ダヤン・ハーン – Wikipedia
この項目では、15世紀のモンゴルのハーンについて説明しています。13世紀のナイマンのカンについては「タヤン・カン」をご覧ください。 ダヤン・ハーン(モンゴル語: Даян хаан、ᠳᠠᠶᠠᠨᠬᠠᠭᠠᠨ 英語: Dayan Khan、1473年 – 1516年または1474年 – 1517年)は、モンゴルの第34代(北元としては第20代)ハーン。長らく分裂状態にあったモンゴル諸部を再統一し、ハーンの権威を回復させた。本名はバトゥ・モンケ(Batu Möngke、Батмөнх)。明朝で編纂された漢文史料では大元大可汗や小王子、或いは達延汗と記されている。 ダヤン・ハーンはモンゴル中興の祖として称賛されており、モンゴルの諸王公はチンギス・カン(太祖テムジン)、セチェン・カアン(世祖クビライ)に次ぐ偉人としてダヤン・ハーンを位置づけている[1]。現在のモンゴル国における「チンギス・カンの末裔」は大部分がダヤン・ハーンの流れをくんでいる。 生い立ち[編集] 15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 チンギス・カンの末裔として、15世紀当時のモンゴル高原においてハーンになる資格を唯一有する家系と見なされたボルジギン氏に生まれた。しかし、バトゥ・モンケ以前の時代には、後述する政治的混乱のためにチンギス・カン一族の記録や伝承が混乱しており、チンギスからバトゥ・モンケに至る系譜は確実ではない。ただ、傍証や後の時代の系譜書から、歴史家はバトゥ・モンケが元の世祖クビライの後裔にあたると考えている[2]。 ドルベン・オイラト(オイラト部族連合)の指導者エセン・タイシはトクトア・ブハ・タイスン・ハーンを擁立してドチン・モンゴル(韃靼)を滅ぼし、モンゴル高原を統一した。やがてエセンとタイスン・ハーンが対立するようになると、タイスン・ハーンの弟アクバルジ・ジノンは兄を裏切ってエセンに味方し、このためにタイスン・ハーンは敗れて殺された。しかし間もなくアクバルジ・ジノンもまたエセンに殺され、遂にハーン位に即いたエセンはチンギス裔の多くを皆殺しにしてチンギス統原理は崩れた。 アクバルジ・ジノンの息子ハルグチャクも父とともに殺されたが、その妻はエセンの娘セチェク妃子であったため、両者の息子バヤン・モンケはエセンの殺戮を免れた。チンギス統原理を破ってハーン位に即いたエセンにモンゴルの諸侯は反発し、エセンは即位後1年で弑逆されてしまった。エセンの死後、モンゴル高原ではこれといった有力者を欠く混乱時代に突入し、アスト/ハラチン集団を率いるボディ・ダルマ/ボライ太師ら、オンリュート集団(チンギス・カンの後裔)を率いるボルナイ/ドーラン・タイジ/モーリハイら、ドルベン・オイラトの残党を率いるエセンの息子オシュ・テムルらがしのぎを削った。 一方、成長したバヤン・モンケはオルドス地方を根拠地とするウルウト部のオロチュ少師と同盟を組み、その娘シキル太后を娶り、ボルフ・ジノンと称して勢力を拡大した。こうして、1475年ころまでにモンゴル高原の諸集団は西方から移住してきたヨンシエブ部のベグ・アルスラン、タイスン・ハーンの末弟でボルフ・ジノンの大叔父に当たるマンドゥールン、そしてボルフ・ジノンの3つの勢力に収斂されていった。この三者は当初蜜月関係にあったが、ベグ・アルスランがマンドゥールン・ハーンを推戴するとボルフ・ジノンは排斥されるようになった。 ベグ・アルスランの「族弟」で、マンドゥールン・ハーンの腹心の部下であるイスマイルはボルフ・ジノンを攻めてその財産を掠奪し、ボルフ・ジノンの妻シキル太后を奪って自らの妻としてしまった。そして1476年にボルフ・ジノンは腹心の部下モンケと共に殺され、ボルフ・ジノンとシキル太后の息子バトゥ・モンケは「義父」となったイスマイルの下で過ごすこととなった。イスマイルの下で当初はバルガチンのバハイがバト・モンケの面倒を見ていたが、ぞんざいに扱われたためにバトゥ・モンケはエキノコックスに感染してしまった。見かねたタンラカルのテムル・ハダクとサイハイ夫妻がバトゥ・モンケを引き取り、サイハイは何度もバトゥ・モンケを擦ることで病気を癒やした[3]。 このようにバトゥ・モンケの幼年時代は不幸なものであったが、マンドゥールン・ハーンには男児がいなかったため、その死後にバトゥ・モンケはチンギス・カンの血を引くほとんど唯一の男子として注目されることとなる。
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