第三次マケドニア戦争 – Wikipedia
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年9月) 第三次マケドニア戦争(だいさんじマケドニアせんそう、イタリア語:Terza guerra macedonica)は、共和政ローマとマケドニア王国(アンティゴノス朝)の間で争われたマケドニア戦争の3度目にあたる戦争であり、紀元前171年から紀元前168年まで行われた。最終決戦となったピュドナの戦い (紀元前168年)でローマ軍はマケドニア軍に大勝して、アンティゴノス朝は断絶した。また、共和政ローマによるヘレニズム諸国征服の端緒となった。 開戦まで[編集] 共和政ローマは2度のイリュリアとの戦争に勝利を収めるなど、アドリア海やギリシアへ影響力を増しつつあった。紀元前229年にマケドニア国王に即位したピリッポス5世は徐々に自らの勢力圏へ浸透しつつあるローマに危惧を抱いていた。カルタゴとローマとの間で第二次ポエニ戦争が勃発した機を捉えて、ピリッポスはカルタゴと同盟を結び、アドリア海およびギリシアに対するローマの影響力排除を図った。ハンニバルがザマの戦いでローマに敗北し、カルタゴが降伏した後もローマと戦ったが、キュノスケファライの戦いで完敗を喫して和睦を結んだ。以後、ローマの同盟国となり、ローマ・シリア戦争でローマへ支援を行うなど、親ローマへ舵を切った。 紀元前179年にピリッポスが死去、後継のマケドニア国王としてペルセウスが即位した。ペルセウスはピリッポス時代までのローマを刺激しない親ローマ路線を修正し、まずはトラキア人への備えと称して軍事力の増強を図ったが、この動きはギリシアや周辺国家に脅威を与えた。東方への勢力拡大を図っていたローマはマケドニアの勢力が復活し、ギリシアへ影響力が浸透するのを阻止するため、ペルガモン王国からの支援要請を受けて、紀元前171年にマケドニアに対して宣戦布告し、バルカン半島への侵攻を開始した。 前171年から前169年までの経過[編集] 周辺国家はビテュニアが中立となった以外は、セレウコス朝やアカイア同盟など大部分がローマ側に味方した。ローマ側はその年の執政官の1人、プブリウス・リキニウス・クラッススが軍を率いてペルセウスと戦ったが、カッリキヌスの戦いで敗退を喫し、3,000人以上の兵士を失った(戦死2,500、捕虜600)。ペルセウスはローマに対して和平条約の締結を申し込んだが、ローマはこれを拒否した。紀元前170年、執政官アウルス・ホスティリウス・マンキヌスがマケドニアへ攻め込んだが、ペルセウス軍はこれを撃退、ローマ側はマケドニアに対する攻め手を欠き、マケドニア侵攻は不首尾に終わった[1]。 紀元前169年、ペルセウス率いるマケドニア軍はローマの執政官クィントゥス・マルキウス・ピリップスが率いるローマ軍をテンペ近郊で包囲したが、完全勝利へ結びつけることは出来なかった。この時点でマケドニアは度重なるローマの干渉を退けたため、ディオンなどの宗教都市を含む要衝を制圧、ギリシアへの浸透に成功した。ペルセウスは、同じヘレニズム王朝であるセレウコス朝やペルガモン王国に対して、マケドニアに協力するよう要請したが失敗に終わった。但し、イリュリア王ゲンティウス(英語版)の支持を得ることには成功した[2]。 ルキウス・アエミリウス[編集] 両軍の進軍路 マケドニア軍 ローマ軍 紀元前168年、ローマはスキピオ・アフリカヌスの義弟に当たるルキウス・アエミリウス・パウルスを執政官に選出した。アエミリウスは直ちに軍を率いて2方面作戦を開始する。アエミリウスはプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムを部隊長とする小隊(兵8,200、騎兵120)を派遣、コルクルムは夜のうちにアドリア海の海岸沿いに進軍してマケドニアの西部へ出現した後、北東部のピュティオン(英語版)へ移動して、後背からマケドニアを突く構えを見せた[3]。 しかし、ローマの脱走兵によってこの動きは察知され、ペルセウスは兵12,000の別働隊をコルクルム軍の迎撃に当たらせるべく派遣した。ペルセウス自身は、ピュドナ近郊の平原の南にあるカテリーニの近郊に陣を構えた[4]。 しかし、アエミリウス率いるローマ軍はブルンディシウム(現:ブリンディジ)からギリシア本土へ上陸、バルカン半島を北上してマケドニアを目指しており、途中でマケドニア軍を破ってローマ本軍へ向かっていたコルクルム率いる別働隊を合体した後に、ローマ軍はカテリニに宿営しているマケドニア軍の前に姿を現した。ローマ軍はオロクルス(Olocrus)山の西側に陣を張った。戦闘の前夜は月食であった。アエミリウスはローマ軍兵士に対して当日は月食となる旨を通告していたため、ローマ軍に動揺は無かったが、マケドニア軍内では月食を王国の終焉を告げる前触れと感じ、士気は低下した[5]。 ピュドナの戦い[編集] 後世、ピュドナの戦いと称される戦闘は紀元前168年6月22日の午後に開始された[6]。戦闘開始のきっかけははっきりとしないが、マケドニアに味方して戦っていたトラキア兵がローマ軍の挑発に乗ったことなどとされる[7]。
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