レプソル・ホンダ – Wikipedia
レプソル・ホンダ (Repsol Honda) は現在ロードレース世界選手権のMotoGPクラスに参戦する、ホンダ・レーシング(HRC)直轄のワークス・レーシングチーム。1995年よりスペイン企業レプソル YPFのスポンサードを受け現在のチーム名になった。なお、この項目ではレプソル・ホンダ以前も含め、1982年のHRC設立以降の最高峰クラスでのワークスチームの活動について記す。 HRC設立初期 (1982年-1984年)[編集] 1982年9月1日にHRCが設立され、ホンダのワークスチーム運営を本田技術研究所から引き継ぐ。この年は第7戦スパでフレディ・スペンサーが2ストローク3気筒のNS500で初優勝を果たし、年間2勝を挙げシリーズ3位に入った。チームメイトの片山敬済は第10戦アンデルストープで日本人2人目の500ccクラス優勝を挙げ、シリーズ7位に入った。 翌1983年にスペンサーはヤマハのケニー・ロバーツと激しいタイトル争いを展開。年間12戦のうち6勝ずつを分け合った結果、わずか2ポイント差でスペンサーがホンダに500ccクラス初チャンピオンをもたらした。片山はシリーズ5位に入る。 1984年、チームはV4エンジンのNSR500を投入。スペンサーはレースによってNSとNSRを使い分けたが、シリーズ4位に終わった。 ロスマンズ・ホンダ時代 (1985年-1993年)[編集] 1985年よりロスマンズがメインスポンサーに就き、HRCはロスマンズ・ホンダとして世界選手権を戦うことになった。この年はマシンをNSRに統一したスペンサーがチャンピオンに返り咲く。またこの年スペンサーは250ccクラスにも参戦し、そちらでもチャンピオンを獲得している。 1986年にはワイン・ガードナーがチームに加入。開幕戦で右手首を負傷したスペンサーはその後シーズンを欠場、代わってエースライダーとなり奮闘したガードナーはヤマハのエディ・ローソンとチャンピオン争いを繰り広げ、3勝を挙げシリーズ2位に入った。また八代俊二がスペンサーの代役を務め、シリーズ13位に入った。 1987年にガードナーはラッキーストライク・ヤマハのランディ・マモラとチャンピオン争いを展開、シーズン7勝を挙げ自身初のチャンピオンを獲得した。八代はシリーズ9位に入った。 1988年仕様のマシンは設計に問題があり、ガードナーは苦戦。シリーズ後半には持ち直したもののタイトル防衛をできずにシリーズ2位に終わった。この年がGPフル参戦最後となる八代はシリーズ13位で終わった。 1989年にはガードナーのチームメイトにルーキーのミック・ドゥーハンが加入する。この年の主役はHRCのロスマンズ・ホンダチームではなくアーヴ・カネモト率いるロスマンズ・カネモト・ホンダチームのエディ・ローソンだった。前年はヤマハで3度目のチャンピオンを獲得し、この年ホンダへ移籍したローソンは4勝を挙げタイトル連覇を果たした。一方ガードナーは第3戦ラグナ・セカで右足骨折の重傷を負い、満足にシーズンを戦えずシリーズ10位に終わった。ドゥーハンはシリーズ9位でデビューシーズンを終える。 1990年はガードナーは一時的にカネモト・チームからの出場になったが、ケガの影響が残りシリーズ5位と苦戦、一方のドゥーハンは第14戦ハンガロリンクで初優勝を果たし年間シリーズ3位に入る活躍を見せた。 1991年はヤマハのウェイン・レイニー、スズキのケビン・シュワンツと三つ巴の激しいタイトル争いを展開したドゥーハンが3勝を挙げシリーズ2位に入った。一方のガードナーはケガの影響が残り、未勝利でシリーズ5位に終わる。 1992年、エースライダーとしての地位を確立させていたドゥーハンには、新たに不等間隔位相同爆方式のニューエンジン(通称ビッグバン・エンジン)が与えられる。開幕4連勝を飾ったドゥーハンに初のタイトル獲得が期待されたが、第8戦アッセンの予選で転倒し右足に重傷を負う。この後長い間彼を苦しめることになるこの怪我によって、ドゥーハンはシリーズ終盤の4戦を欠場し、ヤマハのレイニーにチャンピオンシップを逆転されてしまう。ケガの癒えないまま最終戦キャラミに強行出場し再逆転を目指すが、レイニーに先行されわずか4ポイント差でチャンピオンを逃す。一方のガードナー(1990年と同じくカネモト・チームからの出場)は開幕戦でまたも右足を骨折し数戦を欠場、復帰後の第11戦ドニントンでこの年限りでGPを引退することを発表した。ガードナーはそのドニントンで優勝を飾り、自らの引退に花を添えた。
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