Month: November 2020

大平正芳 – Wikipedia

大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月12日 – 1980年〈昭和55年〉6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位菊花大綬章。 池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交回復に貢献。四十日抗争やハプニング解散で消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。 衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第85・86・95・96代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)を歴任。首相就任までに椎名裁定、三木おろし、大福密約といった苦難があり、田園都市構想や一般消費税構想は実現しなかった。読書家、クリスチャンとして知られ、「戦後政界指折りの知性派」との評もある。 生い立ち[編集] 観音寺市豊浜八幡神社境内にある大平正芳像、2004年撮影。 香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、大平が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半ですでに亡くなっていた。父の利吉は学歴こそなかったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼いころから内職を手伝って家計を支えていた。 学生時代[編集] 和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。 1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4か月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学。 高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた[14]。 卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。就職するにせよ昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった。 1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した。大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構え、在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した。一橋大学時代米谷隆三博士に私淑したという[19]。卒業論文は「職分社会と同業組合」。大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した。 大蔵省時代[編集] 1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していた大平は住友系の企業へのあこがれを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された。1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。 1937年(昭和12年) –

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桑原瑛子 – Wikipedia

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京都精華学園中学校・高等学校 – Wikipedia

京都精華学園中学校・高等学校(きょうとせいかがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、京都府京都市左京区吉田河原町にある私立中学校・高等学校。設置者は学校法人京都精華学園。2016年から男女共学化に伴い、京都精華女子中学校・高等学校から校名が変更された[1][2][3]。 1905年 – 篠田時化雄が精華女学校を創立する[1][2]。一条烏丸西入の校舎で開校し、現校地に移転する。 1908年 – 精華高等女学校を設置する。 1910年 – 篠田時化雄を会長に財団法人養徳会が発足して学校経営の母体となる。 1927年 – 修業年限を5年に延長する。 1947年 – 学制改革により新制中学校の精華女子中学校を設置する。 1948年 – 学制改革により高等女学校を廃止して精華女子高等学校を設置する。 1951年

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有志の会 – Wikipedia

日本の衆議院会派 有志の会Yūshi no Kai 代表の吉良州司 代表 吉良州司 成立年月日 2021年11月4日 衆議院議席数 5 / 465   (1%) (2021年11月5日現在) 政治的思想・立場 中道[1][2] テンプレートを表示 有志の会(ゆうしのかい)は、衆議院の院内会派。 目次 1 概要 2

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旧土岐家住宅洋館 – Wikipedia

旧土岐家住宅洋館(きゅうときけじゅうたくようかん)は、群馬県沼田市に所在する西洋館である。「パンの殿様」と呼ばれた旧上州沼田藩主の子・土岐章により、大正時代後期に東京の渋谷に建てられ、平成に入り国許の沼田に移築された。 土岐家は、上野国沼田藩主の12代の頼知の時に明治維新を迎え、本拠を東京・赤坂の江戸見坂の江戸屋敷[注釈 1]に本拠を移し、別邸を沼田に置いた。1892年(明治25年)、頼知の子・章が生まれる。明治30年代、財産を失った頼知は赤坂の本邸と沼田の別邸を売り払い、東京の北千住で庶民として再出発することとなる。章は東京府立第一中学校[注釈 2]を卒業する前後に家の激変にあったとみられ、すぐに東京帝国大学[注釈 3]に進まずに千葉高等園芸学校[注釈 4]に進学。さらに明治法律学校[注釈 5]を中退したのちに帝大に入学し、発酵学を学んだ、1917年(大正6年)に卒業したのちは独立し、仲間とともにパンの製造販売業を立ち上げた。事業としては失敗するのだが、木村屋を始め製パン業界の人脈を得る[2]。共通の知人の紹介で貞子と結婚すると、貞子の実家の近くの日本橋三越前でハチブドー酒を扱う近藤商会に入社。発酵学の研究のため同社より二度にわたりドイツに派遣されたが、その留守中に関東大震災に見舞われる。被災当時は土岐家は北千住から高樹町に移っていたが、帰国した章は渋谷に土地を取得し、1924年(大正13年)8月に新たな邸宅を起工。同年12月に完成した[3]。当初は木造2階建の洋館部と平屋の和館部を連接させた大規模な邸宅であったが、昭和50年代前半に和館部を解体した後に鉄骨造り2階建ての主屋が建てられた。1979年に章が死去した後は、1988年秋まで妻の貞子が1階の和室に暮らしていたが、同年冬からは使用されなくなっていた[1]。 玄関および応接室窓のアーチ状の装飾。 1階と2階に和室も設けられている。(写真は1階) 玄関ホールのステンドグラス。 階段の親柱の意匠にもユーゲント・シュティール様式の一端が見られる。 西側の石積みのテラスも特徴的である。 設計は伊藤平三郎、施工は森田錠三郎。当時のドイツで流行していたユーゲント・シュティール様式を基調とし、塊のような大きな屋根と、そこに開けられた牛の目状の換気窓 (Oeil-de-boeuf) 、石積みのテラスなどに特徴がみられる[3]。 黒灰色の天然スレート葺で、傾斜の急な屋根には唐破風のような牛の目窓がアクセントとなっている。2階外壁は茶色ペンキ仕上げの下見板張り。裾広がり状とすることで窓の彫りを深く見せ、窓の下には花台が設えられている。1階外壁は黄土色のドイツ壁仕上げ、その下の基礎部は自然石乱積み張りで壁面の意匠に変化を付けている[4]。玄関や応接間の窓にはアーチ状の装飾が施されている[5]。 1階・2階とも洋室と和室がある擬洋風建築の一つであるが[6]、洋間の壁や天井は白の漆喰仕上げとし、明治期の西洋館とは異なり華美な装飾は避け、充足した生活のための内部意匠を優先した[4]。 1989年(平成元年)、章の子の實光より沼田市に対して寄贈の申し出があり、翌1990年8月に沼田市西倉内町の沼田公園に移築され[7]、郷土人物資料館として公開された。1997年11月5日には、国の登録有形文化財として登録を受ける[8]。 沼田公園の再整備及び沼田城跡の発掘調査のため[9]、2020年(令和2年)に市内上之町の国道120号(本町通り)沿いに移築された。隣接地には生方記念文庫や2016年に市内材木町から移築された沼田貯蓄銀行があり、本館と同様に沼田公園内にあり登録有形文化財の登録を受けた旧日本基督教団沼田教会紀念会堂も2020年に移築され、大正期の建築物が立ち並ぶ街並みが形成されている[10]。館内は有料で一般公開されている[11]。 注釈[編集] 出典[編集] 参考文献[編集]

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無重力のMASATO – Wikipedia

無重力のMASATO(むじゅうりょくのまさと)は、徳島県鳴門市出身のストリートワークアウトのプロアスリート。 日本人初のアジアチャンピオンに輝き、世界大会でも4位入賞という結果を残すなど、日本のストリートワークアウトの第一人者。アスリートとしてだけではなく、メディア出演やYouTubeなど幅広く活動中。 日本のストリートワークアウト・プロアスリート 空中を歩くようなパフォーマンスを得意とすることから 無重力(Anti gravity)のMASATOと名前が付けられた。 得意技はプランシェ。 2017年にストリートワークアウトの日本大会に初出場し6位入賞。 2018年に日本チャンピオンに輝き、香港で開催されたアジア大会に初出場し、準優勝を飾る(日本人の入賞は初快挙) その後、エジプトで開催された世界大会に出場し、ベスト12という結果を残し、海外でも注目されるようになる。 2019年モスクワの世界大会に出場し自身初の予選敗退。 悔しさをバネに練習を積み重ね、その後台湾にて開催されたアジア大会で日本人初のチャンピオンに輝く。 そして香港で開催された世界大会で4位入賞し世界で通用することを証明。 2020年2月BODYMAKER(ボディメーカー)とスポンサー契約を結ぶ。 [1] 2020年3月オーストラリアで開催されるアーノルドプロストリートワークアウトに出場する予定でしたが、コロナの影響で大会が中止になる。 出場予定だった大会が全て中止になり、自粛期間にYouTubeチャンネル[2]を開設し、ストリートワークアウトや自重トレーニングの魅力を発信。 そして自身のオリジナルアパレル(Anti Gravity)立ち上げる。 [3]

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安藤真 – Wikipedia

安藤 真(あんどう まこと、1952年 – ) は、日本の通信工学者。東京工業大学副学長や、IEEE Antennas & Propagation Society会長、国際電波科学連合(URSI)会長、電子情報通信学会会長などを歴任した。 人物・経歴[編集] 北海道札幌市生まれ。父は船の設計技師。北海道札幌南高等学校卒業後、東京工業大学に進学し、全国漁業協同組合連合会の仕事で六本木に住んでいた祖父母宅の居候となった。東京工業大学サッカー部出身。関口利男研究室に配属され[1]、1974年東京工業大学工学部電子物理工学科卒業。1976年東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。1979年東京工業大学大学院理工学研究科博士課程修了[2]、日本電信電話公社横須賀電気通信研究所入所、電波研究室配属[1][2]。1982年東京工業大学工学部電子物理工学科後藤尚久研究室助手[1][2]。1985年東京工業大学工学部電子物理工学科助教授。1995年東京工業大学工学部電気・電子工学科教授。2000年東京工業大学大学院理工学研究科電気電子工学専攻教授[2]。2005年電子情報通信学会アンテナ・伝播研究専門委員会委員長[1][1]。2007年電子情報通信学会エレクトロニクスソサイエティ会長[3]。2009年IEEE Antennas & Propagation Society会長[4]。2010年日本学術会議連携会員。2011年国際電波科学連合副会長。2015年国立大学法人東京工業大学理事・副学長(研究担当)[3]、International Symposium on Antennas and

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ミセン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ミセン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年5月) 『ミセン』(未生、미생)は2014年(平成26年)10月17日から同年12月20日にかけて、韓国のtvNで放送されたテレビドラマ。同名のウェブ漫画が原作。日本ではMnetやBSジャパン、囲碁・将棋チャンネルで放送された。 囲碁のプロ棋士を目指すも挫折し、母親のツテでソウル市にある持株会社「(株)ワン」の子会社で韓国の五大大手総合商社の「(株)ワン・インターナショナル」の、ソウル本社に高卒の未経験で入社した主人公チャン・グレが職場の上司や同僚と繰り広げる出来事を中心に描いたドラマ。恋愛や記憶喪失といった従前の韓国ドラマにありがちな要素が一切ないことで注目を集め、新入社員が仕事に奮闘する姿を描いたことで、放送時の韓国で「ミセンシンドローム」と呼ばれる社会現象を起こした大ヒット作品となった [1]。 日本では、2016年にフジテレビ系テレビドラマ『HOPE〜期待ゼロの新入社員〜』が日本語版として制作され [1]、漫画の邦訳版が講談社より出版された[2]。 ストーリー[編集] 年少期から囲碁の天才と評され、プロ棋士としての将来を嘱望されていたチャン・グレは、父親の死などをきっかけにその夢を絶たれてしまう。未練を残すなかアルバイトを続けていたグレは、母親のツテで大手の「ワン」の子会社で総合商社の「ワン・インターナショナル」にインターン社員としてコネ入社する。グレはオ・サンシク課長(チーム長)率いる営業第3課(営業第3チーム)に配属される。高卒の25歳(数え年で26歳)でかつまともな社会経験もないグレは、慣れない職場環境に四苦八苦するが、それでも棋士だったころの経験を思い出して活かし、次第に職場で渡り歩く術を身につけていく。そして、グレの同期やその上司も、それぞれの仕事や職場の人間関係の苦悩を抱えながら社内や取引先での商談などで奮闘していた。学歴社会や雇用形態、会社の上下関係(特に男性は兵役経験により上下関係への意識が強い)、年功序列、女性差別、汚職、セクハラ・パワハラなど、現代日本と同様な現代韓国のサラリーマンの日常を描いたリアルなストーリー。 登場人物[編集] ワン・インターナショナル[編集] ソウル本社[編集] 主要人物[編集]

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サロフ – Wikipedia

サロフ(ロシア語: Саро́в, Sarov)はロシアのニジニ・ノヴゴロド州南端にある都市。ソビエト連邦時代以来の核兵器開発の中枢であり、閉鎖行政地域組織(閉鎖都市、ZATO)となっている。1946年から1991年までの間はアルザマス16(ロシア語: Арзама́с-16)の名で呼ばれていた。 人口は87,652人(2002年国勢調査)。州都ニジニ・ノヴゴロドからは南へ200km、アルザマスからは南へ80km以上の位置にある。街の大部分はニジニ・ノヴゴロド州内にあるが、一部は州境を超えた南のモルドヴィア共和国にまたがっている。 サロフ修道院(1860年頃) サロフには二つの全く異なる側面がある。一つは宗教上の聖地という側面で、古い歴史のあるサロフ修道院を有しており、ロシア正教会の偉大な聖人の一人サロフの克肖者聖セラフィムが深い森の中で修行生活を送った場所である。もう一つは、1940年代以来、ソビエト連邦(後のロシア連邦)が核兵器の研究・生産施設を集積させた軍事研究都市という側面である。 荒野の聖地サロフ[編集] 森林での修業中、熊に食べ物を与える聖セラフィム サロフの歴史は12世紀から13世紀ごろ、モルドヴィン人の大きな集落があった時期に遡る。1298年にはタタール人がこの町を併合した。「サロフ」という地名は、サロフカ川という小川のそばにあったサロヴァ修道院(サロフスキー修道院、サロフ修道院)に由来する。サロフカ川の水は癒しの力があると昔から信じられていた。1664年にテオドシウスという修道士が森に入り、以後数人の修道士が森での修行生活を送った。1705年には地元の貴族がサロフカ川沿いの土地を修道士らに寄進し、1706年には最初の聖堂が建った。 克肖者サロフのセラフィムは1778年から1833年までサロフで生活した。最初は修道院で修行したが晩年は一人森の中に庵を建てて隠遁し、訪れる巡礼者らに教えを説いた。1903年にセラフィムは列聖され、ロシア皇族がサロフに訪問した。20世紀初頭には修道院に収められたサロフのセラフィムの不朽体への崇敬のため非常に多くの人々が巡礼に訪れ、9つの聖堂(1つは地下聖堂)があり、修道院には320人の修道士がいた。 1927年、修道院はソ連政府により閉鎖され、修道士の多くは追放・処刑された。修道院の建物は内務人民委員部(NKVD)の収容所となり、第二次世界大戦中は多連装ロケットランチャーBM-13(カチューシャ)用のロケット弾の製造工場に転用された。修道院の周辺にあった集落は1939年に市となっている。 アルザマス16[編集] アルザマス16で開発された史上最大の水爆ツァーリ・ボンバの原寸大模型。サロフの核兵器博物館で ソ連は第二次世界大戦中の1943年から原子爆弾研究を進め、アメリカでマンハッタン計画に従事していた科学者のセオドア・ホールやクラウス・フックスらからも内部情報を得て開発を完成へと近づけた。アメリカが原爆を使用したことを受け、ソ連も1946年4月に原爆工場の建設を決定した。研究所と工場の場所は1945年末から選定が始まっており、深い森林地帯の奥にあり、なおかつ鉄道が通っていたため物資輸送にも便利なサロフがその場所に選ばれた。 同年からドイツ軍の捕虜やNKVDから送られた強制労働者らにより研究所と工場の建設が行われた。1947年2月にはサロフは閉鎖地域とされモルドヴィア自治共和国の下から離され、一般の地図や資料からもその存在を抹消された。サロフは以後「アルザマス16」と呼ばれたが、アルザマスは北に75kmも離れており、これは西側に対し核兵器研究所・工場がアルザマスの近郊にあると見せかけるための偽装であった。研究所は1947年春に稼働を始めており、ソ連の核開発をつかさどる第11設計局(OKB-11)の本部が置かれた。 冷戦後、1991年にアルザマス16にはクレムリョフ(ロシア語: Кремлёв)という都市名が与えられたが、住民からのボリス・エリツィン大統領に対する要望により、1995年に元の名であるサロフへと再度改名された。 一方、1989年以来、アルザマスやニジニ・ノヴゴロドの聖職者らがサロフを訪れ、1991年8月にはモスクワ総主教アレクシイ2世もサロフを訪問した。以後、研究所の所内にあった聖堂の移築や再開が進み、2006年には聖シノドが修道院の再建を決定した[1]。 サロフの現状[編集]

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