公施設法人 – Wikipedia

公施設(法人)(こうしせつ(ほうじん)、フランス語:Établissement public、略称:EP)は、フランスにおける公法人の一種。公役務の任務を負う公法上の法人[1]であるとされ、設立の根拠となる法律に従って、それぞれ特定分野の公役務を実行するために、一定の自立性が与えられているとされる。 相違する公施設法人[編集] 基本的区分[編集] 立法府議員による様々な言説があるが、法学および学説により大きくは2つに区分される。   行政的公施設法人 商工業的公施設法人 職員制度 公務員下級職員は契約制 職員の権利は労働法典に従う 会計規則 一般会計に従う行政予算の成果報告 個人的会計(comptabilité privée)が適用政府に対し、予算案の提出と収益・経費の報告義務  市場 公共調達法典が適用 原則として、受益者と供給者は自由選択できる  ただし、上記の分類以外にも例外は存在する。 細分類される公施設法xxxxxxx人[編集]

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連合軍軍政期 (ドイツ) – Wikipedia

連合国占領下ドイツ Alliierte Besetzung Deutschlands 国歌: ソ連占領地域 アメリカ占領地域 イギリス占領地域 フランス占領地域  分割占領されたドイツ ベルリン市の連合国各国の占領域 ドイツの連合軍軍政期(れんごうぐんぐんせいき)は、ドイツの歴史において、第二次世界大戦でフレンスブルク政府が降伏した1945年5月8日から、東ドイツ・西ドイツが相次いで成立する1949年までの間、連合国4か国軍による占領統治が行われていた時代である。1945年から1990年まで続いた分断時代の前半部(4か国の分割占領状態)に当たる[1]。 同時期に連合国の占領下にあったオーストリアと異なり、ドイツはベルリン宣言によって連合国からフレンスブルク政府の政府承認を取り消され、中央政府が存在しなくなった。その為、冷戦が激化する中で「ナチス・ドイツに代わるドイツ中央政府」を構築する過程が必要となり、中央政府を樹立できないまま分断国家として主権を回復する事態を迎えた[2]。 ナチス・ドイツが第二次世界大戦で敗れると、ドイツは連合国4か国軍(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦)に占領された。連合国軍は、管理目的のために1945年5月8日から1949年までの4年間、オーデル・ナイセ線の西でドイツを4つに分割占領して軍政を布いた。 第二次世界大戦末期、アメリカ軍はヤルタ会談とロンドン議定書で同意されたラインを超えて最大200マイルに渡って東側へ進出しており、戦争終結後のソビエト赤軍とアメリカ軍間の境界線は暫定であった。戦争終結後2か月間、アメリカ軍はソ連占領予定区域に滞在した後、1945年7月初めに撤退した。このことは、同じ頃(1945年7月)にベルリンにおける各国の占領予定区域にアメリカ、イギリス、フランスの各軍が駐留することをソ連に容認させるにあたり重要な役割を果たしたという意見もあるが、一方でこの点に関しては情報収集のための必要性があったという要素も考えられる(ペーパークリップ作戦参照)。 占領政策の討議[編集] 連合国のドイツ占領統治に関する討議が本格化したのは1943年12月のテヘラン会談以降であった。1943年のモスクワ会談で合意していた欧州諮問委員会(英語版)の設置がテヘラン会談で決定され、この委員会が占領政策の検討を行うこととなった。諮問委員会は米・英・ソが参加する連合国管理理事会(英語版)の統括による占領統治を行うことを勧告され、1944年9月12日のロンドン会議で米・英・ソ三国による占領統治が決定された。1945年1月のヤルタ会談では米・英・ソにフランスを加えた四カ国で占領地域を分担すること、全ドイツに関する決定は四カ国軍司令官が共同で参加する管理理事会が行うが、個別の占領地域においては担当国の軍司令官が単独で決定が行えることとなった。またオーデル・ナイセ線以東はポーランド共和国の統治下と決定した。連合国軍は占領した地で新たな州(ラント)の自治政府を建設し、それぞれの占領地域で占領行政は個々に開始されていた。 占領統治開始[編集] フレンスブルク政府はドイツの敗戦処理政府として存続することを望んだが、5月20日にソ連が彼らを政府として承認しない姿勢を明確にし、他の連合国も追随した。このため5月23日にフレンスブルク政府の閣僚は連合国に逮捕され、ドイツには政府が存在しない状態となった。6月5日、ベルリンにおいて米・英・ソ・仏の軍事司令官は、中央政府の不在と軍政開始を宣言するベルリン宣言を発表し、7月5日に占領統治の統括機関として連合国管理理事会(英語版)を設置した。連合国は8月2日のポツダム会談でベルリン宣言を確認し、欧州諮問委員会にかわって四カ国外相が討議する外相理事会を設置することにした。更に占領政策の基本方針として「ドイツ管理機構に関する協定」(ポツダム協定)を策定し、「占領下のドイツは一つの経済単位として扱う」ことを決定した。しかし折からの冷戦勃発の影響で、統一的なドイツ統治は実行されず、協議を行う外相理事会も失敗を重ねた。各占領区域の軍政当局は、住民、地方と州政府に対して、それぞれ異なった政策を行った。 西側とソ連の対立[編集]

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ガスエナジー – Wikipedia

ガスエナジー株式会社は2010年3月まで存在し、東京都千代田区に本社を置いていた、三井丸紅液化ガス傘下のガス事業者。主に液化石油ガス(LPガス)を中心に事業を行っていた。ブランド名は『ベニーガス』・『ベニープロパン』。 同じくLPガスを販売する兄弟会社である「グロリアガス」と、ガスエナジー傘下の子会社である「むつベニー」と「いわて県北燃料」ならびに「東石エンジニアリングサービス」とともに、2010年4月をもって合併統合し『グローブエナジー株式会社』[1]として発足した。これによって、LPガスの直売顧客約20万件、取扱数量年間約12万トンという大型LPG販社となった。 なお、ブランド名(三井丸紅液化ガスの新ブランド)は、2010年4月に、「Pグロリア」と「ベニー」を統合して『グローブ』[2]として生まれ変わった。 東北石油ガス[編集] 1961年5月 – 和田寛食料工業(その後ワダカン食品工業を経て、現在はワダカン)の一部門として、青森県内にて液化ガス製造販売事業を開始する。 1968年10月 – 和田寛食料工業から液化ガス事業を分離し、和田寛石油ガス株式会社を設立。 1986年7月 – 東北石油ガス株式会社に商号を変更する。 木更津石油ガス[編集] 1991年4月 – 木更津石油ガス株式会社を設立。 ファミリーガス[編集] 1990年1月 –

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ボビー・ヴァレンティノ – Wikipedia

ボビー・ヴァレンティノ(Bobby Valentino, 本名:Robert Wilson, 1980年2月27日 – )は、アメリカ合衆国ミシシッピ州ジャクソン生まれのR&Bシンガーである。 1980年2月27日、ミシシッピ州ジャクソンで生まれ、ジョージア州アトランタで育つ。 2005年4月26日、1stアルバム『Bobby Valentino』をリリース。ビルボードアルバムチャートにて初登場3位を記録する。 2007年5月8日、2ndアルバム『Special Occasion』をリリース。ビルボードアルバムチャートにて初登場3位を記録する。 2009年2月10日、3rdアルバム『The Rebirth』をリリース。ビルボードアルバムチャートにて初登場7位を記録する。 ディスコグラフィ[編集] アルバム[編集] 発売日 アルバムのタイトル 販売レーベル 全米ビルボードアルバムチャート最高位[1]

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ベルモントアクター – Wikipedia

ベルモントアクター(Belmont Actor)[1]は日本の競走馬。主な勝ち鞍に、2002年の船橋記念、サンタアニタトロフィー、2003年のマイルグランプリ。 1999年1月28日、船橋競馬場でのサラ系4歳戦でデビューし、59秒5のレコードタイムで勝利。休養ののち11月と12月の一般戦を連勝して4歳時は3戦3勝とする。5歳となった2000年は、C級およびB級の一般戦、特選競走および特別競走で9戦9勝、4歳時から通算で12戦12勝とした。2001年は1月に1戦して勝利も長期休養に入り、6歳となった2002年4月のB級線で復帰して勝利、続くA級戦も勝って4年越しの15戦15勝としたのち、初めての重賞出走となった船橋記念でリガメエントキセキを下して16連勝目を重賞初制覇で飾る。続くサンタアニタトロフィーでも2着コアレスフィールドを僅差破って重賞連勝、無敗の17連勝を記録した[4]。休養ののち、11月の京成盃グランドマイラーズでは1番人気に推されるもネームヴァリューの4着に終わり、連勝記録は17で途絶えた。続く交流競走の彩の国浦和記念でマキバスナイパーの2着に入り[5]、12月の東京大賞典でも5着に入る。7歳時は初めの2戦は勝てなかったが、4月のマイルグランプリで重賞3勝目を挙げたほか、サンタアニタトロフィーで2着、ダートグレード競走でもかしわ記念4着、帝王賞5着、日本テレビ盃3着の成績を残した。10月のマイルチャンピオンシップ南部杯8着のあと長期休養に入って2005年1月に復帰も2戦して勝てず、マイルグランプリ9着のあと門別競馬場・桑原義光厩舎に移るが、エアエミネム賞4着を経て出走のブリーダーズゴールドカップでサカラートの10着になったのが最後の競馬となった。 引退後は生まれ故郷のベルモントファームに戻り訓練馬となったあと、功労馬として余生をおくっている[4]。 競走成績[編集] 以下の内容は、JBISサーチ[3]、netkeiba.com[6]、地方競馬全国協会[2]に基づく。 年月日 競馬場 競走名 格 距離(馬場) 頭数 枠番 馬番 (人気) 着順 タイム(上り3F) 着差 騎手 斤量[kg]

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姫君の条件 – Wikipedia

『姫君の条件』(ひめぎみのじょうけん)は、朔野安子による日本の漫画。『月刊メロディ』(白泉社)にて連載された。単行本は全8巻。 ストーリー[編集] ここは精霊と人間が共に暮らす世界。精霊は愛する人の傍らに寄り添い、一生かけて守護する。守護精霊は常にその人間と共に在るが、人は自分を守護する精霊を視る事が出来なくなるのだ。 パパリダ王国の王祖・女王パパリアが強大な〈闇の精霊〉と〈光の精霊〉の守護を得、大賢者と共に〈大いなる災い〉を退け、平和を齎してから既に900年。王家の末娘・ダリアン姫は、「ダリアン姫が17歳の誕生日を迎えた時、7人いる兄弟姉妹の中で最も強い精霊の守護を得ていた者を次の王にする」と父王に聞かされる。世継ぎ以外は他国に嫁に出されてしまうのを嫌い、より強い精霊の守護を得るために、護衛官のキールを引っ張りまわし冒険を繰り広げるダリアン姫。愛するキールと結婚するためという個人的な理由で王位を目指す彼女だが、その破天荒ぶりとまっすぐな行動・人々を思いやる気持ちはやがて人々を魅了していく。 しかし世界は次第に暗い方向へ進んでいた。誰もが精霊の守護を得られるわけではなくなり、精霊そのものの数も減り続けていた。万物に宿る精霊の欠乏は世界のバランスを崩していた。〈魔物〉がそこかしこで出現し、平和なのはパパリダ王国だけだったのだ。そして〈虚無の淵〉から〈九百年前の災い〉が現れる。〈滅する力〉を持つ不滅の存在。〈災い〉の前に世界は滅びてしまうのか。パパリダ王国だけが守られているのは何故なのか。秘密を知った時ダリアンが選ぶのは……。 登場人物[編集] ダリアン 王家の末娘。物語開始時は16歳。肌の露出の多い活動的な服装を好むおてんば姫。曲がったことが嫌い。精霊を嫌う隣国アーデルトの姫を母に持つが、幼い頃に失っており、その孤独を慰めたキールに家族以上の親愛の情を抱くようになる。後に複数の精霊の守護を得るなど、精霊使いの素質に恵まれており、造り主教団〈光の使徒派〉では彼女のことを〈暗黒女王の再来〉と呼び警戒している。料理の腕は殺人級。キールを倒し、さらに看病にと持っていた料理で病状を悪化させた。一つの料理に免疫がついても、別の料理はまた別の免疫が必要など、その原因は多岐にわたるようだ。本人もそのことを知っているが料理を作るのは好きらしく、いつもキールはカモにされている。 キール ダリアンの護衛官で、かつてパパリア女王と共に〈災い〉と戦った〈闇の精霊〉。肉体は人間のもので、かつて少年キールが非合法の採掘に駆り出され、落盤事故で生き残った後、町で浮浪児として生きていた時、〈闇の精霊〉と融合してしまったことで、自身も闇の精霊となった。普通精霊は愛する人間を守護するものだが、彼は二度と肉体を持って会うことの出来なくなる〈守護〉に躊躇いを感じ踏み切れないでいる。900年前の全てを知る一人。 ザガリード ネフヤール王国の第三王子で、同国に200年ぶりに誕生した〈ヤールの狩人〉。〈狩人〉とは精霊使いの精霊を〈見る力〉〈聞く力〉〈話す力〉加えて特殊な第四の力〈滅する力〉を持つ者への呼び名で、通常の剣などでは傷つける事が出来ない精霊を滅ぼすことが出来る者を指す。狂った精霊=〈魔物〉の多いネフヤールにおいて彼は救世主とも呼べる存在だったが、その力の所為で幼き頃〈精霊〉に母親を殺害され、自らも誘拐され〈精霊〉に何年間か育てられた過去を持つ。助け出される前は自分が精霊だと思っていたらしい。大剣の腕は大陸タイトル保持者。 アーロン パパリダ王国の第五王子。7人兄弟の第六子。家系から山芋の精霊の守護を受け継いでいる。それに加え留学中に得た鰻の精霊の守護も持ち、王位に一番近い位置にいるが父王に反発し王位に付く気はないと公言している。美形で女たらし。無類の遊び人。ザガリードとは留学時代の学友で悪友。パパリダ王家が隠す秘密に気付いている節があり、遊び人の顔とは別に陰謀や交渉に長けた裏の顔も持つ。 サナン ダリアンと同じくらいの年頃の金髪の少女。光の戦士としての名はウルヌ。預言に於いて暗黒女王(=ダリアン)が世界を滅ぼすと信じる〈光の使徒派〉に送り込まれた刺客だったが、ダリアンと交流するうちに彼女に惹かれてしまい使命を果たせなくなる。アーロンの婚約者カロリン姫として登場した時は非常に御しとやかでたおやかな女性として登場するが、実際は〈光の使徒派〉の戦士として訓練を積んでおり、拳闘で勇ましく戦う。〈光の使徒派〉の教義とパパリダ王国での伝承の違いに戸惑う中、ダリアンと共に900年前の真実に迫っていく。ザガリードに仄かな恋心を抱く。〈見る力〉〈聞く力〉を幼い頃から持っていたため、人には見えないものがよく見えた。〈創り主信仰〉の家で育ったため、ザガリードに出会う前は自分にそんな力があることも知らなかったらしい。 シリル パパリダ王国の第一王子。7人兄弟の最初に生まれた三つ子の一人。有能な官僚手腕を持つが謀は得意ではないらしい。精霊の守護は無く王位からは遠い位置にいる。精霊使いとしての力は弱く〈見る力〉のみを持つ。アズリスを愛するあまり彼の身体を治療したいとの思いが暴走し、隣国と大賢者、〈光の使徒派〉を巻き込んだ王位簒奪を計画する。 アズリル パパリダ王国の第二or三王子(順不明)。7人兄弟の最初に生まれた三つ子の一人。生まれた時に「三つ子の中で一番弱いものが大いなる災いを招く」と預言された事が3人に影を落す。そしてアズリルは一番病弱でベッドでほぼ寝たきりの身であり「弱きもの」と認知される事となったが、後にこの預言は真実であった事が判明する。精霊使いとしての能力は〈話す力〉のみだが、精霊が〈見えず〉〈聞こえない〉ので役に立たない(実はもう一つ強力な〈呼ぶ力〉を持っていた)。

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レイトンハウス・CG911 – Wikipedia

レイトンハウス・CG911マーチ・CG911B カペリが乗るレイトンハウス・CG911(開幕戦アメリカGPにて) カテゴリー F1 コンストラクター レイトンハウス・レーシング デザイナー クリス・マーフィー グスタフ・ブルナー 先代 レイトンハウス・CG901 主要諸元 シャシー カーボンファイバー/ハニカムコンポジット複合構造モノコック サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン, ロッカーアーム, コニ製ショックアブソーバー サスペンション(後) ダブルウィッシュボーン,

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ダニエル・ベルトーニ – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “ダニエル・ベルトーニ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年3月) ダニエル・ベルトーニ 名前 本名 リカルド・ダニエル・ベルトーニRicardo Daniel Bertoni ラテン文字 Daniel BERTONI 基本情報 国籍

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埼玉県中学校の廃校一覧 – Wikipedia

埼玉県中学校の廃校一覧(さいたまけんちゅうがっこうのはいこういちらん)は、埼玉県内の廃校となった中学校の一覧。対象となるのは、学制改革(1947年)以降に廃校となった中学校とその分校である。学校名は廃校当時のもの。廃校時に中学校が所在していた自治体がその後合併により消滅している場合は、現行の自治体に含む。また現在休校中の県内の中学校も、その多くは実質上、廃校と同じ状態にあるので参考として記載する。 ()内は、廃校(もしくは、休校)になった年。 目次 1 さいたま市 2 川越市 3 熊谷市 4 川口市 5 行田市 6 秩父市 7 所沢市 8 飯能市 9

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ベンチマーク – Wikipedia

ベンチマーク(英: benchmark)とは、本来は測量において利用する水準点を示す語で、転じて金融、資産運用や株式投資における指標銘柄など、比較のために用いる指標を意味する。また、広く社会の物事のシステムのあり方や規範としての水準や基準などを意味する。またベンチマーキングとは自社の課題解決のために、競合他社などの優れた経営手法(ベストプラクティス)を持つ企業を分析するプロセスを指す。 測量におけるベンチマーク[編集] 建築物、構造物などの位置や高さなどの水準点または基準点に用いる。通常では動かない位置をベンチマークポイントに定めそれを基準として建物、構造物の位置を決める。ベンチマークには金属鋲などが打ち込まれることもある。また設計図書にどこがベンチマークポイントかは必ず明記される。元来ベンチマーク (benchmark) と言う場合は測量などで使用される基準の物を指す。 コンピュータにおけるベンチマーク[編集] コンピュータの分野においては、コンピュータシステムのハードウェアやソフトウェアの性能を測定するための指標のことを指す。ひとつあるいは複数のプログラムを実行した結果をベンチマークスコアと呼び、ある対象に関する相対的な性能を表す指標として用いられる。また、ベンチマークスコアを測定するための特別なプログラム(ベンチマーキングプログラム)自体をベンチマークと呼ぶこともある。著名なベンチマーキングプログラムとしてHPC性能を測るLINPACKや、データベース処理の性能を測定するTPC、DirectXにより3DCGの性能を測る3DMarkなどがある。 その他、ハードウェアの3D機能を高度に駆使し、十分な動作速度を確保するための要求スペックが高いパソコン用のゲームソフトやオンラインゲームでは、動作の確認と宣伝を主目的として、メーカーがゲーム素材を利用したベンチマークソフトや体験版を制作し、配布することもみられている。 ベンチマークは、異なる部品構成やアーキテクチャを持ちスペックなどによる直接的な性能比較ができないシステムの間において、様々な観点で性能を比較する手段を提供する。またベンチマーク結果を集計しグラフ化や比較が可能なウェブサイトも多数存在している。レタッチソフトなどビデオカードのGPUに依存した機能があるソフトウェアではインストール前に自身のハードウェアで利用できる機能を把握したり、適切な機材へ変更する際の指針となる。AdobeはPhotoshopに対応したGPUの最小要件に関しては、ベンチマーク結果を集計したサイトを参照するように誘導している[1]。 日本語において「ベンチマークスコアを測定する」ことを俗に「ベンチマークを取る」と表することがあるが、これはなんらかの値を記録することを「記録を取る」「データを取る」と呼ぶ慣習からきている。 コンピュータにおけるベンチマークテスト[編集] コンピュータ・アーキテクチャが進化するにつれ、その仕様を見ただけでは各種コンピュータの性能を比較することが難しくなってきた。そのため、異なるシステム上で動作できるテストプログラムが開発されてきた。そのようなテストを実行した結果を比較することで異なるアーキテクチャの性能を比較するためである。たとえば、インテルのPentium 4プロセッサと同程度の演算性能を示すAMDのAthlon XPプロセッサは動作周波数が(Pentium 4 よりも)低い。つまり、同じベンチマークテストを実行したとき、AMD の動作周波数の低いプロセッサとインテルの動作周波数の高いプロセッサが同程度の結果を示すのである。 ベンチマークは特定の負荷状況を再現するよう設計されている。元からベンチマーク用に開発されたプログラムは意図的にそのような負荷を作り出す。普通のアプリケーションをベンチマークとして使う場合もあり、この場合はそのアプリケーションの負荷が再現される。アプリケーションを使ったほうが実際の性能をよく表しているが、システム内の特定の部品の性能(ディスク性能、ネットワーク性能など)を測定したい場合などには専用ベンチマークプログラムが使われることが多い。 マイクロプロセッサの設計において、ベンチマークは測定手段となると共に回路化すべき部分の重要な判断基準となる。たとえば、あるベンチマークがあるアプリケーションのアルゴリズムの鍵となる部分を抜き出したものだった場合、そのベンチマークはそのアプリケーションの性能に大きな影響を与える部分を抜き出したものと考えることができる。そのような小さなプログラムをシミュレータで動作させることによって、性能を向上させる手がかりを得ることができる。

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