上毛電気鉄道デハ160型電車 – Wikipedia

上毛電気鉄道デハ160型電車(じょうもうでんきてつどうでは160がたでんしゃ)[注釈 1]は、かつて上毛電気鉄道に在籍していた電車。1956年(昭和31年)に譲り受けた西武鉄道モハ201形モハ203がその前身で、1960年(昭和35年)に鋼体化改造を施工したものである[注釈 2]。 本項では本形式の他、一連の鋼体化改造によって同一の車体となった(デハ800型・クハ60型・クハ300型・クハ1060型)、もしくは同一の車体で新製された(デハ170型・デハ180型)全ての形式について記述する。 上毛電気鉄道では戦時中から1950年代半ばにかけて、増加しつつあった利用客に対応し輸送力増強を図るため大量の中古車を購入しているが[注釈 3]、その中には従来車よりもはるかに見劣りする老朽木造車が多く含まれていた。しかしこれは資材不足等に起因する車両製造に関する各種制約が厳しい中、急増する需要に対応するためには止むを得ない措置であった。 輸送力増強が一段落した後、それら木造車の更新・鋼体化が計画されたのはいわば必然であり、結果1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)にかけて登場したのが本グループである。鋼体化改造と同時に車体が延長・大型化されたことで更なる輸送力増強に寄与しており、また増備の途上では鋼体化改造車と同一の車体で新製された車両も登場した。なお、本グループの鋼体化改造および新製は全て西武所沢車両工場で行われ、そのためか同時期に製造されていた西武鉄道の通勤形車両との相似点が随所に見受けられる。 車体[編集] 本グループはその出自から、種車の台枠を延長改造した上で車体を新製したものと台枠から新製したものに二分されるが、完成した車体は車体長18,000mm、車体幅2,755mmで統一されている。デハは両運転台車、クハは中央前橋向きの片運転台車で、デハの中央前橋寄り正面とクハの西桐生寄り連結面に貫通扉・貫通路を備え、それぞれ反対側正面は正面3枚窓の非貫通構造とされている。運転台は従来車と同じく右側に設置され、ノーシルノーヘッダー構造の車体に片側3ヶ所の1,100mm幅片開客用扉を備える。また、雨樋が側面から正面まで車体全周に渡って通されており、正面部分の雨樋が緩やかな曲線を描いていること等、西武クハ1411形に類似した設計となっている。窓配置はデハがd1D5D5D1d(D:客用扉、d:乗務員扉)、クハがd1D5D5D2であり、乗務員扉の数を除けば両者の窓配置はほぼ同一である。ただし、西桐生寄り客用扉の引き込み方向がデハは車体中央方向であるのに対し、クハは車端方向である点が異なっていた。側窓は二段上昇式で、全車製造当初からアルミ無塗装窓枠を装備している。ベンチレーターはガーランド型で、うち2個は大型の特殊形状のものを搭載し、その直下に車内送風機としてファンデリアが設置された[注釈 4]。 以降、1962年(昭和37年)に竣工したデハ800型(801)まで、一部の設計変更を除いて同一形態で製造されたが、1963年(昭和38年)に竣工したデハ180型(181)では、当時西武所沢工場にて新製増備中であった西武701系の設計意匠が数多く取り入れられた。車体長・車体幅といった諸元は他車と同一であったが、側面から屋根にかけての断面形状が西武701系と同一となり、雨樋位置が若干上昇したことで印象に変化が生じている。客用扉はアルミハニカム構造の1,300mm幅両開扉で、側窓や戸袋窓、乗務員扉といった部品と併せて西武701系と同一品が使用された。これら仕様変更によって窓配置もd1D3D3D1d(D:客用扉、d:乗務員扉、戸袋窓は省略)と変化している。また、ベンチレーターがグローブ型に変更され、車内送風機はファンデリアに代わって扇風機が搭載された。正面形状については他車と変わりないが、前後正面ともに貫通構造とされたことが特徴であった。 なお、上毛電気鉄道のかつての標準塗装として知られた黄色[注釈 5]一色塗りは、デハ181がこの塗装で竣工したことが起源であり、他車も従来の茶色一色塗りから順次塗装変更が行われている。 主要機器[編集] 単位スイッチ式手動進段制御器[注釈 6]とウェスティングハウス(WH)製WH556J型主電動機[注釈 7]、もしくはWH556J型の国内コピー製品である芝浦製作所(現東芝)製SE132B型主電動機[注釈 7]の組み合わせで、いずれも上毛電気鉄道における標準品である。駆動方式は吊り掛け駆動、歯車比は3.045(22:67)である。ただし、モハ801のみは芝浦製SE139型主電動機を搭載し、歯車比も3.0(20:60)と異なっていた。制動装置はSME直通空気ブレーキで統一されており、本グループ同士はもちろんのこと、従来車との併結も可能であった。台車は形式こそ異なるものの全車釣り合い梁式台車で、鋼体化改造車は種車から引き継いだものを、新製車については西武所沢工場手持ちの台車をそれぞれ装備している。しかし、検査等の際には他車と台車を振替えられることがあり、特に晩年は竣工時と異なる台車を装備していた車両も少なからず存在した。 形式別概論[編集] 前述のように鋼体化改造及び車体新製によってほぼ同一の車体を持つことになった本グループであるが、その出自は様々であった。以下、形式別並びに登場年代順にその概要を述べる。

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サンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップ – Wikipedia

サンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップ(San Juan Capistrano Invitational Handicap)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンタアニタパーク競馬場で開催されているサラブレッド競馬の平地競走である。日本語ではサンフアンカピストラーノ招待ハンデキャップとして表記されることが多い。 1935年に創設された競走で、1968年より招待競走に指定され、現在の競走名となった。 施行距離14ハロンは、アメリカの芝競走としてはベルモントゴールドカップインビテーショナルステークスに次ぐ長さの競走である。一時期はG1競走に設定されていたが、長距離競走の価値が下落した現在ではG3として施行されるようになった。また、2007年より優勝馬にはオーストラリアの長距離競走メルボルンカップへの優先出走権が与えられるようになった。 過去に5頭の馬が連覇を経験している。そのうちの1頭ジョージロイヤルは同競走において、鞍上のジョニー・ロングデンが一切鞭を使わずに5馬身差をつけて快勝したという逸話がある[1]。 全体の歴史[編集] 施行条件の変遷[編集] 馬場はすべて芝。 1マイル1/16(8.5ハロン・約1710メートル) – 1940年 1マイル1/8(9ハロン・約1811メートル) – 1935年-1938年 1マイル1/2(12ハロン・約2414メートル) – 1939年、1941年、1945年、1946年、1949年、1954年

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曾我佳城シリーズ – Wikipedia

『曾我佳城シリーズ』(そがかじょうシリーズ)は、泡坂妻夫による推理小説のシリーズ。 若くして引退した美貌の女流奇術師・曾我佳城[1]が探偵役となり、事件を解決していく。 小説家でありながら、マジシャンという顔も持つ作者だからこそ成しえたシリーズである。シリーズ全22作は、1980年から20年にわたって執筆され、2000年に完結した。 2000年に出版された『奇術探偵 曾我佳城全集』は『このミステリーがすごい!2001年版』国内部門第1位、2001年版「本格ミステリベスト10」第1位を獲得した。 単行本『奇術探偵 曾我佳城全集』は既刊分と新作をあわせた一冊本で刊行されたが、講談社文庫版は配列を変えて2冊に再編集されたため、『天井のとらんぷ』『花火と銃声』に続く作品を重複なしで入手することはできない。2020年発売の創元推理文庫版(全2冊)は講談社文庫版を底本にしているが、発表順に戻されている。 作品一覧[編集] 数字は、その短編集の収録順番。 題名 初出誌 天井のとらんぷ 花火と銃声 奇術探偵曾我佳城全集 奇術探偵曾我佳城全集秘の巻 奇術探偵曾我佳城全集戯の巻 奇術探偵曾我佳城全集上 奇術探偵曾我佳城全集下 備考 収録話数

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スモルト – Wikipedia

スモルト(英語:Smolt)とは、サケ・マス類でパーマークなど特有の体色が薄くなると共に銀色になった個体のことで、「銀毛」(ぎんけ)「シラメ」とも呼ばれる。また、海水への適応が完了した稚魚のこと。ヒポキサンチンやグアニンなどの色素量の増加が外観上の変化を起こす。ヤマメでは「肥満度の低下」「背ビレや尾ビレの先端の黒化」などの形態的変化を併せて発現する。 その現象を「銀化変態」[1]、「スモルト化」[2]、「スモルト変態」[3](parr-smolt transformation)[4]と呼び、海水耐性(適応力)が発現していることを示す変化である。 海水耐性(適応)を獲得した魚では、鰓のATPアーゼ活性が高まり「血中ナトリウム濃度の調整」が出来るようになる。つまり、海水中で浸透圧調節が可能となることから、直接海水へ投入された場合でも高率で生存する。降海の目的は、河川と比較し圧倒的に豊富な海洋の餌を得る事にあるとされている。海洋生活では豊富な餌と、スモルト化に合わせて分泌される成長ホルモンの効果もあり、河川残留型の2-4倍の体長へと成長する。 ヤマメの体色変化、上が銀化パー 甲状腺ホルモンや成長ホルモン、コルチゾルなど数種類のホルモンが関与している。自然界で発現を左右させる要素は、環境の青色や生息密度と餌の量が強く関係しているとされ、魚種毎に一定の体長(重量)に達した個体がスモルト化していると考えられている[5][6]。スモルト化する時期は同一魚種でも地域差がある。また、ヤマメ、アマゴでは性別により有意な差があり、北海道ではメスのほぼ全てがスモルト化する。また養殖でスモルトを増やすために青色の水槽で飼育すると発現率が高まる。 北海道に生息するヤマメの例では、2月頃に銀化兆候が現れ「銀化パー」と呼ばれる状態になる。4月頃には背ビレ先端部の黒化が認められるようになると共に、グアニン色素量が増し[1]パーマークは薄れ「前期スモルト」となる。5月には更に銀色が強く背ビレの黒化が進み「中期スモルト」となる。6月には体色は銀白色となりパーマークは消失する、また背ビレは完全に黒くなり「後期スモルト」となりスモルト化は完了する。銀化が完了すると体の厚みが薄くなり肥満度が減少する。血中のチロキシン濃度は銀化の始まりと共に上昇し、銀化の最盛期に最大値となるが8月以降は減少していく。降川は群れで行われるが、スモルト化の進行と共に攻撃性は弱くなる[7]。 実際の降川(降海)のきっかけは、降雨による増水の刺激や天体の月の満ち引きが影響し、新月によって誘発され[8][9]、群れで川を下り海に向かう。浮上後すぐに降海を始めるシロザケでも、淡水から直接海水に入った場合は生存率が低下する、従って、汽水域で一定時間順応し海水生活に移るものと考えられる。実際に稚魚の観察結果からは、約12時間で海水対応能力を身につけている事が判明している。 類似現象 「無斑」と呼ばれる模様の欠如した個体が発生する現象がある[10]。これは突然変異により外見の変化を起こしている物で、メラニン色素の欠如したアルビノと似た現象である。ニジマスに於いては、無斑個体を選抜養殖し固定系統のホウライマスとして商品化されている[11]。 スモルト化決定の主要因[編集] 性差と遺伝的な影響を排除する為、遺伝異変を持たないアマゴのメスを使用した実験を行った桑田(2017)は下記の様に報告している[12]。 成長率とは関係無く、初秋のスモルト決定期に閾値体重を超えた個体がスモルト化する。 決定期以後に、閾値体重を超えてもスモルト化しない。 決定期に閾値体重を超えていた場合は、決定期以後の成長を抑制しても大部分がスモルト化する。 決定期に閾値体重を超えなかった場合は、早く成長させてもスモルト化しない。 結果、主要因は体サイズであるとしている[12]。 養殖において[編集] 養殖の目的により銀化に対する捉え方は異なる。 資源増殖の為の養殖

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インザーギ (ミュージシャン) – Wikipedia

INZ(本名、生年非公開[1][2]、10月17日[3] – )は、日本の歌手、俳優。音楽ユニットFUZのボーカルであり、かつてはインザーギとしてヴィジュアル系ロックバンドであるメガマソのボーカルとしても活動していた。愛称はギ様、ザギ様、ザギちゃん、インザギ、イソザギ(涼平が冗談でつけた)、ザギさん等。 元々はR&Bやダンスミュージックの活動をしていたが[4]、2006年に知人から偶然手渡されたインザーギのデモ音源を聴いた元・彩冷えるのギタリストである涼平がその声に惚れ込み(涼平曰く、「全部が僕に惚れさせるだけの要素をもってる人[5]」とのこと)熱烈に誘われ、ヴィジュアル系ロックバンドメガマソのボーカリストとして活動を始める(尚、メガマソとして活動するまでは一切のバンド経験がなく、インザーギという名前も涼平が名付けたものである)。 その後、2009年4月にはフルアルバム『INZARGI』をリリースしてソロデビューを果たし、2014年10月には舞台「Club SLAZY The 3rd invitation~Onyx~」に[6]、そして2015年8月にはスマートフォン用ゲーム『ソウルシーカー』に声優として出演した[7]。 2015年12月16日に新宿ReNYで行われた9周年記念公演をもってメガマソがおよそ1年間の少し長めの冬眠(活動休止)に入り[8]、その後、2016年5月27日に新しいバンドVanity Sicksを結成すると発表[9][10]。さらに2017年3月8日にはTAMATE BOXとのユニットFUZを始動させた[11]。(尚、Vanity Sicksは2016年7月22日より活動していたが、ちょうど1年後の2017年7月22日のライブをもって解散した[12]。) 2017年11月23日、約11年間活動していたメガマソがライブ「MEGAMASSO FINAL LIVE “世界が正しい夜に、ここにいて。”[13]」をもって解散し、2018年2月11日からはメガマソのインザーギとして最後のツアー「インザーギ"LAST"with MM.tour」を開催することが決定した[14]。 名前の由来[編集] メガマソを結成するにあたり、自身は当初本名っぽい名前で活動しようと考えていたが、関係者と「涼平のバンドだから、インパクトのあるものだといいね」と話していると涼平は「僕考えてきます!」と一晩考え、次の日に「いいものができたよ、かなり僕のイチオシだ」と前置きをして「インザーギってどう?」と言った。自身の第一印象は良くなかったが、涼平は理由として「これはイタリアの名前なんだけど、もし外人のバンドのボーカルが、顔は外人なのに名前が山田だったらかっこよくない?」と話した。それでもあまり理解はしていなかったが「涼平が言うなら」と了承し、その約10分後に行われた取材で「初めまして、インザーギです」と名乗ると相手から大爆笑が起こり、そこで初めて「ヴィジュアル系でもイケてない名前なんだな」と思ったが、その後涼平が「例えば、君がめちゃめちゃかっこいい名前だったとする。じゃあ、それは名前がかっこいいのか、君がかっこいいのかどっちなんだ?」「でも、そのインザーギっていう名前をこれから君がかっこいいイメージに変えていけばいい」と話し、その時のインザーギは「なんていい奴なんだ!なんていいこと言うんだこいつは!」と思ったという(そのことについてベースのGouは「マインドコントロールですね」と語っている)。もう一つ理由として涼平は、「ヴィジュアル系って、例えばGouとか涼平も多分、字とか違うかもしれないけど他のバンドマンさんでいると思うんです。でも、僕向こう10年はインザーギって名前被りないと思うんですよ」と語っている。インザーギという名前から、初対面の人に「サッカーやってたんですか?」と聞かれることが多いが、サッカー選手のフィリッポ・インザーギやシモーネ・インザーギとは関係なく、インザーギ自身も「サッカー自体は好きだけど、サッカー選手にそういう名前の人がいるのは知らなかった」と話している[15]。

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大川寛 – Wikipedia

大川 寛(おおかわ ひろし、1933年2月21日 – 2011年3月22日)は、日本の元プロボクサー。本名は小川 寛(おがわ – )。戸籍上の出生地は千葉県山武郡片貝町であり、出身地は東京都台東区浅草[2]。元日本フェザー級(2度獲得)・ライト級、OBF東洋ライト級・ジュニアライト級王者。現役時代は共栄ジム(後の極東ボクシングジム、現在の極東ボクシングクラブ)所属[2]。大川ボクシングジムを開設し、その初代会長を務めた。 脚が長く均整のとれた体を持ち、左右のフックやスピードのある右ストレートを武器に3階級5王座を制覇した技巧派である[3]。 極東ジムが秋山政司、大越利晴といった日本王者らを抱えて全盛期を迎えていた当時、後に精密機械と言われる世界王者沼田義明を育てた小高伊和夫会長の愛弟子であった大川が本名の小川を変えて戦ったのは、心臓が小さいのは名前からきていると小高会長が案じたためであった[3]。 試合経験が豊富でピストン堀口、花田陽一郎、辰巳八郎、秋山政司に次いで100戦あまりを戦ったが、ボクシングがやや消極的な代わりにクリンチ技術に長け[1][3]、23敗のうちKO負けは3度にとどまった。 プロ[編集] 1948年1月31日、プロデビュー戦で判定勝利を収めた。 1954年3月13日、田中昇に3RKO勝利を収めて日本フェザー級王座を獲得。中西清明に判定負けを喫して7度目の防衛に失敗したが、約8か月後の1957年4月19日、中西との通算4度目の対戦で王座を奪い返した。 1956年6月28日、金子繁治の持つOBF東洋フェザー級王座に挑戦したが、判定負けを喫して唯一の王座挑戦失敗となった。 東京都世田谷区松原に所在した大川ボクシングジムの外観。京王線高架化工事に伴う立退きにより、2013年12月27日をもって閉鎖された 1957年8月4日、小林秀人を判定で下して日本ライト級王座を獲得。9日後の8月13日、OBF王座挑戦のために同王座を返上した。 同年11月20日、オムサップ・ラエムファバーに9RKO勝利を収めてOBF東洋ライト級王座を獲得。1度防衛後の翌1958年3月2日、フィリピンの英雄と言われたフラッシュ・エロルデに判定負けとなって同王座を失い、同年6月17日、高山一夫に判定負けを喫して日本フェザー級王座を失った。 1960年6月30日、東洋(後の東洋太平洋)ボクシング連盟が新設したジュニアライト級の初代王座を決定戦勝利により獲得。1961年5月4日、キリサク・バーボスの右フックを顔面に受けて2度目の防衛に失敗。この試合を最後に現役を引退した。 引退後[編集]

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レディー・ガガのディスコグラフィ – Wikipedia

レディー・ガガのディスコグラフィ(Lady Gaga discography)はアメリカ合衆国のポップ歌手レディー・ガガがリリースしてきた音楽作品、関連作品に関する一覧である。 彼女のデビュー・アルバム『ザ・フェイム』はヨーロッパ、カナダ、アイルランド、イギリスなどで1位を獲得し、アメリカではアルバム・チャートでは2位、Top Electronic Albumsチャートで1位になった。アルバムは現在までに世界中で1500万枚以上のセールスを記録している[1]。アルバムからのシングル『ジャスト・ダンス(feat.コルビー・オドニス)』はアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、アイルランド、オランダのシングルチャートで1位を獲得し、2009年のグラミー賞でベスト・ダンス・レコーディング賞にノミネートされた[2]。続いてリリースされた『ポーカー・フェイス』は、世界中のチャートでトップに入り、Billboard Hot 100のダンスチャートで1位になった。 アルバムからの3枚目のシングル『エイ、エイ (ナッシング・エルス・アイ・キャン・セイ)』は選ばれた市場で発売されてオーストラリア、ニュージーランド、スウェーデンのチャートでトップ20位内に入った。『ラヴゲーム』はオセアニアとイギリスで4枚目のシングルとしてリリースされ、ヨーロッパと北アメリカでは3枚目のシングルとしてリリースされた。同曲は2009年7月に全米シングル・チャートでは5位に、エア・プレイ・チャートでは1位になった。このことから彼女はデビュー・アルバムから3曲をエア・プレイ1位に送り込んだ史上3組目のアーティストとなった[3]。ガガはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、ブリトニー・スピアーズ、クロード・ケリーといった他のアーティストとも協力した。ラッパー、ワーレイの『チリン』にも参加している。 アルバム[編集] スタジオ・アルバム[編集] 年 タイトル アルバム詳細 チャート最高位 認定 US[4] AUS[5] AUT[6]

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千屋ダム – Wikipedia

千屋ダム(ちやダム)は岡山県新見市にある一級河川・高梁川本川最上流部に建設されたダムである。 岡山県備中県民局の高梁川ダム統合管理事務所が管理する補助多目的ダムで、高さ97.5メートルの重力式コンクリートダムである。洪水調節、流水の正常な機能の維持、新見市への上水道供給、下流の倉敷市水島への工業用水供給と、併せて発電を行うことを目的としている。ダムによって形成された人造湖は千水湖(せんすいこ[1])と命名された。 ダムの名称である「千屋」とは当ダムより上流側にある地区であり、当初はここに建設される予定であった。その後、計画変更により大幅に下流側に建設されることになったが、ダム名は変更されなかった。 ダム左岸には管理事務所が置かれており、建物の一階部分は資料館になっている。 千屋ダム管理事務所 1971年(昭和46年)4月 – 実施計画調査開始。 1975年(昭和50年)4月 – 建設事業採択。 1980年(昭和55年)12月 – 建設地付近を通る国道180号の付替工事着手。 1987年(昭和62年)5月29日 – 国道180号新線の一部区間供用開始(2km)。 1988年(昭和63年)11月 – 国道180号の小原トンネル竣工(延長910m)。

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イギリスの鉄道史 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “イギリスの鉄道史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年6月) イギリスの鉄道史(-のてつどうし)では、世界最古の歴史を有するイギリスの鉄道史について記述する。なお、本項ではグレートブリテン島の鉄道のみについて扱った。 1830年以前 黎明期[編集] 最初に旅客輸送を行ったオイスターマス鉄道 イギリスは、蒸気機関車による鉄道を世界で初めて用いた。当初は木製のレールであった。1793年に鋳鉄によるL型のレールが用いられ始めたが、壊れやすいという欠点があった。1820年以後、錬鉄によるレールが導入されるようになった。 最初に旅客輸送を行った鉄道は、1807年に開業したウェールズ地方のオイスターマス鉄道で、既存の路面軌道を用いた馬車鉄道であった。 1804年、リチャード・トレビシックが、世界初の軌道上を走る蒸気機関車を製作した。最初の商業的に成功した蒸気機関車は、1812年に製作されたサラマンカ号(The Salamanca)で、ラック・アンド・ピニオン式の機関車であった。その後も蒸気機関車は改良が重ねられ、ジョージ・スチーブンソンは1814年、初めてフランジが1方向のみである車輪を用いた機関車を開発した。この実績が認められて、スチーブンソンは1821年、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の技術者に任命され、1型蒸気機関車(Locomotion No 1)による旅客輸送を実現した。この鉄道は1825年に総延長40キロの営業を開始し、蒸気機関車で営業運転を行う世界初の鉄道となった。 1830年、やはりスチーブンソンの手によるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。この鉄道では、当初蒸気機関車を導入するかケーブル牽引にするかの検討が行われ、レインヒル・トライアルという機関車コンテストを実施して蒸気機関車の採用が決定した。また、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道ではまだ運河や有料道路のように、外部から所有者が車両を持ち込んで列車を運転することを認めていたり、ダイヤを定めずに場当たり的に列車の行き違いを実施したりしていたが、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道からは初めて鉄道会社の自社所有の列車のみで運行することが意図され、ダイヤを作ってきちんとした運行管理が行われるようになった。これにより、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道を世界で最初の実用的な鉄道と呼ぶことがある。

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