泉芳朗 – Wikipedia

泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日[1][2] – 1959年4月9日[2] )は、日本の詩人。教育者。名瀬市長(1期)。

鹿児島県大島郡伊仙町出身[1][2]。1924年鹿児島県第二師範学校(現:鹿児島大学教育学部)卒[1]。卒業後は笠利村の小学校で訓導となり、詩作を行う。1928年上京し[1][3]、東京市内の小学校で勤務する。1939年に帰郷し、小学校の教頭、校長を務める[1][2][3]

戦後、奄美群島は米国民政府の統治下に置かれ、住民による「奄美群島祖国復帰運動」が起き、泉はその中心運動の指導者になった。1950年、奄美社会民主党が結成されると泉は書記長となり、後に委員長に就任した[1]。翌1951年、奄美大島日本復帰協議会が結成され、泉は議長となった[1][3]。同年8月1日から5日間のハンガーストライキを行い、多数の住民もこれに参加した[1][2][3]

1952年9月に名瀬市長に就任[1]。市長就任後も復帰運動を続けた。11月に上京し、政府関係者やアメリカ大使と面会し、復帰を陳情した[1]。1953年12月25日、奄美群島は正式に日本に復帰した。翌1954年1月に名瀬市長を辞職した[1]。同年2月の「奄美群島復帰に伴う暫定措置法に基く選挙」による衆議院補欠選挙で日本社会党右派公認で奄美群島区から立候補したが、15,763票と2位となる。この選挙では法定得票数を得た候補者がいなかったため、2か月後に再選挙が行われた。再選挙では17,874票と1回目の得票を上回ったが、1回目の投票で3位だった保岡武久(保岡興治の父)が24,965票を取り、当選者となった。

その後、1958年の第28回衆議院議員総選挙に立候補したが、落選した。翌1959年死去。

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本の歴代市長』第3巻、771頁。
  2. ^ a b c d e 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ株式会社。
  3. ^ a b c d 『日本人名大辞典』講談社。

参考文献[編集]

  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1983年。
  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
  • 『日本人名大辞典』講談社。

外部リンク[編集]