ルオリシャニア – Wikipedia

この項目では、ルオリシャニア類の一属について説明しています。ルオリシャニア類全般については「ルオリシャニア類」をご覧ください。 ルオリシャニア (Luolishania[2]) は、約5億年前のカンブリア紀に生息したルオリシャニア類の葉足動物の一属[4]。華奢な体の前方に長い棘と羽毛状の脚をもつ、中国雲南省の澄江動物群で見つかった Luolishania longicruris という1種のみによって知られる[4]。 ルオリシャニアの化石標本は、中国雲南省の古生代カンブリア紀第三期(約5億1,800年前[1])に当たる堆積累層、すなわち澄江動物群が知られる Maotianshan shale と海口市の Jianshan section(「ミラルオリシャニア」[3][5][6]として区別された標本、後述参照)のみから発見される[4]。全ての化石標本は、雲南大学(Yunnan University)の雲南省古生物研究重点研究室(Yunnan Key Laboratory for Palaeobiology)に所蔵される[4]。 体長0.8cmから1.4cmほど小型の葉足動物である[4]。多くのルオリシャニア類と同様に前半身の羽毛状の脚と奇数列の棘をもつが、比較的華奢な体型、長い脚と3枚の甲皮をもつ頭部で他のルオリシャニア類から区別できる[4][7][8][9]。 頭部は滑らかで丸みを帯びて、両背面には1対の細長い触角と3対[10]の小さな単眼がある[4]。頭部の前端は前下方に突出し、これは横開きの口器(吻)であったと考えられる[4]。眼の直後には、棘のある3枚の丸い甲皮がそれぞれ背面と左右に配置される[4]。

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浜原ダム – Wikipedia

浜原ダム(はまはらダム)は、島根県邑智郡美郷町、一級河川・江の川水系江の川に建設されたダム。高さ19メートルの重力式コンクリートダムで、中国電力の発電用ダムである。同社の水力発電所・明塚(あかつか)発電所に送水し、最大2万5,000キロワットの電力を発生する。 1951年(昭和26年)、日本の電気事業は国営の日本発送電および配電会社の解体に伴い、9つの民間電力会社に託された。この中で、中国地方を営業エリアとしているのが中国電力である。同社は発足後間もなく「電源拡充5カ年計画」を打ち出し、電源開発の推進を急務としていた。1951年11月、数ある開発予定地点の中で最初に着手されたのが明塚発電所である。これは中国地方最大の大河といわれる江の川本流の下流部に浜原ダムを建設し、これに貯えた水を取り入れるもので、その建設にあたっては建設機械を投入することで作業の効率化を図った。工事は1953年(昭和28年)11月に完成し、明塚発電所が運転を開始した。 JR三江線・浜原駅から江の川に沿って上流に進むと浜原ダムに至る。12門もの水門が川を横切るように整列しており、196メートル――ダムの堤頂長361.4メートルのうち、じつに半分以上が放流のための洪水吐となっている。浜原ダムは江の川の全流域面積3,870平方キロメートルのうち4分の3を超える3,000平方キロメートルから集水しているとあって、洪水時に押し寄せる膨大な量の水を安全に流下させる必要がある。浜原ダムでは1万立方メートル毎秒の洪水を想定して設計されているため、このような形をなしている。 浜原ダムから上流は島根県によって江川水系県立自然公園に指定されており、上流へと細長く伸びるダム湖は釣りの名所にもなっている。当地で有名な漁法がアユの火振り漁である。火を灯したボートの上から水面を竿で打って漁網へと魚を追い込むというもので、古くは大正時代末期に始まり、浜原ダムの建設で一時的に衰退を見せたものの、現在では復活を果たし夏の観光名所である。 浜原ダムから左岸の山を隔てて向こう、JR明塚駅近くに明塚発電所がある。浜原ダムに貯えた水を左岸の取水口から取り入れ、江の川の屈曲部をトンネルでバイパスするかたちで発電所に送水している。このトンネルは内径6.6メートルもあり、さらに終端のサージタンク(差動式)の広さは700平方メートルもある。明塚発電所の最大使用水量110立方メートル毎秒を満足に通水させるためとは言え、建設時には膨大な量の土砂の掘削を必要とした。 明塚発電所の最大出力は2万5,000キロワットであり、これは完成当時において江の川水系の水力発電所としては最大であった。中国電力は1956年(昭和31年)に浜原ダムの上流、JR潮駅付近に潮発電所を完成させている。これは島根県飯石郡飯南町を流れる神戸川に来島ダムを建設し、貯えた水を潮発電所を通じて浜原ダムに供給し始めた。こうした分水嶺をまたいでの水の補給により、明塚発電所における発生電力量の増大に貢献している。さらに1974年(昭和49年)には江の川上流に土師ダムが完成し、江の川から太田川への流域変更によって最大3万6,000キロワットを発生する可部発電所が1975年(昭和50年)に運転を開始した。 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、島根県のダムに関連するカテゴリがあります。 参考文献[編集] 光岡彰「水力発電工事の現況について : 中国電力会社」『日本機械学會誌』第56巻第413号、1953年6月5日、 546-549頁、 NAID 110002439869。 中国電力50年史社史編集小委員会編『中国電力50年史』中国電力、2001年。 外部リンク[編集]

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悪魔を憐れむ歌 – Wikipedia

この項目では、ローリング・ストーンズの楽曲について説明しています。その他の用法については「悪魔を憐れむ歌 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 「悪魔を憐れむ歌」(あくまをあわれむうた、Sympathy for the Devil)は、イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズの楽曲で、1968年のアルバム『ベガーズ・バンケット』のオープニングを飾る。発表当初は物議を醸したが、多くのミュージシャンによってカバーされ、ローリング・ストーン誌が2004年に選出した「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」にて32位にランクインした[1][注釈 1]。 詞曲[編集] 「悪魔を憐れむ歌」は、チャーリー・ワッツのリムショットとロッキー・ディジョーンのコンガ、そしてビル・ワイマンのマラカス(シェケレの一種)が刻むサンバ調のリズムで始まる。当初はフォークソング調の編曲を加える予定だったが、ギターのキース・リチャーズの意見が取り入れられ、パーカッションを用いたサンバのテンポへと変更された[2][3]。ボーカルのミック・ジャガーは、1995年のローリング・ストーン誌インタビューで、サンバは原始アフリカやラテン・アメリカまたはカンドンブレのリズムのような惑乱的なグルーヴを持ち、強力な作品を作るには持って来いの媒介になるため選択したと答えている[4]。これらリズムに呪術的なコーラスが加わり、曲全体の雰囲気を醸し出している[5]。 この曲は、ミックとキース・リチャーズ共作(ジャガー/リチャーズ)とクレジットされているが、基本的に作詞、作曲はミック一人で行われており、キースは「別のリズムでやってみたらどうか」と提案したのだという [4]。歌詞にはシャルル・ボードレールの作品が影響したという意見があったが、これを聞いたジャガーは否定し、仮にフランス文学からアイデアを得たとしてもそれはボブ・ディランの歌に影響を受けたのと同程度だと回答をしている[4]。ただし、2002年のインタビューでキースは当初のフォーク・アレンジはボブ・ディラン調だったとも話している[6]。 ニッキー・ホプキンスのピアノが入るのと同時に、ミックの歌唱が始まる。実際には、歌詞は1920年代に執筆されたミハイル・ブルガーコフの小説「巨匠とマルガリータ」との著しい類似が散見され、大きく影響を受けたと解釈されている[2][5]。その典型的な部分が、歌詞と小説の冒頭にある。 “Please allow me to introduce myself;”「どうぞ私に自己紹介をする許しを下さいませ」 — 「悪魔を憐れむ歌」 “‘Please

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日本郵便文化振興機構 – Wikipedia

特定非営利活動法人日本郵便文化振興機構(にほんゆうびんぶんかしんこうきこう、英称: The Japan Institute for Philatelic Promotion, Specified Nonprofit Corporation、略称: JIPP、ジップ)は、日本のNPO法人(特定非営利活動法人)。世界各国において脈々と受け継がれてきた郵便文化、すなわち郵便サービスの多様な利活用、郵便制度に関する調査・研究及び郵便切手研究・収集等の各種文化活動の、日本及び世界各国におけるさらなる振興・発展を図るとともに、その前提となる環境整備を行うなど、独自の非営利活動を通じ、社会の健全な発展に寄与することをめざしている。 事務局のほか調査研究、出版事業、市場振興、慈善事業の各部門を置き、様々な事業を展開している。 市場振興部門は、郵便切手類(切手及び郵便史コレクション料、文献等)の円滑な流通と文化資産の継承を図るため、東京郵便切手類取引所(TOPHEX)の名称で年6回のオークションを運営している。また、郵便切手類の適正な処分・換金について、専門知識を持たない人・団体を対象に相談を受け付けている。 慈善事業部門である使用済切手慈善運動本部では、全国のボランティア組織などに呼びかけ、郵便物に貼付して使用された切手を切り抜いたもの(古切手)を回収する運動を展開。協力団体が古切手を寄贈する毎に一定の助成金(現在は10キロ当たり5,000円)を交付してボランティア組織を幅広く支援している。 普及事業としては、女性向けイベントの開催や、郵便学者の著作を題材としたワークショップを実施しているほか、既存の文化団体への法人会員加入や、イベントに協賛金を拠出・支援することなどによる間接的な社会貢献も行っている。 沿革・活動[編集] 2008年7月 – 郵便文化の普及・振興をはかることを目的に日本郵便文化振興機構(任意団体)発足 2008年9月

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メッサーシュミット M20 – Wikipedia

メッサーシュミット M20 8座席のM 20とパイロットErich Pust メッサーシュミット M20(Messerschmitt M 20)は、1920年代から1930年にかけて開発された、乗客10名のドイツの旅客機である。1930年代にルフトハンザドイツ航空の多くの航路で使用された。 M20はメッサーシュミットの前身のバイエリッシュ・フルークツォイクヴェルケ (BFW; Bayerische Flugzeugwerke) でウィリー・メッサーシュミットが設計した。ルフトハンザ航空は初飛行の前に2機の注文を行っていた。M20は500HpのBMW VIa V-12水冷エンジンを搭載した8座席の旅客機、BFW M.18dの発展型であった。 M20の高翼の単葉片持の機体で主翼はジュラルミン製の桁と外皮からなるD形セクションからなっていた。胴体は全金属製でデュラルミンのフレームと外皮で長方形の断面形状であった。両側面に4個の角形の窓が8名の乗客のためにつけられていた。 1928年2月26日に初飛行が行われたが、事故で失われ、パイロットのHans Hackmackは低高度で脱出し、機体の破片により死亡した。2機目のM.20は1928年8月3日に飛行し、ルフトハンザの最初に採用された。

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高嶋伸欣 – Wikipedia

高嶋 伸欣(たかしま のぶよし、1942年(昭和17年) – )は、日本の地理学者。歴史研究家。琉球大学名誉教授。 1942年(昭和17年)、東京に生まれる。1964年(昭和39年)、東京教育大学文学部卒業。1968年(昭和43年)、同大学院文学研究科地理学専攻修士課程修了。大学院では家永三郎らに師事した。1968年(昭和43年)4月より東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)社会科教員に着任。 この間、日本の近現代史に関する教材研究をきっかけとして、1975年(昭和50年)より主に日本教職員組合の組合員教師を対象とした東南アジアの近代史をたずねる「マレー半島戦争追体験の旅」などを主宰した。マレーシアにおける日本軍の住民弾圧を体験者と主張する者の証言を集めたとし、それを交えて記録に残した。また、こうした活動に関連して1992年(平成4年)に執筆を担当した高校教科書に対する検定意見をめぐり、10年以上に及ぶ教科書裁判を国と争った。 1996年(平成8年)、附属高校教員を退職し、琉球大学教育学部教授に就任。2008年(平成20年)、同大を定年退職、同大名誉教授、非常勤講師。 教科書について[編集] 教科書裁判[編集] 筑波大学附属高校教員時代の1992年(平成4年)、一橋出版から1994年(平成6年)度以降用いられる新教育課程用の教科書『新高校現代社会』の近現代史の執筆を担当したが、高嶋が執筆した4箇所の記述について文部省検定官より修正を求められた。これに対し、高嶋と検定官で修正に関する協議が持たれたが、結果的に12月になって高嶋担当分は採用しないとの結論に達し、4箇所の記述を含む記事全てが教科書から削除された。 翌1993年(平成5年)、高嶋は検定官の行為を不服として横浜地方裁判所に提訴。以後、一連の裁判は「横浜(高嶋)教科書訴訟」と呼称される。1995年(平成7年)3月、一審の横浜地裁は被告である国に対し「検定意見には裁量権の逸脱・乱用がある」として、20万円の損害賠償を命じる判決を下した。被告の国は即時抗告し、同年10月二審の東京高裁は地裁の判決を覆して一転、高嶋の訴えを全面的に退けた。続く最高裁でも2005年(平成17年)12月、上告を棄却した。 教科書採択問題について[編集] 『新しい歴史教科書』や育鵬社の歴史教科書の不採択運動をしており、採択される可能性のある教育委員会に対し、「全国の教科書採択関係者の皆さんに 沖縄からの怒りの声をお届けします」などとし、もし採択した場合は「責任は専らその教育委員会 にある」として裁判も有り得るという内容の手紙を送っている[1][2][3][4]。 教科書の竹島記述についての主張[編集] 1974年(昭和49年)、文部省検定を通過した付図について、「尖閣諸島は沖縄返還で話題になったから意識的に表記された」とし、「しかし、竹島は当時問題になっていないし、日本人はずっと関心がなかったので、目立たない程度に表示されているだけだった」と韓国マスコミのインタビューに答えている[4](しかし日本は竹島問題について1952年(昭和27年)から韓国に対して国際司法裁判所への付託を韓国側に提案してきており、1965年(昭和40年)の日韓基本条約で日本側は竹島問題は紛争処理事項であるとしている)。そしてこれまで竹島を問題としていなかった日本が、近年竹島を領土問題として浮上させた理由は、安倍晋三を中心とした自民党勢力が、票田のために、領土紛争を引き起こしてナショナリズムを拡散させるように島根県をけしかけたものであると主張している(しかし1977年(昭和52年)2月5日には、すでに福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と公言している)。民主党政権になっても竹島問題は同じく浮上し続けている点については、「民主党自体が半分は隠れた自民党だから」と主張している[2][3][4]。 単著[編集] 共著・編著・共編著[編集] 参考文献[編集]

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田谷隼 – Wikipedia

たや はやと田谷 隼 プロフィール 性別 男性 出身地 日本・埼玉県[1] 生年月日 (1990-01-20) 1990年1月20日(32歳) 血液型 A型[2] 職業 俳優、声優 事務所 ぷろだくしょんバオバブ[1] 公式サイト 田谷隼|ぷろだくしょんバオバブ 公称サイズ([2]時点)

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ビービーガルダン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ビービーガルダン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年6月) ビービーガルダンは日本の競走馬。おもな勝ち鞍は2009年阪急杯、キーンランドカップ。馬名の「ガルダン」は坂東牧場と親交がある調教師の藤沢和雄が厩舎を開業した当初、厩舎の中心として支えた競走馬ガルダンに由来する[1]。 2011年スプリンターズS 2006年7月函館競馬場でデビュー。その初戦で早くも勝ち名乗りを上げる[2]も、札幌2歳ステークスでは距離の壁に泣き12着敗戦。この後厩舎にて調整されていたが10月に骨折を発症。症状は軽微ながら3歳夏まで休養に充てられる。 体質が弱く復帰後してからも骨膜炎のため成績を残せずにいたが、4歳春頃より症状も良化、回復後はそれまで条件クラスでもたついていた鬱憤を晴らすかのように3連勝。重賞初挑戦のキーンランドカップでは2着[3]、さらにスプリンターズステークス3着[4]と結果を残し、夏の上がり馬として短距離路線の一員に名を連ねた。 年明け初戦の阪急杯では、前走京阪杯の敗戦に加え1400mでの実績の無さをメディアで懸念され7番人気と評価を落とすも、連覇を目論み直線先に抜け出したローレルゲレイロを捕らえ優勝、待望の重賞タイトルを手中にする[5]。 主戦安藤勝己のドバイ騎乗により武幸四郎に乗替となった高松宮記念では4番人気に推されたが初の左回りに終始苦戦、4角では外に膨らむ等左手前で走ることができないまま16着と大敗を喫した。その後、4月18日のマイラーズカップでは直線で一旦先頭に立つも失速し8着に敗れた。 7月5日の函館スプリントステークスに出走予定だったが、馬房内のアクシデントにより回避した。その後の2009年8月30日、4ヶ月休養して札幌競馬場のキーンランドカップに出走し、これまでの不振がウソのような鮮やかなレース運びで1着入線し、重賞2勝目を飾った[6]。そして、10月4日のスプリンターズステークスに出走。レースでは好位追走から直線で外から追い込み、逃げ込みを図ろうとするローレルゲレイロと共に2頭が並んでゴール板を駆け抜けた。レース終了から10分近い写真判定の結果、ハナ差の2着に敗れた[7]。11月3日、初のダートレースとなったJBCスプリントは、4コーナーで折り合いを欠き6着に敗れた。 2010年の緒戦は連覇のかかった阪急杯から始動。2番手でレースを進めたが直線で失速し7着に敗れた。3月28日の高松宮記念は最後の直線で追い込みを見せたが、キンシャサノキセキにハナ差及ばず2着に敗れた[8]。3ヶ月の休養を挟んで、7月4日の函館スプリントステークスに1番人気で出走、中団から脚を伸ばしてくるもワンカラットの2馬身差の2着に敗れた。連覇をかけて挑んだ8月29日のキーンランドカップでも1番人気に推されたが、スタートで後手を踏んだのが響いて4着に敗れた。本番のスプリンターズステークスでは中団追走も直線ではまったく伸びず10着と大敗した。12月18日の阪神カップでも11着と大敗した。 2011年の緒戦は前年同様阪急杯、中団追走も伸びを欠き8着に敗れた。高松宮記念は中団から脚を伸ばしたがキンシャサノキセキの4着。安田記念では中団からレースを進めたが直線ではまったく伸びず15着と大敗。キーンランドカップでは好位から渋太く脚を伸ばしカレンチャンのクビ差の2着となった。その後10月2日のスプリンターズステークスに出走予定だったが、レース直前に放馬し、馬体検査の結果疲労が著しいと判断され競走除外となった[9]。このあと12月17日の阪神カップに出走を予定していたが、12月14日の追い切り後、右第1指節種子骨々折が判明し引退、12月23日付けで競走馬登録を抹消された。 引退後はアロースタッドで種牡馬となった[10]。2019年に坂東牧場へ移動し、この年限りで供用停止[11]。引退名馬繋養展示事業の助成対象馬となり、千葉県の東関東馬事高等学院で功労馬として過ごした後、現在は北海道のヴェルサイユファームで余生を過ごしている[12]。 主な産駒[編集]

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反町理 – Wikipedia

反町 理(そりまち おさむ、1964年4月26日 – )は、日本のジャーナリスト、フジテレビニュース総局報道局解説委員長兼取締役。 神奈川県横浜市出身[1]。栄光学園中学校・高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。在学中は早稲田大学雄弁会に所属した[2]。 1987年4月、フジテレビ入社。同期は、元同局アナウンサーで、BSフジ編成局広報担当局長の塩原恒夫。入社当時から政治部志望であったが、入社後2年間は報道カメラマン、その後、ニュース番組のスポーツコーナーのディレクターを1年担当。ワシントン特派員を3年6ヶ月担当し、帰国。帰国後、経済部に異動したが、後述の理由のため、青山学院大学大学院国際政治経済学研究科国際政治学専攻の夜間部に進み、修士課程修了[3]。 首相官邸キャップ、政治部デスク等を経て、当時:BSフジ社長の北林由孝の命を受け、2009年4月1日から『BSフジLIVE プライムニュース』のキャスターを担当[4]。 2010年6月29日付人事異動にて、当時:政治部長であった、平井文夫の後任として政治部長[5]に異動。その後、2011年6月29日付人事異動にて、編集委員兼解説委員に就任。2013年4月から『BSフジLIVE プライムニュース』編集長を兼務。2017年7月1日付で報道局解説委員長に就任。2018年4月2日から夕方の報道番組『プライムニュース イブニング』のメインキャスターに異動のため、同年3月30日をもって『BSフジLIVE プライムニュース』を降板し[6]、プライムニュース編集長の肩書きは外れた。 その後、2019年3月を以って『プライムニュース イブニング』が終了した事に伴い同4月より『BSフジLIVE プライムニュース』キャスターに復帰した。 2020年6月26日付人事にて、同局執行役員に就任[7]。2021年7月1日付にて、同局取締役に就任した[8]。 趣味は「草野球、下手なゴルフ、もっと下手なテニス、寝てしまう映画鑑賞」と述べている[9]。なお、テニスは内閣官房長官の木原誠二も参加したことがあるという。 小学5年時に、自宅の書棚に父親が所持していた、『青春国会劇場 早稲田大学雄弁会が産んだ7人のサムライ』(豊田行二著作)に興味を持ち熟読した結果、雄弁会がどんな組織が非常に興味を持ち、大学受験は早稲田大学のみ受験をし、大学在学中は、早稲田大学雄弁会に所属した[10][2]。雄弁会に所属したため、第37回衆議院議員総選挙にて雄弁会の活動の一環で当時:衆議院議員であった元東京都知事の石原慎太郎の選挙活動を手伝っていたので、選挙の裏事情の現場にも居たと回想している[11]。

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