ヘンリー・ハワード (第7代ノーフォーク公) – Wikipedia

第7代ノーフォーク公ヘンリー・ハワード(英: Henry Howard, 7th Duke of Norfolk, KG, PC、1655年1月11日 – 1701年4月2日)は、イングランドの貴族。

1655年1月11日、第6代ノーフォーク公爵ヘンリー・ハワードとその妻アン(第2代ウスター侯爵エドワード・サマセットの娘)の長男として生まれる[1][2]

オックスフォード大学モードリン・カレッジで学び、マスター・オブ・アーツ英語版(MA)の学位を取得[2]

1679年1月に繰上勅書によりモウブレー男爵を継承して貴族院に召集された[2]。1682年12月にウィンザー城管理長官英語版サリー総督英語版バークシャー総督英語版に就任[2]。1683年1月にウィンザー執事(high steward of Windsor)となり、同年4月からノーフォーク総督英語版にも就任した[2]

1684年1月の父の死により第7代ノーフォーク公爵位を継承した[2]。1684年9月にオックスフォード大学より名誉民事法学博士号(DCL)を授与される[2]。1685年2月のカトリックのジェームズ2世の即位に際して、ノーフォーク公がジェームズ2世への王位継承の旨の宣言を発した[2]。同年5月にガーター勲章ナイト(KG)に叙された[2]。1685年6月にはノーフォーク公爵歩兵連隊英語版名誉連隊長となったが、彼はプロテスタントだったので1686年にカトリック教会への参拝を拒否して辞職した[2]。1687年にはサリーとノーフォークにおいてジェームズ2世の信仰自由宣言に関する評判を情報収集するエージェントの役割を果たすことをジェームズ2世に約束していたが、1688年7月にはオラニエ公ウィレム3世(ウィリアム3世)の許にはせ参じ、名誉革命成功後の1689年2月にウィリアム3世の即位を支持した[2]。同月、枢密顧問官(PC)に任じられる[2]

1689年3月にはノーフォーク公爵歩兵連隊英語版名誉連隊長に就任[2]

1701年4月2日にロンドン・セント・ジェイムズ・スクウェア英語版ノーフォーク・ハウス英語版で死去[2]。爵位は甥のトマスが継承した[2]

1679年1月14日の繰上勅書により父ヘンリーの保有する爵位のうち次の爵位を継承[3]

1684年1月11日の父ヘンリーの死去により以下の爵位を継承した。

勲章[編集]

1677年に第2代ピーターバラ伯爵ヘンリー・モードント英語版の娘メアリーと結婚したが、子供は無かった[1]

メアリーは公爵邸によく出入りしていた軍人サー・ジョン・ジャーメインと浮気し、これに公爵が立腹して1685年から別居となった。さらに公爵は妻の浮気相手ジャーメインを相手取って10万ポンドの損害賠償を求める訴訟を起こした。この裁判はメアリーが貴族院の証言台に立つなどしたため、衆目を集めたが、メアリーは熱心なカトリックでジャコバイト派であったため、その思想を持つ者たちがメアリーを熱心に応援し、公爵は不利な立場に立たされたという。結局公爵はこの裁判で100マークの損害賠償しか取れなかった[4][5]

夫妻は1700年4月に正式に離婚し、離婚後メアリーはジャーメインと再婚した[6]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b Lundy, Darryl. “Henry Howard, 7th Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p

    William Hunt (1891). “Howard, Henry (1655-1701)” . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 28. London: Smith, Elder & Co. pp. 33–34.

  3. ^ Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft’s Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年6月28日閲覧。
  4. ^ 海保(1999) p.200
  5. ^ 森(1987) p.41-42
  6. ^ 森(1987) p.43

参考文献[編集]