ドゥラ・エウロポス – Wikipedia
座標: 北緯34度44分50秒 東経40度43分51秒 / 北緯34.74722度 東経40.73083度 / 34.74722; 40.73083 ドゥラ・エウロポス ドゥラ・エウロポスのベル神の神殿跡 ドゥラ・エウロポス(Dura-Europos、「エウロポスの砦」)は、ヘレニズム時代からパルティアおよびローマ帝国の支配下の時代にかけて繁栄した古代都市。その遺跡は現在のシリア東部、イラクとの国境付近にあり、ユーフラテス川右岸(南岸)の高い断崖上の平地に位置する。 ドゥラ・エウロポスはセレウコス朝が築き、後にパルティアに征服され大きな町となった。116年にトラヤヌス帝の遠征でローマ帝国に編入され、一時はパルティアが奪還したが、164年にルキウス・ウェルスの遠征で再度ローマ領となった。2世紀後半から3世紀にかけてはローマの東部国境の軍事拠点としてきわめて重要な植民都市になった。しかし3世紀前半にサーサーン朝によってパルティアが倒れローマを圧迫するようになり、257年にはシャープール1世の遠征で陥落し、以後廃墟のまま放棄された。 20世紀前半にドゥラ・エウロポスの発掘が始まり、考古学的に重要な発見が次々になされた。256年から257年にかけてのサーサーン朝による征服で放棄されて以降、ドゥラ・エウロポスには建物などが建てられることはなかったため、後世の住居や要塞建築などが残り、他のローマ都市のような、古代都市の上に新たな施設等が建設され、古代の都市計画を分かりにくくするという事柄が起こらず、このためローマの植民都市の姿を知る上で貴重な遺跡となった。また帝国の辺縁にあるという立地のため、ギリシア、ローマ、パルミラ、シリア、ペルシア、オリエントなど異なった文化がこの町には共存しており、その遺物も遺跡から多く見つかった。様々な文化に由来する神々に捧げられた神殿、ユダヤ人が建てたシナゴーグ、ローマの軍事植民都市によく見られるミトラ教神殿、壁飾り、碑銘、軍の装備、墓所、そしてドゥラ・エウロポスが滅ぼされた攻囲戦の痕跡などもこの遺跡からは発見されている。 都市遺跡はユーフラテス川から切り立った崖の上にあり、ユーフラテスの流れを見下ろすことができる。崖の上の平らな土地が都市になっているが、その北と南に深い谷(ワジ)がユーフラテス川に向って落ち込んでいるため、都市の広がりの限界になっているとともに都市を守る天然の濠となっている。西はシリア砂漠に向けて平地が続いている。町の中にもいくつかの谷やワジがユーフラテス川沿いの崖へ向かって走っており、市街地とアクロポリスおよび城塞を分ける境界線になっている。ユーフラテス沿いの地方は豊かな農地が続いているが、ドゥラ・エウロポスのある崖の上は砂漠地帯である。 市街地は、ユーフラテスの崖に沿うように南東から北西へ走る通りと、平地から崖に向かう南西から北東へ向けて走る通りが直行しており、碁盤目状の街並みを形成している。町の東側は、ワジがいくつかあり起伏もあるため直行する街路が途切れており、断崖とユーフラテスを背にした堅固な要塞などが並ぶ。町の西側は繁華な地区で、これらはすべて城壁で囲まれている。東・北・南は崖に囲まれた地形であるため、サーサーン朝による最後の攻撃は砂漠に開けた西側から行われている。 都市の歴史[編集] ドゥラ(Dura)、ドゥル(Duru)、デル(Der)、ドル(Dor)は、ヘレニズム期以前のバビロニアやアッシリアの集落に共通する地名であり「集落」を意味する。この遺跡からはバビロニア末期の円筒印章や楔形文字の書かれた粘土板なども出土しているが、ヘレニズム期以前の建築物の跡は現在見つかっていない。ヘレニズム期の初期には、マケドニア王国の退役兵らがこの地を与えられ植民集落を築いたとみられる。 ヘレニズム期[編集] 「エウロポス」の町は、紀元前303年にセレウコス朝により、地中海側のアンティオキアとチグリス川沿いのセレウキアを結ぶ東西交易路と、ユーフラテス沿いに走る交易路が交差する地点であるドゥラの地に建設された。ニカトールという人物が都市を築いたことが知られるが、彼の生涯は不明である。王であるセレウコス1世ニカトールの親戚とも考えられる。新しくできた都市はセレウコス1世ニカトールの故郷と同じエウロポスの名を付けられた。紀元前5世紀のギリシアの都市計画家ミレトスのヒッポダモスの基準に則り、37メートル×70メートルの長方形の街区が規則正しく設けられ、中央には都市機能の中心となる広場であるアゴラが置かれた。周囲は城壁と城塞で厳重に守られていた。
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