フリードリッヒ・アウグスト・クヴェンシュテット – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “フリードリッヒ・アウグスト・クヴェンシュテット” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年8月) フリードリヒ・アウグスト・クヴェンシュテット 1868年に描かれた肖像画 生誕 1809年7月10日 プロイセン王国 ザクセン州アイスレーベン 死没 1889年12月21日 ドイツ国 ヴュルテンベルク王国テュービンゲン 研究分野

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干鰯 – Wikipedia

干鰯(ほしか)とは、イワシを乾燥させて製造した有機質肥料の一種。販売肥料(comercial fertilizer)のうち、魚肥(fish manure)に分類される。周囲を海に囲まれた日本列島では古くから魚肥は使用されており、江戸時代にはかなり大量に使用されていた。明治10年(1898年)頃までは干鰯と菜種油粕が有機質販売肥料の主流を占めていたが、明治15年(1904年)頃にニシン搾粕が生産量で干鰯を上回っている。昭和初期には肥料としての役割をほぼ終える。魚肥全体の生産量は昭和11年で46万トンあったが、戦後は化学肥料の生産増加に伴い減少し昭和42年には8万トンが生産されたに過ぎない。現在、干鰯が肥料として使われることはほとんどない。 農業を兼業していた漁民が余った魚類、特に当時の日本近海で獲れる代表的な魚であった鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりと言われている。この背景には、鎌倉から室町にかけて、二毛作導入によって肥料の需要が高まったことがある。16世紀頃になると地域によっては魚肥の利用が始まった。気候の温暖化によって鰯が豊漁となり、干鰯が生産されたからである[5]。1555年には関西の漁民が九十九里浜に地曳網を導入したことが知られている[6]。 やがて江戸時代も17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになった。それに伴い農村における肥料の需要が高まり、草木灰や人糞などと比較して安くて即効性にもすぐれた干鰯が注目され、商品として生産・流通されるようになった。 干鰯の利用が急速に普及したのは、干鰯との相性が良い綿花を栽培していた上方及びその周辺地域であった。上方の中心都市・大坂や堺においては、干鰯の集積・流通を扱う干鰯問屋が成立した。1724年の統計では日本各地から大坂に集められた干鰯の量は130万俵に達した。 当初は、上方の干鰯は多くは紀州などの周辺沿岸部や、九州や北陸など比較的近い地域の産品が多かった。ところが、18世紀に入り江戸を中心とした関東を始め各地で干鰯が用いられるようになると、需要に生産が追い付かなくなっていった。更に供給不足による干鰯相場の高騰が農民の不満を呼び、農民と干鰯問屋の対立が国訴(農民闘争の一形態)に発展する事態も生じた。そのため、干鰯問屋は紀州など各地の網元と連携して新たなる漁場開拓に乗り出すことになった。その中でも房総を中心とする「東国物」や蝦夷地を中心とする「松前物」が干鰯市場における代表的な存在として浮上することとなった。 房総(千葉県)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ広大な農地を持つ関東平野に近かったことから、紀州などの上方漁民が旅網や移住などの形で房総半島や九十九里浜沿岸に進出してきた。鰯などの近海魚を江戸に供給するとともに長く干鰯の産地として知られてきた(地引網などの漁法も上方から伝えられたと言われている)。 一方、蝦夷地では鰯のみではなく鰊(かずのこを含む)やマス類が肥料に加工されて流通した。更に幕末以後には鰯や鰊を原料にした魚油の大量生産が行われるようになり、油を絞った後の搾りかすが高級肥料の鰊粕として流通するようになった。 ^ 水原正亨「徳川幕府の経済政策と地方経済 : 近世の近江八幡の事例を中心に」『同志社商学』第63巻第5号、同志社大学商学会、2012年3月15日、 546頁、 doi:10.14988/pa.2017.0000012862、 ISSN 0387-2858。 ^ 『九十九里町誌 各論編 中巻』九十九里町誌編集委員会、九十九里町、1989年、251-254頁。全国書誌番号:89022322。 参考文献[編集]

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ゲッツ/ジルベルト – Wikipedia

『ゲッツ/ジルベルト』(英語: Getz/Gilberto)は、アメリカのジャズ・サックス奏者スタン・ゲッツと、ブラジルのボサ・ノヴァ歌手ジョアン・ジルベルトが連名で1963年に録音し、1964年に発表したアルバム。アントニオ・カルロス・ジョビンがピアノで参加し、アストラッド・ジルベルトが2曲でボーカルをつとめた。 スタン・ゲッツは、チャーリー・バード(英語版)との連名で発表したアルバム『ジャズ・サンバ(英語版)』(1962年)でボサ・ノヴァを取り入れ、大ヒットとなる。1963年には、ボサ・ノヴァ界の大物であるジョアン・ジルベルト(当時アメリカ在住だった)とアントニオ・カルロス・ジョビンを招き、本作を制作。クリード・テイラーがプロデュースを担当し、フィル・ラモーンとヴァル・ヴァレンティン(英語版)がレコーディング・エンジニアを務めた[4]。異なるジャンルの音楽家による共同作業のため、レコーディング中には緊張感があったと伝えられ、スタンがボサ・ノヴァを正しく理解していないことに対してジョアンが怒り、ポルトガル語と英語の両方を話せるアントニオに、スタンに対して「バカ」と言うように頼んだが、アントニオはスタンに、わざと違う意味で伝えたというエピソードもある[5]。 当時ジョアンの妻だったアストラッド・ジルベルトが、「イパネマの娘」「コルコヴァード(英語版)」の2曲でボーカルを担当。これが、アストラッドの歌手デビューであった。ジョアンは全編ポルトガル語で歌ったが、アストラッドのパートは英訳詞で歌われている。なお、「イパネマの娘」のシングル・ヴァージョンは、クリード・テイラーの判断により、ジョアンのボーカル・パートがカットされ、アストラッドが単独で歌った形に編集された[5]。 ジャケットの絵はプエルトリコ出身の画家オルガ・アルビズ(英語版)が描いた。 スタンとジョアンは、1964年10月9日にカーネギー・ホール公演を行い、その模様は後にライヴ・アルバム『ゲッツ/ジルベルト#2(英語版)』として発表されるが、これは厳密には、両者がそれぞれ別のバンドを従えての演奏で、2人が実際に共演した場面は少ない。スタンが1975年に録音したアルバム『ゲッツ・ジルベルト・アゲイン(英語版)(英語: The Best of Two Worlds)』は、本作と同様、ジョアンが全面参加したコラボレーション・アルバムとなった。 本作は、ビルボード誌のアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、「イパネマの娘」もシングルとして全米5位に達した[3]。そして、グラミー賞ではアルバムが2部門(最優秀アルバム賞、最優秀エンジニア賞)を受賞、「デサフィナード」が最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞、「イパネマの娘」が最優秀レコード賞を受賞した[3]。本作の音楽は本来のボサ・ノヴァとは別物であると主張する声も多かったが、結果的にはアメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づけた作品となった[5]。 《ローリング・ストーン》誌が選んだ「歴史上最も偉大な500枚のアルバム(英語版)」(2012年改定版)において447位にランクインしている[6]。 Side 1 イパネマの娘(英語: The Girl from Ipanema)

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華雅りりか – Wikipedia

本記事に加筆する際は出典を忘れないでください。 華雅 りりか(かが りりか、8月1日[1] – )は、宝塚歌劇団花組に所属する娘役。 東京都世田谷区[1]、香蘭女学校出身[1]。身長163cm[1]。愛称は「りりか」、「りりこ」[1]。 2006年、宝塚音楽学校入学。 2008年、宝塚歌劇団に94期生として入団。月組公演「ME AND MY GIRL」で初舞台[1][2]。その後、星組に配属[2]。 2010年の「摩天楼狂詩曲」で、音波みのりとダブルキャストでバウホール公演初ヒロイン[2]。 2012年4月1日付で花組へと組替え[3][2]。 2014年、蘭寿とむ退団公演となる「ラスト・タイクーン」で、新人公演初ヒロイン[2][4]。入団6年目での抜擢となった[2]。 主な舞台[編集] 初舞台[編集] 星組時代[編集] 花組時代[編集] 出演イベント[編集]

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宝塚歌劇団94期生 – Wikipedia

本記事に加筆する際は出典を忘れないでください。 宝塚歌劇団94期生(たからづかかげきだん94きせい)は、2006年4月に宝塚音楽学校に入学、2008年3月に宝塚歌劇団に入団した44名を指す。 2006年の音楽学校の受験者数は963人、合格者47人、競争倍率20.48倍となった[1]。 初舞台の演目は、彩乃かなみ退団公演となる月組「ME AND MY GIRL」。 2008年5月7日付で組配属となる[2]。 新人公演主演(ヒロイン)経験者に珠城りょう、麻央侑希、華雅りりか、愛風ゆめ、早乙女わかばがいる。 バウホール公演主演(ヒロイン)経験者に珠城りょう、麻央侑希、仙名彩世、華雅りりか、早乙女わかばがいる。 東上公演主演(ヒロイン)経験者に珠城りょう、仙名彩世、早乙女わかばがいる。 全国ツアー公演主演経験者に珠城りょうがいる。 エトワール経験者に和海しょう、羽立光来、仙名彩世、愛風ゆめがいる。 主な生徒[編集] OG[編集] 現役[編集] 芸名[3] 読み仮名[3] 誕生日[3] 出身地[3]

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ジャランダル – Wikipedia

ジャランダル(パンジャーブ語:ਜਲੰਧਰ、ヒンディー語:जलंधर、Jalandhar)は、インドのパンジャーブ州の都市である。ジュランダール(Jullundur)とも表記される。大幹道に接続する都市として古代から存在し、近代でも商業都市として都市化が進んでいる。1947年のインド独立から1953年にチャンディーガルが建設されるまでの間、パンジャブ州の州都だった。 地名の由来はマハーバーラタとプラーナ文献で言及されたラークシャサの一人から取られたと考えられている。また、ラヴィ川とサトレジ川に挟まれた地形のため、「水の内側にある地域」を示す言葉が転じたという説もある。古代にはパンジャブ州全域がインダス文明に含まれており、ジャランダルでもハラッパー同様の遺跡が発見されている。都市としては古代から交通の要衝として、それぞれの時代の支配者に属してきた。近代に入るとイギリス領インド帝国に属したが、第一次世界大戦後にイスラム教徒による反英運動キラーファト運動が起こると、イスラム教徒の多いパンジャブ州も1920年頃から独立の機運が高まった。しかしヒンドゥー教徒との統一闘争は挫折し、インド・パキスタン分離独立の際にはパンジャブ州は分割された。この時、パンジャブ州の州都ラホールはパキスタン領となったため、1947年にジャランダルがインド領パンジャブ州の州都とされた。しかしシャランダルにはイスラム教徒も多くおり、1953年にチャンディーガルが建設されると、政治的な理由から州都はチャンディーガルに移転した。 温暖湿潤気候に位置するが夏は暑く、6月には平均48℃に達する。湿度は7月と8月のモンスーンの時期は高いが、それ以外は乾燥している。。 Jalandharの気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 平均最高気温 °C

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クリス・アイアネッタ – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 クリス・イアネッタ クリス・イアンネタ クリス・アイアネッタ(Chris Iannetta, 本名:クリストファー・ドメニク・アイアネッタ(Christopher Domenic Iannetta;, 1983年4月8日 – )は、アメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンス出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。愛称はCI[1]。 日本語メディアではクリス・イアネッタと表記されることも多い。他に、Yahoo!スポーツ等では、クリス・イアンネタと表記されることもある[2]。 プロ入り前[編集] 1983年、ロードアイランド州プロビデンスでイタリア系移民夫婦の長男として生まれる。父ドメニクは8歳のときにスカーポリから、母マリアは5歳のときにナポリから、それぞれ一家でプロビデンスに移り住み、小学校時代からの幼馴染みであった[3]。子供のころは、ロードアイランド州の北に接するマサチューセッツ州はボストンに本拠地を置くボストン・レッドソックスの試合を、同球団の本拠地球場フェンウェイ・パークやテレビなどで観戦していた[4]。 身体能力に秀でた子供というわけでもなかったので、野球で三塁手としてプレーする以外にはスポーツは行っていなかった[5]。アイアネッタが所属していたリトルリーグのある日の試合で、チームメイトの捕手が手首を怪我したため、コーチがその代役にアイアネッタを指名。最初は嫌がっていたアイアネッタだったが、母から説得されて一時的に転向、その後このポジションの面白さを知ると元のポジションには戻ることはなかった[3]。当時はTBSがアトランタ・ブレーブスの試合を全米中継していたため、そこで正捕手をしていたハビー・ロペスに憧れを抱くようになる[6]。 セント・ラファエル・アカデミー(英語版)在籍時からドラフト指名の噂もあったが、結局指名されずノースカロライナ大学へ進学。学業面では数学を専攻し[5]、野球では1年次から3年間にわたり正捕手として出場。2004年には、大学野球最優秀捕手に贈られるジョニー・ベンチ賞の候補45人にノミネートされた[7]。 プロ入りとロッキーズ時代[編集] コロラド・ロッキーズ時代(2008年4月16日) 2004年のMLBドラフト4巡目(全体110位)でコロラド・ロッキーズから指名され、プロ入り。2巡目で一緒に入団したセス・スミスとはその後長くプレーした。 入団直後にマイナーリーグのA級アッシュビル・ツーリスツに配属された。

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センピル教育団 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “センピル教育団” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年10月) センピル教育団(センピルきょういくだん)は、大日本帝国海軍の求めに応じて、航空技術を指導するために来日した、イギリス空軍の教育団である。後に第19代センピル卿の爵位を継承するウィリアム・フォーブス=センピル大佐に率いられ、1921年(大正10年)9月から18か月間、29人の指導員が日本に滞在し、海軍の航空技術を指導した。 教育は霞ヶ浦海軍航空隊で始められ、グロスター スパローホークなどの日本の依頼で購入しイギリスから持ち込んだ100機ほどの新型航空機を使って、雷撃法や標準器を使用する爆撃法などの訓練が行われた。 イギリスにおける航空母艦「アーガス」や「ハーミーズ」の計画についての情報ももたらされ、建造の最終段階にあった「鳳翔」に参考とされた。 1922年11月にセンピル大佐は講習の任務を終了し、勲三等を賜り、大部分の人員をつれて帰国した。これに伴って臨時海軍航空術講習部は廃止され、(1922年11月に)霞ヶ浦海軍航空隊が正式に開隊した。 教育団招聘の経緯[編集] 1918年(大正7年)8月、陸軍航空はフランスから無償技術指導の提案(見返りとして日本がフランスに軍用飛行機を多数発注することを希望)を受け、翌1919年(大正8年)1月、井上幾太郎少将を長とする臨時航空術練習委員は日本にジャック=ポール・フォール(フランス語版)大佐を団長とするフランス航空教育団(陸軍部内での呼称は「仏国航空団」)を招聘した[1]。「仏国航空団」は総勢57名で、所沢陸軍飛行場、各務ヶ原陸軍演習場[2]、熱田の兵器支廠ほかで、それぞれ指導を行った。このとき、海軍航空からも教官や学生が講習を見学した。爆撃班の教官はヴュラン大尉を主任とする3名であり、4月から8月まで2次にわたって浜名湖の北にある三方原で指導をした。後年陸軍航空を支える若手航空将校たち16名とともに、海軍航空からも千田貞敏中尉[3]ら3名も講習員として参加した[4]。 陸軍航空の教育団招聘をみて、海軍航空でも航空先進国であったイギリス(英国)からミッションを呼び本格的な航空訓練をやりなおす方針をかためた。軍務局内の航空部主任、大関鷹麿中佐は「個々の出張や洋行などはやめて、英国から信頼できる教官をたくさん呼んできて訓練をすれば、全部を一気に教育することができる。そして1日でも早く欧米の航空レベルに追いつくことを考えなければならない」と決断した。 海軍は当時ロンドンの駐英大使館付武官であった小林躋造少将に斡旋を依頼した。小林少将は英国空軍の幹部と懇談し、英国空軍は好意をもって人物を選抜し、優秀な専門家を選りすぐって日本へ送ることにした。教育団の人員は、次のほか下士官をふくめ総勢29名であった。 団長 センピル大佐 副長 メイヤース中佐

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なとりん号 – Wikipedia

なとりん号(なとりんごう)は、宮城県名取市内を運行するコミュニティバス(市民バス)。名取市内を運行していたミヤコーバスの撤退に伴い、運行を開始した。 2008年(平成20年)4月1日 – 運行開始。 2011年(平成23年)7月19日 – 新規路線「植松入生線」の運行を開始。 2013年(平成25年)4月1日 – ミヤコーバス閖上線廃止に伴い、「閖上線」の運行を開始したほか、路線を再編。 2018年(平成30年)4月1日 – 「東部閖上循環線」の運行を開始。一部路線の経路およびダイヤを変更[1]。 運行事業者[編集] 桜交通仙台営業所 – 幹線路線ブロックおよび生活路線ブロック(東部閖上循環線)を担当 仙南交通 – 生活路線ブロック(東部閖上循環線を除く)を担当

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町野主水 – Wikipedia

町野 主水(まちの もんど、天保10年11月25日(1839年12月30日) – 大正12年(1923年)6月9日)は、幕末の会津藩士。 父・町野伊佐衛門閑栄、母きとの子に生まれる。通称は源之助、諱は重安。槍の達人で、弟の久吉(きゅうきち)とともに、鴨居に半紙を吊るし、それをえいっと槍で通すと半紙は少しも動かなかったという。 元治元年(1864年)、京都守護職本陣に向かう途中、桑名藩士を斬り、到着後入牢。7月禁門の変で牢を破り一番槍を目指すが窪田伴治に続き飯河小膳とともに二番槍の功名を挙げるも越後国蒲原郡津川で謹慎。 慶応4年(1868年)御蔵入奉行兼幌役を命ぜられた主水は、会津藩飛領である越後の小出島に赴任し、三国峠を守備するも4月24日の戦いで実弟・久吉を戦死させたのち小出島まで撤退、さらに攻められて越後戦線へ移動した。8月11日、佐川官兵衛の後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任、北越戦線を転戦するが鶴ヶ城下に官軍が侵攻したとの報に接し、急ぎ城下に戻る。熊倉の戦いを会津軍大勝利に導いた後、一ノ堰の大激戦の最中に陣将・萱野長修の命により軍事奉行・樋口源助とともに鶴ヶ城に入城し、藩主・松平容保に米沢藩からの降伏勧告を伝える。9月7日、母・きと、妻・やよ、姉・ふさ、長女・なを(7歳)、長男・源太郎(3歳)の5人が河沼郡坂下勝方寺の裏山で自刃、叔母・南摩勝子はその二人の男子(9歳、4歳)を刺し自害した。家僕の誤った戦況報告により死を急ぐに至ったといわれる。7歳になる長女なをは、怖がって泣くので「お城にいらっしゃるお父様のご無事をお祈りしましょう」というと手を合わせ瞑目したので、その瞬間に主水の配下の大竹豊之助が涙ながらに介錯したとのことである。 開城後「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」との新政府軍軍務局からの達しを受け、「若松取締」に任ずる。この間、伴百悦らと戦死者の埋葬に尽力した。会津松平家が再興を許された際、立藩の地を猪苗代盆地か下北半島かの選択を迫られ、主水は強く猪苗代を推したが、結局、山川浩らが推す下北の地に決定した。斗南藩である。明治3年(1870年)容保の子・松平容大が斗南藩知事となる。明治7年(1874年)、佐川官兵衛中心に300名の旧会津藩士が警視庁巡査として採用される。 明治期主水は斗南へは移住せず、若松北小路52番地に居を構え、当地の復興に全力を傾注した。明治6年(1873年)鶴ヶ城を陸軍省が売りに出し、主水は862円で落札した。しかし翌7年(1874年)城は取り壊しになった。明治9年(1876年)主水は鹿島県(佐賀県)土木課御用掛に就く。 自由民権運動の高まりの中で、主水は明治15年(1882年)6月、諏訪伊助、辰野宗治と連名で会津帝政党を設立、当時福島県令の三島通庸の三方道路建設に寄与、清水屋旅館事件に関わる。翌明治16年(1883年)10月、二番目の妻いし(33歳)を喪う。この二人の間に誕生したのが町野武馬(1875-1968、張作霖顧問、衆議院議員)である。明治17年(1885年)、主水は大沼郡長に登用される。のち正八位に叙される。明治20年(1887年)、梅宮兵三郎の長女マツと三度目の結婚。主水48歳であった。 晩年は大正元年(1912年)、狼藉者を無礼討ちにするなど武弁ぶりを発揮、会津弔霊義会の発起人代表を務めたが、大正12年(1923年)、齢85で没した。最後の会津武士といわれた。墓は会津若松市の融通寺。戒名は武孝院殿顕譽誠心清居士。 久吉の槍 明治30年(1897年)8月、山県有朋の手にあった実弟久吉の槍の件を知った品川弥二郎が主水を訪ね「山県から取り返してやろうか」と言ったが、主水は「戦場で敵に奪われた槍を畳の上で受け取れるか」と言下に断ったという。(この槍は鶴ヶ城内に展示されている) 武士の面目 大正6年(1917年)8月、戊辰殉難者50年祭典の際、式半ばにして降雨。気を遣った市長が天幕を指して「お下がり下さい」と言うと、主水は「武士に向かって下がれとは何だ」と大喝一声、いったん天幕に入った人々も再び外に出て雨の中で式が続行さたという。 大正元年狼藉者退治の真相 ある日町野家の玄関に大男の無頼漢がなにやらわめいて入ろうとしたので、主水が刀を帯びて応対に出た。殴りかかろうとしたのでとっさに刀の柄で暴漢をみね打ちにしたらそのまま死んでしまった。警察が来て大騒ぎになり、急遽北京から帰還した息子の町野武馬も殺人事件だからさすがにあわてたそうだ。しかし暴漢は札付きの悪であった。近所の顔役で元気なのが敢えて身代わりとなり自首して出たりもした。実際家族も持て余していたようなものだったので、また警察も町野主水といえば戊辰戦争の英雄だから困ったようだが結局心臓まひとしてもみ消してくれた。後で主水は「近頃は殺人罪などといって大ごとなのだそうだ」と言って悠然と笑っていた。主水73歳のことだ。 筵で葬送 大正12年(1923年)の葬式では、子の武馬は厳父の遺言どおり、遺体を菰(こも)をかぶせたのみの状態で墓所まで運ぼうとしたが、警察がうんと言わない。仕方なく、棺桶の上からこもをかぶせて運んだ。これは「自分の死後は城下に放置されていた旧藩の人々と同じように葬って欲しい。立派な埋葬では泉下の仲間に申し訳が立たない」と主水が常々言い聞かせていたのを武馬が守ったからだという。

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