Month: April 2019

ザ・ドッグ・パウンド – Wikipedia

ザ・ドッグ・パウンド(Tha Dogg Pound)はアメリカのヒップホップグループ。別名D.P.G.(Dogg Pound Gangstaz)又は、D.P.G.C.(Dogg Pound Gangsta Crips)。狭義にはダズ・ディリンジャーとクラプトからなるデュオ、広義にはスヌープ・ドッグやそのほかの準メンバーたちを含んだロングビーチ出身のアーティストのチームである。 1990年代前半(デス・ロウ・レコーズ初期時代)[編集] ドクター・ドレーのもとデス・ロウ・レコーズが設立されたとき、所属ラッパー、スヌープ・ドッグの従兄弟であるダズ・ディリンジャーと友人のクラプトによって結成された、スヌープ・ドッグの舎弟軍団的な位置づけのユニットである。1992年にリリースされたドクター・ドレーのアルバムにフィーチャリングされたのを皮切りに、デス・ロウ・レコーズ関連作品にたびたび登場し、1995年には初アルバム『ドッグ・フード』 (Dogg Food) をリリース。同アルバムは米国でダブル・プラチナ・アルバムとなる商業的成功をおさめた。 1990年代後半(デス・ロウ・レコーズ後期時代)[編集] ドクター・ドレーやスヌープ・ドッグ、2パック、そしてこのドッグ・パウンドと、次々とマルチ・プラチナ・アルバムをリリースして絶頂期にあったデス・ロウ・レコーズも、内部はシュグ・ナイトによる暴力的な体質に支配されており、1996年の2パックの暗殺死、ドクター・ドレーの離脱、1997年のスヌープ・ドッグの離脱と、1990年代後半には凋落の一途をたどった。ザ・ドッグ・パウンドの主力メンバーであるクラプトも1998年にはデス・ロウを離脱、ソロ・アルバム『Kuruption!』をリリースした。一方、片割れのダズ・ディリンジャーはデス・ロウ・レコーズのメイン・プロデューサ、そして副社長としてこの時代のデス・ロウをほぼ一人で支え、同社によるコンピレーション・アルバムをプロデュースし、1998年には『Retaliation, Revenge & Get Back 』をリリースした。1999年にはクラプトは早くも2枚目のソロ・アルバム『Tha

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南田みどり – Wikipedia

南田 みどり(みなみだ みどり、1948年 – )は、ビルマ文学者(英語版)。大阪大学名誉教授。専門は現代ビルマ文学[注釈 1]。 兵庫県生まれ。1976年に大阪外国語大学大学院南アジア語学修了。同大学教授をへて現職。現代ビルマ文学の研究を通して、ビルマ女性文学や、文学と社会の関係、文学における日本占領時期のビルマの描写などについて研究を行う。ビルマ名は「マ・パンケッ」(花の枝)。 日本で翻訳した短編集のビルマ語版はミャンマーでも出版され、『ジャスミンはいかが 日本で翻訳されたビルマ短編小説集』(2004年)と『小説にあらず 日本で翻訳されたビルマ短編小説集』(2006年)の2冊がある[注釈 2]。2017年10月20日、ティンペーミン(英語版)の小説『ビルマ1946 独立前夜の物語』の翻訳で、日本翻訳家協会の翻訳特別賞を受賞した[5]。 主な著書[編集] 共著[編集] 翻訳[編集] マウン・ターニャ『路上にたたずみむせび泣く』 井村文化事業社、1982年。 ミャタンティン『剣の山を越え火の海を渡る』 井村文化事業社、1983年。 『十二のルビー – ビルマ女性作家選』 段々社、1989年。

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第87回都市対抗野球大会予選 – Wikipedia

第87回都市対抗野球大会予選は、第87回都市対抗野球大会に出場するチームを決定する全505試合の結果を記録したものである。なお、本大会への出場を決める代表決定戦以外におけるコールド、延長のイニングは記載しない。 今大会については、三菱自動車倉敷オーシャンズ(岡山県倉敷市)と三菱自動車岡崎硬式野球部(愛知県岡崎市)が、親会社・三菱自動車工業の不祥事を受け、倉敷オーシャンズは中国地区予選を、三菱岡崎は東海地区予選を、それぞれ出場辞退している[1]。 北海道地区[編集] 1次予選[編集] 伊達聖ヶ丘病院 10-3 ブレーブくしろ TRANSYS 9-1 ウイン北広島 旭川グレートベアーズ 19-16 オール苫小牧 札幌ホーネッツ 14-0 帯広倶楽部 札幌ブルーインズ 10-9 伊達聖ヶ丘病院 TRANSYS 17-13 札幌倶楽部 旭川グレートベアーズ 16-13 函館太洋倶楽部 札幌ホーネッツ 13-2 小樽野球協会 JR北海道 12-0 札幌ブルーインズ WEEDしらおい 9-1 TRANSYS 室蘭シャークス 21-0 旭川グレートベアーズ 航空自衛隊千歳 6-1 札幌ホーネッツ TRANSYS 6-1 札幌ブルーインズ 札幌ホーネッツ 6-1 旭川グレートベアーズ TRANSYS 5-1 札幌ホーネッツ JR北海道 7-0 WEEDしらおい

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てのひら怪談 – Wikipedia

『てのひら怪談』(てのひらかいだん)は、800字の掌編怪談作品集シリーズ。 2007年から2012年まではポプラ社・ポプラ文庫刊。2013年からMF文庫ダ・ヴィンチ刊。 2003年から2011年まで開催されていたビーケーワン怪談大賞(オンライン書店ビーケーワンが主催)と、2012年に開催されたてのひら怪談大賞(てのひら怪談実行委員会と『Mei(冥)』が共催[1])で一般公募された作品の中から、選考委員である加門七海、福澤徹三、東雅夫が選んだ優秀作品・入選作品の約100編が各巻に収録された。 収録作家には黒史郎、勝山海百合、岡部えつ、田辺青蛙、朱雀門出、黒木あるじなど、後にプロデビューする作家を何人も輩出した。 2007年には、「西荻」をテーマにした掌編怪談を募集する「西荻てのひら怪談」が開催された[2]。選考委員は、穂村弘、北尾トロ、東雅夫、斉藤尚美。入選作品はカードブックとなり販売されたが、書籍化はされていない。 2015年には、「大阪」をテーマにした掌編怪談を募集する「大阪てのひら怪談」が開催された[3]。選考委員は、田辺青蛙、酉島伝法、東雅夫、牧野修、山下昇平。『てのひら怪談』シリーズの装丁画を担当する山下昇平が応募作品すべてに挿絵を描き下ろし、SUNABAギャラリーにて展示、販売された。2016年に第2回が開催。 2016年には、「尾道」をテーマにした掌編怪談を募集する「尾道てのひら怪談」が開催。選考委員は、東雅夫、光原百合、小畑拓也、原卓史、林良司。尾道市立大学美術学科有志が応募作品すべてのイメージイラストを制作し、尾道市立中央図書館に展示される。 出版経緯[編集] 第4回ビーケーワン怪談大賞の応募作の水準が著しく高かったため、選者の一人である東雅夫が単行本化を目指したいと自身のブログで表明したところ、『八本脚の蝶』(二階堂奥歯著)の編集制作を通じて東と親交があった、ポプラ社の編集者・斉藤尚美が即座に応じて、出版が実現した。「てのひら怪談」のネーミングは、斉藤の発案によるという。 一般公募[編集] 書籍リスト[編集] 加門七海・福澤徹三・東雅夫 編 てのひら怪談1 ビーケーワン怪談大賞傑作選(2007年2月、ポプラ社) 【改題】てのひら怪談 ビーケーワン怪談大賞傑作選(2008年6月、ポプラ文庫) てのひら怪談2 ビーケーワン怪談大賞傑作選(2007年12月、ポプラ社) 【改題】てのひら怪談

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カタパルト – Wikipedia

この項目では、艦艇から航空機を射出するための機械について説明しています。この機械の語源ともなった、中世の投擲兵器については「カタパルト (投石機)」をご覧ください。 カタパルト後端の発艦位置に着いたF-14 カタパルト (英:Aircraft catapult) は、艦艇(現代では主に航空母艦)などから航空機を射出するための機械である。また宇宙船やロボットなどを射出する装置もカタパルトと呼ばれる。射出機(しゃしゅつき)とも呼ばれる。また、地上から滑走路を使わずに離陸する場合に使われる、動力つきの発射台もカタパルトと呼ばれ、世界初の動力有人機ライトフライヤー号も、杭打ちやぐらとカウンターウエイトの組み合わせで機体を撃ち出すカタパルトを用いて飛行に成功している。 カタパルトには火薬式、油圧式、空気式、蒸気式、電磁式のものがある。開発初期の試作においてはスプリング式やフライホイール式が実験されたこともある。航空機が飛び立つための充分な長さの飛行甲板を持たない場合などにカタパルトにより射出し、離陸速度を確保した。飛行甲板自体の長さが発艦に足りる長さであっても、カタパルトをあわせて利用することで甲板後部により多くの航空機を並べて待機させ、作戦に同時投入することも可能となるメリットがある。 現代のカタパルト付きの空母で運用されているジェット機(CATOBAR機)は重量があり失速速度も高いので、カタパルト無しでの発艦は考慮されていない。 航空母艦以外での運用[編集] 航空機が発達し水上機が実用化された1920年代から、軍艦に水上機を搭載し偵察・哨戒に用いる動きが各国海軍で起こった。しかし当初は航行する艦上から水上機を発艦させる手段がなかったため、艦を停止して水上機をデリックで水面に下ろす必要があった。この不便を解消するため、飛行甲板を持たない戦艦・巡洋艦の上から水上機を直接発艦させる手段としてカタパルトの研究が行われた。数々の試作型を経て実用的なカタパルトが開発され、第二次世界大戦の始まった頃には多くの戦艦・巡洋艦がカタパルトと水上機を装備するようになっていた。戦艦・巡洋艦など砲撃をその主目的とする艦の搭載水上機には、それ以外にも弾着観測という任務があり、大型艦の多くがカタパルトを搭載していた。このほか、水上機を多数載せカタパルト発艦させる水上機母艦という専門の艦種も生まれた。また、潜水艦のような小型艦でもカタパルトを搭載すれば水上機の運用ができた。 大日本帝国海軍では、火薬式のカタパルトを巡洋艦以上の艦艇に搭載し、戦艦には弾着観測を目的とした二座水偵(水上偵察機)を、巡洋艦には偵察を目的とした三座水偵を搭載するという運用をしていた(カタパルトを2基装備し格納庫が広かった大和型戦艦には両機種とも搭載された)。また艦隊全体として偵察は巡洋艦の水偵で行うこととし、空母艦載機を偵察に積極的に用いることは後年まで行なわれなかった。なお改装で航空戦艦となった伊勢型戦艦では、22機の艦載機をカタパルト2基を用いて1分間隔で射出する計画で、航空母艦の補助戦力として開発された給油艦「速吸」においても同様の火薬式カタパルトが装備された。しかし瞬間的に爆発的な加速を行う火薬式カタパルトは機体およびカタパルト本体への負荷が大きく連続射出や魚雷装備など兵装満載状態の艦攻の発進には不向きであり、火薬式に変わる全備状態の艦載機の連続射出が可能なカタパルトの開発にも失敗したため、大日本帝国海軍の航空母艦にカタパルトは全く装備されなかった(空母「加賀」には装備の準備として甲板に溝が設けられたが装備は実現しなかった)。構造上圧搾空気を多用する潜水艦では、圧縮空気式のカタパルトが用いられ、伊400型等多くの潜水艦で運用されていたが、水上艦艇では一部の艦艇に実験的に装備されるに留まっていた。 ドイツでは、蒸気カタパルトの実用化に世界で初めて成功し、CAMシップに酷似した、大型水上機や飛行艇を運用する為のカタパルト艦を運用していた。 イギリスでは、商船を敵機の攻撃から守るために、商船に1機の陸上用戦闘機のみを発射可能なカタパルト1基を装備したCAMシップを建造した。CAMシップでは発艦した戦闘機は母艦に帰還不能でパイロットはしばしば死亡し、運用上の柔軟性もなかったことから、商船に簡易な飛行甲板を設けて空母状にしたMACシップの登場により姿を消した。MACシップにはカタパルトは装備されなかった。 アメリカ海軍におけるカタパルトの歴史に関しては、次項で詳述する。 第二次世界大戦終結後、ヘリコプターの発達により、航空母艦以外の艦艇に固定翼機を搭載する必要性は急激に低下していき、これに伴って、それらの艦艇からカタパルトは急速に姿を消した。例えばアメリカ海軍では、1949年末までに、戦艦・巡洋艦に搭載されていた水上機はすべてHO3Sなどの艦載ヘリコプターに換装された。 陸上においてもカタパルトを使用すれば、離陸用の滑走路が必要なくなる(他にゼロ距離発進という方法もあり、ゼロ距離発進にカタパルトを併用する場合もある)。その場での着陸を必要としない場合、カタパルトの使用は有効な手段になる。 陸上におけるカタパルトの使用事例としては、第二次世界大戦中のドイツ空軍においてV-1飛行爆弾の地上発射に用いられ実戦に使用された。V1の発射に使われたカタパルトは、過酸化水素から発生する水蒸気を使用するヴァルター機関であり、最初期のスチームカタパルトでもある。C字型のパイプとシャトルによる構造も現在のスチームカタパルトに近いものだが、シールは使用ごとに交換する必要があった。大日本帝国海軍の特攻機桜花の改良型(エンジンのジェットエンジン化・航続距離大幅延伸)である桜花43型の地上発進用に千葉県三芳村の知恩院や滋賀県比叡山延暦寺にカタパルトが設置されたがこちらは実戦には使用されなかった。ベトナム戦争では、南ベトナムに展開したアメリカ海兵隊航空部隊が、初期においてカタパルトを使用していた。 陸上で行われるグライダーの運用においても、複数のゴムバンドを束ねた「ゴム索」をカタパルトとして用いるゴム索発航という離陸方法があり、民間でのスカイスポーツを中心に第二次大戦前から行われている。また、模型航空の分野においては、同様の仕組みを模型サイズにスケールダウンさせたゴムカタパルトが使用されている。 航空母艦での運用[編集]

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GSTV – Wikipedia

GSTVは株式会社GSTVが運営するテレビショッピングチャンネル。 イギリスで2004年に開局。2012年現在イギリス(GemsTV、en:Gems_TV_(UK))、日本(GSTV)、アメリカ(RocksTV、Rocks TV)、ドイツ(GemsTV、de:Gems TV)で放送している。 ※イギリスのGemsTV、アメリカのRocksTV、ドイツのGemsTVと日本のGSTVは一部BGMは同じものを使用しているが、関係はなくなっている。 ジュエリー専門のテレビショッピングチャンネルとしては日本で唯一のサービス(2020年現在)。 GSTVは、世界中からジュエリーの原石を輸入し、商品企画から製造までを自社工場で製造し、販売している。チェーンなど一部商品はメーカーから卸し販売している。 販売方法[編集] 以前はリバースオークション(逆オークション)形式での販売方法をメインに実施していた。現在は固定価格。 これは通常のオークションとは違い、スタート時点の価格から徐々に値段が下がっていき、すべての購入者は商品が完売した終値の一番安い価格で購入できる。 商品紹介の途中で「クラッシュ」と呼ばれる大幅な値下げが行われるのが特徴。1商品の紹介点数が少ないためこの段階でほとんどが売り切れてしまうが、商品が売れないと「再クラッシュ」を行うことがある。 「紹介点数」がなくなった時点で、オークションは終了となり、どの金額で落札(購入)されたかにかかわらず、 落札に成功した全員がオークション終了時点での「最終ご購入価格」にて購入となる。 現在は、受注生産商品がメインで価格は基本的に変動しない。すぐにお届けと限定品いう名前で即商品が販売されることもある。 また、全国8か所のショールームでも商品の販売やアフターサービスを実施している。 これ以外にもGSTV1日出張セールやGSTVお客様感謝セールなどの名称で、展示即売会を実施している。 2006年9月 日本法人ジェムズロンドン株式会社設立 2007年4月 総務省 電気通信役務利用放送の業務に係る登録 登録番号 衛役第59号 2007年6月 東京都江東区有明にオフィス開設 2007年10月 スタジオ・コントロールルーム開設

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トライアンフ・2000/2500 – Wikipedia

トライアンフ・2000/2500 (Triumph2000/2500)はイギリスの自動車メーカー(ブランド)・トライアンフが1963年から1977年まで生産した中型乗用車である。 1950年代中期から改良を受けつつ、1960年にスタンダード・トライアンフがレイランドに買収された後も連綿と生産されていたスタンダード・ヴァンガードに代わって1963年に発表された新しい設計の乗用車。このモデルの登場でヴァンガードとその廉価版の4気筒車エンサインは製造終了となり、トライアンフにとっては従前の親会社に当たるスタンダード名義の自動車はなくなった。 全輪独立のサスペンション、新進気鋭のイタリア人デザイナー・ジョヴァンニ・ミケロッティがデザインした、モノコック構造を採用した新設計の車体などによって、保守的で旧式なイメージの強かった英国中級車の伝統を打破する新型車として注目された。 イギリス国内には残存数が多く中古車相場が安い上、TR4~TR6やGT6との部品互換性が高く、保守整備が容易であるため、手軽なクラシックカー趣味の対象として人気が高い。 マーク1(1963年~1969年)[編集] 当初は「トライアンフ・2000」4ドアセダンのみが登場した。エンジンはヴァンガード(最後の「スタンダード」ブランド車となった)に1961年以来用いられていたOHV直列6気筒を流用したもので、4速マニュアル(オプションで電磁式オーバードライブも装備可能)またはボルグワーナーBW35型3速オートマチックが選択可能であった。ブレーキはサーボ付きで当初から前輪はディスクブレーキであった。 トライアンフ・2000は同年にデビューしたローバー・2000(P6)としばしば比較された。内装が伝統的な英国車趣味である点、スタイリングやサスペンション設計の革新性、工作の丁寧さではローバーに軍配が上がったが、エンジンのスムーズさでは4気筒のローバーよりも6気筒のトライアンフが勝り、イタリアン・スタイルの流麗さも当時の市場にアピールし得るもので、以後両車は常に相互ライバル的な存在となった。 1965年にはロンドンタクシーの車体製造で知られるカーボディス社が外注製作した5ドア・ステーションワゴンが追加された。 1968年には「トライアンフ・2.5PI」が追加された。同時期にデビューしたTR5PI同様、排気量を2498ccに拡大し、ルーカス社製の機械式燃料噴射装置を与えたモデルである。ライバルのローバー・2000SC同様アンダーパワーと評されていた2000に対し、性能の改善は目覚しかったが、信頼性と燃費は犠牲となり、特にオーストラリアに輸出されたPIは、酷暑によるオーバーヒートや燃料の蒸発に悩まされたため、2.5PIの現存数は比較的少ない。2.5PIの投入はローバーがP6の強化を図って1966年にSUツインキャブレター付の「2000TC」、1968年には元ビュイック用のV型8気筒エンジンを搭載した「3500TC・3500S」を登場させ、動力性能面でトライアンフに差を付けたことに対抗するためであった。 既にローバーとトライアンフは、ローバーのレイランド傘下入り(1967年)時点で同じ企業下の併存ブランドとなっており、更には1968年のブリティッシュ・モーター・コーポレーションとの統合でBLMC(ブリティッシュ・レイランド)が成立、同クラスでの社内重複車種が多数が生じていた。にも関わらず、ローバー・P6シリーズとトライアンフ・2000/2500両車は共に生産が続行され、奇妙な社内ライバル関係は、両車が1977年に共通の後継車・ローバー・SD1にバトンタッチするまで続いた。 Mk1の2000は120,645台生産されたが、2.5PIは僅か9,029台の生産で、特にそのエステート版はシリーズ中最も希少な存在となっている。 マーク2(1969年~1977年)[編集] 2000/2.5PIは1969年にミケロッティ自身のデザインによるマイナーチェンジを受け、翌1970年にデビューする2ドア・スペシャルティカーのスタッグに似たフロントデザインを採用、ダッシュボードも木目パネルが多用された、より英国車らしいデザインに変更された。 マーク2のバリエーションはベーシックな「2000」、2500ccツインキャブレター付「2500TC」、そして燃料噴射の「2500PI」の3種類となった。1975年には2500TCにアルミホイールやサスペンションのロールバーなどPI専用だった装備を追加した「2500S」が追加されて、PIは消滅した。MK2の2000は104,580台、2500TCは32,492台、2500PIは49,742台、2500Sは8164台が生産された。もっともその過程では、当時のBLMC車に共通した品質低下傾向の弊害は免れなかった。 1977年、2000/2500は前年に登場したローバー・SD1に6気筒2300/2600ccエンジン付き廉価版が登場したのと入れ替わりに、2200になっていたローバー・P6と共に消滅した。 ラリー競技[編集] 1960年代より世界ラリーに参戦していたBMCワークスはミニの黄金時代の後のスポーツカー時代となる1969年。ラリー・モンテカルロにおいて2.5PIをGr.2エントリー[1]し始め、総合8位につけたのを皮切りに1970年サファリラリーでは総合6位につけると、WRCとなり、エントラントネームも大規模な社内整理により「British Leyland Cars」[2]となった1976年のTR7までトライアンフからクーパー・Sにスイッチしつつラリー活動をモンテカルロや地元ウェールズ・ラリーGBへスポット的に縮小しつつも参戦自体は続けられていく。

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戸塚秀夫 – Wikipedia

戸塚 秀夫(とつか ひでお、1930年 – 2017年[1])は、日本の労働問題研究者。東京大学社会科学研究所名誉教授。経済学博士。専攻は社会政策、労働問題。 目次 1 人物 2 著書 3 脚注 4 外部リンク 1930年東京都生まれ。海軍軍人・戸塚道太郎の三男[2]。1954年東京大学経済学部卒業。学生時代は日本共産党東大細胞のメンバーとして学生運動に参加した[3]。戸塚らが同じ国際派グループから「査問」を受けたのは日本の学生運動で最初の内ゲバだったとされる[4][5]。 1959年東京大学大学院社会科学研究科博士課程修了[6]。明治大学政経学部専任講師、東京大学社会科学研究所助教授、教授を経て、名誉教授。1990年から1995年埼玉大学経済学部教授。1995年6月に国際労働研究センターを設立し、共同代表となる。同センターは2007年9月に解散し、活動は非営利団体「Labor Now」と一橋大学大学院社会学研究科フェアレイバー研究教育センターに引き継がれた[7]。 2007年5月に労働運動家の樋口篤三などと「JR総連聞き取り研究会」(当初は松崎明を囲む「勉強会」)を組織した[8]。 1960年代から70年代に戸塚を中心とするグループが日本の新左翼の労働運動を研究するために収集した資料は、東京大学経済学図書館・経済学部資料室が所蔵するコレクションになっている[9]。『労働運動の針路』(1982年)やブリティッシュ・レイランドの労働争議を研究した『現代イギリスの労使関係』(1987年)など、イギリスの労使関係研究で知られている[10]。 単著

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ザ・シー・アンド・ケイク – Wikipedia

ザ・シー・アンド・ケイク (The Sea and Cake) は、ジャズからの影響が顕著なポップ/ロックバンド。地元のバンドであるカクテルズ、シュリンプ・ボード、バストロのメンバーによって、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴで1990年代半ばに結成された。バンド名は、ガスター・デル・ソルの曲「The C in Cake」を誤って覚えていたものをわざと再解釈したものに由来する。 シー・アンド・ケイクに関連しているバンドには、シュリンプ・ボートやカクテルズの他にトータスやガスター・デル・ソルがある。1997年の「ザ・フォーン」以降は、楽曲に彩りを与えるためにドラム・マシーンやシンセサイザーなどの電子楽器を使うようになったが、依然、独特のポストジャズスタイルを保っている。シー・アンド・ケイクはシングルのリリースを避けており、アルバムの形でリリースする方を好む。トータスにおいて、ジョン・マッケンタイアが複数の楽器を演奏するのに対し、シー・アンド・ケイクにおいてはジョンが演奏するのは基本的にドラムだけである。 メンバーのサム・プレコップとアーチャー・プレウィットはそれぞれソロアルバムを出している。シー・アンド・ケイクのジャケットにおける絵画の多くはエリック・クラリッジによるものであり、写真はサム・プレコップによるものである。(2003年のツアーでは「ワン・ベッドルーム」期の写真がポストカードとして発売された。) アーチャーは自身のコミックの出版に携わっており、グラフィックデザインをしている。 バンドは2004年から2007年までの間、活動を休止していたが、2007年に「エブリバディ」をリリースし、バンドはツアーを再開した。2008年10月には、ニューアルバム「カー・アラーム」をリリースしている。最新アルバム、「ムーンライト・バタフライ」は、2011年5月にリリースされた。また、2010年10月には、ツアーに同行したブロークン・ソーシャル・シーン(Broken Social Scene)と共に特別シングル「スカイズ」をリリース。 メンバー[編集] ディスコグラフィ[編集] 下記の作品はすべてスリル・ジョッキーからのリリース。 アルバム[編集] シングル・EP[編集] “Glad

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京王フローラルガーデンANGE – Wikipedia

京王フローラルガーデンANGE(けいおうフローラルガーデンアンジェ)は、かつて東京都調布市多摩川4丁目38に存在した京王グループの植物園。京王フローラルガーデンアンジェとも表記する[1][2][3]。京王電鉄が運営していた[4]。 本項では京王遊園の付属施設として開園し、「京王フローラルガーデンANGE」の前身となった東京菖蒲苑(とうきょうしょうぶえん)および京王百花苑(けいおうひゃっかえん)についても記述する。 京王百花苑[編集] 1956年(昭和31年)6月16日、「東京菖蒲苑」として同じ場所で開園[5]。 1961年(昭和36年)4月、「京王百花苑」へ改称。和風情緒漂う日本庭園で、花菖蒲500種以上を育成する「花菖蒲日本一」と言われ、名物の流しそうめんが人気であった。花菖蒲をあしらった記念乗車券が発行されたり、京王線の営業電車がヘッドマークを付けることもあった。 京王フローラルガーデンANGE[編集] 京王フローラルガーデンANGE「ローズガーデン」 1997年に廃苑となった京王百花苑の跡地を、欧風庭園として大規模改修する形で開業した。名称の「ANGE」は Amenity Natural Garden of Europe の略語。沿線で生花店「フラワーショップ京王」を経営する京王グリーンサービスが管理を行っていた。 マグノリアの木を植えた「マグノリアガーデン」が目玉で、ほかにもバラ園「ローズガーデン」や桜並木、睡蓮が咲く「モネの池」などがあり、様々な植物が育てられていた。同じ調布市内の神代植物公園と異なり温室はない。随所にベンチがあり、子供が遊べる芝生広場も設けられていた。 敷地内(入口と京王多摩川駅の間)には小さな売店「ANGEショップ」があり、花の苗、絵葉書やグッズなどを販売していた。売店は駅前のバス通り(桜堤通り)に面しており、入園しなくても利用できた。売店では飲食物の販売はなく、園内に自動販売機やごみ箱は設置されていなかった。そのため園内に空袋・空き缶やペットボトルなどのごみが放置されることはなく、非常に清潔に保たれていた。またペットの持ち込みは禁止されていた(盲導犬・聴導犬・介助犬を除く)。 園内では、コンサートや写真コンクールなどのイベント、園芸・フラワーアレンジメントの講座が随時開催されていた[4]。また季節ごとにハロウィンのデコレーションやクリスマスのイルミネーションも行われていたい。 2011年には園内にバーベキュー施設「BBQ VILLAGE」が開業した。 京王電鉄は2021年1月15日付のニュースリリースで、同年5月31日付で「京王フローラルガーデンANGE」を、同年10月31日付で「BBQ

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