Month: October 2019

あしながおじさん – Wikipedia

『あしながおじさん』(Daddy-Long-Legs)はアメリカの女性作家ジーン・ウェブスターが1912年に発表した小説・児童文学作品。 孤児院で育った少女ジュディの文才が一人の資産家の目にとまり、毎月手紙を書くことを条件に大学進学のための奨学金を受ける物語であり、ジュディが援助者を「あしながおじさん」と呼び、日々の生活をつづった手紙自体が本作品の内容となっている。手紙中、ジュディ自身が書いたという設定で挿まれる絵もウェブスターの手による[1]。 身寄りのない少女に進学のための援助を行なう「あしながおじさん」は、現代日本では広く学生への援助者の意味で用いられ、遺児奨学金のための原資拠出を行なう人を「あしながさん」と呼ぶあしなが育英会や交通遺児育英会等がある。アメリカをはじめとして数度にわたって映画化され、日本では1979年と1990年にテレビアニメ化された。 原題の”Daddy-Long-Legs”とはクモに縁の近い小動物であるザトウムシのことで、作品中にもこの蜘蛛に似た虫が登場している。 あらすじ[編集] ジョン・グリア孤児院のジュディ(ジルーシャ・アボット)は、ある日院長室に呼び出される途中、西陽によって正視を妨げられながら、廊下に落ちた長い長い“人影”を見ることになる。それはまるでメクラグモのようにとても足の長い虫のような姿だった。 院長からジュディは、孤児院の評議員の一人に彼女の才能を見込まれて、毎月一回学業の様子を手紙で報告することを条件に、大学進学のための資金援助を匿名で与えられることになったと知らされる。さっき一瞬だけ見えた後ろ姿こそ、その評議員であることを知り、のちに彼女が彼を「あしながおじさん」と呼ぶきっかけとなる。 なお、ジュディが見込まれたのは、院の生活ぶりをシニカルに描いた作文であり、そのタイトルに「Blue Wednesday」(憂鬱な水曜日)とつけたユーモアのセンスである。 大学では、彼女は孤児院でつけられた名前(ジルーシャ)を嫌がって自らをジュディと呼び、同級生のサリー・マクブライドやジュリア・ペンドルトンとともに学生生活を送り、その詳細をあしながおじさんに手紙の形で送り続ける。初めて孤児院の外で生活をすることになったジュディは、自分自身でお金を出して買い物をしたことや読んだ本のこと、出席したパーティのことといった体験をその都度自らの感性で手紙に書き記していく。長期休暇時の農園滞在、ニューヨーク訪問、サリーの兄のジミー・マクブライドやジュリアの親戚のジャービス・ペンドルトンといった男性との交友、自らの小説の商業出版といった経験の後、ジュディは大学を卒業する。 ジュディはこれまでも長期休暇期間に訪れていたロック・ウィロー農園で卒業後の生活を始め、作家を目指して小説を書き進めながら、あしながおじさんへの手紙を止めることなく書き続ける。やがて、ジュディはジャービス・ペンドルトンからプロポーズを受けるが、孤児院出身であるという経歴を打ち明けることができず、彼を愛していながら拒絶してしまう。煩悶したジュディが自分の気持ちを手紙にしてあしながおじさんに送ると、会って話を聞くという返事が返ってくる。初めての対面に緊張しながらニューヨークに向かったジュディがあしながおじさんの部屋に通されると、そこにいたのはジャービス・ペンドルトンであった。ジャービスがあしながおじさんであったことを知らされたジュディはプロポーズの返事を「あしながおじさん」に向けて手紙で送る。それは、初めて「家族」を得たジュディが書いた、初めてのラブレターであった。 孤児の少女が資産家に見込まれ、愛を成就させるという筋書き自体はいわゆるシンデレラ・ストーリーであるが、導入部以外の全編をジュディの手紙のみで構成するという作品の形式(書簡体小説)や、その手紙の中でつづられる生き生きとした描写、また主人公ジュディの人としての魅力など、文学作品としての高い評価を受けている。また、手紙の中の学生生活は20世紀初頭のアメリカの女子大学生の生活を記した資料としても読むことができる。作者のジーン・ウェブスターは孤児院や感化院の近代化に興味を持っており、それと自らの経験とがこの作品には生かされていると考えられる。 関連作品[編集] この作品の続編として、ジュディの親友のサリー・マクブライドがジョン・グリア孤児院の院長になって孤児院の改革に取り組む続編『続あしながおじさん(Dear Enemy)』が1915年に発表されている。 派生作品[編集] 1919年にはアメリカで初めて映画化され(メアリー・ピックフォード主演)、その後、1931年(ジャネット・ゲイナー主演)、1955年にも映画化されている。1938年にはオランダで映画化された。 日本では1974年に岡崎友紀主演、1983年に脚本・作詞・作曲を一新し、原田知世主演、2006年に三倉茉奈・三倉佳奈主演(Wキャスト)でミュージカルとして上演された。 また、2009年にはブロードウェイでミュージカル化され、その日本版が、2012年、2014年、2017年、2020年に『ダディ・ロング・レッグズ ~足ながおじさんより~』(脚本・演出

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内ヶ島氏 – Wikipedia

内ヶ島氏(内ヶ嶋氏、うちがしまし)または白川氏(しらかわし)は、室町時代から戦国時代にかけての日本の氏族である。帰雲城を本拠とした。 白川郷への移封[編集] 内ヶ島為氏の父・内ヶ島季氏は足利義満の馬廻衆であったが[1]、為氏の代に足利義政(1449年 – 1457年)の命令で白川郷に入り、向牧戸城を築城して本拠とし白川郷を支配した。白川郷は山間部ではあるが、加賀や越中に出やすい地であったため、内ヶ島氏の本拠は北陸の情勢が大きく影響する地理的条件にあったといえる[2]。 応仁の乱が勃発、為氏は上洛した[3]。 一向宗との戦い[編集] 乱の終結後、為氏が帰国した。しかしその頃白川郷では照蓮寺の住職であった教信が還俗して三島将監と名乗り、寺務職は弟の明教に譲り武士となり、諸国から侍を雇い入れて内ヶ島氏に匹敵する勢力を築いていた[3]。この事態を重く見た為氏は文明7年(1475年)に照蓮寺を襲撃、激戦の果てに三島将監は切腹して死亡し、弟の明教は逃亡したが程無くして自殺した[3]。これによって一向宗の武力勢力は一時鎮圧された。その後蓮如が仲介役となって照蓮寺が内ヶ島氏の配下となる事を条件に、明教の遺児・明心に照蓮寺の再興を許した[3]。以降、雅氏の代までは内ヶ島氏と本願寺は友好的であった。 外征[編集] 永正3年(1506年)、越後国の守護代・長尾能景が越中一向一揆を討伐するため出陣したが、神保慶宗の裏切で討死した。跡を継いだ長尾為景は神保氏と一向一揆を敵視し、永正17年(1520年)越中に侵攻。為景は新庄城に籠城した神保慶宗を討ち取った。越中を制圧した為景がさらに加賀国に侵攻すると予測した本願寺は、越中の情勢を分析するため、雅氏に上洛を求めた[3]。これに応じた雅氏は、大永元年(1521年)に上洛した。その間に本願寺が予測した通り、越中国内の一揆勢は長尾・畠山氏連合軍によって次々に制圧された。さらに為景は加賀侵攻の勢いを見せたため、照蓮寺に対して出陣が命じられた[3]。照蓮寺はかねて内ヶ島雅氏と打ち合わせた通り連合し、雅氏の弟・内ヶ島兵衛大夫を大将として出陣した[3]。 専光寺[要曖昧さ回避]軍と合流して越中で越年した内ヶ島勢は、為景に落されていた多胡城を奪回しようとした。大永2年(1522年)2月、一向一揆と多胡城を守る畠山軍との間で激戦が展開されたが、戦いは一揆軍の敗北に終わった。照蓮寺・内ヶ島連合軍は壊滅し、内ヶ島兵衛大夫も討死した[3]。 翌年、本願寺と能登畠山氏との間に和睦がなった。 天文8年(1539年)に近隣勢力との争いから三木氏とともに美濃国の郡上郡に侵攻しているが、美濃守護である土岐頼芸と隣国の近江守護六角定頼がこの動きの背後に本願寺がいると疑って本願寺の法主・証如に抗議を行う事態になっている。証如は内ヶ島氏は本願寺の被官ではないとしつつも、現地の門徒が守護権力に迫害される事態を恐れて内ヶ島氏に撤兵を命じている[4]。 戦国時代と繁栄[編集] 戦国時代に入ると、内ヶ島氏は領地を私物化して鉱山経営で財を成し、本城の帰雲城の他に向牧戸城、萩町城、新淵城など多くの支城を持つ戦国大名へと成長した。度々姉小路頼綱や上杉謙信などの侵攻を受けるが、撃退に成功している[3]。佐々成政が越中国に本拠を構えるようになると、氏理は織田信長率いる織田氏、そしてその配下の成政に従った。魚津城の戦いでは魚津城を織田軍と共に陥落させている[3][1]。しかし、本能寺の変で信長が明智光秀に殺害されると、停戦して飛騨に引き返した。小牧・長久手の戦いでは成政に属して越中に出陣したが、留守中に豊臣秀吉の命で金森長近が白川郷に侵攻してきた。長近は尾上氏綱の守る向牧戸城を落とそうとするものの落とせず、懐柔してやっと寝返らせた。これによって領民は金森軍に寝返り、帰雲城も占拠された。この報を聞いた氏理は急ぎ引き返すが既に遅く、氏理は秀吉に降伏した。しかし、内ヶ島氏の鉱山経営の技術を重要と見なした秀吉は所領を少し削っただけで内ヶ島氏の領地経営を許した[3]。 天正地震から滅亡へ[編集] 所領を安堵された事を祝うために氏理は祝宴を開こうとし、内ヶ島一族や能楽師を帰雲城に呼び寄せた。ところが宴を翌日に控えた天正13年(1585年)11月29日、白川郷一帯を大地震、いわゆる天正地震が襲った。帰雲山は山体崩壊し、土石流は直下にあった帰雲城とその城下町を襲って飲み込んだ。町を出かけていた人々以外は生き埋めとなり、内ヶ島一族含め領民は死に絶えた。この時城下町には300軒の家があったが、すべて埋没した[5]。土石流は庄川を塞き止め、それに伴った洪水も発生した。この地震によって内ヶ島氏は一夜にして滅亡してしまったのであった。 その後[編集] 大名としての内ヶ島氏は滅亡したが、個々人については難を逃れた者もいた。氏理の弟である経聞坊(きょうもんぼう)ともう一人の弟は仏門に入っていたために助かった。経聞坊は後に白川郷における天正地震の史料『経聞坊文書』を残した[6]。 埋蔵金伝説[編集]

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新国際ビルヂング – Wikipedia

新国際ビルヂング(しんこくさいビルヂング)は、東京都千代田区丸の内三丁目に所在するオフィスビルである。 新東京ビルヂングの南側には、丸の内仲通り沿いに三菱仲4号館(1912年竣工)・三菱仲2号館(1919年竣工)・飯野海運ビル(1919年竣工。内幸町の飯野ビルディングとは異なる)、大名小路沿いに日石ビルディング(旧 有楽館。1922年竣工)・日本交通協会会館(1916年竣工)・生命保険会館があり、このうち仲4号館・仲2号館跡地では1963年11月12日に新ビル建設の地鎮祭が行われた。飯野海運ビルは1919年に日本製麻本社として建設されたのち、富国生命保険の所有となったあと1951年に飯野海運が所有した。1962年より飯野海運から三菱地所に対し売却の交渉があり、1963年9月に三菱地所が購入したあと「仲2号館別館」の名称で第一生命保険に賃貸された。生命保険会館を所有する生命保険協会は、地権者の三菱地所に対し1960年より単独での建替えを申し入れていたが、共同で大型のビルを建設する方針の三菱地所とは折り合いがつかなかった。1963年5月、生命保険協会会長に弘世現日本生命保険社長、会館建設を担当する副会長に浜田吉兵衛第一生命保険社長が就任すると、方針を転換して、共同ビル案に賛同。1964年6月に合意が成立した。日本交通協会は、三菱地所からの共同ビル建設の提案に非公式に内諾の意向を示したが、建設資金やテナントの移転問題で交渉は進展しなかった。1963年7月に十河信二元日本国有鉄道総裁が会長に就任し、生命保険協会と三菱地所との合意が成立すると、日本交通協会と三菱地所との話し合いも進展し、テナントの移転先の手配や建替え中の賃料の補償、新ビルのフロアの一部を日本交通協会が所有することを条件に、1965年10月に合意を取り付けた。日本石油との交渉は成立せず、1979年より新日石ビルヂングとして単独で建替えられた。仲2号館別館(旧 飯野海運ビル)と生命保険会館は1965年3月28日より解体を開始し、同年5月1日より本体工事に着手した。日本交通協会会館の引き渡しは翌1966年1月16日で、工程のすり合わせが求められた。 仲4号館・仲2号館跡地に第1期工事として建設された建物は「第三東京ビルヂング」の名称で1965年9月20日に竣工。第2期工事は1967年3月22日に竣工し、隣接地に1966年9月に竣工した「国際ビルヂング」との調整から、「新国際ビルヂング」に改称された[3]。 北東角に新日石ビルヂングがあるため、北を上にしたL字型の断面をもつ。地下には三菱地所としては初となる地域熱供給プラントがあり、1974年より周辺ビルに冷暖房用の蒸気を供給している。このプラントは、1990年に丸の内熱供給株式会社に移管された[3]。 テナント[編集] 新国際ビルヂングのエントランス。左側に日本交通協会、右側に生命保険協会の銘板が見える 生命保険協会(3階)[4]、日本交通協会(9階)[5]、三井住友銀行丸ノ内支店[6]などが入居する。 参考文献[編集] 三菱地所『丸の内百年の歩み 三菱地所社史下巻』、1993年3月6日、123-127頁。 外部リンク[編集]

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九二式艦上攻撃機 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “九二式艦上攻撃機” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年9月) 九二式艦上攻撃機(きゅうにしきかんじょうこうげきき)は日本海軍の艦上攻撃機である。試作機の設計・製造は海軍航空廠。八九式艦上攻撃機の後継機として開発されたが、中身は旧式の一三式艦上攻撃機の各部を大幅に改良したものだった。昭和8年(1933年)に制式採用され、生産機数は左程多くはないものの、支那事変においてそれなりに活躍した。海軍における記号はB3Y。 昭和7年(1932年)に日本海軍は、この年に制式採用された八九式艦上攻撃機の後継機作成を中島、三菱の両社に指示した。しかし、少しでも早く後継機を実用化したかったため、これと並行して海軍航空廠でも独自に後継機の開発を行うことにした。海軍航空廠では開発失敗のリスクを軽減させるために、既に旧式になっていた一三式艦上攻撃機の機体各部を改修した試作機を開発し、中島、三菱製の試作機との比較審査に臨んだ。その結果、性能面では大差はなかったが、操縦性、安定性で本機が一番優れていることが判明した。早急に八九式艦上攻撃機の後継機を必要としていた海軍は、愛知航空機に機体の改修・設計を依頼し、昭和8年(1933年)に本機を九二式艦上攻撃機として制式採用した。 本機は一三式艦上攻撃機をベースにしていたが、機体の骨組みを鋼管化したりエンジンも広工廠で開発した強力なものを搭載しており、機体各部も再設計されたことによってより洗練されたものになっていた。ただし、広工廠製の新型エンジンはトラブルが多く、部隊配備後もエンジンの不調に悩まされることとなった。 制式採用後は航空母艦鳳翔や龍驤に搭載されるなど、支那事変(日中戦争)中の主力機の一部として活躍した。 生産は主に愛知航空機で行われたが、後期には広工廠や渡辺鉄工所でも少数機生産された。初期の生産型は2枚翅のプロペラだったが、途中から4翅に変更された。また後期に生産されたものには、垂直尾翼や排気管の改設計を施された機体もあった。生産機体数は128機である。 スペック[編集] 全長:9.50m 全幅:13.50m 全高:3.73m 全備重量:3,200 kg

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バリキャップ – Wikipedia

バリキャップの記号 バリキャップ(英語: varicap diode)または可変容量ダイオード(英語: variable capacitance diode)はダイオードの一種で、端子間に加える電圧によって静電容量が変化するダイオードである。日本ではバラクタ(バリアブルリアクタの略)とも呼ばれる。 バリキャップは、VCO(電圧制御発振器)、位相同期回路、周波数シンセサイザなどで使われている。主に、静電容量を電圧で制御できるコンデンサとして使われているが、整流器としても使われることがある。 バリキャップの内部構造 上図:バイアス電圧が低いと空乏層が狭まり、容量が増加する。下図:バイアス電圧を上げると空乏層が広がり、容量が低下する。 バリキャップは逆バイアスで使うため直流電流は流れないが、コンデンサのように振る舞い、空乏層の幅がバイアス電圧で変化することで静電容量が変化する。通常、空乏層の幅は印加電圧の平方根に比例し、静電容量は空乏層の幅に反比例する。このため、静電容量は印加電圧の平方根に反比例する。 こうした現象はすべてのダイオードである程度見られるが、バリキャップは静電容量とその変化域が大きくなるように意図して設計されている。逆に他の多くのダイオードでは、これらが小さくなるように設計されている。 ダイオード以外のバリキャップ[編集] バリキャップには、ダイオード以外のものもある。CMOSプロセスでは、低濃度の不純物を注入したN型領域(Nウェル)に高濃度の不純物を注入したP型領域(P+型)を作ることでバリキャップが形成される。こうした接合部の静電容量は、低濃度の不純物を注入したP型の領域(Pウェル)にN+注入したNMOSトランジスタ(PN接合でもある)と同様に作用する。 外部リンク[編集] 参考文献[編集] Mortenson, Kenneth E. (1974).

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