Month: May 2021

不要不急線 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “不要不急線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年1月) 不要不急線(ふようふきゅうせん、不要不急路線とも)とは、日中戦争から太平洋戦争に向かう最中の1941年(昭和16年)8月30日以降に、政府の命令により線路を撤去された鉄道路線のことである。その目的は勅令第970号(改正陸運統制令)による重要路線への資材転用、もしくは勅令第835号(金属類回収令)による武器生産に必要な金属供出であった。 ほとんどの路線は手続上「休止」扱いとされたが、実質的に「廃止」で、再開されなかった路線はその後正式に廃止された[1]。民営鉄道の場合は戦後復活を果たした例がケーブルカーを除くとほとんどないが、国有鉄道の多くの路線は戦後線路を復旧し、営業を再開した。しかし復活を果たしたものでも後の「赤字83線」や「特定地方交通線」などの取組みの中で、再び廃止された路線も少なくない。 以下の基準で不要不急線に選定された鉄道路線は、要するに軍事輸送上、重要度の低い路線である。また休止に至らなかったものの、複線のうち1線を撤去され単線化されたものも同様の趣旨である。 輸送量が小さく、撤去されても軍事輸送上影響の少ない路線 観光輸送などが主力の路線であり、軍事上重要度の低い路線 近接して並行路線があり、代替輸送が可能な路線 過剰設備となった複線の1線撤去による単線化 不要不急線の例[編集] 凡例[編集] ○は、戦後復活し現存する区間 ×は、休止後復活しなかった区間

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オールスター歌合戦 – Wikipedia

『オールスター歌合戦』(オールスターうたがっせん)は、1955年と1956年の2回に渡って、ラジオ東京(現:TBSラジオ)とラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)で同時放送(生放送)された年末特別番組(歌謡番組)である。2回とも化粧品メーカー・金鶴香水株式会社(後の丹頂株式会社、現:マンダム)の一社提供。 なお1956年放送版の正式タイトルは、『オールスター丹頂歌合戦』と、冠が付いたタイトルとなっている。 1955年4月1日に開局したラジオ東京テレビが、初めて放送した音楽系年末特別番組であり、この年開催されるNHK『第6回NHK紅白歌合戦』の対抗番組、それもほぼ同じ放送枠に真っ向からぶつけた。そして内容も『NHK紅白歌合戦』同様、男女対抗形式としたが、『紅白』の組み分けが「紅組」「白組」となってるのに対し、当番組は「男性軍」「女性軍」とし、また『紅白』は全歌手が歌い終わった所で審査をするのに対し、当番組は1回戦が終わるたびに審査するという方法だった(フジテレビの『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』と同じ)。 翌1956年は放送枠を19時台に繰り上げて3時間番組にし、この年開催の『第7回NHK紅白歌合戦』との重複も1時間に減らした。またパートを2部に分け、21:00までは前年同様に歌合戦としたが、『紅白』と被る21:00以降は「隠し芸」とした。 全2回で終了、翌1957年からは『オールスター大行進』に変更、21:00までの2時間は歌謡番組にしながらも、男女対抗を止めて一般的な歌謡ショーとし、21:00以降はバラエティにしたが、1961年以降は歌謡パートのみの2時間番組にした。 放送時間[編集] 放送年 放送時間(JST) ラジオ テレビ 1955年 21:00 – 23:00 20:50 – 23:00 1956年 19:00 –

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数え上げ数学 – Wikipedia

数学における初等組合せ論 (elementary combinatorics), 有限組合せ論 (finite combinatorics), 数え上げ組合せ論 (enumerative combinatorics) あるいは数え上げの数学(かぞえあげのすうがく、英: mathematics of counting)とは、一定のパターンに従って形作られる方法の総数を扱う組合せ論の一分野を言う。この種の問題の代表例が組合せと順列の総数を算えることである。より一般には、自然数で添字付けられた有限集合 Si の無限族が与えられたとき、各 n に対する Sn に属する元の総数を数える「計数函数」(counting function)

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ささやき声 – Wikipedia

女性の耳元でささやく少女 ささやき声(囁き声、ささやきごえ、英語: whispering)は声帯を振動させずに無声化した声である。国際音声学会が定めた5つの声質(発声)のうちのひとつである[1]。日本語ではささやき声で話すことを「声をひそめる」とも表現し、そのさまを「ひそひそ」と形容する[2]。 特徴と用法[編集] ささやき声の音量は一般に小さい。一般的な会話の音圧レベルは約60 dBであるのに対しささやき声は30~40 dB である[3][4]。この特徴を利用して、小さな音量で話すときに用いられる。図書館などの静寂が求められる場所や、近くにいる第三者に聞こえてほしくないときなどが典型的な例である。 ささやき声は通常発声に比べて少し不明瞭で聞き取りにくいとされるが、これは両者の音の周波数の構成が異なることと関係がある。聞き手が母音を識別するためには、主要フォルマントと呼ばれる、500~3000 Hz の領域が重要である。通常発声では7 kHz のエネルギーは 600 Hz のエネルギーより約 40 dB 低いが、ささやき声では低周波数帯と高周波数帯のエネルギー差が小さく、その比は 10

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坂本理一郎 – Wikipedia

坂本 理一郎(さかもと りいちろう、1861年4月16日(文久元年3月7日) – 1917年(大正6年)4月3日[1])は、日本の政治家・漢詩人。秋田県仙北郡千屋村の出身。 文人としては東嶽(とうがく)の号を用い、当時、六郷町の飯村稷山、畑屋村の高橋午山とともに「仙北の三山」と称された。茶道では玉川遠州流の5代宗龍に学んだ。 人物略歴[編集] 1861年(文久元年)3月7日に出羽国仙北郡千屋村小森で醸造業を営む素封家の家の長男に生まれた。父は坂本藤兵衛、母はしげ[2]。10歳のとき、六郷町の熊谷松陰に師事して国漢学と儒学の手ほどきを受けた[2]。 1874年(明治7年)に上京し、当時啓蒙思想家として知られていた西村茂樹の家塾や中村正直の同人社で洋学を学び、さらに仙北郡刈和野村出身の根本通明の塾で漢学を修めた[2][注釈 1]。1876年(明治9年)帰郷して千屋簡易学校教師となったが、再び、上京し、福澤諭吉の慶應義塾、津田仙の学農社農学校に学んだ。慶應義塾ではのちに内閣総理大臣となる犬養毅と知り合って親交を結んだ[2][3]。 1890年(明治23年)、29歳にして秋田県会議員となった[3]。第2回衆議院議員総選挙(1892年)ののち辞職した秋田4区選出の斎藤勘七の後をうけて1893年(明治26年)8月5日補欠当選、衆議院議員となった。1894年の第3回衆議院議員総選挙では大隈重信の立憲改進党から立候補して当選、第4回衆議院議員総選挙でも当選した[3]。東京では白金台に邸宅を有した。しかし、優れた政治的人材がこぞって都会へ出ていくのに対し、地方農村が立ち遅れていることを憂慮した理一郎は1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙には出馬せず、帰郷を決意した。なお、この間、理一郎は千屋村青年会を組織し、仙北郡飯詰村の私塾酔経学舎学長狩野旭峰発行の文芸誌『棣華(ていか)』第1集(明治28年)に坂本東嶽の名で漢詩文を投稿している。 明治30年代、扇状地扇央部の林野の開発に着目した理想の村づくり構想をいだいていた理一郎は、代議士を辞して帰村したのち、その実現に着手した。これは、村の中央に位置する一丈木周辺の原野を切り開いて公園(一丈木公園)をつくり、その周辺に村役場や小学校、公会堂、郵便局など主だった公共施設をすべて集中配置し、一丈木と他の主要集落と完全に連絡できるよう、当時としては幅の広い幅員5-6メートルの直線道路を村内に放射状に建設して、その道路両側にアカマツ・スギを植樹するという画期的なものであった[2]。千屋小学校(現美郷町立千畑小学校)周辺や一丈木公園の桜も同時期に植えられたものといわれている[4][注釈 2]。これは、どの地区にも属さない原野に新しい村の心臓部をつくることによって、藩政期以来つづいた旧村の地域感情を一新して村民意識を1つにまとめるねらいがあったともいわれている[2]。 1900年(明治33年)、千屋村農会の農会長となり、1901年(明治34年)には当時山形県酒田町の本間家に逗留していた福岡県出身の乾田馬耕教師伊佐治八郎の派遣を要請した[3]。米どころ仙北地方の水田は当時湿田が卓越し、生産力は高いものの「腐れ米」と称されて米穀市場では不評であったため救済に乗り出したのである。隣村高梨村の池田文太郎は理一郎の盟友であり、当時秋田県最大の地主であった。伊佐治八郎は高梨村・千屋村に赴き、乾田馬耕を指導したが、こののち、文太郎は私費で毎年30名の小作人を庄内に派遣し、理一郎は本間農場から田中岩吉をも招いて千屋村に長期滞在させ、堆肥の切り返し、雁爪(がんづめ)除草などの実施指導に当たらせた。成果は早くも1904年(明治37年)の「小作米品評会」で現れ、「仙北米」として名声を高めた。理一郎・文太郎らはその後も乾田馬耕の普及に努めた[注釈 3]。その一方で理一郎は、農民の現金収入を確保するために養蚕や果樹も奨励している[2]。 1902年(明治35年)、理一郎は秋田県で最初の耕地整理を始めた[3]。これは乾田馬耕普及とならぶ県農政上の二大功績である。1904年9月10日[5]から1906年(明治39年)9月12日[6]まで貴族院多額納税者議員を務めている[3][1]。 1899年の仙北郡農会創立以来、理一郎は副会長として活動し、1908年(明治41年)からは会長となった[3]。1915年(大正4年)までの通算16年間、一貫して自費で農村指導に当たった[3]。ことに社会教育の分野での活動がめざましく、各地区の青年に働きかけて夜学会を興し、これまで自身が学んできたことを伝授したほか、自ら結成した千屋青年会では農閑期を利用して討論会や演説会を催した[2][3]。地域の農業青年養成のために勧農会を組織し、試作地を設けて範を示す一方、多額の自費を投じて書籍や農機具を購入して技術習得を助けた[2][3]。 晩年には体調をくずして一切の公職から離れ静岡県下で療養生活を送っていたが、大正6年(1917年)4月3日逝去した[2]。享年57。 坂本東嶽邸[編集] 千屋字中小森の理一郎旧宅は遺族によって家屋・庭園などが町に寄贈されており、現在「坂本東嶽邸」として一般公開されている(有料、茶室は非公開)[7]。現在の家屋・庭園は陸羽地震後の明治30年頃に建造されたものであり、庭園は当時そのままであるが、家屋は当時の4分の1程度である[7]。母屋には、当時の家屋の写真や大隈重信・犬養毅らとの交流を示す書簡などが展示されている[2][7]。

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暁ふ頭公園 – Wikipedia

東京臨海副都心 > 青海 (江東区) > 暁ふ頭公園 暁ふ頭公園(あかつきふとうこうえん)は、東京都江東区青海三丁目と四丁目に跨る都立の海上公園(ふ頭公園)である。東京都港湾局の所管。1981年4月1日開園、面積は約15502平方メートル。 目次 1 概要 2 アクセス 3 周辺施設 4 外部リンク 東京臨海副都心の南東部にある公園である。 第二航路トンネル沿いには散策路がある。海沿いにはバーベキューエリアがあり、釣りも楽しめる。対岸は中央防波堤の埋め立て処理場なので雰囲気があまり良くないが、行き交う船や、時間によっては羽田空港へ着陸する航空機をほぼ真上に見ることが出来る。 アクセス[編集] ゆりかもめテレコムセンター駅から徒歩20分。 駐車場(普通乗用車28台分) 周辺施設[編集]

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安杜羽加 – Wikipedia

安杜 羽加(やすもり わか、2002年10月30日 – )は、日本のタレント、アイドルであり、女性アイドルグループいぎなり東北産のメンバー。福島県出身。スターダストプロモーション仙台営業所所属。[1] キャッチコピーは「ダンスキラーギャル」[2]。ダンスがすごく好き[3]。 座右の銘は「いい感じにてきとー」 東北のおすすめは「クリームボックス」 言われてうれしい一言「センスいいね」 公式ファンクラブ「いぎなり東北ファン倶楽部」でメンバーコンテンツ「やすもりの甘党日記」を更新している。 趣味はバスケットボール[1]、古着屋さん巡り、ホラー動画鑑賞、天体観測、甘いものを食べること 特技は水泳と縄跳び[4]、マッサージ、地図を読みとること、バスケ。水泳は6年間習っていて、平泳ぎならどこまでも泳げると自負するほど。バスケは中学の時にやっていて、ポジションはセンター[5] 愛称は「わかりん」 いぎなり東北産でのメンバーカラーは黄色  2歳年上の姉がいる[6] 「あずき」「きんとき」という名前の猫を飼っている 甘いものが好き。スタコミュ「ローカリズムスイーツ部」部員。 寝坊も遅刻もしたことがなく、モットーは「時間厳守」。[7] 毎日掃除を欠かさない綺麗好き[8][9] 好きなアイドルはももいろクローバーZの玉井詩織[10]

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鳥山晃 – Wikipedia

鳥山 晃(とりやま あきら、1898年6月20日 – 1994年11月30日)は、日本の医師、医学者(眼科学)、写真家。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は医学博士(東京帝国大学・1931年)。 昭和医科大学医学部教授、昭和医科大学病院院長、昭和大学医学部教授、昭和大学学長、学校法人昭和大学理事長などを歴任した。 生い立ち[編集] 東京府荏原郡品川町(現品川区)で生まれた。 東京帝国大学で医学を学び、1926年に卒業。自身の健康状態は良くなく、恩師によって比較的安定し労働時間状況が良いとされていた眼科を勧められたといわれている。 医学者として[編集] 1928年には昭和医科大学の眼科教授になり、1962年に昭和医科大学病院の院長に就任した[1]。その後、昭和大学医学部になってからの1969年に学長に就任した。鳥山はまた大学の理事会の理事長にも就任。1988年には両役職からは引退したが、顧問を続けた。1994年11月30日に死去。 鳥山は1971年に瑞宝章、1994年正四位を授与された [2]。 写真家として[編集] 1934年、鳥山は眼科医として仕事に余裕があることに気づき、叔父のアマチュア写真家鳥山靖成が日本写真会(JPS)に紹介される。会を通じて写真スキルが急速に発達する。 1937年までに彼の作品は、フランスのパリ、オランダのアムステルダム、そして日本でのグループ展に出展される [3]。 鳥山が写真活動の一環として参加したJPSは1920年代からの福原信三のフレーズ「光とその調和のある光と其諧調」(光と其諧調)というテーゼを保持し(たとえば、その雑誌のタイトルとして) [4]金子隆一は、JPSの作品は時代とともに変化したと指摘している。写真への特定の絵画的影響については拒絶していたが、日本の伝統的な美学の主題と構成を取り入れた当初から、都市のシーンや断片の描写を含むようになる。金子によると鳥山は福原路草の影響を受けてさらに突き進んだという。たとえば、彼の植物の写真で「葉、茎、枝の彫刻的品質に重点を置いていることは、今日でも新鮮」と指摘し、さらに彼のスタイルは、植田正治や野村晃などの1930年代後半に登場し、ピクトリアリストではなくモダニストと考えられている世代の写真家のスタイルに似ているとしている。金子によると鳥山の作品は「モダニストが自分の人生を生き、自分を表現するという意志を十分に証明している」と結論付けている。 彼の医療のキャリアが進むにつれて写真撮影も続くが、ほとんど注目はされなかった。彼の死後、吉川富夫(昭和大学)が自宅を訪れ、膨大な数の写真を残していることを知る。吉川はすぐにこれらのコレクションを発表[5]。

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高円宮杯第26回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会 – Wikipedia

高円宮杯第26回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会(たかまどのみやはい だい26かい ぜんにほんユース(アンダー15)サッカーせんしゅけんたいかい)は、高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会の2014年度の大会である。 12月20日から12月27日にかけて開催され、FC東京U-15深川が6年ぶり2度目の優勝を果たした。 出場チーム[編集] 各9地域協会から選出された32チーム[2]。 競技方式[編集] 32チームよるノックアウト方式にて優勝以下第3位までを決定する。第3位決定戦は行わない[2]。 試合時間は80分(前後半各40分)[2]。 80分で勝敗が決しない場合、20分(前後半各10分)の延長戦を行い、なお決しない場合はPK戦で勝利チームを決する[2]。 試合結果[編集] 第1回戦[編集] 青森山田中学校 v SQUARE富山FC U-15 青森山田中学校 1 – 2

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斉部 – Wikipedia

ウィクショナリーに斉部の項目があります。 斉部(せいぶ)、(旧字体: 齊部)は、漢字を部首により分類したグループの一つ。 康熙字典214部首では210番目に置かれる(14画の最後2番目、亥集の24番目)。 「齊(斉)」字は『説文解字』によると粟や麦から穂が出て上の高さが平らに整っている様を意味する。 字音はセイ・サイ (qí)。その字形は立ち並ぶ3本の稲穂の形に象る。引伸して一般的に等しく整っているさまを意味する。また動詞として整えること、並べること、同じくすることを意味した。また副詞として一斉に、等しくという意味を表す。 また国名・王朝名・地名として使われる。春秋戦国時代、現在の山東省一帯を支配した国の名であり、現在でもこの地方を「斉」と呼ぶ。 また「斉」字は多音字であり、四声の異なるセイ・サイ (jī) で登る・あえ物を、セイ・ザイ (jì) で調味・調剤を、シ (zī) で衣服の裾を、サイ (zhāi) で「斎」に通じて物忌みを意味した。 偏旁としてはもっぱら声符として使われており、セイ・サイ・シといった音を表している。 斉部は上記のような声符を構成要素にもつ漢字のうち、「齋」「齏」のように他の偏旁を中に下に囲みこむものを収めている。他の位置(偏・脚・旁)にあるものは意符に従って他の部に収められている。 簡略字体[編集]

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