ジェームズ・ティソ – Wikipedia

ジェームズ・ティソ(James Tissot、1836年10月15日 – 1902年8月8日)フランスの画家、版画家。本名はジャック=ジョゼフ・ティソ (Jacques-Joseph Tissot)だが[1]、英語風の名である「ジェームズ」を名乗った。

ジェームズ・ティソは、1836年、フランス西部の町ナントに生まれた。その後、パリに出てイポリット・フランドランとルイ・ラモットに絵を学んだ[2]。1859年、サロンに出品し、初入選を果たした[3]。普仏戦争(1870-71年)を経てパリ・コミューンに参加した後、イギリスのロンドンに渡り、多くの作品を制作した[2][3][4]。10年ほど滞在した後、帰国し、パリに戻った[2][3]。パリでは、1885年にサロンに出品した風俗画『パリの女』(La Femme à Paris)で成功を収め、流行画家となった[3]。しかし、信仰上の危機に襲われた彼は、再び祖国を離れ、パレスチナに10年ほど滞在した[3]。パレスチナから帰国後は、フランス東部のドゥー県シュヌセ=ビュイヨンにある修道院で聖書の挿絵に取り組んだ[3]。1902年、同地にて死去した。

  • ジェームズ・ティソは、ジャポニスムをいち早く取り入れた点でも重要な存在である[5]。パリ滞在中の徳川昭武の画学教師となり、1868年には昭武の肖像(水彩画)を描いている[6]

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注釈[編集]

出典[編集]

外部リンク[編集]