松平直亮 – Wikipedia
松平 直亮(まつだいら なおあき、1865年10月28日(慶応元年9月9日[1]) – 1940年(昭和15年)10月7日[1][注釈 1])は、明治から昭和期の農業経営者、政治家、華族。貴族院伯爵議員。幼名・陽之進、優之丞[2][3][4]、旧姓・大眉[1]。 出雲松江藩主・松平定安の三男[注釈 2]として生まれる[1][3][4][5]。1873年(明治6年)3月8日[2][4][注釈 3]、大坂の豪商・大眉五兵衛(天王寺屋五兵衛家)の養子となるが[2][3][4]、1877年(明治10年)11月24日に実家の義兄直応(斉斎長男)が隠居し、当主を実父・定安が再継承したが嗣子不在のため、1880年(明治13年)10月30日、実家に復籍し、1882年(明治15年)11月17日、父が隠居し家督を継承し、直亮と改名[1][2][3][4]。1884年(明治17年)7月7日、伯爵を叙爵した[6]。 1882年、学習院に入学したが1884年に退学し、その後は政治学、漢学、英語などを個人教師に学んだ[5]。1904年(明治37年)1月22日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し[7][8][9]、1907年(明治40年)12月18日に辞職[10][11]するまで2期在任した[7]。また、日本弘道会副会長、同会長、出雲育英会会頭、育英会総裁、宗秩寮審議官、帝室博物館顧問[12]などを務めた[3][5][13]。 松平農園の経営[編集] 1894年(明治27年)北海道上川郡鷹栖村(現旭川市東鷹栖)の山林1700ヘクタールの貸付を受けて、翌年から香川県、富山県からの入植者を入れて開墾を開始した[14]。当初は湿地帯であることや水害などにより収穫がなかったため、元北海道庁殖民課長・内田瀞を管理人として招聘したことにより事業が進展し、14年で貸付地1337ヘクタールの開拓を完了した[14]。1935年(昭和10年)から住民の要望を受け、1936年(昭和11年)から全農地を分譲し1937年(昭和12年)に農場事務所を閉鎖した[14]。 『松平定安公伝』松平直亮、1934年。 注釈[編集] ^ 『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』29頁では10月9日。 ^ 『華族畫報』下(718頁)、『人事興信録』第12版
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