旧矢掛本陣石井家 – Wikipedia

旧矢掛本陣石井家(きゅうやかげほんじんいしいけ)は、岡山県小田郡矢掛町にある旧西国街道矢掛宿の本陣である。

旧矢掛本陣石井家は、岡山県小田郡矢掛町矢掛に所在する。

石井家は1620年(元和6年)に現在地に移り、1635年(寛永12年)の参勤交代の制定に伴い、四郎兵衛喜昌のときに本陣職を命じられた[4]

本陣、脇本陣の両方が重要文化財に指定されているのは全国で唯一矢掛町のみである[5]
元禄期ごろには、山陽道では数少ない五街道と対等の輸送施設を備える規模であり[6]、鹿児島藩主島津氏、萩藩主毛利氏などが定宿とし[4]、天璋院篤姫が宿泊したという記録もある[7]

1969年(昭和44年)6月に国の重要文化財に指定された[3]

矢掛宿は山陽道尼崎から18番目の駅宿である[8]。町は宿場町・在郷町として大いに栄えたのである。矢掛宿の成立は、概略以下の通りである。

1600年(慶長5年)小堀新助は、関ケ原の戦功により旧領に加え備中において(小田・中村・江良・西三成)1万石を得、備中松山城の守護・備中国奉行を勤めた。新助は1604年(慶長9年)死去。息子、政一(遠州)は父の遺領1万2460石余を相続するとともに備中国奉行として統治した。1617年(元和3年)河内国奉行に転出する(備中の所領は1619年(元和5年)1月近江国に移し小室に藩を置いた)が、矢掛村の中心集落である「古市」が大火にあう。遠州の書状に「やかけ火事、不残焼候由[9]」とみえている[10]

遠州の後任の松山城主は、池田長幸(6万5千石)で矢掛近辺11カ所村も支配したが矢掛村は庭瀬戸川領、1619年(元和5年)から池田領となる。池田長幸は、山陽道の宿場を成立させるため矢掛村の山側を流れていた美山川の河道を村の西側に流し小田川・星田川と合流させ自然堤防を活用、古市方面へ屋敷地を造成した。石井家も1620年(元和6年)に古市より移住した。(23軒[11]

池田氏は矢掛村を陸分と町分に分け夫々に村(町)役人を置き支配した。1641年(寛永18年)に二代長常の死により無嗣絶家以後、幕府領となり宿場の整備が進んだ。(1642年~1692年・1698年(寛永15年~元禄5年・元禄11年))。1694年~1697年(元禄7年~10年)は庭瀬松平領。
1699年(元禄12年)から庭瀬板倉藩領となり、明治の廃藩まで宿場町として存続した[12]

石井家は1669年(寛文9年)酒造業を始め、1680年(延宝8年)町庄屋となり1708年(宝永5年)小田郡の大庄屋となった。その間宿場の整備と共に本陣職を務めた。本陣職は1635年(寛永12年)についたが、1698年(元禄11年)青山播磨守・目付別所孫右衛門が福山城受取のため8月11日(往路)、8月16日(復路)宿泊の記録がみえる。また1694年(元禄7年)周防徳山毛利飛騨守・肥前佐賀松本丹後守が宿泊している。参勤交代としての大名宿泊は1838年(元文3年)阿部伊勢守である。以後、1750年ごろから幕末まで大名が年間14件、幕府御用関係が8件ぐらいの休泊利用があった[13]

以下の建造物及び土地が「旧矢掛本陣石井家住宅」の名称で国の重要文化財に指定されている。

  • 主屋
  • 座敷
  • 御成門(附 土塀2棟)
  • 裏門(附 土塀1棟)
  • 内倉
  • 西倉
  • 米倉
  • 酒倉
  • 絞り場
  • 麹室
  • 中門
  • (附指定)隠居所
  • (附指定)番所、洗場及び風呂場(1棟)
  • (附指定)家相図 1枚
  • 宅地 3,163.98平方メートル(地域内の鎮守社を含む)

現在の敷地は、間口36.4メートル、奥行90メートル、面積3164平方メートル(約959坪)[2]
大きく分けて店・居住用、本陣用、酒造用の3つのエリアに分かれている[14]

主屋以下の建造物11棟と附(つけたり)指定の「番所、洗場及び風呂場」は1969年に国の重要文化財に指定[15]、1983年には宅地および附指定の隠居所と家相図が追加指定された[16]

重要文化財の指定では「旧矢掛本陣は規模が大きく、建物の質も優れ、付属室に至るまでよく保存されている。主要街道の本陣として類例も少なくその構えと風格をしのぶ遺例として価値が高い」と説明されている[2]

店・居住用[編集]

主屋
桁行19.938メートル、梁間9.015メートル[17]
建て替えは1855年(安政2年)に着手し、建築後昭和期まで度々改造が行われた。主屋は店棟・台所棟・居室棟で構成されている[14]

本陣用[編集]

中心は座敷棟であり、1832年(天保3年)に建て替えられたものである。門・玄関・座敷・風呂・便所で構成されている[18]

広さとしては、ほぼ130坪で、敷地面積の13%程である。

座敷
桁行10.6メートル、梁間9.3メートル[17]

酒造用[編集]

米蔵は土蔵造りで幕末頃の建物である。(1848年~1854年)。酒蔵の中央部の7間半は安永頃(1772年~1781年)のもので、柱は栗材である。2階は杜氏等酒造関係の使用人が起居した。絞り場は、明治初年頃酒造南部分とともに建設された[19]

内倉
桁行7.623メートル、梁間4.770メートル[17]
西倉
桁行12.124メートル、梁間5.910メートル[17]
米倉
桁行11.820メートル、梁間7.880メートル[17]
酒倉
桁行29.550メートル、梁間9.850メートル[17]
絞り場
桁行5.622メートル、梁間6.895メートル[17]
麴室
桁行 9.108メートル、梁間3.940メートル[17]

裏門[編集]

小田郡史によると備中西江原の森家の長屋門を1706年(宝永3年)に移築したとあるが解体修理時(昭和47年~48年)の調査によると安永年間に建造されたものである[20]

石井家の系譜[編集]

概要[編集]

石井家は江戸時代の矢掛の本陣職を代々務め、酒造業で栄えた豪商、大地主であった。

成り立ち[編集]

屋号は佐渡屋といい、先祖は佐渡国出身であると言われているが明らかではない。戦国時代末期に備中猿掛城主である毛利元清に仕えていた石井刑部左衛門秀勝の三子喜元が関ヶ原の戦いの後、古市という茶臼山の西にある集落に土着帰農したことが始まりである[21]
その後、1620年(元和6年)に古市から現在の石井家の場所に移る。1635年(寛永12年)に、2代当主の源次郎喜昌が本陣職に任命される[22]

家系図[編集]

 

 

刑部左衛門秀勝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎喜元①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎喜昌②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次右衛門秀昌③ 十左衛門

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎喜綱④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎喜門⑤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎義智⑥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎世昌⑦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逸平喜哉⑧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎喜祉⑨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎喜通⑩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鑑吾喜延⑪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源次郎喜彬⑫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

礼二郎 遵一郎⑬

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祥一郎⑭

 

 

 

 

酒造業[編集]

石井の2代目当主である源次郎喜昌は、元禄年間中に家業として酒造業を創業する。1697年(元禄10年)の酒造高は30石余りで、当時の矢掛町分では最高であった。その後、石井家の酒造高は急増し、寛政年間中には600石を超え、矢掛筆頭の豪商となった[21]

学問和歌[編集]

石井家では、6代義智を筆頭に代々、学問、詩歌に造詣が深く、山陽道を往来する文人、墨客と親交を重ねた[21]。有名な歌人として、12代目源次郎喜彬の分家始三郎の三男石井直樹(本名・直三郎)が挙げられる[23]

ゆかりの人物[編集]

毛利大膳大夫敬親
21回にわたり本陣に訪れている(内19回は宿泊)。毛利家としては、32回訪れている[24][25]
遠山左衛門尉景晋
文化10年(1813)10月9日、文化11年(1814)8月17日、本陣に宿泊[26]
阿部伊勢守正弘
天保8年(1837)3月6日、本陣に宿泊[26]
松平薩摩守斉彬
天保から安政にかけて7回矢掛に訪れる(内6回宿泊)[26]
頼山陽
1797年3月19日 19歳の時に「発(發か)矢掛」という七言絶句を作る[27]
頼杏坪
裏門「清音亭」からの風景の漢詩を衝立に残す[28]
天璋院篤姫
嘉永6年(1853)9月17日宿泊。海で江戸に向かったとの説もあるが、矢掛宿石井家文書に、篤姫一行(総勢259名)が矢掛本陣に宿泊(本陣に53名宿泊)した記録が残っている[29]
バーナード・リーチ
本陣の南側にある嵐山に登り、本陣の絵を残す[30]
犬養毅
「健行徳」の書を残す。
十返舎一九
『方言修行 金草履 二六編』(東海道中膝栗毛とは別のシリーズもの、長崎からの帰路(西国陸路)を描いている)に矢掛に宿泊、石井家本陣の番頭スズヤリンスケ(銑屋林助:ズクヤリンスケの間違い)とのやり取りが記述されている[31]

岡山県小田郡矢掛町矢掛3079

交通アクセス[編集]

車の場合[編集]

鴨方ICから約20分
玉島ICから約25分
笠岡ICから約30分

鉄道の場合[編集]

利用情報[編集]

  • 開館時間
    • 午前9時~午後5時(11月~2月は4時)
  • 休館日
    • 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
  • 入館料
    • 一般人: 500円
    • 団体(20名以上): 400円

周辺情報[編集]

  1. ^ a b 岡山県の歴史散歩編集委員会『岡山県の歴史散歩』野澤 伸平、2009年、201頁。ISBN 978-4-634-24633-1。
  2. ^ a b c 武 泰稔,中山 和,池田 喬,岡田 泰全,柴口 成浩『矢掛の本陣と脇本陣』吉田 研一、1991年、35頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  3. ^ a b 国指定文化財等データベース”. 2017年8月29日閲覧。
  4. ^ a b 『日本歴史地名大系第34巻 岡山県の地名』下中直也、1988年、800頁。ISBN 4-582-49034-4。
  5. ^ 半田隆夫『薩摩から江戸へ』西 俊明、2008年、80頁。ISBN 978-4-87415-704-6。
  6. ^ 『岡山県大百科事典 下巻』松枝達文、1979年、1005頁。
  7. ^ 半田隆夫『薩摩から江戸へ』西 俊明、2008年、81頁。ISBN 978-4-87415-704-6。
  8. ^ 武 泰稔、中山 和、武田 喬、岡田 泰全、柴口 成浩『矢掛の本陣と脇本陣』藤原英吉、1991年、10頁。
  9. ^ 『元和三年の書状 小堀政一書状(折紙)』。
  10. ^ 『矢掛町史』矢掛町、1982年、341頁。
  11. ^ 『古記録』。
  12. ^ 『矢掛町史』矢掛町、1982年、341-349頁。
  13. ^ 『矢掛町史』矢掛町、1982年、711-728頁。
  14. ^ a b 武 泰稔,中山 和,池田 喬,岡田 泰全,柴口 成浩『矢掛の本陣と脇本陣』吉田 研一、1991年、41-42頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  15. ^ 昭和44年6月20日文部省告示第292号
  16. ^ 昭和58年6月2日文部省告示第74号
  17. ^ a b c d e f g h 『重要文化財 旧矢掛本陣石井家住宅保存修理工事報告書』、9-22頁。
  18. ^ 武 泰稔,中山 和,池田 喬,岡田 泰全,柴口 成浩『矢掛の本陣と脇本陣』吉田 研一、1991年、52頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  19. ^ 武 泰稔,中山 和,池田 喬,岡田 泰全,柴口 成浩『矢掛の本陣と脇本陣』吉田 研一、1991年、65頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  20. ^ 武 泰稔,中山 和,池田 喬,岡田 泰全,柴口 成浩『矢掛の本陣と脇本陣』吉田 研一、1991年、38頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  21. ^ a b c “宿場町矢掛を歩く”. 矢掛教育委員会. (2012). pp. 26-27 
  22. ^ “宿場町矢掛”. 渡辺怪男. (1998). pp. 62-63 
  23. ^ “やかげの文学散歩道”. 矢掛町文化協会. (2011). pp. 62-63 
  24. ^ 武泰稔 他『矢掛の本陣と脇本陣』藤原英吉、2002年、33-41頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  25. ^ 矢掛町史編集委員会『矢掛町史 本編』矢掛町、1982年。
  26. ^ a b c 矢掛本陣の宿札と宿泊客
  27. ^ 武泰稔 他『矢掛の本陣と脇本陣』藤原英吉、2002年、82頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  28. ^ 武泰稔 他『矢掛の本陣と脇本陣』藤原英吉、2002年、82頁。ISBN 4-8212-5153-1。
  29. ^ 半田隆夫『薩摩から江戸へ-篤姫の辿った道』西俊明、2008年、81-88頁。ISBN 978-4-87415-704-6。
  30. ^ バーナード・リーチ『バーナード・リーチ日本絵日記』講談社、2002年、108頁。ISBN 978-4061595699。
  31. ^ 吉原睦『岡山文庫304 十返舎一九が記した岡山』塩見千秋、2002年、142-144頁。ISBN 978-4-8212-5304-3。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]