Month: April 2022

俵田明 – Wikipedia

俵田 明(たわらだ あきら、1884年(明治17年)11月13日 – 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の経営者、宇部興産創立者、同社社長[1][2]。 来歴・人物[編集] 山口県宇部市出身。勘兵衛の二男[2]。俵田家は宇部領主福原氏家臣の家であったが、他の士族と同様に没落の一途を辿っていた。 興成義塾卒業後は、高輪の大村徳敏の家に書生として住み込みながら築地の工手学校を卒業。その後、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得るが、1915年(大正4年)、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社。炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1928年(昭和3年)に専務に就任し[1]、1942年(昭和17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。戦後は石炭化学事業、ナイロン原料事業進出などを手掛け、同社の業容を大きく発展させた。 また、化学工業統制会設立委員、化学工業統制会および石炭工業統制会会長選考委員、NHK経営委員会委員、日独伊親善協会会員、日本経営者団体連盟常任理事、経済団体連合会常任理事、中国電力取締役などの役職を歴任している。 1948年(昭和23年)、石炭国管問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[3]。 1958年(昭和33年)3月21日死去。享年73。 なお、宇部市内の恩田運動公園に併設された宇部市俵田翁記念体育館は、宇部興産創立60周年記念事業として俵田を顕彰する目的で同社が建設し、宇部市に寄贈したものである。体育館としては宇部市内最大規模を誇り、1963年(昭和38年)と2011年(平成23年)に国民体育大会の会場となったほか、大規模なスポーツ大会に使用されている。 俵田家と音楽[編集] 俵田家は親類に属澄江、属啓成らの音楽家がおり、また俵田寛夫が宇部好楽協会の初代会長を務めるなど、クラシック音楽への関りが深かった。俵田寛夫はユーディ・メニューインや、ヨゼフ・シゲティ、アルフレッド・コルトーといった一流の音楽家を自邸へ招待し、渡辺翁記念会館にて演奏会を開いていた。宇部市出身の元日本電気専務の新田謙治郎は八幡製鐵を訪問した際に、八幡製鐵の部長から「音楽で宇部の俵田家、美術で倉敷の大原家は羨望の的だった」と言われたという[4]。宇部市では2008年度より日本フィルハーモニー交響楽団によるチャリティーコンサートが開催されている(主催:宇部興産 共催:渡辺翁記念文化協会、宇部好楽協会)。 明には息子がおらず、娘・初枝の夫・属寛夫(さっか・ひろお)が結婚を機に俵田家の婿養子となって俵田姓を継ぎ、後に宇部興産の副社長を務めている。また、寛夫の義弟(妹・澄江の夫)に音楽評論家の属啓成がいる。 寛夫と初枝の間には4男1女がおり、娘(明の孫)の万理子は衆議院議員で後に大蔵大臣を務めた林義郎に嫁ぎ、その息子・芳正(明の曾孫)は現在衆議院議員を務めている。息子のうちの一人である武は元内大臣の木戸幸一の孫にあたる知子と結婚し、木戸家の婿養子となっている。 林平四郎━━林長五朗━━林 佳介━━━林 義郎(衆議院議員/大蔵大臣/通産官僚) (貴族院議員)    (衆議院議員)   ┃                              ┃            (音楽評論家)   ┃

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薊州 – Wikipedia

薊州(けいしゅう)は、中国にかつて存在した州。唐代から民国初年にかけて、現在の天津市北部および河北省唐山市西部にまたがる地域に設置された。 730年(開元18年)、唐により幽州の3県が分割されて、薊州が立てられた。742年(天宝元年)、薊州は漁陽郡と改称された。758年(乾元元年)、漁陽郡は薊州の称にもどされた。薊州は河北道に属し、漁陽・三河・玉田の3県を管轄した[1]。 936年(天福元年)、後晋の建国にあたって、薊州は燕雲十六州のひとつとして契丹に割譲された。 遼のとき、薊州は南京析津府に属し、漁陽・三河・玉田の3県を管轄した[2]。 1122年(宣和4年)、金により薊州は北宋に返還された。薊州は燕山府路に属し、漁陽・三河・玉田の3県を管轄した。1125年(宣和7年)、薊州は金に占領された[3]。 金のとき、薊州は中都路に属し、漁陽・遵化・豊潤・玉田・平峪の5県と石門・韓城の2鎮を管轄した[4]。 元のとき、薊州は大都路に属し、漁陽・豊潤・玉田・遵化・平谷の5県を管轄した[5]。 1368年(洪武元年)、明により大都路が北平府と改められ、薊州はそのまま北平府に属した。1403年(永楽元年)、北平府が順天府と改められ、薊州はそのまま順天府に属した。薊州は玉田・豊潤・遵化・平谷の4県を管轄した[6]。 清のとき、薊州は順天府に属し、属県を持たない散州となった[7]。 1913年、中華民国により薊州は廃止され、薊県と改められた。 ^ 『旧唐書』地理志二 ^ 『遼史』地理志四 ^ 『宋史』地理志六 ^ 『金史』地理志上 ^ 『元史』地理志一

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塩、コショウ – Wikipedia

この項目では、GReeeeNのアルバムについて説明しています。2008年に解散したお笑いコンビについては「塩コショー」をご覧ください。 『塩、コショウ』(しお コショウ)は、日本の4人組ボーカルグループ・GReeeeNの3枚目のアルバムである。2009年6月10日に発売。第51回日本レコード大賞最優秀アルバム賞受賞作品。 前作『あっ、ども。おひさしぶりです。』以来、約1年ぶりとなる作品。 ジャケットのアイスクリームを食べている白人男児の名はショーン・コショーンといい、アルバム名の「塩、コショウ」とかけていると見られる。[要出典] テレビCMには大泉洋や大橋のぞみを起用した[1]。 発売10日目で、前作に続くミリオン出荷となった。 オリコンアルバムチャートでは、2009年12月21日付週間チャートでミリオンセラーを達成。これは嵐『All the BEST! 1999-2009』に続く記録で、2009年発売のオリジナルアルバムとしては初となる[2]。なお、オリコンにおける「2009年度」に発売したアルバムでは、他にMr.Children『SUPERMARKET FANTASY』がオリジナルアルバムでミリオンセラーを達成している。 タイトル 特典 価格(税込) 販売生産番号 初回限定盤A -PV盤- CD+DVD 3,086円

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五十嵐日出夫 – Wikipedia

五十嵐 日出夫(いがらし ひでお、1932年2月7日 – 2006年10月20日)は、日本の工学者・官僚。北海道大学名誉教授・北海学園大学名誉教授。北海道における都市計画学の第一人者。札幌市出身[1]。 1954年(昭和29年)北海道大学工学部土木工学科卒業後、同年運輸省入省。間もなく北海道開発局へ出向。1956年(昭和31年)北海道大学工学部土木工学科専任講師(都市計画学担当)。1958年(昭和33年)同工学部土木工学科助教授(都市計画学担当)。1975年(昭和50年)同工学部土木工学科教授(交通計画学講座)。1995年(平成7年)北海道大学停年退官。同年北海学園大学工学部土木工学科教授(都市計画学担当)。1997年(平成9年)同大学院工学研究科長( ~ 1999年(平成11年)まで)。2002年(平成14年)北海学園大学退職。同年社団法人北海道開発技術センター会長に就任。 この他、学会においては土木学会理事、土木教育委員会委員長、土木史研究委員会委員長や、学外では、北海道都市計画審議会・札幌市都市計画審議会・小樽市都市計画審議会・苫小牧市都市計画審議会の会長ないし副会長を歴任した。 2006年(平成18年)10月20日、気道閉塞のため74歳で死去。 研究領域[編集] 交通現象や都市活動を定性的かつ定量的に把握するモデルや理論の研究。後年、風土工学も対象とし、工学的立場から教育論も展開した。 学術態度[編集] また、北海道大学において、交通計画学、都市地域計画学、土木史学の創設・発展に貢献。さらに、街路除雪の経済効果推定の研究を行い、積雪寒冷地における除雪予算の重要性を明示し、除雪基準の改善に寄与しました。さらに、道路ネットワークの理論構成に関する研究では、北海道のみならず全国の道路交通体系の整備理論を提案や青函トンネルの客観的な輸送実績データを分析し、航空会社利用や物流事業のニーズを適確に把握して有効利用方策を提言をも行った。 『土木計画数理』(共著、朝倉書店、1976年) 『JR北海道の課題 : 道新フォーラム』(共著、北海道新聞社〔道新ブックレット8巻〕、1987年) 『日本土木史』(共著、技報堂出版、1994年) 『ナイフ持たせぬ教育論』(共著、毎日新聞社、1998年) 『土木用語大辞典』(五十嵐が編集委員長、技報堂出版、年)

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ヴィルヘルム・レディース – Wikipedia

ヴィルヘルム・レディース ヴィルヘルム・レディース(Wilhelm Rediess、1900年10月10日 – 1945年5月8日) は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の将軍。親衛隊における最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)。 ドイツ帝国プロイセン王国最西部のハインスベルク(de:Heinsberg)出身。父は法廷の従業員をしていた。学校を出た後、電気技師となる。1918年6月にドイツ帝国陸軍に入隊。歩兵として第一次世界大戦の最終局面に従軍した。1918年11月に除隊。戦後も電気技師をしたが、1929年に経済危機で職を失った。1925年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の突撃隊(SA)に入隊。さらに同年12月にナチス党にも入党が認められた。1927年にデュッセルドルフのSA部隊の指揮を任されたが、1930年には部隊員とともに親衛隊(SS)へ移籍した。素早い昇進をして1935年4月20日には親衛隊中将(SS-Gruppenführer)に昇進している。 第二次世界大戦開戦直後、彼はプロイセンにおける人種法の執行を任され、東プロイセンのユダヤ人の強制収容所などへの送還に関与していた。その際に1,558人の精神病と診られたユダヤ人の処理を命じられ、彼はガストラックで殺害を実行し、70日ほどで達成した。 この「功績」で占領したノルウェーの親衛隊及び警察高級指導者に任じられ、以降ドイツの敗戦までこの地位を保持した。金髪碧眼の北欧人種が多いノルウェーではレーベンスボルン計画を執行された。ドイツ人とノルウェー人の結婚が奨励され、ノルウェーにおいては8,000人の子供がこの計画の下に生まれることとなった。ドイツの降伏を聞いた後、1945年5月8日にノルウェーで自決した。ノルウェー占領地弁務官(Reichskommissar)のヨーゼフ・テアボーフェン(de:Josef Terboven)はレディースの遺体をブンカーに運び込むとともに、自らもその中に入ってダイナマイトを爆発させ、運命を共にした。 参考文献[編集] Mark C. Yerger 著 「Allgemeine-SS」(出版Schiffer Pub Ltd)80ページ。ISBN 0764301454  ISBN

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イオン半径 – Wikipedia

イオン半径(イオンはんけい、ionic radius)とはイオン結晶の結晶格子中においてイオンを剛体球と仮定した場合の半径である。 イオン半径はオングストローム(Å)あるいはピコメートル(pm)という単位で表示されるが、後者がSI単位である。 イオンの電子雲が球対称であると見做せる場合、イオン結晶中の陽イオンおよび陰イオンの原子間距離は、両者の半径の和であると仮定することができる。 X線回折により得られる原子間距離は陽イオンと陰イオンの半径の合計であり、単独イオンの半径を直接求めることはできない。そこで、1927年にライナス・ポーリング(Linus Carl Pauling)は1価イオンについて半径が有効核電荷に反比例するものと仮定して半径を求め、これを基に結晶構造のデータがあるものについて各種原子のイオン半径を決定した。 例えばフッ化ナトリウム結晶格子の格子定数は462 pmであり、ナトリウムイオン Na+ およびフッ化物イオン F− の半径の合計は231 pmとなるが単独のイオン半径はこの方法から知ることができない。 これらのイオンは共にネオンの電子配置 1s22s22p6 をとりスレーター軌道に基いて遮蔽定数を求めると 4.15 となる。ナトリウムイオンの有効核電荷は 11−4.15=6.85

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高村武次 – Wikipedia

高村 武次(たかむら たけじ、1923年 – 2005年)は、日本の映画監督、元岩波映画製作所社長。旧制栃木県立栃木中学校を経て東京帝國大学法学部卒。 監督[編集] 天竜川 – 1952年 谷川岳の記録 遭難 – 1957年, 兼 脚本, 第12回芸術祭芸術祭賞 佐久間ダム 総集編 – 1958年,

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擒賊擒王 – Wikipedia

擒賊擒王(きんぞくきんおう)は、三十六計の第十八計。 『敵を虜にしたければ、その王を捕らえるべきである(そうなれば敵軍はただの賊と同じだ)』 敵の主力を叩き、指揮官、中心人物を捕らえられれば、(末端の部隊といちいち交戦せずとも)敵を弱体化できるという、攻撃目標選択の妙と、効果判断の重要性を教える計略。 この語は、唐の詩人杜甫(とほ)の「前出塞(ぜんしゅつさい)」にある「射人先射馬 擒敵先擒王」(人を射んとすれば先ず馬を射よ、敵を擒えんとすれば先ず王を擒えよ)が出所である。 唐の玄宗はしきりに出兵し、各所での戦いも長引くことが多く、兵士も民衆も疲弊していた。それに対し「前出塞」は、敵の指揮官など要点を突けば消耗を少なくして目的を達成できる。そういった戦略戦術もなくいたずらに攻めるだけでは、敵味方の死傷者が多くなってしまう、という歌である。 自軍が攻め勝って優勢にあるときに、戦利品を奪うことに気を取られて、敵の精鋭部隊や首魁を始末することを忘れるなら、虎を自由にして山に帰すようなものである。敵軍の旗の位置ではなく、その動きを見て、敵の主将の位置を判断しなければならない、とされる。なお、本来の語は、「射人先射馬 擒敵先擒王」であり、将自身を捕らえずとも、その手足となっている副官級の人々を捕らえるという方式(射人先射馬)もあわせて示している。 唐代、安禄山の乱の鎮圧軍の一将であった張巡は、まず敵の本陣にまっすぐに突撃して敵を混乱させ、五十人あまりの敵将、五千人あまりの敵兵を斬殺しまくったが、敵の主将尹子奇の顔が分からなかった。そこで張巡は、よもぎの幹で作った矢を打たせた。この矢に当たった敵兵が「張巡の軍は矢が尽きてよもぎを矢としている」と喜び勇んで尹子奇のもとに報告に駆けつけたところを、すかさず南霽雲が尹子奇の左目を射抜いた。重傷を負った尹子奇を捕らえようと張巡の兵は彼に向けて殺到する。尹子奇は堪えられずその場から敗走。敵軍は退却した。 他にも、斉の孫臏が魏との戦いでわざと逃走しているように装い、好機と見た魏の将軍龐煖が僅かな手勢だけで追撃してきたのを待ち伏せて殺害した事や、秦の商鞅が敵の将軍と旧知の仲だったため、「戦わず会って気持よく分かれよう」と誘って捕縛したことなどがある。これらにより指揮官を失った軍は混乱し蹴散らされることになっている。 逆に首魁を取り逃がしたが故に敗北を喫した例も多数あり、呉の伍子胥が楚の都を落としたものの楚王を捕らえられず後の再興を許したり、呉王夫差が越王勾践を捕らえても許し、後に復讐されたことなどがある。

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