップし、ライダーの阿部典史は鈴鹿で勝利をおさめた。2001年にはセカンドライダーとしてホセ・ルイス・カルドソが加入した。この年のチームのベストリザルトは阿部の2位表彰台だった。

2002年に500ccクラスはMotoGPクラスに変わったが、チームは昨年度と同じライダー・同じ2ストロークマシンのYZR500で戦い続けた。パワフルな990cc4ストローク勢には歯が立たず、ベストリザルトは阿部の4位2回に終わった。

2003年にようやく4ストロークマシンのYZR-M1を手に入れ、中野真矢の1台体制でシーズンを戦った。

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2004年にはマシンをドゥカティにスイッチし、前年型のデスモセディチ GP3でシーズンを戦うことになった。2003年のスーパーバイク世界選手権チャンピオン、ニール・ホジソンと同シリーズ2位のルーベン・チャウスのペアを擁したが、シーズン中盤にチームは資金難に陥り、テストプログラムを満足に消化できなくなった。ベストリザルトはチャウスの3位だった。

プラマック・レーシング ( 2002 – 2004 )[編集]

プラマック・レーシングは2002年に、原田哲也をライダーにホンダ・NSR500でMotoGPクラスに参戦を開始した。

2003年は4ストロークマシンのRC211Vを手に入れ、ライダーは原田に代わり玉田誠と契約した。この年、ホンダ系チームでは唯一ブリヂストンタイヤを履き、ベストリザルトは3位表彰台だった。

2004年はポンス・レーシングと一緒に「キャメル・ホンダ」というチーム名で戦うことになった。実質は1台ずつの別チームであり、プラマックは引き続き玉田・ブリヂストンの体制で、ポンスはマックス・ビアッジとミシュランタイヤという体制だった。玉田はシーズン中に2勝を挙げた。

プラマック・ダンティーン ( 2005 – 2007)[編集]

2005年、ダンティーンMotoGPとプラマック・レーシングは共同で「プラマック・ダンティーン」として参戦することとなった。チームは前年型のドゥカティ・デスモセディチ GP4を使用し、ライダーにイタリアのロベルト・ロルフォを擁した体制だった。タイヤはダンロップを使用したが、最下位近辺の常連となってしまった。

2006年は、ワークスチームと同じ最新型のデスモセディチ GP6を供給された。ライダーは新たにアレックス・ホフマンとホセ・ルイス・カルドソの2人体制となった。しかしまたもダンロップタイヤの競争力不足で、最下位近辺から抜け出すことはできなかった。

2007年のシーズン開幕前、ダンティーンMotoGPはプラマック社の傘下に入ることが発表された[2]

排気量制限が800ccに変更になった2007年は、最新型デスモセディチ GP7を供給され、タイヤはブリヂストンにスイッチした。ブラジルのアレックス・バロスが新たに加入し、ホフマンのチームメイトとなった。バロスはトップ10圏内の常連となる活躍を見せ、第6戦イタリアGPでは3位表彰台に立った。一方のホフマンは第11戦アメリカGPでプラクティス中に手に重傷を負い、欠場を余儀なくされた[3]。同GPでは代役にチャズ・デイビスが、第12戦チェコGPではイヴァン・シルヴァが採用された。ホフマンは第13戦サンマリノGPで復帰したが、その次の第14戦ポルトガルGPを最後にチームを解雇された。ポイント獲得の可能性があったにもかかわらず、レース中にやる気を無くして勝手にマシンを降りたのがチームの怒りを買ったためである[4]。シーズン残り3戦は,再びチャズ・デイビスが代役を務めた。

アリーチェ・チーム ( 2008)[編集]

2008年もデスモセディチ(GP8)+ブリヂストンのパッケージを継続することとなった。ライダーは一新され、シルバン・ギュントーリとトニ・エリアスのコンビとなった。テレコム・イタリアのISPブランド、アリーチェがスポンサーに付き、チーム名はアリーチェ・チームに変更になった。またルイス・ダンティーンは、第10戦ドイツGP開催中にチームを脱退した[5]。エリアスは第12戦チェコGP、第13戦サンマリノGPと2戦連続で表彰台に立ち、ドゥカティ勢としては2番手となる年間ランキング12位を記録した。

プラマック・レーシング ( 2009 – )[編集]

2009年シーズンはチーム名をプラマック・レーシングに戻し、参戦を継続した。マシンパッケージは変わらず最新型デスモセディチ GP9とブリヂストンタイヤ、ライダーはミカ・カリオとニッコロ・カネパに変更になった[6]。カリオはシーズン中盤、体調不良のケーシー・ストーナーの代役としてドゥカティ・ワークスから3戦に出場した。その間のプラマックのシートの穴埋めはミッシェル・ファブリツィオが1戦、アレイシ・エスパルガロが2戦務めた。

2010年シーズンはカリオのチームメイトに、前年の代役参戦時の走りが評価されたアレックス・エスパルガロが就くことになった。カリオは肩の痛みにより苦戦が続き、シーズン終了を待たずにチームを離脱、終盤2戦にはカルロス・チェカが代役参戦した。

2011年はライダーを一新し、スズキからロリス・カピロッシを、ホンダLCRからランディ・ド・プニエを迎えることとなった[7]

2020年シーズン終了後、3年間在籍していたジャック・ミラーと2年間在籍していたフランチェスコ・バニャイアはドゥカティ・チームに移籍することが決定した[8][9]

2021年シーズンは新体制が発表され、エスポンソラマ・レーシングから移籍したヨハン・ザルコと、Moto2クラスからステップアップしたホルヘ・マルティンの2名が加入。しかし、マルティンが第3戦ポルトガルGPで転倒し骨折したため、次戦スペインGPは欠場となったが、代役にはスーパーバイク世界選手権に参戦中のエステベ・ラバトが起用された。

外部リンク[編集]


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