万成石 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “万成石” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年3月) 万成石(まんなりいし)とは、岡山県岡山市北区の万成または矢坂地域[要出典]から産出される角閃石黒雲母花崗岩である[1]。 日本の銘石のひとつとして東日本の本小松石、西日本の庵治石と共にブランド化された万成石は、桜色の美しさから、昔も今も多くの人々に愛され、近年も需要は非常に高い国産の石材である[2]。 万成石が使用されているとされる明治神宮宝物館[3](2011年9月) 淡紅色のカリ長石、白色の斜長石や石英、黒色の黒雲母等で構成された、完晶質・中粒の花崗岩である[2]。 万成石の特徴は、「桜御影」と呼ばれるだけあって、桜色がかった色をしている[2]。日本で桜御影というと、第一にこの万成石の名が挙げられる[要出典]。一見、桜色という色が柔らかそうな石のイメージだが、実際は国内の石材の中でもトップクラスの[要出典]硬さを持つ石である[1]。 その桜色がかった優美な石目の万成石は、石原裕次郎、横山やすし、朝倉文夫、イサム・ノグチなどの著名人の墓に使われている[5]。歴史上の人物・偉人の像の台座や、古くから親しまれている建築の建材としても、これまで様々な使われており、永い時を経ても変わらず、風化に強く、気品あふれ、高級感を生み出す石材として、ブランド化されている。 万成石の山は、ひとつひとつの玉石の積み重なった山である。大きな物では、2,000トン以上の大きな玉石もあり、様々な需要に応えられ、また、長期に渡る安定供給の歴史、見通しがついている[2]。 歴史と現状[編集] 万成石の歴史は、天保年間(1830年 – 1843年)に自家用石材のみの採石として始まったとされている[3]。商業採石が本格化したのは、1888年(明治21年)光田石材によるものという[3]。昭和末期から平成初期にかけては採石業者が9社11丁場存在したものの、現在も採石している業者は有限会社武田石材と有限会社浮田石材の2社(2丁場)のみとなっている[2]。

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ドリームボクシングジム – Wikipedia

ドリームボクシングジムは、東京都北区に所在するプロボクシングのジムである。 目次 1 沿革 1.1 実績 2 選手 2.1 主な現役選手 2.2 引退した主な選手 3 脚注 4 外部リンク 2002年5月、東京・北区王子に開設された[1]。 初代会長は元日本バンタム級王者の三浦利美(現役時代のリングネームはクラッシャー三浦)。三浦は1990年の現役引退後、国際ボクシングスポーツジムでトレーナーを務めていたが、2001年には指導するセレス小林がWBA世界スーパーフライ級王座を獲得し、第12回(2001年度)エディ・タウンゼント賞、2001年度年間優秀トレーナー賞を受賞した。セレス小林王座陥落後、2002年4月30日にトラッシュ中沼を日本フライ級王者に育て上げると国際ジムから独立した。 2002年5月25日のオープン記念パーティーには関係者ら約200人が参加、セレス小林が2Rのエキシビションスパーリングを行った。2004年からは5年連続で8選手が東日本新人王トーナメントの決勝戦に進出した[2]。 実績[編集]

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ドラゴンボール オッス!帰ってきた孫悟空と仲間たち!! – Wikipedia

『DRAGONBALL オッス!帰ってきた孫悟空と仲間たち!!』(ドラゴンボール オッス!かえってきたそんごくうとなかまたち!!)は「ジャンプスーパーアニメツアー08」で上映された『ドラゴンボール』の特別編アニメ。 2008年9月21日 – 11月23日の期間で全国11会場で開催された「ジャンプスーパーアニメツアー08」で上映されたオリジナル作品。上映時間は約35分。同時上映は『ONE PIECE ロマンス ドーン ストーリー』、『テガミバチ 光と青の幻想夜話』、『BLEACH カラブリ! 護廷十三屋台大作戦!』、『銀魂 白夜叉降誕』、『遊☆戯☆王5D’s 進化する決闘!スターダストVSレッド・デーモンズ』、『BLUE DRAGON 天界の七竜 -クライマックス予告編-』。公式サイトで2008年11月24日から2009年1月31日までの期間限定で無料配信もされていた。また、2013年9月13日に発売された『ドラゴンボールZ 神と神』のDVD、Blu-rayにも特典映像として収録された。 原作者の鳥山明が、シナリオ原案およびキャラクターデザインを手がけた[1]、魔人ブウ編から約2年後の物語。原作では、神龍の力で一般の人々から魔人ブウの記憶は消されているが、本作では魔人ブウのことを一般人が認知しているなど、原作やテレビアニメとは異なる点がある。

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オサダ – Wikipedia

株式会社オサダは、佐賀県に本社を置く企業。かつてのディスカウントストア地場大手であった。 1990年代に大型店「ハイパーセンターオサダ」を九州北部を中心に大量出店し、地場大手に成長。 しかし、店舗が巨大化し、出店費用などで負債が大きくなったため、2000年に民事再生法の適用を申請した。 以後数年間再建を続けたが、2004年に経営再建を断念。事実上倒産し、長崎県の時津店以外の店舗をすべて閉店、売却した。小戸(福岡市西区)、大塔(長崎県佐世保市)の2店舗はコーナンに売却している。また、空港店(福岡県糟屋郡志免町)の退去した建物は同社がリース入居したが、不振のため異例の短期間で撤退している。 2010年10月には一度閉店していた伊万里店を再オープンした。2013年2月には倒産後も継続して営業していた唯一の店舗、時津店を閉店。伊万里店1店舗体制となる。 2014年2月には伊万里店も閉店。1つのFC店舗、株式会社ドゥイングの運営店舗のみが残存している。 1963年(昭和38年)5月 – 創業 1972年(昭和47年)4月 – 株式会社リビングチェンオサダとして法人設立[1]。 1976年(昭和51年) – 武雄市甘九物流センター開設[1]。 1981年(昭和56年) – 本格的ディスカウントストア甘九店開店[1]。 1982年(昭和57年) –

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ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群 – Wikipedia

ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群は、メキシコの世界遺産リスト登録物件の一つである。メキシコ中央部のポポカテペトル山近くにある修道院群は、16世紀にフランシスコ会士、ドミニコ会士、アウグスティノ会士たちによって建立されたもので、広大な範囲の土地で暮らしていた非常に多くの人々を、短期間にキリスト教化する上で中心的な役割を果たした。 地方自治体上はモレロス州のアトラトラウカン (Atlatlauhcan)、クエルナバカ、ウエヤパン (Hueyapan)、テテラ・デル・ボルカン (Tetela del Volcán)、ヤウテペク (Yautepec)、オクイトゥコ (Ocuituco)、テポストラン、トラヤカパン (Tlayacapan)、トトラパン (Totolapan)、イェカピクストラ (Yecapixtla)、サクアルパン・デ・アミルパス (Zacualpan de Amilpas)、および、プエブラ州のカルパン (Calpan)、ウエホトシンゴ (Huexotzingo)、トチミルコ (Tochimilco) に散在しているが、いずれもポポカテペトル山の近くである。 箱型の主な建造物群の質素な作りと、地域住民を監視するかのような威圧的な高さとが印象的なこれらの修道院群は、1994年にユネスコの世界遺産リストに登録された。それらの修道院群は小さな塔をそなえた強固な壁に護られており、それがまた威圧感を増している。

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鳴尾村 (兵庫県) – Wikipedia

鳴尾村(なるおむら)は、かつて兵庫県武庫郡鳴尾に存在した村である。1951年4月1日に西宮市に編入されて消滅した。 現在の西宮市鳴尾町一〜五丁目・上鳴尾町・甲子園一番町・甲子園二番町・甲子園三番町・甲子園四番町・甲子園五番町・甲子園六番町・甲子園七番町・甲子園八番町・甲子園九番町・甲子園町・南甲子園一〜三丁目・浜甲子園一〜四丁目・枝川町・古川町・戸崎町・花園町・学文殿町一〜二丁目・里中町一〜三丁目・池開町・武庫川町・笠屋町・東鳴尾一〜二丁目・上田西町・上田中町・上田東町・高須町一〜二丁目、尼崎市平左衛門町[注 1]にあたる。 東西3,230m、南北4,420m、海岸線3,850m。 東は武庫川東岸の平左右衛門新田を画して大庄村、北は枝川越しに瓦木村、西は枝川と申川越しに今津村に隣接し、南は大阪湾にして東方遥かに大阪築港に対する。 鳴尾、小松、小曽根、上田新田(後に上田へ改める)の4字を有した。 武庫川上流から流れてきた土砂が河口に堆積した三角州の地であり、極坦々とした平野で、丘陵・山地は全くなく、村内に海抜2m突半を越える高所はない。武庫川・枝川の堤だけが平地よりわずかに隆起して松が繁茂していた。 明治以前[編集] 鳴尾は古くから瀬戸内に添う景勝の地として知られ、「鳴尾の一つの松」「鳴尾の浦」「鳴尾の沖」などが古歌や謡曲で歌枕として多く詠まれている。「鳴尾」は古くは「成尾」とも記されており、緩やかな傾斜地を意味する「ナル」と先端を意味する「オ(尾)」が合わさってできた地名と推測されている。武庫川が長い年月に堆積した砂礫や瀬戸内海の潮流や風が形成した砂州が緩やかな傾斜で海辺に達する端の方、という意味である(地名については他にも諸説あり)[2]。 鳴尾一帯が歴史に登場するのは7世紀半ばとみられているが、鳴尾の地名が最も古く確認できるのは平安時代である承徳元年(1097年)、源俊頼が九州太宰府から帰る途中に詠んだ歌「羨まし なるおにたてる 松ならば 浪かけぬ間も あらましものを」以下2首の中である。この頃には鳴尾にも集落ができていたが、それは数件の苫屋からなる寒村であった[2]。 景勝の地であった鳴尾であるが、武庫川が天井川であるため水利には向かず、旱魃の際には村民が大いに困ることとなった。とりわけ、天正3年(1591年)には3年続きの旱魃で、隣の瓦林村から無断で取水したため周囲の村落を巻き込んで紛争(天正北郷樋事件)となり、最終的に鳴尾村側25名(他に瓦林村側26名。ただ奈良の多聞院英俊の日記には両村犠牲者合計83名という記録がある)の命と引き換え(大坂で処刑された)に、水利権が保障されることとなった(このときの裁許状は現存)。この騒動は遠く興福寺の記録に残るほか、現在も甲子園三番町にある北郷公園に鳴尾義民碑が残っている。 また、武庫川はたびたび氾濫を起こして鳴尾に被害を及ぼしてきた。たとえば、弘治3年(1557年)には高潮により堤防が決壊し、流れた水が枝川という川筋を作った。また、元文5年(1740年)の洪水ではその枝川からさらに川が分岐して、この年の十二支にちなんで申川と呼ばれるようになった。この枝川・申川と武庫川本流に挟まれた区域がのちの鳴尾村となる。 明治時代[編集] 町村制の施行とともに鳴尾村・小松村・小曽根村・上田新田村が合併して鳴尾村となった。この鳴尾村を大きく変えていくこととなったのが阪神電気鉄道(阪神)である。阪神本線の建設当時、地域によっては「エレキで酒が腐る」などの反対運動があったとされるが、鳴尾村では積極的に誘致を進め、土地を無償で提供する代わりに現在の位置に鳴尾駅[3]を誘致し、路線はここで南へとカーブすることとなった。 1905年に阪神が開通すると、鳴尾村の利便性は大きく向上することとなった。それは交通面にとどまらず、翌年には阪神が電灯事業を開始、1910年には鳴尾駅を含む阪神間の駅にポストを設置し、阪神電車を使って収集する「電車郵便」制度が開始し、サービス面でも新しいものが流入してきた。 また、1907年から翌年にかけて2つの競馬場が開業し、1910年には統合されて鳴尾競馬場となった。競馬客を相手とした商売も成立していったが、もともとの産業であった木綿栽培は海外産に押されて衰退し、代わってイチゴを栽培する農家が増えてきた。

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リオ・ブラボー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “リオ・ブラボー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年8月) ジョン・ウェイン(左)とアンジー・ディキンソン(予告編から) 『リオ・ブラボー』(Rio Bravo)は、ハワード・ホークス監督、ジュールス・ファースマンとリイ・ブラケット脚本、ジョン・ウェイン主演の1959年の西部劇映画。原作はB・H・マッキャンベルの短編小説。 本作はフレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』に描かれた保安官の姿に不満を持ったハワード・ホークスとジョン・ウェインが『真昼の決闘』へのアンチ・テーゼとして制作したといわれている。 力強い保安官と彼を助ける仲間たちを描いた、歌あり、恋ありの痛快西部劇である。 あらすじ[編集] メキシコとの国境に近いテキサスの町で保安官のチャンス(ジョン・ウェイン)は、殺人犯ジョー(クロード・エーキンス)の身柄を確保したが、この地方の勢力家でジョーの兄・バーデット(ジョン・ラッセル)が、保安官にジョーの身柄を移動させないよう部下に命じて駅馬車の車輪を壊し街を封鎖したため、チャンスは連邦保安官が来るまでわずかな味方とともにバーデット一味と戦うことになる。チャンスの味方となるのは、以前は早撃ちだったが失恋の痛手から2年間もアルコール依存症の保安官補デュード(ディーン・マーティン)、片脚が不自由で毒舌な年寄りの牢屋番スタンピー(ウォルター・ブレナン)、幌馬車の護衛として街に着いた実戦経験の少ない早撃ちの若者コロラド(リッキー・ネルソン)は隊長(ワード・ボンド)を狙撃された仇討ちが目的、そして女賭博師で踊り子のフェザーズ(アンジー・ディキンソン)。孤立した彼らの耳に聞こえるのは敵が一晩中流す『皆殺しの歌』だった。 キャスト[編集] エピソード[編集] 歌手としても有名なディーン・マーティンとロックンロール歌手であるリッキー・ネルソンが二人で『ライフルと愛馬』を歌うシーンがある。 『ライフルと愛馬』は本作と同じくハワード・ホークス監督、ディミトリ・ティオムキン音楽、ジョン・ウェイン主演、ウォルター・ブレナン助演の1948年の映画『赤い河』で使用された曲である。

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リヴァ (バンド) – Wikipedia

リヴァRiva 出身地  ユーゴスラビア(現 クロアチア) ジャンル ポップ・ミュージック 活動期間 1980年代 レーベル ユーゴトン リヴァ(クロアチア語:Riva)は、1980年代後期のユーゴスラビア連邦・クロアチアのポップ・バンド。 リヴァは1988年のザグレブフェスト(Zagrebfest)でデビューを果たした。彼らの楽曲「Rock Me」はスイスで行われたユーロビジョン・ソング・コンテスト1989で137得点を集めて優勝を果たした。しかし、作家で歴史家のジョン・ケネディ・オコーナー(John Kennedy O’Connor)は著書の「The Eurovision Song Contest – The Official

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霧立のぼる – Wikipedia

霧立 のぼる(きりたち のぼる、1917年(大正6年)1月3日 – 1972年(昭和47年)3月22日)は、元宝塚少女歌劇団娘役で日本の女優。本名は島田 キミ、東京市出身。愛称は「しまちゃん」[1](本名に由来する)。 芸名は小倉百人一首の第87番、寂蓮法師の「叢雨の 露も未だ乾ぬ 真木の葉に 霧立ち昇る 龝の夕暮れ(むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ)」から命名された。 宝塚歌劇団卒業生で元女優の霧立はるみ(本名:鬼武治美、1943年生まれ)は、俳優の佐伯秀男との間にできた一人娘である。 東京市で父・重穂と母・さよの間に3人姉妹の長女として出生する。東京市渋谷区穏田にある穏田小学校を卒業後、1929年(昭和4年)に青山学院高等女学部(現・青山学院中等部)に入学するが、1930年(昭和5年)4月に中退して宝塚少女歌劇団に入団。宝塚歌劇団20期生。同期生に宇知川朝子、尾上さくら、久邇京子、竹田鶴子、夕張ゆさ子らがいる。娘役で活躍する。1934年(昭和9年)に入江たか子の実兄・東坊城恭長にスカウトされて宝塚少女歌劇団を退団して入江プロに入社する。同年、入江プロを経て入社した新興キネマより「世紀の青空」で映画初出演。翌1935年より新興東京に所属し「春姿娘道中」、「暁の麗人」、「女の友情」など数々の映画にや舞台に主演として出演した。 1937年、新興キネマの幹部社員に昇進するも退社し、同年PCLに入社した。この時に同僚となった佐伯秀男と出会い、結婚するきっかけとなった。同年9月にPCLが合併して東宝映画が設立された後もそのまま専属女優として活躍を続け、1942年に佐伯と結婚、1943年4月29日に公開された石田民三監督の「あさぎり軍歌」に出演したのを最後に出産のため東宝映画を退社した。 佐伯と離婚後の1944年4月に「霧立のぼるとあざみ楽団」を結成して芸能活動を再開。子育てをしながら実演舞台女優として活躍するなど多忙な日々を送っていた。1952年に大映と契約を結び、様々な作品に出演しながら1955年に劇団新派に入団して舞台女優としても活躍した。 晩年は娘のはるみと佐伯の生地の近くの港区南青山のマンションで2人暮らししていたが不遇で、ほとんど仕事が無い状態で睡眠薬を常用しており、1971年6月に16年間活動してきた劇団新派を退団して芸能活動を引退し、直後に新橋でバー「霧の町」を開店したがすぐに店を辞めている。その後、娘のはるみが渡米した留守中の1972年3月22日未明、常用していた睡眠薬の摂取過多により自宅で孤独死した。55歳没。発見された時には死後13時間程度が経過していたと言う[2]。

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上賀茂 – Wikipedia

上賀茂(かみがも)は、京都市北区の鴨川(賀茂川)左岸、北山通以北、神山(こうやま)および賀茂川右岸の十三石山以南に至る地域の名称である。本項ではその前身の愛宕郡上賀茂村(かみがもむら)についても述べる。 昭和6年(1931年)に京都市に編入される。それ以前は、愛宕郡上賀茂村であった。長く賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神領とされてきた。 上賀茂神社 大田神社 上賀茂神社より古くからあったといわれている。大田の沢のカキツバタは国の天然記念物に指定されている。 北大路魯山人生誕地 大田神社の南側に石碑がある(上賀茂北大路町)[1]。 2009年3月22日 魯山人の没後50年を記念し、誕生日の前日に当たる22日に除幕式があった。 大田の小径 大田神社の北側の山の尾根を歩く散策路である。 深泥池 賀茂季鷹歌碑 場所は、大田神社南交差点を南に、一筋目の道を西に入った北側の住宅(上賀茂竹ヶ鼻町)。歌碑には春の吉野山を詠んだ歌が記され、下には紅葉の歌も記されている。 賀茂季鷹(かもすえたか)は、上賀茂社家で江戸後期の歌人。季鷹は、有栖川宮職仁親王に手ほどきを受けた後、江戸にて文人墨客と交わり、京に帰った後は上賀茂神社で神職となり、「雲錦亭」と名付けた文化サロンを主宰した。 京都市伝統的建造物群保存地区 京都の特色ある歴史的な町並みの整備を行う区域[2]。産寧坂地区、祇園新橋地区、嵯峨鳥居本地区と上賀茂地区が指定されている。この4地区については、国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。 すぐき菜 江戸時代初期より当地周辺の農家に伝承されるカブの一種で、京の伝統野菜として知られる。かつては当地社家による贈答品として用いられていた。1804年(文化元年)に、京都所司代から出された『就御書口上書』で他村への持ち出しが禁じられたことから、限られた地域で栽培され、栽培技術が口伝で受け継がれてきた[3]。乳酸菌の発酵作用によって生まれる酸味が特徴的で、漬物やおひたしに用いられる[4][5]。 賀茂なす

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