ハンター・アンドリュー・ペンス(Hunter Andrew Pence, 1983年4月13日 – )は、アメリカ合衆国テキサス州フォートワース出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 プロ入り前[編集] 子供の頃からバスケットボールをしており、高校までプロになるべくやっていたが技術不足でバスケを挫折した。野球は16歳から始めた。 2002年6月4日のMLBドラフト40巡目(全体1189位)でミルウォーキー・ブルワーズから指名されるが、契約には至らなかった。 テキサス大学アーリントン校在学時の2003年に好成績を残し、サウスランド・カンファレンスのオールスターに選出される[2]。 2004年は更なる成長を遂げ、2年連続で同カンファレンスのオールスターに選出された他、プレーヤー・オブ・ザ・イヤーとヒッター・オブ・ザ・イヤーをダブル受賞した[2]。 プロ入りとアストロズ時代[編集] ヒューストン・アストロズ時代(2010年4月3日) 2004年6月7日のMLBドラフト2巡目(全体64位)でヒューストン・アストロズから指名され、7月14日に契約成立。この年からマイナーリーグでプレーを始め(51試合出場)、8月には傘下のA-級トリシティ・バレーキャッツ(英語版)のディフェンシブ・プレーヤー・オブ・ザ・マンスに選ばれた[3]。 2005年はA級レキシントン・レジェンズとA+級セイラム・アバランチを合わせて121試合に出場して打率.327、31本塁打、90打点、出塁率.400、OPS.998の好成績を挙げ、サウス・アトランティックリーグのオールスターに出場した他、同リーグのルーキー・オブ・ザ・イヤーとNo.1プロスペクト、チーム内MVPとアストロズのマイナーリーグ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに輝いた[2][4]。同年12月2日、アストロズのプロスペクト・リストで6位にランクされ、ベスト・ヒッター・フォー・アベレージに選定[5]。 2006年はAA級コーパスクリスティ・フックスでプレーし、136試合に出場して打率.283、28本塁打、95打点、出塁率.357、OPS.890、17盗塁を記録。フューチャーズゲームに出場し、ベースボール・アメリカ誌のマイナーリーグ・オールスター代表チームにも選ればれた他、前年に引き続きアストロズのマイナーリーグ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞[2][6]。翌2007年2月7日、アストロズのプロスペクト・リストで1位にランクされ、ベスト・ヒッター・フォー・アベレージとベスト・パワー・ヒッターの2部門に選定[7]。 2007年はスプリング・トレーニングで、打率.571、2本塁打、9打点などの好成績を収め、AAA級ラウンドロック・エクスプレスを経て(25試合出場)、4月28日にメジャー初昇格を果たす。昇格後のブルワーズ戦で「6番・中堅手」としてスタメン起用され、デイブ・ブッシュからキャリア初安打となるライト前ヒットを放つなど、3打数1安打、1死球、1得点の好結果でデビュー戦を飾った。更に、5月に入るとさらに調子を上げ、5日にはメジャー初本塁打となる満塁本塁打を、15-16日は7打席連続安打をそれぞれ放ち、プレーヤー・オブ・ザ・ウィーク(14-20日の週)とルーキー・オブ・ザ・マンス(打率.343、4本塁打、19打点、37安打、OPS.965)を受賞。7月1日から13日にかけては9試合連続安打を放つなど、その後も好調を維持し続け打率を.350前後まで上げ、一時はナショナルリーグ首位打者に踊り出た。しかし7月22日のピッツバーグ・パイレーツ戦で右手首を骨折し、1ヶ月ほど戦線を離脱。結局108試合の出場に留まり、規定打席には届かなかったものの、打率.322、17本塁打、69打点、9三塁打(リーグ4位)、11盗塁、出塁率.360を記録し、マルチヒット46回(うち4安打4回)と素晴らしい成績を残した[8]。中堅の守備ではUZR-0.1、DRS-1を記録し[9]、右翼の守備ではUZR-0.9、DRS±0を記録した[10]。ナショナルリーグの新人王の投票では3位だった新人王の投票ではライアン・ブラウン、トロイ・トゥロウィツキーに次ぐ3位だった[11]。 2008年はシーズン開幕時は二番打者として起用されていたが打率1割台と低迷し、4月15日からは六・七番に下げられた。それ以降は踏ん張り、4月18日に3安打を放つと4月25日まで8試合連続安打、4月30日から5月18日にかけて16試合連続安打、5月27日にはキャリア初の1試合5安打と次第に復調。7月25日から8月5日まで11試合連続安打、8月29日から9月11日まで13試合連続安打と、10試合以上の連続安打を3度記録した[12]。157試合に出場し、打率.269、25本塁打、83打点、10盗塁、出塁率.318を記録した。内野安打数(40本)は、イチローと並んで両リーグ最多タイとなった[13]。このシーズンからコンバートされた右翼の守備では共にリーグ2位となるUZR+11.9、DRS+9を記録し、16補殺はリーグ最多と好守強肩を披露した[14]。また、アストロズとセントルイス・カージナルスの選手が対象のダリル・カイル賞を受賞した。 2009年はオールスターゲームに監督推薦で初選出を果たした[15]。シーズンでは右翼手のレギュラーとして自己最多となる159試合に出場し、打率は前年を上回る.282を記録し、25本塁打、72打点、14盗塁、出塁率.346を記録した。守備面では共にリーグトップとなるUZR+12.2、DRS+19を記録し、16補殺は2年連続でリーグ最多となった[16]。 2010年は156試合に出場し、2年連続での打率.282と3年連続での25本塁打を記録。また、91打点、18盗塁、出塁率.325を記録した。守備面ではUZR+0.6、DRS+4と共にプラス数値を記録するも、前年からは成績を落とした[17]。
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