アルカディ修道院 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アルカディ修道院” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年2月) アルカディ修道院にある、ヴェネツィア・バロック様式の聖堂(2008年撮影)。旧100ドラクマ紙幣の裏面にはこの聖堂のファサードが印刷されていた。 アルカディ修道院内の聖堂内部。イコノスタシスが写っている(2008年5月撮影)。 アルカディ修道院(アルカディしゅうどういん、ギリシア語: Μονή Αρκαδίου, Moni Arkadiou)は16世紀に建てられた正教会の修道院。クレタ島内のレティムノから南東に23キロの所に位置している。1866年から1869年にかけてのクレタ蜂起(Cretan Revolt)と、その際に行われた集団自決で有名である。旧100ドラクマ紙幣の裏面にはアルカディ修道院の聖堂のファサードが印刷されていた[1]。 目次 1 1866年から1869年にかけての蜂起

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鷹島 (長崎県) – Wikipedia

鷹島(たかしま)は、九州北西部の伊万里湾口にある島。全島が長崎県松浦市[2]に属する。 概要[編集] 東西約5km、南北約13km。島の南北にほぼ同じ標高の山がある(南部:牧ノ岳(117m)、北部:宮地岳(116.6m))。 地盤は第三紀砂岩層を基礎としその上に平均標高約50mの玄武岩の溶岩台地が載る。海岸線は多くリアス式海岸をなし、海食崖もみられる。 主な産業は農業と漁業。台地上は比較的平坦で農耕地に利用されている。また、溶岩台地を構成する玄武岩から切り出される石材は「阿翁石」と称され、主に北部九州において墓石として用いられている。 島へのアクセス[編集] 佐賀県唐津市肥前町との間の日比水道に鷹島肥前大橋が建設され、2009年(平成21年)4月18日に開通した。これによりバスまたは自家用車などを用い、陸路で島へ直接アクセスできるようになった。4月20日からは昭和自動車により唐津市肥前町と鷹島を結ぶ路線バスが運行開始されている。 船便は、松浦市今福港(最寄り駅は松浦鉄道鷹島口駅)から殿浦港(飛島経由)まで、および松浦市御厨港(最寄り駅は松浦鉄道御厨駅)から船唐津・阿翁(青島・黒島経由)までの間に、鷹島汽船のフェリーが就航している。唐津市肥前町の星賀港と、鷹島の日比港の間を結ぶ松尾フェリーが運行する便もあったが、鷹島肥前大橋開通により廃止された。 島内交通[編集] 旧鷹島町から引き継いだ松浦市営バスが路線バスを運行している。 名所・観光スポット[編集] 鷹島モンゴル村 元寇遺跡 白浜海水浴場 龍面庵:1281年弘安の役で鎮西奉行少弐経資の弟、少弐景資が本陣を構えたところと伝えられている。 対馬小太郎の墓:文永の役の際、対馬から元軍の襲来を大宰府へ報告するという使命を果たし、鷹島襲撃の知らせに少弐景資の配下として奮戦中、自刃した。「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残したので、鷹島から対馬を望む地に祭られている。 開田の七人塚(悲墳塚):「ニワトリがいるなら人も住んでいるはずだ」と元軍は山の中を捜し一軒家を発見。8人家族のうち7人が殺され、灰だめに隠れていたお婆さん1人が助かった。以来、開田ではニワトリを飼わないと伝えられている。 元寇終焉の地[編集] 鷹島は2度の元寇と深いかかわりを持つ。文永の役では元軍が鷹島に上陸して住民を虐殺している。 続く、弘安の役では平戸島から鷹島に進出してきた元軍に対して、集結した日本軍が攻撃を仕掛けて海戦となる(鷹島沖海戦)。

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アリー・ファンフリート – Wikipedia

獲得メダル アリー・ファンフリート オランダ トラックレース オリンピック 金 1936 ベルリン 1000mタイムトライアル 銀 1936 ベルリン スプリント アリー・ヘリット・ファン・フリート(Arie Gerrit van Vliet、1916年3月16日 – 2001年7月9日)は、オランダ、ウルデン出身の自転車競技(トラックレース)選手。 1936年のベルリンオリンピックにおいて、1kmタイムトライアル金メダル、スクラッチ(現在のスプリント。以下スプリントと表記)銀メダルと活躍。また同年の世界自転車選手権・アマスプリントも制覇。

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柿沼敏江 – Wikipedia

柿沼 敏江(かきぬま としえ、1953年?- )は日本の音楽学者、翻訳家。京都市立芸術大学名誉教授(西洋音楽史)[1][2]。西洋音楽史専攻。専門はアメリカ音楽、現代音楽。 目次 1 経歴 2 著書 3 主要訳書 4 脚注 5 外部リンク 静岡県生まれ。国立音楽大学音楽学部楽理科卒業後、お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。お茶の水女子大学大学院在学中に、現代音楽祭「パン・ムジーク・フェスティヴァル」の音楽評論のコンクール「アドホック・クリティック」で、第1位「音楽之友社賞」を受賞。 その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校音楽学部博士課程に進学、理論実験(Theoretical Experimental)コースを専攻。1989年、ハリー・パーチの創作楽器に関する研究で博士号(音楽学Ph.D.)を取得。 帰国後は、明治学院大学などで教鞭をとるとともに、『音楽芸術』、『読売新聞』、『フィルハーモニー』、『アサヒ・イヴニング・ニュース』、『グラモフォン・ジャパン』などに執筆。アメリカの雑誌『EAR』や『ハイ・パフォーマンス』などにも寄稿した。多様化する現代の音楽状況について研究を続けている。京都市立芸術大学音楽学部教授をへて、2019年定年となり、名誉教授。 2011年、ミュージック・ペン・クラブ賞をアレックス・ロス著『20世紀を語る音楽』(みすず書房)の翻訳で受賞。2020年11月10日には、第30回吉田秀和賞を『〈無調〉の誕生 ドミナントなき時代の音楽のゆくえ』で受賞した。 『アメリカ実験音楽は民族音楽だった

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ヤフー (企業) – Wikipedia

この項目では、日本の企業について説明しています。アメリカのWebサービスプロバイダーについては「Yahoo!」を、その他の用法については「ヤフー」をご覧ください。 ヤフー株式会社(英称:Yahoo Japan Corporation)は、日本のeコマース企業。ポータルサイトのYahoo! JAPANなどを運営し、サイト内の広告、ブロードバンド関連の事業やネットオークション事業等を収益源とする。1996年にYahoo!(アメリカ法人、Ziff Davis傘下)とソフトバンク(現・ソフトバンクグループ)の合弁により(旧)ヤフー株式会社が設立された。2020年10月1日には持ち株会社制移行のため事業部門が完全子会社の紀尾井町分割準備株式会社(同日付で(新)ヤフー株式会社に商号変更)に承継され、旧法人はZホールディングス株式会社に商号変更した[2]。 2017年、ベライゾン・コミュニケーションズは、アメリカのヤフーの中核となるインターネット事業を買収し、それらをOath, Inc.に統合した。日本のヤフーは、影響を受けることは無く、株式はベライゾンに買収されなかった、ヤフーの残りの部門で設立されたアルタバが所有した。その後ソフトバンクは2018年9月までにアルタバの所有する全株式を買収し、米ヤフーとの資本関係は無くなった(ベライゾンとのライセンス契約で名称を使用していた)[3]。 1996年(平成8年) 1997年(平成9年) 2000年(平成12年) 1月 – 日本で史上初の株価1億円を突破。 2月 – 株価1億6790万円と日本株史上最高値を記録。 3月 – 無料ウェブサイトサービスのジオシティーズ株式会社及び、音声、動画情報サービス提供のブロードキャスト・コム株式会社と合併。

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佐賀県小学校の廃校一覧 – Wikipedia

佐賀県小学校の廃校一覧(さがけんしょうがっこうのはいこういちらん)は、佐賀県内の廃校になった小学校の一覧。対象となるのは、学制改革(1947年)以降に廃校となった小学校、および分校である。学校名は廃校当時のもの。廃校時に小学校(分校)が所在していた自治体がその後、合併によって消滅している場合は、現行の自治体に含める。また休校中の県内の小学校や分校は公式には存続していることとなっているが、便宜上本項に記載する。 ()内は、廃校になった年(もしくは、休校の措置が取られた年)、統合先の小学校などである。 鳥栖市立鳥栖小学校高田分校(1986年)[13] 多久市立南部小学校南渓分校(2004年)[13] 多久市立北部小学校(2013年統合により多久市立中央小学校へ)[29] 多久市立緑ヶ丘小学校(同上)[29] 多久市立南部小学校(同上)[29] 多久市立東部小学校〈旧〉(2013年納所小および多久市立東部中学校と統合し小中一貫校東原庠舎東部校多久市立東部小学校〈新〉へ)[30] 多久市立納所小学校(2013年東部小〈旧〉および東部中と統合し東原庠舎東部校へ)[30] 多久市立中部小学校(2013年西部小および多久市立西渓中学校と統合し小中一貫校東原庠舎西渓校多久市立西渓小学校へ)[31] 多久市立西部小学校(2013年中部小および西渓中と統合し東原庠舎西渓校へ)[31] 伊万里市[編集] 武雄市立西川登小学校矢筈分校(2008年休校、2010年廃校[37]) 北方町立北方小学校杉岳分校(1997年休校、2004年廃校)[13] 鹿島市立能古見小学校山浦分校(1981年)[38] 鹿島市立能古見小学校中川内分校(1981年)[38] 鹿島市立能古見小学校本城分校(1981年)[38] 鹿島市立能古見小学校浅浦分校(2018年)[38] 塩田町立五町田小学校美野分校(1968年)[41] 嬉野町立嬉野小学校下吉田分校(1979年)[42]

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読売ジャイアンツ (ファーム) – Wikipedia

読売ジャイアンツのファームは、日本のプロ野球チーム・読売ジャイアンツの下部組織として設置されているファームチームである。二軍はイースタン・リーグに所属している。 歴史・概要[編集] 2リーグ分裂の前年、1949年に結成。プロ球団のファーム(二軍)としては1948年に結成された急映チックフライヤーズ及び金星リトルスターズ(金星スターズ二軍)に次ぐもので、巨人と同年には阪急ブレーブス二軍と南海ホークス二軍も結成されている。 1950年夏、大阪タイガース二軍・松竹ロビンス二軍と3球団で北海道巡業を実施。同年11月に開催されたプロ野球二軍選手権では、準決勝において5-0で南海に敗れる。 1954年、関西ファーム・リーグ(1952年結成)に対抗すべく、セントラル・リーグ加盟6球団の二軍で新日本リーグを結成。この際、各球団とも一軍とは別に球団名と本拠地を設定することになり読売ジュニアジャイアンツ(Yomiuri Junior Giants)へ改称、横浜市を本拠地とする。読売ジュニアは1954年前期を18勝5敗で優勝、後期優勝の阪神ジャガーズ(大阪タイガースの二軍が名称変更)と2勝先取方式の優勝決定戦を行うが、1勝2敗で準優勝となった。 しかし、1955年のシーズン途中よりファームをイースタン・リーグ(第1期)とウエスタン・リーグの各7球団から再編することになり新日本リーグは自然消滅。これに伴い、読売ジュニアもイースタンに参加するがリーグの運営方針が定まらず、長期の中断を挟んで1961年にようやくイースタン・リーグ(第2期)が再開される。この際に球団名からは「ジュニア」が除かれ、一軍と同じ名称となった。 1980年代中盤には選手層の厚さから、ファームで黄金時代を築いた。須藤豊監督はその指導力を買われて、1990年に大洋一軍の監督に抜擢されるとチームを久々のAクラスに導いた。 1987年よりイースタンとウエスタンの優勝チームにより実施されているジュニア日本選手権に9年連続出場し、1995年までに7回優勝しているが1996年の中断を挟み1997年にファーム日本選手権として再開されて以降、リーグ優勝は2000年・2007年の2回に留まり選手権ではいずれも中日ドラゴンズ二軍に敗れている。 2009年、選手に実戦経験を積ませることを目的として千葉ロッテマリーンズ二軍との連合チーム・シリウスを結成[1]。ジャイアンツ球場及びロッテ浦和球場において開催する「シリウスGAME」で社会人野球チームと対戦していたが、2010年を持って事実上休眠となった。 また、2011年から事実上の「三軍」ともいえる「第2の二軍」を立ち上げた。これは二軍のレギュラー選手との競争意識を高めるとともに、試合出場機会が少ない若手や育成・研修生選手(事実上練習生)を中心にした選手構成として、社会人野球やセミプロ独立リーグ、また3月と8月限定であるが大学野球チームとの交流試合を多数行うとしている。 ただ、産経新聞2013年1月11日付[2]によると「第2の二軍」としての強化を事実上廃止したと報じられた。これによると、当初目指していた「多数錬成」の方針が、守備位置の偏りや、故障者の発生により本来の守備位置とは違うポジションを守らせたり、さらにけがが完全に癒えていないにもかかわらず故障者を無理やり出場させることも弊害につながったとしている。そのため本来「育成の手段」とすべきはずだったものが「育成の目的」になってしまい、強化を始めた2年間で一軍に昇格できた選手は誰一人いなかったことも影響していると伝えている。そのため2013年度の育成選手(練習生)の数を減らし、二軍の公式戦での強化の中で選手を育てる。また二軍の公式戦の前後に実践機会を減らさないようにするためにプロ・アマor独立リーグやフューチャーズとの交流試合など非公式戦も行うなどの工夫は今後も取り組むとしている。 2015年10月、2016年度から「第2の二軍」を正式に「三軍」として発展発足させることを発表した[3]。基本的には「第2の二軍」時代とほぼ同じように、育成(練習生)契約を中心とした20-25名程度で編成し、独立リーグ、社会人、大学チームとの交流戦を中心に年90試合程度の対外試合を実施するとしている。独立リーグとの交流戦については、2016年はベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)と48試合[4]、四国アイランドリーグplusとは12試合を実施する。 1949年 読売ジャイアンツ二軍として創設 1954年 新日本リーグ参加に伴い読売ジュニアジャイアンツへ改称、横浜市を本拠地とする 1955年 イースタン・リーグ(第1期)に参加

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三角表示板 – Wikipedia

ケースから取り出して展開した状態 この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 三角表示板(さんかくひょうじばん)とは、自動車の緊急停車の際に用いられる停止表示器材の一種で、赤色で三角形の枠状の器具である。三角停止表示板や三角停止板とも呼ばれる。道路運送車両法の保安基準では警告反射板または停止表示器材と称される。同種の器材として停止表示灯がある。 自動車が故障・ガス欠などのため、やむなく道路上で駐停車(便宜上、以降「故障車両」と記す)する場合に、後方安全のために設置する器材。赤い反射光の反射板のついた3枚の板を組み立てる事により、正三角形となり、それを故障車両から50m以上後方(見通しが悪い場合、さらに後方)[1]に設置する。目的としては、一般道路より多くの危険が伴う高速道路上において、より早く後方を走行している車両に、故障車両の存在を知らせて危険回避してもらう事にある。また、反射板を備えているため、夜間では後続車がヘッドライトを照射することにより、赤く反射するため発見しやすくなっている。 収納・使用方法[編集] 普段は付属のハードケースに収納した状態で、トランクスペースに収納されることが一般的である。多くの普通車では、カーペットの下に専用の設置スペースが設けられており、場所をとらない。 使用する際は、ハザードを点滅させ故障車両を路肩に停車し、後方の安全を十分に確認して車外へ出て、安全な場所(ガードレールがあればその外)に退避した後、三角表示板を組み立てて、故障車両の後方(後続車両から見やすい位置)に自立した状態で設置する。 なお、よくこの作業中に後続車に轢かれる事故も多い[要出典]。 またセダンではトランクリッドの裏面に赤い三角形のパネルを装着する事例がメルセデス・ベンツを中心に見られ、トランクを開けることで三角表示板を掲出することができる。 日本の法令に基づく表示義務[編集] 2009年3月現在、日本国内の道路交通法規則上では、高速道路上でやむなく駐停車する場合に、三角表示板または停止表示灯の停止表示器材を設置しなければならない。積載義務でも購入義務でもなく設置義務であるため、仮に車両に積載していない状態で高速道路を走行しても違反とはならない。この義務に違反した場合は「故障車両表示義務違反」となり、点数は1点、反則金は6千円が課せられる[2]。 条文[編集] 道路交通法施行規則 第二章の六 停止表示器材の基準[編集] 制度の概要 高速自動車国道等において故障その他の理由により自動車を運転することができなくなったときは、当該自動車等が故障その他の理由により停止しているものであることを表示するために運転者が後方から進行してくる自動車の運転者が見やすい位置に停止表示器材を置かなければならない 基準[3] (夜間用停止表示器材) 第九条の十七

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孫大文 – Wikipedia

孫大文 プロフィール 出生: (1962-10-22) 1962年10月22日(59歳) 出身地: 中華人民共和国広東省潮州市 職業: 教授・食品工学者 各種表記 繁体字: 孫大文 簡体字: 孙大文 拼音: Sūn Dàwén 和名表記: そん だいぶん

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シャイロ・シェパード – Wikipedia

シャイロ・シェパード(英:Shiloh Shepherd)とは、アメリカ合衆国のニューヨーク州原産の発展途上犬種である。『一流の知性、大きく丈夫な体、優れた腰』を備えたワーキングドッグ時代のジャーマン・シェパード・ドッグ(以下、ジャーマン・シェパード)の姿を復元するために作出された。牧羊犬やペット、ドッグスポーツ等に適した犬種で、原産国を中心に近年徐々に知名度を上げているが、主要な畜犬団体に認められた犬種ではない。尚、オールド・ジャーマン・シェパード・ドッグは本種の遠く遡った原種。キング・シェパード、アメリカン・アルセイシアンとは、犬種として類似したコンセプトを持つが、異なる品種である。 1974年、ニューヨーク州に住む繁殖家ティナ・M・バーバーによって作出された。ドイツで生まれ育ったバーバーは、原産国で作業犬として使われていた頃のジャーマン・シェパードとアメリカで目にしたそれとがあまりにもかけ離れた姿をしていたため失望し、アメリカ中を探したが、昔ながらの姿をとどめたジャーマン・シェパードを発見する事が出来なかった。当時のアメリカでは警察犬かショー用に繁殖されるものが主だったため、細身でサイズが小さい犬が多く、また犬質も虚弱なものが多く見られるようになっていたことも一因であった。 バーバーは自身の記憶に残る理想のジャーマン・シェパードの姿を復元するため、綿密な復元・作出計画を立て、1962年に繁殖プロジェクトを開始した。厳選されたジャーマン・シェパード達を用いて数種の牧羊犬タイプの犬種をかけ合わせながら遺伝病を減らす努力が続けられ、特に肘と腰の丈夫さ、安定した性質、サイズ、背中のラインの改良などが行われた。その後腰を強化する目的でオーバーサイズのアラスカン・マラミュートの血も導入され、シャイロ・シェパードが完成した。 シャイロ・シェパードはペットとして優れた資質を持ち、非常に安定して知的かつ穏やか、忠実で勇敢である。他の犬や子供に対しても寛容で友好的だが、シェパードが本来持つ「家・家族の防衛」の本能も根強く受け継がれており、見知らぬ人間や不審なものが家に近づくと激しく吠えて飼い主に知らせる。 オビディエンス競技や、穏やかな性質を生かしたセラピー等の作業が適する。訓練性能はジャーマン・シェパードと比較すると劣るが、補助・介助、捜索救難、防衛競技、探知、水難救助等の仕事をこなしたり、牧羊やアジリティ、ドラフティングなどのドッグスポーツで優れた成績をおさめる個体も存在する。シャイロ・シェパード犬種本来の美点を最大限に生かすためには訓練は不可欠であり、多くのブリーダーや愛好会によって積極的に推奨されている。 この犬種にとって過度の攻撃性や過敏性・臆病さは重大な欠点であり、該当する性質を持つ犬は繁殖プログラムから除外される。 体高は雄71~76cm、雌66~71cmで、体重は雄54~65kg、雌45~54kg。 大柄でがっしりとし、背が平らで腰が丈夫である。体高に対して胴が長く、歩様はジャーマン・シェパードの様な素早さはないが、スムーズでパワフルかつリズミカルである。耳は立ち耳で、尾はふさふさしたサーベル型の垂れ尾である。瞳は茶褐色で、冴えて知的な印象を与える。コートは基本的にやや長めの中毛(プラッシュ・コートと呼ばれる)で、スムース・コートタイプの血統も維持されている。毛色は様々な色調のセーブルが多く、次いでバイカラー、サドル、ブラック、クリーム、ホワイトなどがある(胸元と足先以外にある白斑は欠点)。目の縁、鼻、唇は色素に富み、濃いほど良い。ブルーやレバー等希釈された毛色を持つもの、目の縁、鼻、唇の色素が薄いもの、長すぎる毛、薄毛、巻き毛のもの、巻き尾、立ち尾、オーバーショット、アンダーショットの個体は認められない。換毛量は多く、トップコートは通年、アンダーコートは年に二回程度の換毛がある。週に数回のブラッシングが必要である。体格が大きく、毛量も多いため冷涼な気候を好む。 この犬種は生後3年前後までゆるやかな成長が続く。体が完全に成熟するまでは、関節にストレスのかかる激しい運動(自転車での引き運動など)や跳躍を繰り返す様なドッグ・スポーツは厳禁である。成熟前の若犬の時期は特に自由運動を多く取り入れることが推奨されており、このため庭のある家庭にしか子犬を譲らないブリーダーもいる。性質、体の大きさ、声量、換毛量、運動の傾向、エネルギーレベルを踏まえると、マンションなどの集合住宅での飼育には適さない犬種である。 胃捻転、小腸内細菌異常増殖(SIBO)、膵外分泌不全、遺伝的な股関節形成不全、肘関節形成不全等が特に懸念される。 成長期に汎骨炎(Panosteitis)を経験する個体も比較的多い。平均寿命は9年ー14年。 参考文献[編集] 『デズモンド・モリスの犬種事典』(誠文堂新光社)デズモンド・モリス著書、福山英也、大木卓訳 誠文堂新光社、2007年 Barber,TinaM.(1990). “Shiloh Shepherd Breed Standard”[1]

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