九州自然歩道 – Wikipedia

九州自然歩道は、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県の九州7県に またがる総延長2936.9kmの長距離自然歩道である。愛称、やまびこさん。 九州自然歩道は、環境庁(現環境省)の長距離自然歩道構想に基づき、東海自然歩道に次いで2番目に整備された自然歩道で、1980年(昭和55年)に全線が開通した。起点と終点は北九州国定公園の皿倉山にあり、九州を一周しているため、どの場所からスタートとしても、その地に帰ってくることができる。また、コースは、福岡県北九州市の皿倉山を北の起点として九州を一周しており、九州本土の最南端佐多岬を南の起点としている。 関係自然公園に4箇所の国立公園および4箇所の国定公園を経由しており、雲仙天草国立公園(長崎・熊本県)、阿蘇くじゅう国立公園(熊本・大分県)、霧島錦江湾国立公園(鹿児島・宮崎県)、北九州国定公園(福岡県北九州市)、耶馬日田英彦山国定公園(大分、福岡、熊本県)、祖母傾国定公園(大分・宮崎県)、九州中央山地国定公園(熊本・宮崎県)がある。 手軽なハイキングコースから本格的な山岳地帯があり、自由度を心地良く刺激する九州自然歩道では、歩くことでしか見られない素晴らしい景色やドラマに出会える。 世界に類を見ない活火山の霧島連山、日本最大級の照葉樹林が残る綾、迫力あるパノラマが楽しめる阿蘇、飯田高原に広がる銀色のススキ、紅葉と樹氷に彩られたくじゅう…。 さらには、砂丘の風紋が美しい吹上浜、穏やかな海岸線と多島海の天草、荒波に削られた坊津のリアス式海岸など、海にまつわる自然景観も見逃せない地域が多い。 また、畑や果樹園、田んぼが続くのどかな里山、潮風が気持ちいい漁村、異国情緒漂う小さな教会、歩くことでしかたどり着けない秘湯など、九州ならではのバラエティーに富んだ魅力も体感できる。 福岡県[編集] 福岡県内のコースは延長約261 kmあり、起点がある北九州市の皿倉山から南下してカルスト台地の平尾台を経て英彦山へ、英彦山からさらに東西に分岐して、東はツクシシャクナゲの群生地である犬ヶ岳、大平山を経て大分県へ、西は小石原やツゲの原生林がある古処山、大宰府、基山を経て佐賀県に至る[3]。 佐賀県[編集] 佐賀県のコースは延長約122 kmあり、長崎県境の栗の木峠から福岡県境の基山に至る。自然歩道は、黒髪山地区(栗ノ木峠 – 国見山 – 黒髪山 – 黒岳

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ニュートンの冷却の法則 – Wikipedia

ニュートンの冷却の法則(ニュートンのれいきゃくのほうそく、英: Newton’s law of cooling)は、液体や気体などの媒質中におかれた高温の固体が媒質によって冷却される様子を表した法則である。 この法則は経験的に導かれた法則なので媒質と固体との温度差が極端に大きい場合には成り立たないこともあるが、日常的な範囲であれば近似的に成り立つ。 数学的表現[編集] この法則によると媒質中の固体から媒質に熱が伝わる速度は、固体の表面積及び固体と媒質の温度差に比例する。 すなわち固体の持つ熱量Q 、時刻t 、固体の表面積S 、固体の温度T 、媒質の温度Tm の間には次の関係が成り立つ。 −dQdt=αS(T−Tm){displaystyle -{frac {mathrm {d} Q}{mathrm {d}

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モイーズ・チョンベ – Wikipedia

モイーズ・カペンダ・チョンベ(Moïse Kapenda Tshombe、1919年11月10日 – 1969年6月29日)は、コンゴ民主共和国の政治家。カタンガ州の分離独立を主張してカタンガ国の初代大統領に就任し、コンゴ動乱が泥沼化する原因を作った。 独立まで[編集] チョンベはベルギー領コンゴのムスンバで富裕なビジネスマンの息子として生まれ、神学校で教育をうけた。1950年代にコンゴで独立運動が盛んになると、1958年にカタンガ全部族の連合政党としてカタンガ部族連合(フランス語版)をゴドフロワ・ムロンゴ(フランス語版)と共に結成。同党は州内の部族長を始めとした有力者のみならず、ユニオン・ミニエール社などのヨーロッパ人からも支持を受けた。 コンゴ動乱[編集] 1960年の選挙でコナカ党はカタンガ州の実権を掌握した。同年コンゴが独立すると、天然資源の豊かなカタンガの経済力をバックに発言力を維持しようとするチョンベと、ジョセフ・カサブブ大統領、パトリス・ルムンバ首相の対立がすぐに表面化し、チョンベとコナカ党はコンゴの旧宗主国ベルギーの支援を取り付けカタンガ国の分離独立を宣言した。これが引き金となり、コンゴ国内は四分五裂の様相を呈し、コンゴ動乱へと突入した。 キリスト教徒で反共主義者・西側寄りのチョンベは、ベルギーをはじめとする西側諸国から支援され、ベルギーは自国民保護を理由にカタンガに軍を進駐させチョンベを支持する姿勢を見せた。 カタンガは2年間独立を維持し続けたものの、1962年末にコンゴ国連軍がカタンガを占領し、チョンベは北ローデシアからスペインへと亡命した。 帰還と再度の亡命[編集] 1964年1月以降、コンゴ国内の反政府勢力が武力闘争を激化させるに伴い、シリル・アドゥラ(英語版)首相の内政手腕の欠如が露呈した。騒乱の早期平定を望むカサブブによってチョンベはスペインから呼び戻され、同年7月に首相として組閣に至る。しかし、再びカサブブとの対立が激化し、1965年10月に首相を解任された。同年12月、ジョゼフ・モブツによるクーデターが起き、チョンベは再びスペインへと亡命した。1967年には不在のまま死刑判決を受けている。 1967年6月30日、チョンベはイビサ島を訪れた後、パルマへ向かう飛行機に乗り込んだ。しかし、同機は離陸直後にチョンベのボディーガード(実際は防諜・外国資料局のエージェントだった)によってハイジャックされ[1]、アルジェリアの空軍基地に着陸、チョンベは軟禁された。 コンゴ政府からの送還要求、西側諸国による解放要求は共に拒否され、チョンベはアルジェリアで軟禁状態に置かれたまま、1969年6月29日に心不全で死亡した。ベルギー・エテルベーク墓地のメソジストの区画に埋葬されている。 ^ Gibbs, David N. (1991).

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フラッシュ・エロルデ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “フラッシュ・エロルデ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年9月) ガブリエル“フラッシュ”エロルデ(Gabriel “Flash” Elorde、1935年3月25日 – 1985年1月2日)は、フィリピンの元プロボクサー。元WBA・WBC世界スーパーフェザー級[1]王者。 「フラッシュ」(閃光)のリングネーム通りの超高速のスピードと堅実なボクシングテクニックで1960年から1967年にかけてスーパーフェザー級に君臨し、10度の防衛を成し遂げた60年代を代表する名王者。ノニト・ドネアの異名フラッシュはこの同国人の偉大な先輩エロルデからちなんで名づけられている。 孫のフアン・マルティン・エロルデもプロボクサーである[2]。 1951年6月16日、プロデビュー。 1951年10月16日、キッド・インデペンデンスに10RKOで初黒星まで9連勝。 1952年7月26日、フィリピンバンタム級王座を獲得。同王座は1度防衛後返上。 1952年10月18日、空位のOBF東洋バンタム級王座を堀口宏と争い獲得。

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北極海会議 – Wikipedia

北極海会議(ほっきょくかいかいぎ、英:Arctic ocean Conference)とは、2008年5月27日から5月29日にグリーンランドのイルリサットで開催された北極海の主要な問題に関しての会議である[1]。 参加国はアメリカ合衆国、カナダ、デンマーク(グリーンランドを含む)、ノルウェー、ロシア(五十音順)の5ヵ国。 目次 1 概要 2 参加メンバーに関する論争 3 脚注 4 外部リンク この会議は北極における、環境規制、海の安全、鉱物資源の探査、石油の監視と輸送、等の計画について話し合う非常に重要なものだった[2]。これは5ヵ国の省庁レベルで話し合われ[3]、会議の結論前に『イルリサット宣言』が発表された[4]。 この会議はデンマークの外務大臣 Per Stig Møller と、2007年のグリーンランドの首相ハンス・エノクセンの招待により北極の領土に関する論争の後に開かれた。Møllerは『国際連合が、北極の領海と資源に対する権利をどこの国が持つのか決めるまで、私たちは義務を果たし続けねばならない。もし北極の気候が変化して、それにより更に多くの輸送が可能になるのならば、やるべき事と規則について、我々は意見を一致させねばならない[5]。』『我々は世界中の人々とそれぞれの自国民双方に対して、沿岸の5ヵ国はこの好機と難題について責任を持って取組む、という政治的な共同メッセージを伝える必要がある[6]。』と述べた。 この歴史的な会議の背景には、おそらくイルリサットの溶けつつある氷河があるのではないかといわれている[7]。

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多摩川緑地広場硬式野球場 – Wikipedia

多摩川緑地広場硬式野球場(たまがわりょくちひろばこうしきやきゅうじょう)は、日本の野球場。東京都大田区の多摩川左岸側河川敷内多摩川緑地広場の一角にある。 かつて昭和30年代 – 昭和50年代にかけて読売ジャイアンツ(以下、巨人)がファーム(二軍)の本拠地球場(イースタン・リーグ所属)及び練習場としていた。当時の名称は巨人軍多摩川グラウンド(きょじんぐんたまがわグラウンド)だった。 多摩川田園調布緑地には硬式野球用のグラウンドが2面存在しており、このうち上流側にある硬式専用のA面が巨人が使用していた当球場である(下流側のB面は硬式・軟式兼用)。現在は草野球、少年野球などを中心に一般利用向けに供用されている。 巨人が使用していた当時は、同球団が施設の管理を行っていた。現在は多摩川緑地広場管理公社が大田区から業務を受託して運営管理を行っているが、一級河川である多摩川の河川敷にあるため、敷地は所有者である国(国土交通省)から借用している。 1955年、当時の建設省から巨人が敷地を借り受け、グラウンドの整備を行い、かつ、付随する施設を建設した。同年6月11日開場。巨人の第3期黄金時代(V9。1961年 – 1974年)を築いた城之内邦雄、森昌彦、長嶋茂雄、王貞治、黒江透修、柴田勲、土井正三、堀内恒夫、渡辺秀武、高橋一三、末次利光、高田繁といった名選手もこの多摩川の地で鍛え上げられた。 また巨人の合宿所も、1967年に現在のよみうりランド近くに移転するまでは多摩川を挟んだ川崎市中原区の丸子橋に在った[1]。 創設当時、多摩川グラウンドと名乗る球場はいずれも対岸の神奈川県川崎市中原区にあった、大洋ホエールズ(のちに等々力第二球場となったのち、下水道処理場「等々力環境センター」の整備に伴い閉鎖)と東映フライヤーズ(後の日拓ホームフライヤーズ→日本ハムファイターズ)(現・川崎市多摩川丸子橋硬式野球場)のグラウンドと併せて3箇所あった。 1974年9月1日にこの地を襲った台風16号の影響で、グラウンドが水没し、約1ヶ月間使えなくなった。それより8年後の1982年の8月2日に襲った台風10号の時は約3週間使えなくなり、ベンチが流されグラウンドがヘドロまみれになるなど、この時の被害総額は3000万円以上となった。この年はさらに9月にも台風で水没している。なお両年とも巨人は中日ドラゴンズなどと優勝争いをしており、両年とも中日がリーグ優勝している[2]。 1985年10月、東京都稲城市と神奈川県川崎市多摩区に跨るよみうりランドの敷地内に読売ジャイアンツ球場など新たな球団施設が完成したのに伴い、大田区内の施設は使用されなくなった。その後も巨人の選手が時折トレーニングに使用するなどしていたが、1998年3月31日を以て国との借用契約が満了した為、巨人からグラウンド及び施設が国に返還された。 施設貸借契約満了直前の3月18日には、巨人の一軍全選手が巨人軍多摩川グラウンドお別れイベントの一環として最後の練習を行った。その際には報道各社の現役巨人番記者のみならず、かつて巨人番を担当した野球記者OBも駆けつけた。また、3月22日には、巨人OBなどによるお別れセレモニーが行われ、OBによる紅白戦が行われた後、藤田元司がボールを投げ、森祇晶が捕手としてボールを捕って、1955年から続いた巨人軍多摩川グラウンドの歴史に幕を閉じた。契約満了後、グラウンド及び施設は国(当時の建設省)から東京都大田区に移管されている。 前述のお別れセレモニー実施から15年後の2013年5月9日、巨人二軍監督の岡崎郁(当時)の発案で、二軍練習が1日限定で守備練習のみという形ではあるが行われた[3]。その折には、お別れセレモニーを行った当時の一軍監督である長嶋茂雄(現・終身名誉監督)も視察に訪れた[4]。 施設概要[編集] 両翼:-m、中堅:-m 内野:クレー舗装、外野:天然芝 照明設備:なし 当球場のほかにも、かつて多摩川河川敷周辺には、大洋ホエールズ二軍が大洋多摩川球場を、日本ハムファイターズ二軍が日本ハム球団多摩川グランドを、それぞれ巨人とは対岸側の川崎市中原区内に所有しており、同様に本拠地兼練習施設として使用していた。しかし、その後3球団とも新たに別の場所に練習場施設を設け、そちらの方へ移転した為、プロ野球では使用されていない(大洋は1980年、日本ハムについては2011年に閉鎖したが、その後日本ハムの多摩川グランドは川崎市が土地の占有権を取得し、2015年に川崎市多摩川丸子橋硬式野球場として再オープンを果たしている)。

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羽根町 (岡崎市) – Wikipedia

羽根町(はねちょう)は、愛知県岡崎市の町名。丁番を持たない単独町名であり、19の小字が設置されている。 岡崎支所管内に位置し、東西2つの飛地に分かれる。東側は美合町・緑丘・庄司田・羽根東町・羽根北町・戸崎町・不吹町に接する。西側は羽根北町・羽根東町・柱曙(一点だけ)・柱町・柱・羽根西新町・羽根西・中田町・戸崎町に接する部分と、上和田町・城南町・江口・中田町に接し、西側を占部川が流れている部分(羽根町字五反畑)がJR線のガード(JR羽根ガード)部分を介して繋がっている。 河川[編集] 湖沼[編集] 羽根大池 長池 鰻池 二子池 小字[編集] 東側 字小豆坂(あずきざか) 字池脇(いけわき) 字鰻池(うなぎいけ) 字大池(おおいけ) 字北乾地(きたかんじ) 字陣場(じんば) 字若宮(わかみや) 西側 字池下(いけした) 字北ノ郷(きたのごう)

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ファミ通ブロス – Wikipedia

『ファミ通ブロス』(ファミつうブロス)は、日本の出版社・エンターブレインが発行していた月刊漫画雑誌。 本項では、前身のゲーム雑誌『月刊ファミコン通信 攻略スペシャル』および『月刊ファミ通Bros.』についても記述する。 本誌の内容は大別して以下の3期に分けられる。 攻略スペシャル時代(1993年8月号 – 1995年7月号) 月刊ファミ通Bros.時代(1995年8月号 – 1997年12月号) ファミ通ブロス時代(1998年1月号 – 2002年9月号) 攻略スペシャル時代[編集] アスキーより刊行されていたゲーム雑誌『ファミコン通信』(現『ファミ通』)が1991年に隔週刊から週刊へ移行して以来、ファミコン専門誌から任天堂以外のハードで発売されているゲームの情報も扱う総合誌へ転換したことに伴い、誌面における新作情報のウェイトが増大したことから、1993年6月に攻略記事の掲載に特化した増刊『別冊ファミコン通信 攻略スペシャル』として発刊。『ファミ通』本誌の「ファミ通町内会」とは別の独立した読者コーナーも掲載され、11月発売の第2号より『月刊ファミコン通信 攻略スペシャル』として月刊化。本誌との差別化を図るため、低年齢層を対象にわかりやすさを重視した誌面構成が採られた。 月刊ファミ通Bros.時代[編集] 1995年8月号より本誌から独立創刊。「『ファミ通』の兄弟誌」であることから雑誌名を『月刊ファミ通Bros.』とする。この頃にはファミ通本誌からの独立性を強め「ファミ通Bros.」レーベルで独自の攻略本を発行したり、オリジナルのトレーディングカード「ファミ通Bros.トレーディングカードシリーズ」を発行するなどの積極的なメディアミックス戦略を採り始める。 ファミ通ブロス時代[編集]

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