Month: September 2019

蒲原鉄道EL形電気機関車 – Wikipedia

蒲原鉄道EL形電気機関車(かんばらてつどうイーエルがたでんききかんしゃ)は、かつて蒲原鉄道(蒲原鉄道線)に在籍した直流用電気機関車。一形式1両のみが在籍した、蒲原鉄道線における唯一の電気機関車であった[1]。 1923年(大正12年)10月[2]の開業以来、蒲原鉄道線における貨物輸送は電車牽引による混合列車の形態で行われた[3]。その後、1930年(昭和5年)10月[2]の全線開通に際しては貨物輸送量の増加が見込まれたことから、貨物列車牽引専用の電気機関車を新製することとなり、本形式は同年5月に日本車輌製造名古屋本店において製造されたものである[4]。 凸形車体を有する25t機で[4]、車体外観はウェスティングハウス・エレクトリック (WH) 社(電装品)とボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)社(機械装置)の2社が設計・製造し、日本にも数多くが輸入された凸形電機各形式[注釈 1]に酷似しているが[5]、本形式は前述のようにそれらを設計の基本として日本車輌製造においてデッドコピー製造した国内模倣品であり[1]、電装品についても東洋電機製造製のものが搭載された純国産機である[1]。 本形式は貨物輸送のほか、冬季はスノープロウを取り付け除雪用途にも供され、1952年(昭和27年)10月の形式称号改正に伴ってED1形1と改称された[5]。貨物輸送廃止後は主に村松車庫内における構内入換機として運用され、1999年(平成11年)10月の蒲原鉄道線全線廃止まで在籍した[6]。 全長9,180mmの凸形鋼製車体を有し[4]、車体中央部に設置された運転室の前後に主要機器を格納したボンネットを備える[4]。WH社製凸形電機の設計流儀に則って、乗務員扉は運転室前後妻面の向かって左側に設け、その分ボンネットが向かって右側へ寄せて配置されている[4]。 前後妻面上部には長さ252mmの日よけが設けられ[4]、前面窓(運転台窓)は向かって右側に1枚、前面窓と乗務員扉の間に取付式の白熱灯型前照灯が1灯設置されている[4]。後部標識灯は前後台枠上部のデッキ部分向かって左側に各1灯設置され[1]、前後のボンネット前面には真鍮製の蒲原鉄道の社章が設置された[3]。 主要機器[編集] 主制御器[編集] 当時の旅客用車両と同様、運転台に設置された直接制御器によって電流制御を行う直接制御方式であるが、本形式は4基の主電動機を搭載する都合上、主電動機4基分の大電流の制御に対応した東洋電機製造TDK-Q2LTを前後運転台に各1基搭載する[4]。 主電動機[編集] 東洋電機製造製の直流直巻電動機TDK-31S-C(端子電圧600V時一時間定格出力63.4kW[注釈 2])を1両当たり4基搭載する[4]。TDK-31系主電動機は一部の例外を除いて旅客用車両を含む在籍車両の大半に搭載された、蒲原鉄道における標準型主電動機であるが[7][8]、旅客用車両各形式が変電所容量などの都合から1両当たり2基搭載とされていたのに対し[9]、本形式においては牽引力を確保する目的から4基搭載仕様とされた[1]。駆動方式は吊り掛け式、歯車比は5.0 (70:14) である[4]。 台車[編集] BLW社が設計・製造した電気機関車用釣り合い梁式台車を日本車輌製造においてデッドコピー製造したEL形台車(製造No.536・537)を装着する[5]。 制動装置[編集]

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グリゴリー・ドロスト – Wikipedia

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2017年9月) グリゴリー・ドロスト(Grigory Drozd、1979年8月26日 – )は、ロシアのプロボクサー、元空手家、元ムエタイ選手。ケメロヴォ州プロコピエフスク出身。元WBC世界クルーザー級王者。 鉱山労働者の一家に生まれる。12歳の時にたまたま見た新聞広告で空手をはじめて、ムエタイも平行してはじめた。 15歳の時にライトコンタクト制空手のユースロシアチャンピオンになり、アジア選手権で3位になる。1995年にムエタイデビュー戦となったCSIトーナメントで優勝。17歳のときにムエタイ世界選手権で3位に入賞した。 その後、ムエタイヨーロッパ選手権で2度優勝し、2001年にムエタイ世界選手権で優勝を果たす[1]。 その後、アマチュアボクシングで3戦した後、プロボクシングへ転向した[1]。 2001年4月13日、プロデビュー戦を行い、6回3-0の判定勝ちを収めた。 2002年8月25日、ウラル&シベリアクルーザー級王座決定戦をテイムラズ・ケケリデゼと対戦し、3-0の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2003年8月31日、ヤン・クルコブとロシアクルーザー級王座決定戦を行い5回TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 2004年3月30日、アメリカのカリフォルニア州でサウル・モントラとIBOインターコンチネンタルクルーザー級王座決定戦を行い、9回2分2秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 2006年7月29日、ドイツのオーバーハウゼンでマウロ・アドリアン・オルディアレスとWBCインターナショナルクルーザー級王座決定戦を行い、3回2分15秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 2006年10月28日、ドイツのシュトゥットガルトでフィラット・アルスランとWBA世界クルーザー級挑戦者決定戦を行い、プロ初黒星となる5回2分28秒TKO負けを喫しヴァージル・ヒルへの挑戦権獲得に失敗した。 2007年7月28日、ドイツのデュッセルドルフでジャン・クラウド・ビコイとWBOアジア太平洋クルーザー級王座決定戦を行い、3-0(3者とも120-106)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2007年11月17日、ドイツのマクデブルクでラウデリオ・ホセ・バロースと対戦し、8回2分22秒KO勝ちで初防衛に成功した。 2008年12月6日、ニジニ・ノヴゴロドでロブ・キャロウェイと空位のPABAクルーザー級王座、ABCOクルーザー級王座並びにWBOアジア太平洋クルーザー級王座を懸け対戦し、キャロウェイから初回に1度、2回に1度、3回に2度、4回に1度、5回に1度、6回に1度、7回に1度の合計8度のダウンを奪うなど優勢に試合を運び、7回1分25秒TKO勝ちを収めPABA王座獲得、ABCO王座獲得、WBOアジア太平洋王座再獲得に成功した。 2009年7月2日、モスクワでダーネル・ウィルソンと対戦し、ウィルソンの10回終了時棄権によりPABA王座とWBOアジア太平洋王座の初防衛に成功した。 2012年12月17日、ジャン・マルク・モンロスとWBAインターナショナルクルーザー級王座決定戦を行い、12回3-0(120-106、2者が119-107)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。

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PCCS – Wikipedia

この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 PCCS(Practical Color Coordinate System、日本色研配色体系)とは、色彩調和を目的に開発された表色系(顕色系)[1][2][3]。1966年(昭和41年)に日本色彩研究所が開発・発表した[4][5]。 マンセル表色系などと同様に色の三属性による表記も可能だが、「彩度」と「明度」を複合した『トーン』の概念が存在し2属性での表記も可能な点が特徴的で[1][3][5]、色の2属性表記で実際の色をイメージしやすいため配色を考えるのに適している[5][3]。「色相(ヒュー)」と「トーン」で体系付けられるため『ヒュートーンシステム』とも呼ばれる[2][3][5]。 色相(Hue)[編集] 心理四原色を骨格とした24の色相が、知覚的に均等になるように配列されている[3][5][6]。色相の構成は以下の手順で成り立っている[3][5][6]。 心理四原色の赤・黄・緑・青を円周上に配置する。(下図●、計4色) 心理四原色の心理補色を円の対向位置に配置する。(下図○、計8色) 知覚的に均等になるように4色を加える。(下図△、計12色) それぞれの中間色相を加える。(計24色) 12色相として用いる場合、4.で追加した中間色相を除いた12色相(●○△があるもの、偶数番号)を用いる。 手順 色 番号:略号 名称 備考   1:pR

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四千頭身 – Wikipedia

四千頭身(よんせんとうしん)は、ワタナベエンターテインメントに所属している都築拓紀・後藤拓実・石橋遼大からなるお笑いトリオ。 メンバー[編集] 都築 拓紀(つづき ひろき 1997年3月20日 – )(25歳) 旧姓:赤塚(あかつか)。 ボケ(一部のネタではツッコミ)担当、立ち位置は向かって左。 茨城県龍ケ崎市出身[2]。 龍ケ崎市立中根台中学校、千葉県立印旛明誠高等学校卒業。 身長177cm。血液型はO型。右利き。長男で妹と弟がいる[3]。 中学、高校時代は野球部に所属。 後藤 拓実(ごとう たくみ 1997年2月6日 – )(25歳)

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てんてつバス – Wikipedia

てんてつバス (Tentetsu Bus)は、北海道留萌市に本社を置きバス事業を行う企業である。 石炭・木材輸送を中心に鉄道事業を営んでいた天塩炭礦鉄道が前身。1967年(昭和42年)の鉄道廃止にあたり、バス部門を引き継ぐ第二会社として天塩鉄道バスを設立、さらに略称の「てんてつバス」に変更となり現在に至る。 2014年(平成26年)10月に唯一の路線であった達布留萌線が廃止となり、以降は貸切バスと、小平町から受託するデマンドバス、スクールバスの運行を行っている。旅行業も行っていたが2004年(平成16年)で撤退した。 1960年代に札幌留萌間の特急バスの運行を申請したことがあったが、併願していた北海道中央バスと沿岸バスの2社へ運行認可が下り実現しなかった。 本社・営業所所在地[編集] 達布営業所 2013年7月 本社・本社営業所 北海道留萌市船場町1丁目47 小平営業所(小平町デマンドバス) 留萌郡小平町字小平町163−1 達布営業所 北海道留萌郡小平町字達布(たっぷ) 江別営業所(貸切バス専門) 北海道江別市工栄町21-26 ほかに旭川営業所が設置されていたが2006年(平成18年)10月1日より分社され「北海運輸」(通称:北海バス)となった。 貸切バス[編集] 貸切バス事業は通常は離島を除く旭川運輸支局および札幌運輸支局管内での発着が認められているが、貸切バス事業者安全性評価認定制度による優良事業者に限定した営業区域の弾力的な運用により北海道全域となっている。車両は10台保有する[1][2][3]。

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九四式六号無線機 – Wikipedia

九四式六号無線機(きゅうよんしきろくごうむせんき)は、大日本帝国陸軍が開発した近距離通信用の無線機である。この無線機は歩兵部隊に配備され、通話距離2kmを目標とした。この機材は電信送信と無線電話の機能を持っていた。駄馬1頭で本無線機4機を運んだが、輸送時には2機を1梱包とした。この1梱包の重量は全備47kgである。また通信に必須の機材は兵1名によって携行できた。本無線機は行動中の通信が可能である。 昭和5年研究開始。この無線機は歩兵部隊用とされた。携帯用小無線機の開発方針は、無線電話連絡に用いるものであること、通信距離は電話1km、電信2kmを確保すること、歩兵2名から3名で運搬することである。 昭和6年、研究方針を修正した。内容は以下の通りである。歩兵部隊内の電話連絡用であること、超短波を使用すること、通話距離範囲は1kmであること、容易に運搬できること。この方針から十三号丁無線電話機(歩兵用)が作られ、陸軍歩兵学校が器材を試験した。ほか特別工兵演習に試用し、設計上の資料を収集した。これにより準備研究が終了した。 昭和7年、方針を修正。副通信法に電信送信を追加した。器材を試作、試験を実施した。 昭和8年、方針を修正した。歩兵部隊内の電話連絡用であること、超短波を用いること、通話距離は2km、容易に運搬できること、副通信法に電信装置を設けることであった。この試作器材は、陸軍歩兵学校の歩兵戦闘法研究演習に参加し、試用されたほか、特別工兵演習にも試用された。 昭和9年1月、満州北部での冬期試験を実施した。結果、構造や組立が簡単で取扱いが容易、また酷寒でも2km内外での通話に適すると判定された。こののち、多数の無線機を近接使用したときの通信の良否、密林内での通信機能の試験を経て、おおむね所期の性能を持つと確認された。9月には満州北部で雨期・炎熱試験が行われた。結果、機能が優秀であること、取扱いが容易、無線通信手の教育が短期間で済み、おおむね実用に適すると判定された。10月、試作器材の試験が陸軍歩兵学校で行われ、通信の確実性と戦場での安全率、酷寒での操作性などになお不安があるとされた。しかし若干改修すれば連隊・大隊間の副通信機材に実用可能であるとされた。評価に基づいて改修が加えられた。 昭和10年3月、兵器採用検査の実績から短期に製造可能と確認された。11月、陸軍技術本部に本無線機に関して意見を求め、異論がないことから仮制式制定の上申が認められた。12月、上申。 この無線機は通信装置、発電装置、空中線材料、付属品、材料で構成される。 通信装置内容 通信機・無線電話と電信送信機能を持つ。周波数範囲は25,000から30,000キロサイクル毎秒。 付属品・送受話器など。 予備品・交換用部品。 材料 発電装置内容 手廻発電機・一人手廻式全閉型直流発電機を使用した。定格出力5ワット、定格電圧は高圧135ボルト、低圧側3ボルト。定格電流は高圧30ミリアンペア、低圧350ミリアンペア。回転数はハンドル側が70回転毎分、電気子側で5,100回転毎分。 付属品・ケーブルなど。 材料 空中線は約1.4m長、対地線は約0.7m長の金属桿が用いられた。この金属製パイプには各部にジョイントが設けられ、通信手の姿勢に追従できた。 付属品は小型電灯、ワイヤーカッター、ねじ回しなどである。他に器材収容用の箱があり、収容された機材は輜重用十五年式駄馬具によって運搬された。 参考文献[編集]

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劣調和函数 – Wikipedia

数学において劣調和函数(れつちょうわかんすう、英: subharmonic function)および優調和函数(ゆうちょうわかんすう、英: superharmonic function)は、偏微分方程式、複素解析およびポテンシャル論において幅広く用いられている重要な函数のクラスである。 直観的に言えば、劣調和函数は以下のような意味で一変数の凸函数と関係がある: 「凸函数のグラフと直線が二点で交わるとき、その二点間では凸函数のグラフは直線の下にある」ことと同様に「球体の境界上での劣調和函数の値が常に適当な調和函数の値よりも大きくないならば、球体の内側においても劣調和函数の値はその調和函数の値よりも大きくならない。」 優調和函数は、同じ記述において「大きくない」という箇所を「小さくない」に替えたものによって定義することができる。あるいは同じことになるが、優調和函数とは劣調和函数の負函数にちょうどなっているものである。また、このことから劣調和函数のどのような性質も、優調和函数の対応する性質に読み替えるのは容易である。 厳密な定義[編集] 定義を厳密に述べれば以下の通りである。G をユークリッド空間 Rn の部分集合とし、 φ:G→R∪{−∞}{displaystyle varphi colon Gto {mathbb {R} }cup

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エドワード・コルストン (ウェルズ選挙区の庶民院議員) – Wikipedia

エドワード・コルストン(英語: Edward Colston、1672年以降 – 1719年4月5日)は、グレートブリテン王国の庶民院議員。トーリー党所属[1]。奴隷商人で同名のエドワード・コルストンは伯父にあたる。 ロバート・コルストン(Robert Colston)とアン・ウォーターズ(Ann Waters、ロバート・ウォーターズの娘)の息子として生まれた[1]。ロンドンで商業を生業とした[2]。 1705年イングランド総選挙でブリストル選挙区(英語版)から出馬、同名の伯父エドワード・コルストンも支持を表明したが、結局落選している[3]。このとき、伯父がまず出馬を求められたが辞退したため、代わりに甥のほうが出馬したとされる[3]。1708年イギリス総選挙ではウェルズ選挙区(英語版)の現職2名が1人は不出馬、1人はカウンティ選挙区のサマセット選挙区(英語版)に鞍替えしたため、コルストンがトーリー党候補として出馬して、無投票で当選した[2]。議会では1709年から1710年にかけての会期にヘンリー・サシェヴェレル(英語版)の弾劾に反対票を投じ、1711年にスペイン継承戦争の講和に賛成、1713年6月にフランスとの通商法案に賛成票を投じた[1]。1713年イギリス総選挙に出馬せず、議員を退任した[1]。 1719年4月5日に死去、ブリストルの諸聖人教会(英語版)に埋葬された[1]。 1704年8月4日にメアリー・ド・バート(Mary De Bert、1733年没)と結婚、1女をもうけた[1]。 ^ a b c d e f

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アイシン ウィングス – Wikipedia

アイシン ウィングスAISIN Wings 愛称 ウィングス 所属リーグ W LEAGUE 創設年 1979年 チーム史 アイシン・ワーナー女子バスケットボール部(1979年~2000年)アイシン・エィ・ダブリュ ウィングス(2000年~2021年)アイシン ウィングス(2021年~) 本拠地 愛知県安城市 アリーナ 安城市体育館など チームカラー  

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毛利名人 – Wikipedia

毛利名人(もうりめいじん、1966年9月7日 – )または毛利永世名人(もうりえいせいめいじん)は、日本のゲーマー、ゲームライター、編集者。本名は毛利 公信(もうり きみのぶ)。東京都渋谷区出身。 『スターフォース』でのキャラバン(会場は札幌のデパート)が名人としてのデビュー。1日で約700人も集め、当日だけで『スターフォース』を500本近く売り上げた[1]。 ファミコン名人で高橋名人に次ぐ人物として知られ、日本におけるプロゲーマーの先駆的存在である。野性味あふれるキャラクターを押し出していた高橋名人に対し、毛利名人はすらりとした体躯もあいまって理論派的な印象のキャラクターに設定されていた(「力の高橋、技の毛利」と言われた[2])。1986年には高橋名人との対決を描いた映画『GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦』に主演。 高橋名人の16連打に対し毛利のそれは14連打(実際は9〜10連打とも)と数は劣るものの高橋よりも命中率が高く(高橋の命中率が80%であるのに対し毛利は90%)互角の実力と紹介された。 ハドソンは『チャンピオンシップロードランナー』全面クリア達成者にナンバー入りのゴールド認定証を発行していたが、毛利名人はその3000人目の達成者である。当時、同作品の広告に顔写真付きで紹介されたことがある。以後、同社のゲーム大会などに名人(司会者も兼ねる)として出演。大会の全国キャラバンでも西日本を高橋名人、東日本を毛利名人が担当するなど、高橋とほぼ同格の扱いを受けるようになった。 テレビ東京系『ファミっ子大集合』内の「ファミっ子チャレンジランド」のコーナーにて、難易度の高い『忍者龍剣伝』を挑戦者である当時の小学生9人相手にもかかわらず、あっさりと放送時間内(放送収録時間内)に一人だけ全面クリアするという離れ業を数回やるほどの腕前。『悪魔城ドラキュラ』でも最低装備でボスのドラキュラを無傷で倒す離れ業を披露した。 グランツーリスモシリーズなど、車ゲームが得意なのはゲーム界で有名であり、20代で購入した[3]愛車フェラーリを現在も大事にしていることからこの手のジャンルには一際熱心に攻略をし続けていた。 東京理科大学在学中からファッションには無頓着で、ジーンズの中に襟付きシャツを入れるスタイルを好んでおり、今に至る。 所属の誤解[編集] 毛利名人はコナミ所属という誤解が多いが、ハドソンのアルバイト社員を経てのフリーランスだった。 当時ハドソン社員であった高橋名人によると、当初毛利が自作の同人誌を持って自己紹介してきたので、ゲーム好きの青年と見て、会った翌週ハドソンに招き、会話の流れからスターフォースをプレイさせた所高得点を取ったので、そのまま説得し本人の同意を得た上でバイトとして雇い、当時展開していた全国キャラバンに“毛利名人”として用いたのが業界に関わり名前を売る切っ掛けであった[4][5]。 しかし、ハドソンとのアルバイト契約期間が残っていたまま、「毛利名人」として当時ハドソンのライバル社であったコナミ(当時の社名はコナミ工業)のファミコン版『グラディウス』のゲーム大会のゲストに招かれた様子が雑誌に掲載された事で無断で他社のイベントに参加していた事が発覚し、その結果ハドソン側から問題視され、正式にアルバイト契約を解除され退社した。 コナミ所属という誤解はコナミのファミコンゲーム攻略ムック発売に起因するとされる。なお、ハドソンは現在コナミに合併されたため、ライバルではなく同一の会社となっている。

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