ケンドー・カシン(1968年8月5日 – )は、日本の覆面レスラー。本名は石澤 常光(いしざわ ときみつ)。 デビュー前[編集] 青森県南津軽郡常盤村(2005年3月の市町村合併により現在は藤崎町)出身。実家は青森県内有数の養鶏場「トキワ養鶏」を営んでいる。父は合併時まで同村の村長を務めた石澤善成で、4人兄弟の三男。レスリングの強豪校である光星学院高校に入学。1986年、第41回国民体育大会ではレスリング少年の部フリースタイル70kg級で優勝。1987年、早稲田大学人間科学部入学。 早大入学後、レスリングで早くから活躍し、1987年秋季新人戦で優勝、大学2年で全日本学生選手権3連覇含む学生タイトル2冠[1][2]、全日本選手権においては1989年から2年連続フリースタイル82kg級で準優勝。 1991年、早大卒業後、新日本プロレスのレスリング部門、闘魂クラブに入団、全日本選手権優勝[3]を果たす。根っからのプロレスファンで、学生時代にはしばしば練習を休んでプロレス観戦に興じていたという。 新日本プロレス時代[編集] 1992年4月に正式に新日本プロレスに正式入団。9月21日、石沢常光(”ざわ”は新字体)の名で、金本浩二戦でデビュー。コーチを務めた馳浩からは「全く運動神経のない男」と表現される反面、同期の中では受身の習得も早く[要出典]、「筋肉の反射神経は、プロレスラーに限らず、色んなスポーツ選手を見てきた中で抜群」と評価している。 1996年3月、第7回ヤングライオン杯にて優勝。このさい、優勝賞金としてセレモニーで手渡された小切手型のボードを半分に折り、決勝で敗った永田裕志に片方を渡して健闘を称えるという、後のカシンの姿からは想像もできない振る舞いを見せている。 覆面レスラーへの転身[編集] 1996年7月、ヨーロッパ遠征へ出発。そのさい、現地のプロモーターだったオットー・ワンツの要請を受け、マスクマン「ケンドー・カ・シン」となる(後に”カシン”に改名)。後に同年12月に遠征先のドイツ・ブレーメンで受けた週刊プロレスのインタビューで「マスクマンになったのはオットー・ワンツの要請だよ。ケンドー・カ・シンというリングネームも全部ワンツが考えた。カ・シンの意味は分からない」と述べている。金澤克彦のインタビューの中では、出発前にオットーに「マスクを持ってこい」と要求された際、当時の新日本の社長に「じゃあエル・サムライのマスクを持っていけ」と言われた事を語っている。またその際「やだなぁ」と思ったという。 1997年4月、凱旋帰国しケンドー・カ・シンとして帰国第一戦、山崎一夫とシングルマッチで対戦。UWFの流れを汲む山崎相手にグラウンドの攻防やマウント掌底など、格闘技色の強いプロレスを展開するが、当時の新日本ファンからは受け入れられず、失笑を買ってしまう結果となる。同年、10月16日の新日本四日市興行の試合後、「オレは別にいつ辞めたっていいしね。全然プロレス界に必要な人間じゃないし。潰すか潰されるか、それだけだ」とインタビューで発言。 1998年6月、アメリカで受けた週刊プロレスのインタビューで凱旋帰国第一戦時のことを「はじめ日本に帰ってきた時、みんなが素顔でやるものと思ってた。でも、オレ自身のなかで、せっかくヨーロッパでマスクを被ってやって来て、現地でもウケてたし自信もあった」と発言。その上で、「そう思って帰国して最初の試合でみんなに笑われた。その笑われた時点でマスクをずっと被ろうと決心した」と、覆面レスラーを続けるに至った経緯を述べている。 ブレイク、飛躍の年[編集] 1999年1月、東京ドーム大会で大谷晋二郎・高岩竜一組を破り、第2代IWGPジュニアタッグ王座戴冠(w/ドクトル・ワグナー・ジュニア)。自身初のタイトル奪取となった。 同年2月、マサ・サイトー引退記念写真展でのミニトークショーで 「オレは最初から・なんか入ってないサインをしてた。あれは勝手にマスコミが・を入れたの」とカ・シンからカシンに改名した理由を述べた。さらに過去の経歴からライバル関係にあり、不仲であると囁かれていた中西学との関係に触れ、「いや、ライバルじゃない。親友。ほんと、ほんと」と発言。しかし、「中西が新日本に入るって言った時は本気で(新日本を)辞めようかなと思ったんですけどね」とも述べ、「プロレス入ってからは、挨拶ぐらいはしたことある。後はもう、以心伝心で伝わるから」と、どうとも取れる旨の意味深な発言を続け、以後、事あるごとに中西を引き合いに出す片鱗を見せる。
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