Month: April 2019

錦の袈裟 – Wikipedia

錦の袈裟(にしきのけさ)は落語の演目のひとつ。金襴の袈裟(きんらんのけさ)、錦の下帯(にしきのしたおび)、ちん輪(ちんわ)とも。主に東京で広く演じられる。 上方落語の『袈裟茶屋』の舞台を吉原遊廓に置き換えて東京に移入し、さらに明治期に初代柳家小せんが登場人物を増やして改作したもの。 『袈裟茶屋』および『錦の袈裟』の原話は、1777年(安永6年)に出版された笑話本『順会話献立』の一編「晴れの恥」(男が遊廓で見せびらかすためにちりめんの長襦袢を古着屋から借りたが、遊郭で踊った拍子に値札が見えて恥をかいてしまうという話)。 昭和の戦時中には作中のエロティックな描写が問題視され、「禁演落語五十三種」のひとつに指定された。 主な演者に2代目桂文朝、 3代目三遊亭金馬、 5代目三遊亭圓楽などがいる。 あらすじ[編集] 町内の若い職人衆のひとりが、普段から仲の悪い隣町の連中が、緋縮緬の織物で揃いの長襦袢を作って吉原に遊びに行き、妓楼で上着を脱いで総踊りし、「あの町のしみったれ連中には、こんな派手な遊びはできねえだろう」と笑いものにしたという話を聞いてくる。仲間一同憤慨していると、兄貴分が「それを超えるいい趣向をやろう」と言いだす。兄貴は質屋で錦の布10枚が流れていたことを皆に話し、「あれを借りて、ふんどしに締めて廓内(なか)へ繰り込もう。錦のふんどしで芸者たちの度肝を抜いたら、東京中の噂になるぜ」と提案する。 しかし仲間は11人いるので、錦が1枚足りない。兄貴が与太郎に「お前はどうするか」と聞くと「お女郎買いに行くかどうか、カミさんに聞かなくちゃ」と答える。面白がった兄貴は「お前が自分で錦を用意できれば、ただで連れて行ってやる」と約束した。 袈裟。肩に袈裟を吊る「輪」がついている 与太郎はさっそく家に帰り、妻に恐るおそる吉原に行く許可を仰ぐ。妻は最初は怒るが、町内のみんなで行く付き合いと聞いて承諾する。つづいて与太郎は錦のふんどしの入手法を相談する。事情を聞いた妻はあきれるが「お寺の和尚さんなら、錦でできた袈裟というものを持っているよ。寺に行って和尚さんに『親戚の娘にキツネが憑きました。徳の高いお坊さんの袈裟をかければキツネが落ちる、と聞いたので、ひと晩だけ袈裟を貸してください』って頼みな。そいつをちょっとたたんで、ふんどしに締めていくんだよ」と入れ知恵する。 与太郎は寺へ出向き、妻に言われた通りのことを話そうとするが、話が混乱してなかなかうまくいかない。「親戚のキツネに娘が憑いちゃって、和尚さんのふんどしをかければ、じゃなくて、あの、和尚さん、袈裟貸してください」和尚は「明日の檀家の法事に使う」と渋るが、朝のうち返しにくると言い張って食い下がり、袈裟を借りることに成功する。 その晩、一行は妓楼に飛び込んで遊び騒ぎ、頃合いを見計らってそろって服を脱ぎ、ふんどし一枚で総踊りを始める。錦のふんどしに驚いた遊女たちは裏で評判する。 「あの一行は昔でいうお大名、今の華族さまに違いないわ。前に輪がついたふんどしの、一番おっとりした人がお殿さま、その他もろもろは家来よ」 その晩は仲間たちはのきなみ振られてしまった。翌朝、愚痴をこぼしながら帰り支度をはじめ、与太郎がいないのに気がついて呼びに行くと、なんと花魁はみな与太郎の部屋にいて、布団に大勢で寝ている。声をかけると、与太郎に抱きついた花魁に「一同は次に控えていなさい! この、輪なし野郎」と叱られる。与太郎が起きようとすると、花魁が後ろからすがりついて「今朝は返しませんわ」と甘える。与太郎はそこで和尚との約束を思い出し、 「えっ、ケサ(今朝=袈裟)は返さない? そりゃいけねえ、お寺をしくじっちゃう」 関連項目[編集]

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寺田陽介 – Wikipedia

寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 – )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。 博多工業から濃人渉が監督を務める日鉄二瀬に進む。1954年から2年連続で都市対抗野球大会に出場。1955年の大会では東洋高圧大牟田に補強され、日立製作所との1回戦で決勝本塁打を放つなど活躍。準々決勝で全鐘紡に敗退する[1]が好打者として注目を集める。この時のチームメートに小淵泰輔がいた。 1956年に南海ホークスに入団。入団に当たっては地元の西鉄ライオンズとの間で激しい争奪戦があり、西鉄が投手の島原幸雄を獲得の見返りに日鉄に譲渡するという噂まで流れたほどであった[要出典]。当時、南海の監督であった鶴岡一人は、守備はよい一方で、「穴が多く、いい投手にかかると打てないという欠点」があり、期待ほどの実績はあげられなかったと評しているものの[2]、南海が400フィート打線と称していた打線の担い手の一人と位置づけられていた[3]。 1年目の1956年には開幕から一塁手として出場、同じく新人の長谷川繁雄との併用ながら41試合に先発出場を果たす。翌1957年は長谷川が外野手に回り、八番打者、一塁手に定着、初の規定打席(24位、打率.234)にも達した。1959年には自己最多タイの本塁打13本を記録し[4]オールスターゲームに初出場、第1戦で二塁打を記録。同年のリーグ優勝に貢献し、読売ジャイアンツとの日本シリーズでは全4試合に先発、15打数7安打4打点の活躍で首位打者賞を獲得、チーム日本一を支える。 1961年は五番打者として起用される試合も多く、打線の中軸として自身2回目のリーグ優勝を経験。読売との日本シリーズでも第1戦で堀内庄から本塁打を放つなど活躍。第4戦、9回裏二死の場面で、この打者を抑えれば勝利だったが、代打藤尾茂の打ち上げた飛球を一塁手の寺田が落球。このあと二死満塁となって迎えた宮本敏雄の打席で球審・円城寺満の判定をめぐるトラブルの後、宮本に適時打を打たれサヨナラ負けとなった。寺田は第5戦で伊藤芳明、最終第6戦でも堀本律雄から本塁打を放ち気を吐くが、結果的に第4戦の失策がシリーズの流れを変えてしまい巨人が優勝、まさに南海にとっても寺田にとっても痛恨の失策だった[3]。 1962年に、半田春夫、長谷川繁雄と共に、井上登との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍(南海監督であった鶴岡一人は、「このまま南海にいたら、ヤジなどで苦しむ」と思ってトレードに出したと言っている[5])。開幕直後は四番打者としても起用され、移籍後初打席ではホームランを放つ活躍をする。なお、チーム移籍後の初打席でのホームランは2021年に加藤翔平が打つまでは寺田だけが持つ唯一の記録であった[6]。 同年のシーズン前半はレギュラーとして出場するが、打撃不振が続きドン・ニューカム、ラリー・ドビーに定位置を譲る。1964年に山本久夫との交換トレードで、東映フライヤーズに移籍するが、あまり活躍の場はなく同年限りで引退した。 鶴岡によると、中日で1シーズンだけプレーしたあとに鶴岡のところにやってきて、「フライを捕るたびに、あのことを思い出します」と言って、選手を続ける自信を失っていたという[5]。 引退後は完全に球界と絶縁同然の状態にあったが、1989年にテレビ朝日で放送されたセ・パ両リーグ発足40年を記念したドキュメンタリー番組に落球事件の証言者として出演、久々に公の場に姿を見せた(当時石材加工業を営んでおり、仕事場で取材に答えていた)。また、南海OBを中心に運営されている少年野球チーム『ジュニアホークス』の選手がTBS「筋肉番付」の「ストラックアウト」に挑戦した際も、同チームの関係者として登場していた。現在も同業(平尾石材店)を続けている。 上記の落球事件が有名であるが、1956年8月14日の西鉄戦では、逆に寺田が打ち上げた凡フライを西鉄の関口清治が落球し、逆転打となった経験もある[7]。 詳細情報[編集] 年度別打撃成績[編集] 表彰[編集] 記録[編集] 節目の記録 1000試合出場:1964年7月5日

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松島パークホテル – Wikipedia

松島パークホテル(まつしまパークホテル)は、宮城県宮城郡松島町にかつてあったホテルである。日本三景の一つとして数えられる松島のランドマークとして、大正時代から約半世紀に渡って親しまれたが、1969年(昭和44年)に火災よる損傷から取り壊された。建物の設計者はヤン・レッツェル。所在地は、現在の住所で言うと松島町松島浪打浜で、仙石線松島海岸駅[注釈 1]前の松島海岸公園グリーン広場内に当たる[1][2]。 1909年(明治42年)、宮城県は松島を観光地として整備する松島公園計画[3]を立案した。松島パークホテルはその中で計画された宿泊施設である[4]。松島への外国人観光客の招致を意識したホテルだった[5][6]。 ホテルは観瀾亭近くの海岸を埋め立てて建てられた。1912年(明治45年)4月に起工され、1913年(大正2年)8月15日に松島パークホテルは開業した[5]。建設費用は4万7333円85銭だった[4]。 ホテルの運営には築地精養軒、上野精養軒を経営する北村重昌が当たった[7]。当初は、中央資本に松島パークホテルの経営を委託させる案に反対する声もあったが、明治時代より海外でも知られた著名旅館の松島ホテル[注釈 2]など開明的な旅館主らが「松島に立派な設備が出来ることは喜ぶべき」として協賛した[7]。 戦中の1945年(昭和20年)、松島パークホテルは日本海軍の海軍工廠第三会議所として使用され、一般営業は休止された。終戦後には進駐軍であるアメリカ軍の第11空挺師団に接収されて司令官らの宿舎として使用された[8]。進駐軍はホテルをペンキで塗装し、館内を多少改装したという[5]。1952年(昭和27年)にアメリカ軍から返還されると、仙都国際観光株式会社[注釈 3]がホテルの経営を引き継いだ。1955年(昭和30年)には、昭和天皇および香淳皇后がこのホテルに宿泊した[9]。 松島パークホテルの周囲には松島水族館に加えて、松島ニューパークホテル跡地に動物園が新設され、ホテル周辺は松島観光の中心地の1つとなった。しかし、1969年(昭和44年)、火災で建物の一部が焼失したことから松島パークホテルは解体された。隣接していた動物園も閉鎖され、動物たちのほとんどは仙台市八木山動物公園に移された。 ホテルが取り壊された後、その敷地は緑地公園として整備され[10]、現在は松島海岸グリーン広場となっている。 なお、松島公園計画が進められていた明治末期の宮城県知事は寺田祐之である。寺田は松島パークホテル開業前に広島県知事として転任したが[注釈 4]、松島パークホテル建設の縁故から、広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設計者としてレッツェルを起用した[5]。 松島パークホテルの設計者はチェコの建築家ヤン・レッツェルである[5][注釈 5]。建物は、中央の塔屋を挟み、両翼がL字型に延びる構造で、松島湾に面していた[11][12][13][14]。建坪面積は約120坪だった[4]。 建物の外観は、松島の景観に調和させるために和風で造られた。両翼の屋根は入母屋造であり、また山側にあった裏玄関の周囲には、唐草彫りや、鳳凰をあしらった懸魚など、簡略ながら寺社建築の様式が見られた[5]。 一方、その内部は外国人宿泊客を意識した純洋風の造りだった。玄関をくぐると、階段と左右両翼へつながる楕円形のホールである。海側から見て右翼の1階には応接室や食堂などが、左翼の1階には図書室、玉突場、酒場などがあった。これらの下の地階は、厨房、使用人室、倉庫、暖房室として使われていた。2階部分は浴室やトイレを含む寝室だった。中央の塔屋は展望室として機能していた[5]。 作品の舞台として[編集] 1958年(昭和33年)の松竹映画『モダン道中 その恋待ったなし』(監督野村芳太郎、主演高橋貞二、佐田啓二、岡田茉莉子)では、松島パークホテルがありし日の姿を見せている。この他に、松島パークホテルで発生した殺人事件を元にした映画として、1961年(昭和36年)公開の「警視庁物語 12人の刑事」がある[15]。また、昭和30年代後半にテレビで事件のドキュメンタリー番組が放送された。

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小林清親 – Wikipedia

小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日(弘化4年8月1日)- 1915年(大正4年)11月28日[2] )は、明治時代の浮世絵師である。明治10年(1877年)頃に、江戸から移り変わる東京の様子を版画で表現した。 新橋ステンシヨン。1881年。 両国大火浅草橋。1881年。 武蔵百景の内、江戸橋より日本橋の景。1884年。 平壌攻撃電気使用之図。1894-95年。 浮世絵師となるまで[編集] 江戸本所にて幕臣の子として生まれる。9人兄弟の末子で、幼名は勝之助。1862年(文久2年)、15歳の時に父が亡くなった為、勝之助が元服し、清親を名乗り、家督を継ぐ。 1865年(元治2年・慶応元年)の徳川家茂上洛(第二次長州征討)に随行し、そのまま大坂に留まる。1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いに加わった。 幕府消滅後、徳川慶喜らを追って静岡に下る。1870年(明治3年)12月から翌71年(同4年)4月頃まで、食客となった鷲津(わしづ)村(現:湖西市鷲津)にて、同居者の子孫から、清親は「暇な時は絵を描いていた」との証言がある。 生計を立てる為、1874年(明治7年)、東京に戻る。 浮世絵師としての活動[編集] 帰京後、絵師を志し、河鍋暁斎や柴田是真らと席画会(後援者の前にて、即興で書画を揮毫すること。)を共にしたと言われる。チャールズ・ワーグマンに西洋画法を習った逸話もあるが、2010年代では、否定的に取られており、明確な師は居なかったと考える説が複数が出てきている。 1876年(明治9年)1月、版元大黒屋松木平吉から「東京江戸橋之真景」「東京五大橋之一両国真景」を版行、同年8月に『東京名所図』シリーズを版行する。明暗を強調し、先達の「開化絵」とは異なる、洋紅を多用しない、上品な色使いと、輪郭線を用いない(使っても墨ではなく、茶色)空間表現で、東京の発展と人々の変化を描き、「光線画」と呼ばれ[注釈 1]、人気絵師となる。 1881年(明治14年)、『團團珍聞』に入社。「ポンチ絵」と呼ばれる社会風刺漫画を、木版錦絵だけでなく、石版画[注釈 2]や銅版画[注釈

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八つ墓村 (1977年の映画) – Wikipedia

『八つ墓村』(やつはかむら)は、1977年に公開された、野村芳太郎監督の日本映画。原作は横溝正史の同名小説。 1960年代後半からの横溝ブーム(漫画化・映画化にいたる経緯は「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」の項を参照)を受けて、松竹は1975年に『八つ墓村』の制作を決定する。監督の野村芳太郎をはじめ、脚本の橋本忍、撮影は川又昂、音楽に芥川也寸志と『砂の器』を制作した陣営を起用し、2年3箇月の製作期間と7億円(現在の15億円分)の制作費をかけた[2]上で東宝作品などと競うように封切られ、目論見通り配収19億8600万円という松竹映画の歴代に残る大ヒット作となった。 探偵・金田一耕助の役には渥美清を配するなど、同時期の東宝配給による石坂浩二のシリーズとは作風が大幅に異なる。事件を「祟りに見せかけた犯罪」ではなく「本当の祟り」として描き、主要登場人物を大幅に削減して人物関係を簡略化し、推理物でありながら金田一による謎解きのくだりが短縮され、終局は背景を鍾乳洞洞窟とした迫力ある恐怖描写に差し替える等、推理劇風のオカルト映画へと改変した異色作となった。テレビCMで流された濃茶の尼のセリフである「祟りじゃ〜っ」[3]は、キャッチコピーとして流行語にもなった。 金田一役に渥美清が起用されたのは横溝自身の希望によるものである。小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年、63ページ、角川文庫、2008年改版、89ページ)によると、松竹から本作の映画化の申し込みがあった際、金田一についてはまだ決まってないが二枚目になるだろうと言われ、それに対し「探偵というものは狂言回しでしょう。主人公は別にいるんですヮ。犯人か被害者かどちらかが二枚目になるでしょう、二枚目を二人出されちゃ困る。だから金田一役、やっぱり汚れ役にしてほしい、お宅ならやっぱり渥美清だろう。」と答えたという。また、たまたま野村芳太郎に会った際に「金田一をやりたいんだが、ウチ(松竹)には、金田一を出来そうな役者が居ないんだよ」と話しかけられたのに対して、「そんなことはない。今は石坂浩二の当り役みたいになってるけど、見るからに二枚目だし、いかにも頭が良さそうで、本当のことを言うと、原作の金田一とは割と離れている。原作のイメージで言えば、お宅の渥美清なんかの方が近い。」と答えたとも語っている[4]。 出来上がった映画では石坂以上にコミカルな面は排除され、謹厳な学者のように事件を解説する金田一となった。なお、渥美清にとっては『男はつらいよ』の「寅さん」以外のキャラクターでは、本作が唯一ヒットを飛ばした作品となった[5]。 時代設定を原作の昭和20年代から映画制作当時へと移している(この作品よりも後に製作された東宝のシリーズは原作の通りの時代設定)。日本航空と提携した上で辰弥の職業を空港職員に設定し、ジェット機[6]が離着陸する近代的な場面を冒頭とラストシーンに見せる事で、失われつつある農村風景や前近代的風習の古さを強調している。 テレビ初放送は1979年10月12日、フジテレビ系列にて。ビデオリサーチ調べでは、関東地区の視聴率は34.2%。 あらすじ[編集] 寺田辰弥は首都圏空港で航空機誘導員をしていたが、ある日の新聞尋ね人欄の記述により、大阪北浜の法律事務所を訪ねることになった。体にあった火傷の痕で辰弥は尋ね人本人と認められるが、そこで初めて会った母方の祖父であるという井川丑松は、その場で突然、苦しみもがき死んでしまう。辰弥は、父方の親戚筋の未亡人である森美也子の案内で生れ故郷の八つ墓村に向かうことになった。辰弥は美也子から、腹違いの兄・多治見久弥が病床にあり余命幾ばくもなく子もいないため、辰弥が故郷の豪家の多治見家の後継者であると聞かされる。赤子であった辰弥を連れて村を出た母の鶴子は、別の地で結婚した後、辰弥が幼いころに病死しており、辰弥は自分の出自について今まで何も知らずにいたのだった。 美也子に聞かされた多治見家と八つ墓村にまつわる由来は、戦国時代にまで遡った。1566年、毛利に敗れた尼子義孝という武将が、同胞と共に8人で今の八つ墓村の地に落ち延び、村外れに住みついた。しかし落ち武者たちは、毛利からの褒賞に目の眩んだ村人たちの欺し討ちに合って惨殺される。落ち武者たちは「この恨みは末代まで祟ってやる」と呪詛を吐きながら死んでいった。このときの首謀者である村総代の庄左衛門は褒賞として莫大な山林の権利を与えられ、多治見家の財の基礎を築いた。だが、庄左衛門はあるとき突如として発狂、村人7人を斬殺した後、自分の首を斬り飛ばすという壮絶な死に方をする。村人は、このことにより落武者の祟りを恐れ、義孝ら8人の屍骸を改めて丁重に葬り祠をたてたことから、村は八つ墓村と呼ばれるようになったというものだった。 さらに、辰弥の父だという多治見要蔵も、28年前に恐ろしい事件を起していた。要蔵は事件当時に多治見家の当主で妻もありながら、若い鶴子を強引に妾にし、多治見家の離れに軟禁していた。しかし、鶴子が生まれたばかりの辰弥を連れて出奔してしまい、その数日後の夜に要蔵は発狂して妻を斬殺、村人32人を日本刀と猟銃で虐殺し、失踪したという。 八つ墓村では、辰弥の帰郷と呼応するように、また連続殺人が起こりはじめ、私立探偵の金田一耕助が事件調査のため村に姿を現わす。 原作との主な差異[編集] 原作の重要な要素のうち、下記は省かれている。 来村前の辰弥を探っていた不審人物および送られてきた警告状 辰弥が守り袋に持っていた鍾乳洞の地図(「竜の顎(あぎと)」というキーワードのみを聞かされていた) 野村荘吉による美也子への疑惑(美也子の夫は特に不審点の無い交通事故死、金田一は諏訪弁護士の依頼で丑松殺害調査のために来村) 里村兄妹(慎太郎、典子)の存在(森荘吉(原作の野村荘吉、美也子の義兄ではなく義父)は要蔵の従弟なので、美也子自身に優先順位の低い間接的相続権がある) 小梅と小竹による辰弥への睡眠薬投与(鍾乳洞への入口が別棟の納屋にあるため、なお入口は壁の隠し扉で長持に偽装はされていない) 落雷による双児杉の損壊、疎開医新居の存在および久野医師の殺人計画書

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オランダ鉄道 ICM – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “オランダ鉄道 ICM” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年9月) この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2020年9月) オランダ鉄道 ICM ICM(未更新車) ICM(更新車) 基本情報 運用者 オランダ鉄道 製造所 艤装タルボット車両製造(ドイツ語版)電気機器ブラウン・ボべリ・エリコンHolec(オランダ語版)

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茨城県道155号里根神岡上線 – Wikipedia

茨城県道155号里根神岡上線北茨城市関南町神岡上(2014年5月) 茨城県道155号里根神岡上線バイパス。2017年に海側で並行する旧道が移管されて現道になった。北茨城市関南町神岡下(2014年5月) 茨城県道155号里根神岡上線(いばらきけんどう155ごう さとねかみおかかみせん)は、茨城県北茨城市内の一般県道である。 北茨城市関本町関本中(旧・里根町)の主要地方道塙大津港線交点(市民病院北交差点)から同市関南町神岡上の国道6号交点(神岡上交差点)まで南北に接続する延長約3.9キロメートル (km) の一般県道である。バイパスに並行する旧道(北茨城市関本町関本中〈五浦変電所前交差点〉 – 関南町神岡上)があったが、2017年に北茨城市に移管された。 路線データ[編集] 1959年(昭和34年)10月14日、新たな県道として北茨城市里根町を起点とし、北茨城市神岡上町を終点とする区間を本路線とする県道里根神岡上線として茨城県が県道路線認定した。 1995年(平成7年)に整理番号155となり現在に至る。 年表[編集] 1944年(昭和19年)6月14日:現在の路線の前身にあたる神岡下関本線が路線認定される。 1959年(昭和34年)10月14日: 現在の路線で路線認定される(図面対照番号129)[4]。 道路の区域は、北茨城市里根町の県道塙大津港線分岐から北茨城市神岡上町の一級国道六号線交点までと決定される[2]。 1964年(昭和39年)7月3日:車両制限令第5条1項[注釈 2]に基づく指定区間を変更(路線対象番号129 里根神岡上線:塙大津港線分岐点

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禁断の刺青 – Wikipedia

禁断の刺青(きんだんのたとぅー、原題:Love at First Sting)は、スコーピオンズが1984年に発表したアルバム。スタジオ・アルバムとしては9作目。 前作『蠍魔宮〜ブラックアウト』の成功を引き継ぐ、世界的なヒット・アルバムとなった。 第1弾シングル「ハリケーン」は全米25位に達し、後に『ハード・キャンディ』[1](1999年公開)、『リトル★ニッキー』[2](2000年公開)といった映画で使用された。また、同曲は音楽ゲームの『ギターヒーロー3 レジェンド オブ ロック』でも使用された。第2弾シングル「スティル・ラヴィング・ユー」は本国ドイツで14位、アメリカで64位に達した。 特記なき楽曲はルドルフ・シェンカーとクラウス・マイネの共作。 バッド・ボーイズ・ランニング・ワイルド – “Bad Boys Running Wild” (Schenker, Meine, Rarebell) –

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宮城県小学校の廃校一覧 – Wikipedia

宮城県小学校の廃校一覧(みやぎけんしょうがっこうのはいこういちらん)は、宮城県内の廃校となった小学校の一覧。対象となるのは、学制改革(1947年)以降に廃校となった小学校、および分校である。校名は廃校当時のもの。廃校時に小学校(分校)が所在した自治体がその後、合併により消滅している場合は、現行の自治体に含める。また現在休校中の県内の小学校(分校)は公式には存続していることとなっているが、便宜上本項に記載する。 ()内は、廃校になった年、統合先の小学校などである。 目次 1 仙台市 2 石巻市 3 塩竈市 4 気仙沼市 5 白石市 6 名取市 7 角田市 8 岩沼市 9

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