干鰯 – Wikipedia

干鰯(ほしか)とは、イワシを乾燥させて製造した有機質肥料の一種。販売肥料(comercial fertilizer)のうち、魚肥(fish manure)に分類される。周囲を海に囲まれた日本列島では古くから魚肥は使用されており、江戸時代にはかなり大量に使用されていた。明治10年(1898年)頃までは干鰯と菜種油粕が有機質販売肥料の主流を占めていたが、明治15年(1904年)頃にニシン搾粕が生産量で干鰯を上回っている。昭和初期には肥料としての役割をほぼ終える。魚肥全体の生産量は昭和11年で46万トンあったが、戦後は化学肥料の生産増加に伴い減少し昭和42年には8万トンが生産されたに過ぎない。現在、干鰯が肥料として使われることはほとんどない。

農業を兼業していた漁民が余った魚類、特に当時の日本近海で獲れる代表的な魚であった鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりと言われている。この背景には、鎌倉から室町にかけて、二毛作導入によって肥料の需要が高まったことがある。16世紀頃になると地域によっては魚肥の利用が始まった。気候の温暖化によって鰯が豊漁となり、干鰯が生産されたからである[5]。1555年には関西の漁民が九十九里浜に地曳網を導入したことが知られている[6]

やがて江戸時代も17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになった。それに伴い農村における肥料の需要が高まり、草木灰や人糞などと比較して安くて即効性にもすぐれた干鰯が注目され、商品として生産・流通されるようになった。

干鰯の利用が急速に普及したのは、干鰯との相性が良い綿花を栽培していた上方及びその周辺地域であった。上方の中心都市・大坂や堺においては、干鰯の集積・流通を扱う干鰯問屋が成立した。1724年の統計では日本各地から大坂に集められた干鰯の量は130万俵に達した。

当初は、上方の干鰯は多くは紀州などの周辺沿岸部や、九州や北陸など比較的近い地域の産品が多かった。ところが、18世紀に入り江戸を中心とした関東を始め各地で干鰯が用いられるようになると、需要に生産が追い付かなくなっていった。更に供給不足による干鰯相場の高騰が農民の不満を呼び、農民と干鰯問屋の対立が国訴(農民闘争の一形態)に発展する事態も生じた。そのため、干鰯問屋は紀州など各地の網元と連携して新たなる漁場開拓に乗り出すことになった。その中でも房総を中心とする「東国物」や蝦夷地を中心とする「松前物」が干鰯市場における代表的な存在として浮上することとなった。

房総(千葉県)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ広大な農地を持つ関東平野に近かったことから、紀州などの上方漁民が旅網や移住などの形で房総半島や九十九里浜沿岸に進出してきた。鰯などの近海魚を江戸に供給するとともに長く干鰯の産地として知られてきた(地引網などの漁法も上方から伝えられたと言われている)。

一方、蝦夷地では鰯のみではなく鰊(かずのこを含む)やマス類が肥料に加工されて流通した。更に幕末以後には鰯や鰊を原料にした魚油の大量生産が行われるようになり、油を絞った後の搾りかすが高級肥料の鰊粕として流通するようになった。

  1. ^ 水原正亨「徳川幕府の経済政策と地方経済 : 近世の近江八幡の事例を中心に」『同志社商学』第63巻第5号、同志社大学商学会、2012年3月15日、 546頁、 doi:10.14988/pa.2017.0000012862、 ISSN 0387-2858
  2. ^ 『九十九里町誌 各論編 中巻』九十九里町誌編集委員会、九十九里町、1989年、251-254頁。全国書誌番号:89022322

参考文献[編集]

  • 『最新土壌・肥料・植物栄養事典(増補版)』三井進午(監修)、博友社、S54-04-10 2054。
  • 『体系 農業百科事典』第Ⅰ巻、農政調査委員会農業百科事典編纂室、財団法人農政調査委員会、1966年3月20日。
  • 『第2次増補改訂 農学大事典』農学大事典編集委員会、野口弥吉, 川田信一郎(監修)、養賢堂、1991年1月30日、1469頁。ISBN 4-8425-0001-8。
  • 『平成29年度企画展図録 「鰯は弱いが役に立つ ―肥料の王様 干鰯―」』千葉県立関宿城博物館、2017年10月3日。
  • 『日本歴史大事典』3、2001年3月10日、初版第1刷。ISBN 4-09-523003-7。
  • 『国史大辞典』第十二巻、国史大辞典編集委員会、吉川弘文館、1991年6月30日、第一版第一刷。ISBN 4-642-00512-9。

外部リンク[編集]