Month: December 2020

みんなのラジオ。 – Wikipedia

『みんなのラジオ。』は、OBSラジオで放送されていたラジオ番組である。通称『みんラジ』[3]。2012年10月2日放送開始[1]。 2012年のナイターオフ期に開始された番組で、OBSの新人アナウンサーが大分県内の大学に通う学生パーソナリティ、聴取者とともに成長を共有しあう番組である[4]。毎回メッセージテーマを設定し[5]、メール・ツイッターで寄せられたメッセージを基に番組を進めていく。初代メインパーソナリティにはこの年入社の飯倉寛子を起用。 番組開始当初から、Ustream配信を実施し、ラジオ放送終了後もUstreamのみのおまけ放送が行われていた。このスタイルは先行的にスタジオ内配信が行われていたHAMARooooN!!ステーションと同じ流れであった。 後に、イチスタ☆とBINGOでもスタジオ内風景の配信を開始したが、おまけ放送は行われていない。 番組内では、みんラジネームという番組内ニックネームで呼び合う。これはメインパーソナリティのアナウンサーも同様である。新しい出演者が登場すると、まず番組でみんラジネームを募集する。出演者やリスナーが提案した中から、本人がみんラジネームを決定する。 ただし、5期生は初出演時にみんラジネームが決定していた。 2013年のナイター中継開始に伴い、番組は土曜 22:00 – 23:00に移動[6]。従前より放送時間が10分拡大された。 2013年9月21日 – 23日にかけて、OBSでは開局60周年記念番組「60時間ラジオ」が放送されたが、当番組ではこれまでで最長となる21日 3:00 – 5:30の150分間の生放送を行った[7]。 2014年9月20日の放送で放送回数100回を達成した[8]。翌週27日の放送をもって、飯倉が2年間務めた番組を卒業した[9]。 2014年10月改編で2度目の時間移動が行われ、月曜 20:00 –

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月曜デモ (1989年) – Wikipedia

1989年11月13日にライプツィヒで行われたデモの様子。20万人が参加し、自由選挙と旅行の自由化を主な主張としていた。 月曜デモ(げつようデモ、ドイツ語: Montagsdemonstrationen)は、旧東ドイツ・ライプツィヒ県(現:ザクセン州の一部)のライプツィヒで始まった大衆運動。1989年から1990年にかけて可及的に波及し、強権的体制を敷いていたエーリッヒ・ホーネッカーら社会主義統一党(SED)政権幹部の辞任、ベルリンの壁崩壊への導火線となっていった。 1981年に旧東独圏で牧師のクリスティアン・フューラーが始めた『平和への祈り』が礎となり、1982年からは毎週月曜日に、様々な教会で行われるようになった平和運動に発端を帰する。1980年代半ばからは体制批判運動と化し、1988年9月には当局からの圧力によって活動は一旦休止させられている。 1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、ポーランドやハンガリーでは民主化推進の動きが強まると、東ドイツ国内でも民主化を求める声が高まっていた。しかし、ホーネッカーら東ドイツ首脳部は「東ドイツカラーの社会主義」を主張して強硬姿勢を崩さず、1988年にはペレストロイカを伝えるソ連の雑誌『スプートニク』を発禁処分とした。これは知識人の不満を一気に高めることになった[1]。 1989年5月7日の不正操作された地方選挙戦以降、600人規模のデモ活動として組織され、聖ニコライ教会 (ライプツィヒ)を中心に行われていた平和の祈りは月曜デモへと拡大していった。 市民運動デモとしての拡大化[編集] 1989年5月に既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト・ミクローシュ政権が国境の鉄条網を撤去し、「鉄のカーテン」が綻びると東ドイツ市民はチェコスロバキア、ハンガリーを経由してオーストリア、さらに西ドイツへ出国しようと大量脱出するようになっており、8月の汎ヨーロッパ・ピクニック以降ハンガリー政府は非公式に東ドイツ市民の出国を認めるようになっていた。 最初の大規模なデモはそんな最中の1989年9月4日に西側メディアも取材している中で行われ、西側諸国にも知られることとなった。逮捕者が出る等、公安当局からの圧力がかかっていたものの毎週デモは継続された。9月11日にハンガリー政府が正式にオーストリアとの国境を開放すると、ホーネッカーはチェコスロバキアとの国境を閉鎖し、東ドイツ市民の出国をさらに制限して流出を食い止めようとしたが、これが市民のさらなる反発を招き、9月25日には8000人のデモ隊が「インターナショナル」を歌いながらライプツィヒを行進し、翌週の10月2日にはデモ参加者はさらに膨れ上がった[2]。民衆は出国の自由を訴える方向から、国内の体制変換と民主化を強く求めるようになり「私たちはここに残る!(„Wir bleiben hier!“)」、「我々が人民だ!(ドイツ語版)(„Wir sind das Volk!“)」との訴えを前面に打ち出すようになった[3]。 政権側がドイツ民主共和国樹立40周年を祝ったわずか2日後の1989年10月9日、デモの参加者は70,000人を超えた。ホーネッカーや国家保安相のエーリッヒ・ミールケは武力での制圧を準備していたが、既にホーネッカー失脚を画策し始めていた治安担当書記のエゴン・クレンツはこれに反対しており、駐東独ソ連大使ビャチェスラフ・コチュマソフも強く反対したために駐独ソ連軍は全く動こうとせず、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長のクルト・マズアが対話を呼びかけると、地元のSED幹部もこれに賛同したため[4][5][6]、内務省とライプツィヒの国家安全保障長官は最終的にデモ弾圧を断念し、デモの散会を求めるための弾圧ではなく、暴徒化を防ぎ安全を確保することに留める決定を下し、市民と当局との衝突は避けられた[7]。その後、1989年10月16日にデモの参加者は100,000人を超えた。 ホーネッカーは10月16日のデモに対しても武力鎮圧を主張したが、クレンツは「デモ隊の動きに介入するな」と指示を出し[8]、また、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した[9]。翌日の10月17日、SEDの政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議が可決され、10月18日にホーネッカーはすべての職を辞した。 他都市への拡大と波及[編集] ^ 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』

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リーマン幾何学の基本定理 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “リーマン幾何学の基本定理” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年10月) 原文と比べた結果、この記事には多数(少なくとも5個以上)の誤訳があることが判明しています。情報の利用には注意してください。正確な表現に改訳できる方を求めています。 リーマン幾何学において、リーマン幾何学の基本定理(fundamental theorem of Riemannian geometry)は、任意のリーマン多様体(あるいは、擬リーマン多様体)には、捩れのない計量接続が一意的に存在するという定理である。この接続は、与えられた計量のレヴィ・チヴィタ接続(Levi-Civita connection)と呼ばれる。ここに、計量接続(あるいは、リーマン接続)は、計量テンソルを保存する接続である。正確には、 リーマン幾何学の基本定理:(M, g) をリーマン多様体(あるいは、擬リーマン多様体)とすると、一意に次の条件を満たす接続 ∇

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フランス植民地様式 – Wikipedia

インドシナ総督府(ハノイ) フランス植民地様式(フランスしょくみんちようしき、英語: French Colonial style)またはフレンチコロニアル様式は、フランス人が植民地に建てた建築の様式、時には家具などのスタイルを指している。 目次 1 概要 2 北アメリカ 2.1 カナダ 2.2 アメリカ合衆国 3 アジア 3.1 カンボジア 3.2 ベトナム

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青木義男 (政治家) – Wikipedia

青木 義男(あおき よしお、1916年(大正5年)3月20日 – 1994年(平成6年)12月20日)は、昭和から平成時代の政治家。下田市議(2期)、下田市長(2期)を歴任した。 静岡県賀茂郡南中村(現南伊豆町)下賀茂に農家の長男として生まれた[2][3]。1930年(昭和5年)、高等小学校を卒業して下田の伊豆電機に入社した[2][3]。1936年(昭和11年)に名古屋の野砲3連隊に入隊し、陸軍兵学校に入校した[2]。除隊後の1939年(昭和14年)に独立して、双葉電機工業所を創業した[2]。1963年(昭和38年)から1年間、下田市消防団長を務めた[4]。1971年(昭和46年)に下田市議会議員に当選した[2]。 1976年下田市長選挙[編集] 1976年(昭和51年)の下田市長選挙では、保守陣営から当時の現職市長石井基と青木の2名が立候補の動きを見せた[5]。この為、一本化に向けた調整が開始された[5]。その後、5月10日に石井市長が立候補を断念して、自民党に離党届を提出した[5]。これに、下田市議11人が同調した[5]。結果、6月27日の選挙に下田市議会議員から下田市長選挙に自民党推薦で立候補し、300票と僅差で下田市長に当選した[2][5][6]。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:84.91%(前回比:-pts) 候補者名 年齢 所属党派 新旧別 得票数 得票率 推薦・支持 青木義男 60 無所属

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三重スリーアローズ – Wikipedia

三重スリーアローズ(みえスリーアローズ、Mie Three Arrows)は、2009年から2011年まで存在していたプロ野球独立リーグのチーム。三重県を本拠地としていた。略称は三重TA。2010年はジャパン・フューチャーベースボールリーグ(JFBL)、2011年は四国アイランドリーグplusに所属していた。 球団名は三重県の「三」に由来する「スリー」に、三重県の形に由来する「アロー」(関西方面に向かって矢を放つように見えるという理由)を組み合わせたもので、「『地域の活性化』『青少年の健全育成』『優勝』の3つの目標に向かって、矢のように一直線に進む」との含意もあったという[1]。 運営母体は三重ベースボールサポート。本拠地は津球場公園内野球場。このほか、伊勢市倉田山公園野球場・四日市市営霞ヶ浦第一野球場で試合を開催した(霞ヶ浦第一野球場は2010年のみ)。 シーズン[編集] JFBL 年度 期 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 2010 – 松岡弘→藤波行雄

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マッドマン – Wikipedia

『マッドマン』(Madman Across the Water)は、1971年に発表されたエルトン・ジョンのアルバム。 映画『フレンズ』への楽曲提供などで多忙な時期に製作されたアルバム。ポール・バックマスターのエモーショナルな弦編曲が最高潮を迎えている。長尺な「マッドマン」「黄昏のインディアン」を始め、寂寞を感じさせる歌詞とメロディが印象的なアルバム。 当時、エルトンはライヴで煌びやかな衣装をまとい、エンターテイナーに徹し始めた時期であった。そのためか、本作収録曲はライヴで演奏されなかった時期もあった。近年、これらの楽曲はライヴで再演される機会が増えている。 一曲目「可愛いダンサー」は、作詞担当のバーニー・トーピンが当時の妻に贈った楽曲である。 Side 1 可愛いダンサー (マキシンに捧ぐ) – Tiny Dancer リーヴォンの生涯 – Levon 愛すべき男、レザー・フェイス – Razor

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第三の時効 – Wikipedia

『第三の時効』(だいさんのじこう)は、横山秀夫による連作警察小説。全6篇が収録されており、全篇とも集英社の『小説すばる』に掲載された。第16回山本周五郎賞候補作。 作者が初めて事件を捜査する刑事を主人公にした「F県警強行犯シリーズ」の第1作目。 全編とも2002年から2005年にかけてテレビドラマ化された。 登場人物[編集] 刑事部長 捜査第一課課長 捜査第一課強行犯捜査一係 朽木泰正 – 班長:「青鬼」。捜査手法は「理詰め型」。 田中 – 主任 森隆弘 殿村 矢代勲 島津:前職は捜査第二課知能犯捜査係。田畑の所轄時代の部下。 捜査第一課強行犯捜査二係 楠見 –

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ルキウス・カッシウス・ロンギヌス – Wikipedia

ルキウス・カッシウス・ロンギヌス(ラテン語: Lucius Cassius Longinus、-紀元前107年)は、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前107年に執政官(コンスル)を務めたが、同年に戦死した。 ロンギヌスはプレブス(平民)であるカッシウス氏族の出身。共和政初期にカッシウス氏族から執政官が出ているが、これらはパトリキ(貴族)系である。プレブス系カッシウス氏族が歴史に登場するのは第一次ポエニ戦争の頃で、その後共和政後期になると、氏族の中から重要な公職に就任するものが出てきた[1]。紀元前171年の執政官ガイウス・カッシウス・ロンギヌス が氏族としては最初の執政官であり、ロンギヌスというコグノーメン(第三名、個人名)が確認できる最初の人物でもある。 カピトリヌスのファスティによると、ロンギヌスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウス、祖父は不明である[2]。歴史学者G. サムナーは、紀元前127年の執政官ルキウス・カッシウス・ロンギヌス・ラウィッラ を父、また紀元前96年の執政官ガイウス・カッシウス・ロンギヌスを弟と考えている[3]。 現存する資料にロンギヌスが最初に登場するのは紀元前111年のことである。このとき彼はプラエトル(法務官)であった。丁度ヌミディアとの間にユグルタ戦争が勃発していたが、執政官ルキウス・カルプルニウス・ベスティアはヌミディア王ユグルタとの間に、敵に有利な条約を締結した。元老院はこの条約の批准を拒否し、ベスティアとマルクス・アエミリウス・スカウルスの行動を調査すると共に、ロンギヌスをヌミディアに派遣しユグルタをローマに召喚するよう求めた。もともとヌミディアはローマの同盟国であり、ロンギヌスが身の安全を保証したことから、ユグルタはローマに赴いた[4][5]。しかしながら護民官ガイウス・バエビウスがユグルタの発言を認めなかった[6]。 紀元前107年、ロンギヌスはガイウス・マリウスと共に執政官に就任する。マリウスはヌミディアに渡り、ロンギヌスはガリア・トランサルピナ属州の防衛を担当することとなった。ガリアにはゲルマン人のキンブリ族が侵攻してきていた。ガリア人のヘルウェティイ族はキンブリ族と同盟を結び、ガリア南西部に移動することを承諾した。このヘルウェティイ族の一部が、ディウィックという人物に率いられてジュラ山脈を超え、ローマの支配地域を通過してガロンヌ川沿いのアジャンに到達した。そこには、ロンギヌス率いるローマ軍が待ち受けていた[7](但し、オロシウスはロンギヌスがディウィックを海まで追跡したとしている[8]) 両軍は激突するが、戦闘に関しては断片的な情報しか残っておらず、また信頼性にかけるものもある。ローマ軍は待ち伏せ攻撃に会い、ロンギヌスは元執政官ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスと共に戦死した。ローマ軍も甚大な損害を被った。ローマの残存部隊はガイウス・ポッピリウス・レナトゥスに率いられて一旦野営地に退却し、それまでに得ていた戦利品の半分と捕虜全員を引き渡すことで合意し、戦場を離脱した[9][10]。アッピアノスは(サムニウム戦争のカウディウムの屈辱と同じように)くびきの下を一人ひとり屈んでくぐらされたとしているが[11]、これは疑わしい[12]。 G.サムナーによれば、ロンギヌスの息子は、紀元前89年の護民官ルキウス、紀元前73年の執政官ガイウス、クイントゥスの三人がいた。この場合、ロンギヌスの孫(執政官ガイウスの子)は、カエサルの暗殺者の一人であるガイウス・カッシウス・ロンギヌスである可能性がある[3]。 ^ Cassius, 1899 , s. 1678. ^

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ウラジミールとローザ – Wikipedia

ウラジミールとローザ Vladimir et Rosa 監督 ジガ・ヴェルトフ集団(ジャン=リュック・ゴダールジャン=ピエール・ゴラン) 脚本 ジガ・ヴェルトフ集団 出演者 ジャン=リュック・ゴダールジャン=ピエール・ゴランイヴ・アフォンソジュリエット・ベルトアンヌ・ヴィアゼムスキーエルネスト・メンジェルクロード・ネジャール 撮影 ジガ・ヴェルトフ集団 編集 ジガ・ヴェルトフ集団 配給 グローヴ・プレス アイ・ヴィー・シー 公開 1971年4月16日 2012年4月21日

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