どきどき!たまタン – Wikipedia

『どきどき!たまタン』は、こげどんぼ*による日本の漫画作品。『なかよし』(講談社)にて2009年3月号から2010年5月号まで連載された。単行本は同社より全3巻まで刊行されている。 なお、こげどんぼ*にとって『なかよし』での連載はこれが3作目(『かみちゃまかりんchu』含む)になるが、現在のペンネームによる『なかよし』での連載は初めてである。 元々は宮川武製作のオリジナルフィギュア「どきどきぶろがー☆たまタン」である。また、斎藤桃子が歌うキャラクターソングがニコニコ動画で発表されており、楽曲を収録したCDが同人音楽サークル2-dimensionより頒布された[1][2][3][4]。 あらすじ[編集] 子供の頃、うさぎ耳の男の子「うさみみくん」からストラップを預かったたまタン。2人はそれきりになってしまったが、たまタンは初恋の「うさみみくん」にまた会いたいと願っていた。 7年後、平和なたまタンの街にある日大きなUFOがやってくる。そのUFOに乗っていたのは、うさぎ耳をもつ男の子・月茜皇子。彼を7年前の「うさみみくん」と思い込み、自分に会いにきてくれたと有頂天になるたまタン。しかし次の日に学校で有った彼は7年前と全く違う、「なんだかこわい」威圧感のある少年だった。 茜は月人・セレネであり、大セレニア帝国の王子である。地球と月の運命が掛かっている重大な任務を負っていた。それは月乙女を探し月神を育て(エヴォリシオンさせ)、最終的に月乙女を月姫と呼ばれる存在に成長させることだという。 とにかく茜と話して「うさみみくん」の正体を確かめたいたまタンは、茜の目的をよく理解しないまま、月乙女になり、月神を育てる。 登場人物[編集] たまタン 声 -斎藤桃子(キャラクターソング歌唱) 主人公。本名は錦織 珠恵(にしきおり たまえ)。3月15日生まれ。身長133cm。血液型はA型。月神の名前はハピィ。 明るく元気いっぱいの女の子。母親がおらず、家事を任されているため安売りが大好き。 口癖は「すーぱー☆○○」。また語尾に顔文字をつけることも多い。 7年前に出会った初恋の相手うさぎ耳の「うさみみくん」と再会したいと思っている。 また、父親は「かみちゃまかりん」に登場する錦織みちるであり、九条和音が准教授になって作ったと思われるお手伝いロボット「みったん」がいる。 月茜皇子(つきあかねのみこ)

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アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年9月) アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー(Abraham Gottlob Werner, 1749年9月25日 – 1817年6月30日)は、ドイツの地質学者。主な業績は鉱物分類法の基礎を築いたことと、構造地質学の分野を開拓したことである。姓はヴェルナーとも[1][注 1]。 人物・生涯[編集] 300年来鉄鋼業に関係してきた家に生まれる。父は鋳鉄工場の管理をしていたが、ウェルナーは幼い頃からその仕事を手伝い、父の鉱物標本に興味を抱いていた。 1769年フライベルク鉱山学校で鉱山技術を学び、1771年ライプツィヒ大学で鉱山法を学んだ[2]。1774年の在学中に出した最初の論文「鉱物の外部の特徴について」が認められ、1775年[注 2]から1817年にかけて、ドイツのザクセン州の町フライベルクにあるフライベルク鉱山学校の教授を勤める。彼は、鉱物のあらゆる経済的利用やその医学への応用、土の資源や富、それの人間文化への影響などについて講義し、学生たちを引きつけた[3]。歴史的な地質学の講義は、1779年から始めた。地球の歴史についての講義はヨーロッパでは最初のもので、ウェルナーの見方が学界の多くの人に受け入れられていた[4]。

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ベルファスト (軽巡洋艦) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ベルファスト” 軽巡洋艦 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年5月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 英語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|HMS Belfast}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 ベルファスト (HMS

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ロベルト・ロカテリ – Wikipedia

ロベルト・ロカテリ ( Roberto Locatelli , 1974年7月5日 – ) は、イタリア・ベルガモ出身のオートバイレーサー。2000年のロードレース世界選手権125ccクラスチャンピオン。 1993年、イタリア国内のロードレース選手権でチャンピオンとなる。世界選手権には翌1994年のムジェロでおこなわれたイタリアGPに、125ccクラスのワイルドカード枠で初出場する。デビューレースでいきなりポールポジションを獲得する活躍を見せた(決勝は10位に終わる)。 翌1995年には250ccクラスにフル参戦デビューを果たし1996年シーズンまでアプリリアのワークスライダーを務めたが、満足な成績は残せなかった。 1997年からは125ccクラスに移り出直しを図ることになった。ホンダ・RS125Rを駆り、クラスデビューシーズンは97ポイントを獲得しシリーズ8位に入る。翌1998年にはザクセンリンクで初表彰台(3位)に立ち、ポールポジションも3度獲得した。 1999年には Vasco Rossi Racing (イタリアの歌手en:Vasco Rossiのチーム)に移籍し、アプリリアに乗り換えた。ル・マン、ムジェロと初優勝から2連勝を果たす活躍を見せ、シリーズ4位に入った。 そして翌2000年、Vasco Rossi

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ジロ・デ・イタリア 2009 第12-第21ステージ結果 – Wikipedia

ジロ・デ・イタリア 2009コース図 2009年に行なわれた、ジロ・デ・イタリアの第12ステージから第21ステージまでの結果を述べる。 第12ステージ[編集] 5月21日(木) セストリ・レヴァンテ - リオマッジョーレ 60.6km(ITT)[1] 今ジロ最初の個人TT。最初のラップ地点となる、ブラッコ峠において、2位のリーヴァイ・ライプハイマーに18秒の差をつけたデニス・メンショフが、最後までリードを守りきって、当大会2度目の区間優勝。同時に、マリア・ローザを奪取した。2位のライプハイマーは、中盤で厳しい展開となり、44.5km地点のテルミーナ峠におけるラップタイムでは、メンショフに34秒離されていたが、終盤ピッチを上げ、結局、メンショフに20秒差の区間2位でゴール。総合でも3位に浮上。一方、マリア・ローザのダニーロ・ディルーカは、中盤以降厳しい展開を強いられ、首位メンショフに対し1分57秒差の区間6位でゴール。総合ではメンショフに34秒差をつけられ、マリア・ローザを明け渡した。 区間成績 個人総合成績 ポイント賞 山岳賞 新人賞 チーム時間賞 第13ステージ[編集] 5月22日(金) リード・ディ・カマイオーレ -

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新東洋企業 – Wikipedia

新東洋企業株式会社(しんとうようきぎょう)は1957年に東京都品川区旗の台に設立された自動車輸入販売・不動産などを手がける企業。創業者は宋尚桓(ソン・ショウカン)。現在の本社は東京都港区赤坂4丁目9番25号(新東洋赤坂ビル)に所在。なお、かつての旧赤坂表町(現:赤坂4丁目)にもショールームと工場があった。 1957年に英国BLMC社(ジャガー、ローバー、トライアンフ、MG、ミニ)の輸入総代理権を取得した。 自動車部の当初の取り扱い車種はジャガー・フェラーリ・プジョー・マセラティで、後にデイムラー・サーブ・ランボルギーニも扱うようになる。1970年にはBLMC社の輸入販売総代理店として、総合商社・丸紅と合弁で新東洋モータース株式会社を設立、ジャガー・デイムラーの販売をモータースに移管、ローバーの取り扱いも開始した。その後、プジョーとサーブの輸入代理権は西欧自動車及びその後進の西武自動車販売に譲渡、ランボルギーニとマセラティの扱いも中止し、BLMC社(1975年にBL社に改称)の車の販売に専念する。 1977年にはBL社が日本子会社日本レイランドにおいて直接輸入を開始したため、輸入総代理権を返上し、神奈川県横浜市神奈川区に移転、日本レイランド、オースチン・ローバー・ジャパン、ジャガーの分社後はジャガー・ジャパンの神奈川県正規販売店として事業を継続している。 1988年には横浜市神奈川区に「ジャガー横浜」ショールームを開設。また、1997年にも神奈川県藤沢市に「ジャガー湘南」を開設したが、こちらについては現存しない。 2002年に当時、ジャガー同様フォード傘下にあったアストンマーティンの輸入販売権を取得。赤坂の本社ビル(新東洋赤坂ビル)1階をアストンマーティンショールームに改装し、2003年より「アストンマーティン赤坂」として営業を開始する。しかし2017年、日本での販売戦略見直しに伴い、ディーラー権を返上し同年6月30日付で閉店した。 2013年にはランドローバー・レンジローバーの取扱いも開始したため、前述の横浜市神奈川区のショールーム「ジャガー横浜」を「ジャガー・ランドローバー横浜」に改称している。さらに2015年、同ショールームが横浜みなとみらい地区「MUFG グローバルラーニングセンター」の建物内1階に移転して、リニューアルオープンとなった[1]。なお、神奈川区の旧ショールームは同ブランドのアプルーブドカー(中古車販売)センターとして引き続き運営されている。 かつて、自動車事業部門は新東洋モータース・新東洋・新東洋整備など、不動産事業部門は東邦土地建築に分かれていたが、現在は新東洋企業に集約されている。 2020年7月31日、自動車事業部門の「ジャガー・ランドローバー横浜」を解散。みなとみらいのショールームと2019年8月にオープンした横浜市鶴見区のサービスセンターを、ジャガー・ランドローバー柏、同水戸、同宇都宮などを展開するミッドランズ株式会社に移譲する。日本で最も古くからジャガーを取り扱ってきた同社の歴史がついに途絶えることになった。 運営ショールーム[編集] ジャガー・ランドローバー横浜(神奈川県・横浜みなとみらい地区「MUFG グローバルラーニングセンター」内1階) 参考情報[編集] 外部リンク[編集]

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ライプツィヒ弦楽四重奏団 – Wikipedia

ポータル クラシック音楽 ライプツィヒ弦楽四重奏団(ライプツィヒげんがくしじゅうそうだん、ドイツ語:Leipziger Streichquartett)は、ドイツのライプツィヒを拠点に活動する、国際的に著名な弦楽四重奏団である。 1988年から1995年までは新ライプツィヒ弦楽四重奏団(Neues Leipziger Streichquartett)と呼ばれた。設立メンバーは当時ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席奏者だった。 古典派から現代音楽までをレパートリーとし、ベアート・フラー、ヴォルフガング・リーム、シュテッフェン・シュライエルマッハー、ヴィクトル・ウルマン等の作曲を初演した。カール・ライスター(クラリネット)、ミヒャエル・ザンデルリング(チェロ)、アルフレート・ブレンデル(ピアノ)、クリスティアン・ツァハリアス(同)、アンドレアス・シュタイアー(チェンバロ、フォルテピアノ)らと共演している。 メンバー[編集] アンドレアス・ザイデル:第1 ヴァイオリン (2008年まで) シュテファン・アルツベルガー:第1ヴァイオリン(2008年から) ティルマン・ビューニング:第2ヴァイオリン イーヴォ・バウアー:ヴィオラ マティアス・モースドルフ:チェロ 主な受賞[編集] ミュンヘン国際音楽コンクール 1991年 シーメンス音楽賞の奨励1992年 マインツ市のシュナイダー=ショット賞1993年

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張守珪 – Wikipedia

張 守珪(ちょう しゅけい、生年不詳-開元27年(739年))は唐代玄宗期の軍人。北辺で戦功をたて、節度使に就任した。部下の敗戦を隠蔽したことから、左遷させられた。安禄山を引き立てたことで知られる。 国家の良将[編集] 陝州、河北の出身。たくましい容貌をし、騎射に長け、意気盛んにして節度ある性格であったという。 まず、平楽府の将として、戦功をあげる。郭虔瓘の命令で、北庭鎮を救援に赴き、先頭に立って苦戦の末に敵を破った。千人以上の首をあげ、統率していた頡斤(突厥の族長の称号)を一人捕らえた。 開元年間の初期に、突厥が北庭に攻め込んできた時は、郭虔瓘の命で朝廷に入り、玄宗に状況を述べた。突厥は敗北し、張守珪は游撃将軍、幽州良社府果毅に昇進した。幽州刺史の盧斉卿から重く厚遇され、座席をともにした。「貴殿は、必ず幽、涼地方の節度使となり、国家の良将となるだろう」と評された。その後、左金吾員外将軍となった。 開元15年(727年)、吐蕃が瓜州を攻め落とし、王君㚟が戦死し、河西地方は震撼していた。張守珪は瓜州刺史に任じられ、州城を守ることとなった。防備の板を少し立てたところで、吐蕃軍が急に城下にあらわれた。張守珪は、「敵は多く、こちらは少ない。しかも、敗北の後である。矢や石で抵抗するのではなく、策をもって制するべきだ」と語り、将士に城の上で酒宴を楽しませた。吐蕃軍は城内に防備があるかと疑い、退却した。(空城計)。張守珪はこれを追撃し、敗走させた。その後、城を修復され、流亡したものを集め、以前と同様の状態に戻した。戦功により、銀青光禄大夫となり、瓜州に都督府が置かれ、その都督に任じられた。 開元16年(728年)、鄯州都督となり、隴右節度使に任じられた。 契丹との戦い[編集] 開元21年(733年)、幽州長史、御史中丞、営州都督、河北節度副大使、河北採訪処置使になる。[1]この頃、契丹と奚が例年、攻め込んできており、趙含章、薛楚玉といった前任者たちは防ぐことができない状態であったが、張守珪はしばしば出撃し、全て勝利におさめた。そのため、契丹の可汗・屈烈と衙官・可突干[2]は、偽って降伏した。張守珪は、その虚偽を察し、管記右衛騎曹の王悔を派遣し、さぐらせた。契丹は本営を西北に向かわせ、突厥に使者を送り、王悔を殺そうとしていた。そこで、王悔は可突干と権力を争っていた契丹の李過折を誘い、夜間に屈烈と可突干を斬らせた。屈烈ら一党は全て殺され、残りは全て降伏した。張守珪は、屈烈と可突干の首を洛陽に送った。 開元23年(735年)、張守珪は洛陽に詣でたため、玄宗は酒宴を開き、詩賦で褒め称えた。輔国大将軍、右羽林大将軍、御史大夫が加えられる。 思わぬ陥落[編集] 開元24年(736年)、養子である平盧討撃使・安禄山が奚と契丹に敗北する。彼を長安に送り、判断を朝廷に委ねる。張九齢の反対があったが、玄宗は助命する。 開元26年(738年)、張守珪の裨将・趙堪と白真陀羅が張守珪の命令を偽り、平盧軍使・烏知義に奚の余党を攻撃するように命じた。烏知義は固辞したが、白真陀羅が勅命を偽ったため、烏知義はやむを得ず、攻撃し、初めは勝利したが、次は敗北した。 張守珪は敗北を隠し、勝利したことだけを奏上したが、事実が漏れた。玄宗は宦官の牛仙童に調査を命じた。張守珪は牛仙童に賄賂を送り、罪を全て、白真陀羅に押しつけ自殺させた。 開元27年(739年)、牛仙童は告発され、玄宗の命で楊思勗に殺された。張守珪は括州刺史に左遷となり、すぐに背中に疽を発し、死去した。弟の張守琦は左驍衛将軍、張守瑜は金吾将軍まで至った。子に張献誠がいる。 エピソード[編集] 瓜州都督の時、吐蕃に水路が壊され、木材が不足し、修復が困難であった。そのため、祈祷を行うと、山水によって、城下にたくさんの材木が流れてきた。水路の修復に成功し、州の人によって、この事跡が石にまで刻まれた。 ^

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白石市民バス – Wikipedia

白石市民バス バス停 白石市民バス(しろいししみんバス)は、宮城県白石市にて運行しているコミュニティバスである。愛称は「きゃっするくん」。 運行形態は自家用自動車(白ナンバー車)による有償運送で、運転業務および車両管理業務をミヤコーバス白石営業所に委託している。 運賃は1回乗車で200円(70歳以上・高校生は100円)、中学生以下および障害者は無料。11枚綴り1,000円の回数券を発売。 土曜・日曜・祝日及び年末年始(12月29日~1月3日)は運休。 2005年(平成17年)4月1日 – 運行開始。 2006年(平成18年)4月 – 時刻改正。薬師堂線を新設(木曜のみの運行)、三本木線を牧場入口まで延長。 2007年(平成19年)4月 – 時刻改正。「薬師の湯ひまわりセンター」オープンにより、薬師堂線を月曜~金曜毎日運行化のうえ増便。 2010年(平成22年) 4月1日 – 運賃改定。一般利用が100円から200円に、70歳以上の利用が無料から100円となる。 10月1日 –

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三十三間堂通し矢物語 – Wikipedia

『三十三間堂通し矢物語』(さんじゅうさんげんどうとおしやものがたり)は、成瀬巳喜男監督・東宝製作による1945年の日本映画。成瀬初の時代劇である。 京都・三十三間堂で江戸時代の初期から行われてきた通し矢にまつわる実際の出来事に題材をとった作品。 1945年1月から5月にかけて撮影された。当時は太平洋戦争末期であり、日本での映画製作の自由度は厳しく制限されていたが、時代劇は当時の世相などに直結していない分、現代劇よりも多少は融通が利いていた[1]。撮影は度重なる空襲に中断を余儀なくされながら進められ、また映画界の一致協力が求められたため、東宝作品ながら松竹下加茂撮影所が使われ、松竹から田中絹代・葛城文子が参加している。 あらすじ[編集] 紀州家家臣の和佐大八郎は、通し矢の記録8,000本に挑むべく弓術の訓練に励んでいた。彼の父は尾州家家臣の星野勘左衛門に記録を破られて自害したため、和佐家に縁ある宿屋・小松屋の女主人お絹が大八郎を引き取り、父の無念を晴らすべく弓を習わせてきたのである。しかし、大八郎はそんな周囲の期待を重荷に感じていた。 一方、勘左衛門の記録を守らんとする星野家は、浪人たちを雇って大八郎を付け狙っていた。ある日、この浪人たちに襲われそうになった大八郎だが、偶然通りかかった侍・唐津勘兵衛に救われる。やはり小松屋に寄宿している勘兵衛は、大八郎の力になることをお絹に約束するのであった。 後日、二人は再び浪人たちの待ち伏せに遭う。勘兵衛は大八郎を先に帰し、一人で浪人たちに対峙していたところへ、浪人たちの黒幕・星野数馬が登場した。数馬と言葉を交わす勘兵衛。実は勘兵衛こそが、星野勘左衛門その人であった。家名を守るためにやったことという弟・数馬に対し、兄・勘左衛門は「卑怯な振る舞い」と非難する。 勘兵衛は、事情を知らないままの大八郎に「父君は勝負に負けたのではなく、通し矢の厳しさに殉じたのだ」と言葉をかける。しかし、やがて大八郎の前に数馬が現れ、勘兵衛の正体を明かしてしまった。裏切られたと感じた大八郎は勘兵衛こと勘左衛門に試合を申し込む。結果は大八郎の勝利に終わるが、勘左衛門に対する大八郎の心情はかたくななままであった。 通し矢の当日、順調に的中を重ねていく大八郎。5,000本を越えたところで、疲れた大八郎は勘左衛門の言うことを聞かずに休憩を入れる。しかし、再開後は全く的に当たらなくなってしまった。休んだことで肩に血が溜まってしまったのである。お絹を通じて勘左衛門からの薬と言伝てを受け、気持ちを入れかえた大八郎は、勘左衛門を超える8,133本の記録を達成するのであった。 参考文献[編集] ^ 田中ほか編 (1995)、p. 109 外部リンク[編集]

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