ドゥラ・エウロポス – Wikipedia

座標: 北緯34度44分50秒 東経40度43分51秒 / 北緯34.74722度 東経40.73083度 / 34.74722; 40.73083 ドゥラ・エウロポス ドゥラ・エウロポスのベル神の神殿跡 ドゥラ・エウロポス(Dura-Europos、「エウロポスの砦」)は、ヘレニズム時代からパルティアおよびローマ帝国の支配下の時代にかけて繁栄した古代都市。その遺跡は現在のシリア東部、イラクとの国境付近にあり、ユーフラテス川右岸(南岸)の高い断崖上の平地に位置する。 ドゥラ・エウロポスはセレウコス朝が築き、後にパルティアに征服され大きな町となった。116年にトラヤヌス帝の遠征でローマ帝国に編入され、一時はパルティアが奪還したが、164年にルキウス・ウェルスの遠征で再度ローマ領となった。2世紀後半から3世紀にかけてはローマの東部国境の軍事拠点としてきわめて重要な植民都市になった。しかし3世紀前半にサーサーン朝によってパルティアが倒れローマを圧迫するようになり、257年にはシャープール1世の遠征で陥落し、以後廃墟のまま放棄された。 20世紀前半にドゥラ・エウロポスの発掘が始まり、考古学的に重要な発見が次々になされた。256年から257年にかけてのサーサーン朝による征服で放棄されて以降、ドゥラ・エウロポスには建物などが建てられることはなかったため、後世の住居や要塞建築などが残り、他のローマ都市のような、古代都市の上に新たな施設等が建設され、古代の都市計画を分かりにくくするという事柄が起こらず、このためローマの植民都市の姿を知る上で貴重な遺跡となった。また帝国の辺縁にあるという立地のため、ギリシア、ローマ、パルミラ、シリア、ペルシア、オリエントなど異なった文化がこの町には共存しており、その遺物も遺跡から多く見つかった。様々な文化に由来する神々に捧げられた神殿、ユダヤ人が建てたシナゴーグ、ローマの軍事植民都市によく見られるミトラ教神殿、壁飾り、碑銘、軍の装備、墓所、そしてドゥラ・エウロポスが滅ぼされた攻囲戦の痕跡などもこの遺跡からは発見されている。 都市遺跡はユーフラテス川から切り立った崖の上にあり、ユーフラテスの流れを見下ろすことができる。崖の上の平らな土地が都市になっているが、その北と南に深い谷(ワジ)がユーフラテス川に向って落ち込んでいるため、都市の広がりの限界になっているとともに都市を守る天然の濠となっている。西はシリア砂漠に向けて平地が続いている。町の中にもいくつかの谷やワジがユーフラテス川沿いの崖へ向かって走っており、市街地とアクロポリスおよび城塞を分ける境界線になっている。ユーフラテス沿いの地方は豊かな農地が続いているが、ドゥラ・エウロポスのある崖の上は砂漠地帯である。 市街地は、ユーフラテスの崖に沿うように南東から北西へ走る通りと、平地から崖に向かう南西から北東へ向けて走る通りが直行しており、碁盤目状の街並みを形成している。町の東側は、ワジがいくつかあり起伏もあるため直行する街路が途切れており、断崖とユーフラテスを背にした堅固な要塞などが並ぶ。町の西側は繁華な地区で、これらはすべて城壁で囲まれている。東・北・南は崖に囲まれた地形であるため、サーサーン朝による最後の攻撃は砂漠に開けた西側から行われている。 都市の歴史[編集] ドゥラ(Dura)、ドゥル(Duru)、デル(Der)、ドル(Dor)は、ヘレニズム期以前のバビロニアやアッシリアの集落に共通する地名であり「集落」を意味する。この遺跡からはバビロニア末期の円筒印章や楔形文字の書かれた粘土板なども出土しているが、ヘレニズム期以前の建築物の跡は現在見つかっていない。ヘレニズム期の初期には、マケドニア王国の退役兵らがこの地を与えられ植民集落を築いたとみられる。 ヘレニズム期[編集] 「エウロポス」の町は、紀元前303年にセレウコス朝により、地中海側のアンティオキアとチグリス川沿いのセレウキアを結ぶ東西交易路と、ユーフラテス沿いに走る交易路が交差する地点であるドゥラの地に建設された。ニカトールという人物が都市を築いたことが知られるが、彼の生涯は不明である。王であるセレウコス1世ニカトールの親戚とも考えられる。新しくできた都市はセレウコス1世ニカトールの故郷と同じエウロポスの名を付けられた。紀元前5世紀のギリシアの都市計画家ミレトスのヒッポダモスの基準に則り、37メートル×70メートルの長方形の街区が規則正しく設けられ、中央には都市機能の中心となる広場であるアゴラが置かれた。周囲は城壁と城塞で厳重に守られていた。

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ヴィクトル・スヴォーロフ – Wikipedia

ヴィクトル・スヴォーロフ ヴィクトル・スヴォーロフ(ロシア語: Ви́ктор Суво́ров、1947年 – )は、イギリスの作家、歴史家。ロシア人。元ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の諜報員。 ヴィクトル・スヴォーロフはイギリス亡命後に本を出版する際に付けたペンネームで、本名はウラジーミル・ボグダーノヴィチ・レズン(Влади́мир Богда́нович Резу́н Vladimir Bogdanovich Rezun)。 1947年、ウラジオストクの海軍軍人一家に生まれる。11歳の時、カリーニン・スヴォーロフ学校(幼年学校)に入校した、その後、キエフ諸兵科共通学校に入校した。1968年圧、沿カルパチア軍管区の戦車小隊長に任命。彼が勤務した部隊は、1968年8月のチェコスロバキア占領に参加した。チェコスロバキアからの部隊撤収後、沿カルパチア軍管区に勤務し続けた後、戦車中隊長として沿ヴォルガ軍管区に異動。 1969年春、レズン上級中尉は、沿ヴォルガ軍管区本部第2局(情報)の情報将校となった。1970年夏、有望な将校として、軍事外交アカデミー受験のためモスクワに送られた。彼は試験に合格し、第1学部に編入された。 アカデミー卒業後、GRUの中央機構に送られ、第9局で働いた。1974年、レズン大尉は、駐ジュネーブ国連附属ソ連代表部書記官補をカバーにして、妻女と共にジュネーブに派遣された。彼の業務は上手く進み、三等書記官に昇進した。 1978年6月10日、レズンは家族と共に失踪し、直ちに捜索願が出されたが、6月27日、スイス当局はレズン一家がイギリスに亡命したことをソ連側に伝えた。ソ連は、レズンの父親を通して説得を試みたが、失敗に終わった。その後、レズンは、祖国反逆の罪で欠席裁判で死刑を言い渡された。 イギリスでは、ヴィクトル・スヴォーロフとして執筆活動に従事し、『ソ連の軍事諜報』、『スペツナズ』、『解放者の話』等が出版された。彼自身の言葉によれば、最も重要な作品は、ソ連が第二次世界大戦を始めたことの証明に当てられた『砕氷船』であるという。 『ザ・ソ連軍』 吉本晋一郎訳、原書房、1983年 『ザ・ソ連軍(続)』 吉本晋一郎訳、原書房、1983年 『ソ連軍の素顔』 吉本晋一郎訳、原書房、1984年 『GRU―ソ連軍情報本部の内幕』 出川沙美雄訳、講談社、1985年

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ジタン – Wikipedia

この項目では、タバコの銘柄について説明しています。ヨーロッパの民族については「ロマ」をご覧ください。 ジタン(フランス語: Gitanes)とは、フランスで最も一般的であり、ゴロワーズと人気を二分する煙草のブランドである。 製造に関する歴史[編集] ジタンとは「スペインのジプシー女」を意味する。パッケージには扇を持ったジプシー女性のシルエットが描かれる。 1947年にマックス・ポンティによってパッケージがデザインされ、踊り子が青い背景の中で紫煙を纏って踊る秀逸な絵柄は「ジタンブルー」として世界的に有名であり、煙草パッケージのデザインでは度々代表作として例に挙がるほどである。 かつてはフランス煙草産業界ナンバー1シェアを誇ったセイタ社が製造を行っていたが、1999年10月に同社がスペインのタバカレラ社と合併し、アルタディス社となり、2008年にはイギリスのインペリアル・タバコ社に買収され、同社の傘下に入って生産されている。 現在日本市場で売られているのはジタン・フィルトル(Gitanes Filtre)であり、価格は550円である。ジタン・ブロンド(Gitanes Blondes)はかつて100mmのたばこ「ジタン・ブロンド100s」として日本たばこ産業がライセンス生産していたが、ブランド銘柄の見直しなどで、2003年頃生産中止となった。 また、名称が以前はジタン・カポラル(Caporal・一般には黒煙草(英語版)を指す。フランス語で「伍長」の意味であり、上等品を強調している)であったが、近年Gitanes Filtreに代わり、ジタン愛好家の人々は買いだめしておいたカポラルを時折眺め、吸うことでノスタルジーに浸るという。 現在フランス国内での生産は停止され、スペインを経て、2021年現在はポーランドの工場で生産が続けられている。 フランス語の正式な発音は女性形への変化がなされるため「ジターヌ」とされるべきであるが、現在日本国内においては「ジタン」の呼称が一般的であり、庄野真代の楽曲『飛んでイスタンブール』(作詞:ちあき哲也)の歌詞にも「ジタン」として登場する。 ジタンの特徴[編集] ジタンはパッケージと煙草自体の形状、そして煙草の封入配置が特異であることが知られている。 まずパッケージはスライド式の二重箱デザインを採用し、縦に短く、横に長いものだった。マールボロなどの典型的な1対1.62の黄金比形状ではなく、約1対1.4の白銀比の比率である。 次に煙草自体であるが、フィルター部分が異様に短い。従来は葉の部分が太かったが、2010年6月より、一般的な太さになっている。 最後に通常は6・7・7の3列で封入されている煙草であるが、ジタンは縦横が逆転しているが故に10本が2列になって封入されている。 このパッケージと煙草の形状、そして煙草の配置の故に、残りが少なくなるとパッケージの中で煙草が大きく動き、ポケットの中に煙草の葉が大量にこぼれる可能性が大きい。また、他のタバコと比べて灰皿の中でフィルターに引火しやすいため、吸った後の消火は念入りにする必要がある。

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文明の生態史観 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年12月) 『文明の生態史観』(ぶんめいのせいたいしかん)は、1957年(昭和32年)に『中央公論』に発表された梅棹忠夫の論考。『知的生産の技術』と共に梅棹の代表作。1967年(昭和42年)に中央公論社から叢書版が出版され、1974年(昭和49年)に中公文庫から文庫版が出版され、1998年(平成10年)に同文庫の改版が出版された。また1989年(平成元年)に『梅棹忠夫著作集』〈第5巻〉に、2002年(平成14年)に中公クラシックスに収録された。 梅棹が1955年(昭和30年)に行ったアフガニスタン、インド、パキスタンへの調査旅行の際に、感じたことを体系的にまとめ、文明に対する新しい見方を示したものである。前半部分にはその旅行の内容をつづりながら、そこで感じた文化性、または日本との差異、そしてそれぞれの文化における価値観が述べられている。後半部分ではそれに基づき、現代でもみられる、「西洋と東洋」という枠組みによって世界を区分することを否定し、第一地域と第二地域という区分で文明を説明した。 それによると、西ヨーロッパと日本は第一地域に属し、その間をなす、広大な大陸部分を第二地域とした。第二地域においては早い時間で巨大な帝国が成立するが、それらは制度などに問題を抱え、没落していくという。逆にその周縁に位置する第一地域においては気候が温暖で、外部からの攻撃を受けにくいなど、環境が安定している為、第二地域よりは発展が遅いものの第二地域から文化を輸入することによって発展し、安定的で高度な社会を形成できるとした。当時、この理論は大きな話題を呼び、半世紀以上経ても評価されている。1967年(昭和42年)の中公叢書での刊行時には、推薦文を小松左京が寄せており[注 1]、1974年(昭和49年)の中公文庫での刊行時は、谷泰が解説を担当した。2002年(平成14年)の中公クラシックス版では、白石隆が解説を担当した。 実地調査に基づく考察[編集] 前半では実地調査に基づいて筆者が考察した事が述べられる。ここでは主にインド、アフガニスタン、パキスタンに行った著者の体験を元に、日本が急速に近代化した要因と他のアジアの国々がそうできない要因には根本的な違いがあることなどを肌で感じ、本質的に日本は特殊な国なのだという考えを持つにいたる。その差がどこから生じるのかを次の章では生態学を基盤として考察する 文明の生態史観[編集] 日本を地理的な座標で考えれば確かにアジアに属するが、日本の文明(ここでは経済、生活水準などを基盤にどの程度高度化しているかということ)を考えると特異に高度化した文明で、東洋という枠組みには到底おさまらない。 そこで新たな視点を筆者は提示する。どの程度発達した文明国であるかということを主軸に世界を第一地域、第二地域という名称を与え、大きく二つに分けるのである。それは西ヨーロッパの数カ国と日本という高度に発達した文明国家である第一地域、それ以外のユーラシア大陸全土を第二地域とした。著者は社会の変化、発展には法則があるのではないかと考えている。そのことを生態学の言葉から引用して遷移(サクセッション)と呼ぶ。サクセッションの理論一種の発展法則で、それを人間に当てはめて考えれば人間発展の法則をある程度つかもうということである。よってこの理論では 社会主義のような単一的な発展は考えず、 遷移は環境とその社会自体の変化によって起こり、地域により違った発展がありうると考えている。 第一地域の特徴[編集] 第一地域は、第二地域の古代文明や帝国にとって辺境の存在であった。第一地域は第二地域の文化を吸収し、国家を作りはじめる。第一地域ではその後、封建制が成立していった。また、第一地域は辺境の地域に位置していたため、第二地域が砂漠の民に脅かされるような危険がない。(これについては後に記述)これらの好条件がオートジェニック・サクセッション(文明内部からの変革)を起こさせるのである。つまり第一地域がブルジョアを育てた封建制度を発展させ、資本主義体制へと移行したことはそれの現れである。それはたとえば宗教改革のような現象であるとか、中世における庶民宗教の成立、市民の出現、ギルドの形勢、自由都市の発展、海外貿易、農民戦争などである。近代化の後も類似点は多数ある。日本とドイツのファシズム政府、植民地争奪への遅れた参入、また戦後には急速な発展などである。また、日独に限らず、第一地域はみんな資本主義国家であり、過去に植民地争奪戦を行った国家である。 第二地域の特徴[編集] 第二地域では古代文明が発達したり、巨大で力をもった帝国が成立したりする。それらは何度も成立と崩壊を繰り返してきた。中国の数々の帝国やイスラーム帝国がそれである。そこでの専制帝国にも類似点は多い。壮大な宮廷や、非常に大きな領土、複雑な民族関係、辺境の存在、衛星国をもつことなどである。 また第二地域の中には乾燥地帯があり、高い武力をもった遊牧民が出現する。そしてそれが文明や帝国を襲うのである。それらによって常に政治を脅かされるため、高度な政治体制を築けない。第二地域においては外部に大きな力が常にあるため、アロジェニック・サクセッション(外部からの影響による発展)が起こる。そのため第二地域では専制政治のためブルジョアが発達せず、資本主義社会を作る基盤ができていなかったといえる。そのため大戦中は大きな軍事力を備える事が出来ず、植民地となってしまう。第二地域においては戦後に独立、革命、内戦などが頻発している。逆に第一地域において一つもそれらが起こっていないことと対照的である。 まとめ[編集] 第一地域と第二地域にはそれぞれ共通点があり、それらはその共通点を元に似たような発展過程を経ている。よって西洋と東洋という見方は現在の世界を見る時に有効性は限られており、第一地域、第二地域というように見るのがよりよい見方である。 第二地域では砂漠の嵐のため、文明が瓦解し、遷移をやりなおすと言う原理が文明の生態史観の原理である。この原理は、今西錦司の生態学的遷移理論(山火事や、河川氾濫で遷移が振り出しに戻る)と対応している。文明の生態史観が、梅棹の共時的理論になり、情報文明論が通時的理論になっている。生態学的環境が、制度群・装置群に置き換わったのが情報文明である。 砂漠の嵐が中心だが、海の影響も強調している。また、宗教ウイルス説を提唱し、文明要素の遷移を具体的に扱っている。

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カン・ミヨン – Wikipedia

カン・ミヨン(간 미연、1982年2月25日 – )は、韓国・ソウル出身の歌手。京畿大学校卒業。 韓国の人気アイドルグループBaby V.O.Xのメンバー。1集の活動途中からグループに参加し、2集のアルバム”BABY V.O.X II”から7集の”Ride West”までメインボーカルとして活動した。2006年ソロの歌手としてバラード中心の1集”Refreshing”を発表。その後、活動の拠点を中国に移す。中国では、1集に中国語の歌詞で歌った歌を4曲(そのうち1曲はリミックス版)足したものを「女人心」というアルバムタイトルで発売した。Baby V.O.X時代は高音域を担当することが多かったが、ソロ1集では、伸びのある低音・中音部を生かした曲の構成になっている。その後、デジタルシングル「Winter」を発表したほか、ドラマのOST、他の歌手のアルバムに参加するなどの活動を続けている。 2008年6月、ジャッキー・チェンがプロデュースする四川大地震の復興応援ソング「承諾」(中国の芸能人によるMV正式版)「希望」および、I Love Asia Project(パク・ジニョン(박진영)を中心とした、韓国の芸能人による、四川大地震復興応援プロジェクト )に参加し、フィギュアスケート選手のキム・ヨナを含む多くの芸能人とともに「Smile Again」を歌った。中国では、台湾出身の人気歌手、胡彦斌(Anson Hu アンソン・フー)、中国のアイドル歌手、兪灝明(ユ・ハオミン)などと共演し、ミュージックビデオに出演している。 2010年7月、「ミチョガ(おかしくなっていく)」で、久しぶりに歌手活動を再開。7月15日にはオンラインファッションブランドの「カンデレラ(Kanderella)」を始動させ、自らCEOとなる。 2010年8月、カン・ミヨンの新曲プロモーションをかねて、「キム・ジョンウンのチョコレート」(SBS)という音楽番組でBaby V.O.Xの5人のメンバーが集まり、過去のヒット曲3曲(Ya

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イタリア弦楽四重奏団 – Wikipedia

イタリア四重奏団 パオロ・ボルチャーニ、エリサ・ペグレッフィ、フランコ・ロッシ、ピエロ・ファルッリ(1955年) 基本情報 出身地 イタリア ジャンル クラシック音楽 活動期間 1945年~1980年 公式サイト http://www.quartettoitaliano.com/ ポータル クラシック音楽 イタリア四重奏団(伊語:Quartetto Italiano)は、1945年にカプリでデビューし、1980年に解散した弦楽四重奏団。 元来は「新イタリア四重奏団」(Nuovo Quartetto Italiano)と名乗っていたが、1951年から「新」 “Nuovo” を名称から落とした。 1967年から1975年にかけてベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲録音を完成させ、その後もモーツァルトやシューマン、ブラームス、ウェーベルンの弦楽四重奏曲全集を完成させた。

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バール連盟 – Wikipedia

バール連盟(ポーランド語:Konfederacja barska、1768年 – 1772年)は、ポドレ地方の要塞都市バールにおいて、ポーランド貴族(シュラフタ)が結成した連盟(コンフェデラツィア)。ロシア帝国の侵略、およびポーランド・リトアニア共和国のマグナート(富裕貴族)の権力を制限しようと試みていた国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキらの改革の双方に対する政治的な自由と独立を目的としており、内外の圧迫に応戦するものだった。連盟の組織者にはカミェニェツ=ポドルスキ司教アダム・クラシンスキ、カジミェシュ・プワスキおよびミハウ・クラシンスキなどがいた。ロシアに対して何度か勝利を収めたものの、連盟の抵抗は敗北に終わり、1773年には第1次ポーランド分割が実行された。一部の歴史家はバール連盟の闘争をポーランドの歴史で初めての、独立のための蜂起と定義している。 バール連盟、1768年 – 1772年 1767年から翌1768年にかけて開かれたセイムでは、ロシア軍が議場を包囲して、ポーランド・リトアニア共和国を法的に属国の地位においたほか、1768年基本法の制定を認めて中央政府の権限を一部存続させ、また(出兵の口実にした)共和国内の非カトリック教徒の権利の引上げを認めさせた(レプニン議会)。このセイムでロシアのやり方に反発したキエフ司教ユゼフ・アンジェイ・ザウスキ、クラクフ司教カイェタン・ソウティク、そしてヘトマンのヴァツワフ・ジェヴスキとその息子セヴェリンは、逮捕されてロシアに連行された。共和国の独立の侵害、中央政府(=王権)の強化そして宗教的寛容は、守旧派および王権強化に批判的な改革者を憤激させた。カミェニェツ=ポドルスキ司教アダム・クラシンスキ、カジミェシュ・プワスキおよびミハウ・クラシンスキとその同盟者は、連盟(コンフェデラツィア、政府の政策に抵抗するための合法的軍事組織)を結成することを決めた。 国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは当初、連盟とロシアの調停役を買って出ようとした(ロシア政府の代表はロシア大使ニコライ・レプニン公)。しかし調停が不可能だと判断すると、国王は王冠領大ヘトマンのフランチシェク・クサヴェリ・ブラニツキと2人の将軍が率いる軍隊を派遣してバールを占拠させた。しかし同時期にウクライナ地方で発生していたコサックによるコリーウシチナ反乱は、貴族たちの怒りを刺激して連盟への参加者を増大させ、ポーランド東南部全域およびリトアニアからも参加者が出た。連盟は諸外国に支援を求め、敵国ロシアにオスマン帝国が宣戦するよう仕向けることに成功した(露土戦争)。事態は一転して深刻になり、プロイセン王フリードリヒ2世がロシア女帝エカチェリーナ2世に連盟と和議を結ぶよう助言するまでに至った。 イグナツィ・マルチェフスキ、ミハウ・ヤン・パツおよびカロル・ラジヴィウ公の率いるバール連盟軍は様々な地域に動き回り、何度かロシア軍に勝利したうえ、ついには国王を完全に無視して自分達の利益のためにヨーロッパの主権国家に使節を派遣した。1770年、バール連盟評議会は本拠地をシロンスクからハンガリーのプレショフ(現スロヴァキア)に移し、そこで対ロシア軍事同盟を結成するためにフランス、オーストリアそしてトルコとの交渉を展開した。1770年10月22日、評議会は国王の廃位を宣言した。ヴェルサイユ宮廷は連盟を支援するためにシャルル・フランソワ・デュムーリエを派遣し、デュムーリエは連盟軍を整備・強化するのに貢献した。国王スタニフワフ・アウグストは連盟に参加しようと考えたが、1771年にワルシャワで連盟側と思われる一味に数日間拉致・誘拐された。この事件以後、国王はロシア側につき、自分達の国王を狙った暴挙はヨーロッパ諸国のバール連盟に対する評価を大きく低下させた。デュムーリエによって徹底的に整備されたにも関わらず、連盟軍は戦闘力を1、2年しか保つことが出来なかった。最後の目立った抵抗は1772年までに終わった。連盟が占拠していた陣地のうち、クラクフのヴァヴェル城は1772年4月28日に、ティニェツの要塞は7月13日に、チェンストホヴァは8月18日にそれぞれ陥落した。連盟最後の要塞だったザグシュの修道院も、11月28日には落城した。 バール連盟の参加者たちは、自身の家族とともに囚人としてロシアに連行され、最初の「スィビラク」(シベリア送りのポーランド人)の一団となった。ロシア人達はポーランド・リトアニア共和国内に設けた3つの強制収容所に囚人たちを収監し、順次凍てつくシベリアへと移送した。 一部の歴史家はバール連盟の闘争をポーランドの歴史で初めての独立のための蜂起と考えている。バール連盟の参加者たちが戦いを始めるまでは、外国軍の援助を得て戦うことは、何より黄金の自由を敵に回す背信行為と見なされていた。しかし1770年、ロシア軍が名目上は独立国である共和国に進軍し、さらに1773年に近隣の列強国の圧力でセイムが第1次ポーランド分割を承認するに至ると、連盟の参加者たちは母国に最後まで忠誠を誓いつづけた囚われの戦士たちとして美化された。そしてこの愛国的イメージは、その後の2世紀間にわたって亡国流浪の身であったポーランド人たちが、蜂起軍を組織する原動力となった。連盟に対する評価は分裂しており、連盟の軍事行動が第1次分割の直接的原因とする研究者もいれば、連盟をポーランドの独立回復をめざした最初の本格的国民軍と評価する研究者もいる。 参考文献[編集] Aleksander Kraushar, Książę Repnin i Polska w

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仁木義長 – Wikipedia

仁木 義長(にき よしなが、生年不詳 – 天授2年/永和2年9月10日(1376年10月23日))は、室町時代前期(南北朝時代)の武将。通称は仁木次郎四郎。越後守、右馬権頭、修理亮、右馬助、右京大夫。父は仁木義勝。子は仁木義員、仁木満長。兄に仁木頼章がいる。 三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町)出身。仁木氏は清和源氏足利氏の一族で、同族細川氏や高・上杉氏らとともに足利氏家臣団の主要メンバーでもあった。義長も兄頼章とともに足利尊氏の股肱の臣として活躍する。元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、尊氏の弟足利直義の鎌倉下向に従って武蔵国富岡郷を拝領し、関東の統治に尽力したが、建武2年(1335年)、北条高時の遺児時行が兵を挙げて鎌倉に進撃すると、直義とともに鎌倉より遁走する。 後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が敗れて九州に下向するのに供奉し、筑前多々良浜の戦いで奮戦して武勲を挙げる。建武3年(1336年)4月、尊氏が東上する際には、一色範氏・小俣氏義・小俣氏連とともに九州に残留して菊池氏・その支族西郷氏らと干戈を交え、南朝勢力の抑圧に恪勤した。 尊氏が室町幕府を開いて初代将軍となると、義長は京都に上り、備後・遠江・伊勢・伊賀・志摩等の守護や侍所頭人などを歴任した。 尊氏の執事(後の管領)高師直と尊氏の弟直義の確執が尊氏派・直義派の抗争に発展すると(観応の擾乱)、義長は兄頼章とともに一貫して尊氏派に属して直義派との戦いに活躍した。高師直が殺され、頼章が後任の執事になると、義長も兄の栄達の恩恵に浴して守護国を増加され、伊勢・伊賀・志摩・三河・遠江の守護職を兼帯する。仁木氏は兄弟で一時9ヶ国を帯有し、幕閣の最有力者となった。それだけに義長は権勢を振るって驕慢・奢侈が多く、細川清氏が保有する三条西洞院の敷地に造作を企てたり、土岐頼康と口論を起こすなど、諸将との軋轢を起こすことも多く、対立が次第に顕在化する。 延文3年(南朝正平13年、1358年)、将軍尊氏が世を去り、翌年に兄頼章が没すると、後ろ盾を失った義長の立場が危うくなり、これを好機と踏んだ清氏、頼康、畠山国清らが結託して義長排斥に運きだす。延文5年、清氏らは河内に蠢動する南朝の残党を征伐するという名目の下義長討伐の狼煙を上げた。清氏らの思惑を察知した義長は反対派に対抗するため、大義名分を得るべく将軍義詮の拘束を試みたが、将軍の身柄確保に失敗し、本国の伊勢に逃れ、翌康安元年(正平16年、1361年)2月に南朝に降った。その後の義長の行動には目立ったものはなく、細川清氏、畠山国清が没落すると許されて幕府に帰参し、伊勢守護に補任されたが程なくして罷免された。以後、仁木氏の勢力は振るわなくなった。 永和2年(天授2年、1376年)没。墓地は神山城近くの寺院・一乗寺にある[1]。 ^ 宮内黙蔵『伊勢名勝志』川島文化堂、P118 参考文献[編集]

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アルバロ・オルメーニョ – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はオルメーニョ、第二姓(母方の姓)はサラサールです。(Template:スペイン語圏の姓名) アルバロ・オルメーニョ 名前 本名 アルバロ・アンドレス・オルメーニョ・サラサールAlvaro Andrés Ormeño Salazar ラテン文字 Alvaro Ormeño 基本情報 国籍  チリ 生年月日 (1979-04-04) 1979年4月4日(42歳) 出身地 サンティアゴ 身長

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