Month: June 2021

北村寿夫 – Wikipedia

北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 – 1982年1月3日[1])は、脚本家、児童文学作家。 東京出身。本名・寿雄。早稲田大学中退。小山内薫に師事し、『劇と評論』同人となる。1936年NHK文芸部主事。戦後1952年から「白鳥の騎士」に始まる「新諸国物語」を五年連続してラジオ放送し、「笛吹童子」「紅孔雀」などがヒットして映画化もされた。 二男は画家の北村芳文(きたむら よしふみ、別名:花船長、1943年5月12日 – )。2018年7月にテレビ東京の番組『家、ついて行ってイイですか?』に出演し、自宅で『七つの誓い』の生原稿など父親の遺品を披露した[2]。 『幻の部屋』改造社 1924 『蝶々のお手紙』児童図書館叢書 第24編 イデア書院 1925 『おもちや箱』児童図書館叢書 第23篇 イデア書院 1925

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ボエティウス – Wikipedia

アニキウス・マンリウス・トルクアトゥス・セウェリヌス・ボエティウス(Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius、480年 – 524年か525年)は、古代ローマ末期のイタリアの哲学者、政治家、修辞学者。 生涯と著作[編集] ローマ貴族の家系に生まれ、幼くして孤児となり貴族シュンマクスに養われる。アテナイに留学し、帰国後は「水晶と象牙で飾られた書斎」で研究生活を送る。この前後に恩人シンマクスの娘の1人ルスティキアナ(姉妹にガッラ(聖人。550年に没)とプロバの2人)と結婚している。時のイタリア支配者、東ゴート王国のテオドリック王に仕官し、貨幣制度の改革などに関わる。次第に高位に昇り、510年には西ローマ帝国の執政官となる。522年には彼の息子2人も執政官となるほど王の信任を得ていたが、かつての執政官アルビヌスの反逆に与したという嫌疑でパヴィアに投獄され、処刑された。獄中で韻文混じりの散文で『哲学の慰め』(De consolatione philosophiae)を書き、慰めを古代哲学に求めている。 ボエティウスの思想の根幹はプラトンとストア派にあり、理性により感情と外界の障害を克服しようとする。彼はアリストテレスの論理学をラテン語に翻訳し、これが中世のアリストテレス研究の端緒となった。また、アリストテレスにはじまる修辞学上のトポスの概念を確立して、中世のみならず20世紀、21世紀における議論学にも重要な影響をあたえた。ニコマコス、エウクレイデス、アルキメデス、プトレマイオスなどの著作も訳出しギリシア哲学・科学の紹介者として中世思想にも大きな影響を与えている。『三位一体論』(De trinitate)、『カトリック信仰論』(De fide catholica)、『エウティケスとネストリウスとを駁して』(Contra Eutycken et Nestorium)などの護教のための論文もある(偽書との説あり)。アリウス派の王に殺されたため、中世では教父の一人のような扱いを受け、「最初のスコラ哲学者」と評されることもある。 また彼は『音楽綱要』(De institutione

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ウェブリー=フォスベリー・オートマチック・リボルバー – Wikipedia

ウェブリー=フォスベリー・セルフコッキング・オートマチック・リボルバー(英: Webley-Fosbery Self-Cocking Automatic Revolver)とは、イギリスで開発された反動利用式の自動回転式拳銃(オートマチック・リボルバー)である。 ジョージ・フォスベリー(英語版)中佐が設計し、ウェブリー・アンド・スコット(英語版)社が1901年から1915年まで生産した。その機構からシリンダーの側面に特徴的な溝が彫られており、これが本銃の外見上の特徴となっている。 特異な機構には問題点も多く、軍用としても民間用としても販売実績は低調であった。コレクター市場への流通もごく僅かなため、現代では10,000ドル以上で取引される貴重品となっている[1]。 フォスベリー中佐がこの自動回転式拳銃を考案したのは、自動式拳銃の普及が始まった頃のことであった。フォスベリーの設計案は、コッキングとシリンダーの回転を一連の動作として行い、また動作の折にシリンダーと銃身がフレームごと後退するというもので、最初の試作品はアメリカ製コルト・シングル・アクション・アーミーを改造したものであった。フォズベリーは1895年8月16日にこの設計に関する特許を取得し、1896年の6月と10月には改良を加えた設計について改めて特許を取得している[2]。 フォスベリーはこの設計を、当時のイギリスにおける民生用および軍用拳銃大手だったバーミンガムのP・ウェブリー・アンド・サン社(P. Webley & Son)に持ち込んだ。同社は後にW.C. Scott & Sons社およびRichard Ellis & Sonと合併し、ウェブリー・アンド・スコット(英語版)と社名を改めている。ウェブリー社ではフォスベリーの設計をさらに改良し、1900年6月にビズリー(英語版)で行われたトライアルにて「ウェブリー=フォスベリー・オートマチック・リボルバー」(Webley-Fosbery Automatic Revolver)として初めて出展した[2]。

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キラー・ヴァージンロード – Wikipedia

『キラー・ヴァージンロード』(英題: Killer VirginRoad)は、2009年の日本映画。監督は岸谷五朗、主演は上野樹里。 ストーリー[編集] 幼い頃から何をやっても最下位でどんくさい事から「どん尻ビリ子」と呼ばれているOL・沼尻ひろ子は、めでたくセレブな美男子と結婚する事になる。ところが、結婚式の前日、アパートの大家を誤って殺害してしまう。唯一自らを認め、いつも優しく見守ってくれていた祖父のために何としてでも式を迎えたいひろ子は、とりあえず結婚式が終わるまで、死体を隠す事を決意。そんな中、ひょんなことから自殺志願者の小林福子と出会う。福子は、死体の処理を手伝う代わりに自分を殺してもらう事をひろ子にお願いする。こうして、ひろ子と福子は死体を運びながらの奇妙な逃避行が始まるのであった。 登場人物とキャスト[編集] 沼尻ひろ子:上野樹里 本作の主人公。幼い頃からドジばかり、何をやっても最下位な事から「どん尻ビリ子」と呼ばれているOL。両親がおらず、祖父に育てられた。運も無く、鈍感で上司の嫌味にも気付かない天然ボケだが、素直で明るい性格の持ち主。そんな彼女もセレブな美男子と会社で1番乗りの結婚を迎える事になるが、式の前日にアパートの大家を誤ってハサミで殺害してしまう。余命僅かの祖父に花嫁姿を見せる為、式が終わるまで、死体を隠そうとする。 小林福子:木村佳乃 ひろ子が死体を車で運んでいる最中に突如車に飛び込んできた美女。男運が皆無で、恋人に献身的に尽くした末にポイ捨てされてしまう。失恋の度に様々な方法で自殺を図ろうとしたが、何故かいつも未遂に終わる。実際に首を吊っても紐が切れたり、ひろ子の車に突っ込んでも無傷というある意味で強運の持ち主。自分を殺してもらう事を条件に、ひろ子の死体の処理に協力する事になる。男っぽい性格で、気も強い。ひろ子とは正反対であるが、破天荒さで言えば同じレベル。スルメが好物。 大家三太郎:寺脇康文 ひろ子が住むアパートの大家。ひろ子の結婚式の前日、ひろ子のドジが元で殺されてしまう。(大家がタンスの下にあるひろ子のパンツを拾おうとして夢中になり、タンスの上にあったハサミが背中に刺さり、さらにひろ子が上に乗り、さらにダミアンが乗った)愛犬に「ダミアン」がいる。実はひろ子のストーカーだが、発覚してもひろ子は気づいていない上にカツラであることも気づかれなかった。(倒れた拍子にシュレッダーにカツラが巻き込まれたが、それでもひろ子は気付かなかった)遺体をひろ子にスーツケースに入れられて運ばれる。 江頭賢一:眞木大輔(EXILE) ひろ子の婚約者。セレブで美男子。おまけに性格もとびきり優しく、笑顔が爽やか。どういう経緯でひろ子に出会い、結婚したかは不明だが、実はとんでもない人物だった事がラストで明らかになる。 小峰くん:小出恵介 ティッシュ配りのバイトをしている。グラドルのAYAKAの大ファン。ひろ子のせいでAYAKAが載っている雑誌を破られたために、ひろ子に雑誌を購入してもらって見ている最中に会社の車をひろ子に盗まれる。がっかりしていたところを本物のAYAKAに会い、運命が幸せに変わっていく。 利根川純: 田中圭 警察官。いつも自転車に乗っており、逃げるものを追いかけたがる習性を持つ。警察官なのに小林の攻撃にすぐやられる。管轄外なはずなのにどこにでも現れる。しかもいつまでも追いかける。「何故逃げるんだー!」が口癖。 北翔

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長谷川まゆ帆 – Wikipedia

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大木英子 – Wikipedia

大木 英子(おおき ひでこ、1919年5月10日 – 2008年8月3日)は、日本の作曲家である。北海道小樽市出身[1]。日本現代音楽協会会員。夫は大木正夫。旧姓:谷藤。 小樽高等女学校を経て、帝国高等音楽院ピアノ科を卒業。マリオ・パッチにピアノを、夫の大木正夫に作曲を師事する。 1956年に『ピアノ協奏曲第1番』が日本放送協会の芸術祭管弦楽部門に入選する。1957年には、上田仁指揮による東京交響楽団の日本人作曲家の作品初演シリーズで『雪のふるさと』が演奏された。1958年にピアノ作品発表会を開いている。この時期には、1958年の『ピアノと電子音響による協奏的四章』(ラジオ東京で放送された)や「ピアノソナタ」などの作品がある。小奏鳴曲(野草に寄せる三つの小品集1と2、一茶に寄せる三つの小品集、主題の変奏よりなるピアノ小品集)から成る『谷藤英子ピアノ作品集』が1958年に音楽之友社から出版された。ピアノを中心とした楽曲を多く作曲したが、1960年代からは管弦楽作品も多く手がけるようになる。 1961年、東京交響楽団と専属契約を結んでいたTBS(東京放送ホールディングス)は、創立10周年記念を機に、TBS作曲賞の名で知られる「日本を素材とする管弦楽曲」を公募したが、その第1回(1961年)では、『ピアノと管弦楽のための協奏詩曲「舞い楽」』が特賞に選ばれた。この作品では、伊福部昭を彷彿とさせる骨太の音楽が洗練された書法のもとに展開され、ピアノの土俗的なリズム、管弦楽の王朝風の響きと打楽器が日本絵巻を繰り広げている。この作品は、東芝音楽工業よりレコード化されている(「日本現代作曲家シリーズNo.11 -TBS賞交響絵巻「日本」第1集-」JSC 1012)。更に、1963年のTBS作曲賞では、『交響三撰「古今抄」』が特賞に選ばれている。これ以後の作風は、日本民族楽派に近いが、「日本の音楽人名鑑 作曲・指揮者編」(音楽之友社)で「自分なりの形で生命の愛、平和への願いを音に託していきたいと思う」と語っているように、1960年代の作曲界で主流であった前衛音楽とは一線を画し、日本の伝統的な音階やリズムを大切にしながら現在の日本人の心にも訴える洗練された技法で、多くの作品を書いている。 この他、『フルートとチェロとピアノのための短詩曲集「啄木抄」』、『ピアノ詩集1 子供の一日』(音友)、『変奏曲風練習曲「かぞえうた」』、『野草に寄せる三つの小品集4』、『やさしいピアノ詩集 子どもの風土記』(カワイ楽譜)、『ヴァイオリンとピアノのための詩曲(ベトナムに寄す)』(日本楽譜出版社)、『ピアノ協奏曲 勒岩賦(ろくかんのふ)』、『子どものための合唱組曲 「鳥の歌」』、『弦楽とチェンバロのための四章「染と織」』、『ピアノ協奏曲第6番「愛と死」』などがある。

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平林晃 – Wikipedia

平林 晃(ひらばやし あきら、1971年(昭和46年)2月2日 – )は、日本の政治家、情報工学者。公明党所属の衆議院議員(1期)。 1989年愛知県立旭丘高等学校卒業[2]。1993年東京工業大学工学部情報工学科卒業。1995年東京工業大学大学院情報理工学研究科計算工学専攻修士課程修了、東京工業大学大学院情報理工学研究科計算工学専攻助手。1999年東京工業大学博士(工学)[3]。小川英光研究室出身[4]。 2000年山口大学工学部講師[3]。2002年山口大学工学部助教授。2004年スイス連邦工科大学ローザンヌ校招聘教授。2005年IEEE広島支部理事。2006年山口大学大学院医学系研究科助教授。2007年山口大学大学院医学系研究科准教授[3][5]。 2009年インペリアル・カレッジ・ロンドン客員准教授、電子情報通信学会信号処理研究専門委員会委員。2013年立命館大学情報理工学部情報理工学科教授、立命館大学大学院情報理工学研究科教授[3]。専門は信号処理でメディアセンシング研究室を主宰した[6]。 2021年立命館大学を退職[6]。公明党組織局次長[7]、公明党デジタル社会推進本部事務局次長、公明党中国方面本部副幹事長を務め[2]、第49回衆議院議員総選挙で公明党から比例中国ブロックに出馬し初当選[8]。 政策・主張[編集] デジタル技術による新型コロナウイルス対策、防災推進[9] 高校時代は体操部主将を務めた。愛読書は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』。好きなミュージシャンはサザンオールスターズやミスターチルドレン[7]。得意科目は理科と数学。苦手科目は英語と歴史[10]。 学者としての専門は信号処理[6]。「狭帯域白色光干渉による高速表面形状測定装置の開発-帯域通過型標本化定理の応用-」で2001年度計測自動制御学会学会賞(技術賞)受賞[11]。「表面形状測定方法及びその装置」で2003年度手島精一記念研究賞(発明賞)受賞[12][13]。 ^ 令和3年11月5日中央選挙管理会告示第28号(令和三年十月三十一日執行の衆議院比例代表選出議員の選挙における衆議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件) ^ a b 新しい社会、新しい力。公明党中国方面本部 ^

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ウジェーヌ・ボードゥアン – Wikipedia

ウジェーヌ・ボードゥアン(Eugène Beaudouin 1898年7月20日 – 1983年1月14日)はフランスの建築家で都市計画家。両次世界大戦間における近代建築の先覚者。「栄光の三十年」と呼ばれた第二次大戦後の長期経済成長期の多数の大建築プログラムの起源に位置する。 建築家であった父レオンと母マリー(旧姓デュラン)のあいだの子として、1898年7月20日パリに生まれる。画家ジョゼフィーヌ・カユザクと結婚。エコール・デ・ボザールのエマニュエル・ポンルモリのアトリエで研鑽を積んだ後、1928年にローマ賞を受賞。1929年から1932年にかけてヴィラ・メディシスに滞在。この期間、イタリアにとどまるだけに満足せず、アトス山の修道院群やイスファハン市街地の見学調査もおこなう。 父の遺産を相続後、1930年にマルセル・ロッズとの協働開始。彼らは技師ヴラディミール・ボディアンスキーおよびジャン・プルーヴェと協力して、集合住宅、建造物の工業化およびプレファブの問題にとりくむ。1940年まで続いたこの協働関係のなかで、フランスにおける近代建築の先駆けと考えられている一連の建物を実現する:セーヌ公共住宅局の田園都市(cités-jardins)建設の枠組みにおけるドランシーのシテ・ド・ラ・ミュエット 、スュレーヌ野外学校(アンリ・セリエの依頼)およびクリシィの人民の家。 彼は並行して都市計画家の経歴も歩み、ハバナ都市計画(1928)、パリ地方の整備のためのプロスト計画(1934)に従事。彼はこうした活動をマルセイユ(1941年から1943年まで)、モナコ、サイゴン、トゥーロン、モンペリエ、クレルモン=フェランの復興計画の枠組みのなかで戦後も続ける。 第二次世界大戦後、国有・公共建造物主席建築家に就任、国際的にも認められ、大使館、社会住宅、高校、行政機関の建物など、多数の公共建築プロジェクトを実現するよう要請される。1951年に建造物の工業化方法を発展させる目的で政府によって実施されたストラスブールのシテ・ロッテルダムの設計競技で一位入選。レ・マンゲットの優先市街化区域(ZUP)およびパリのメーヌ=モンパルナス地区の都市計画も担当。 ボードゥアンはジュネーヴ大学建築学院(École d’architecture, 現在はInstitut d’architecture)学院長、つぎにボザール教授そして研究室長(1946年から1968年まで)になり、1952年から1968年には、公立アトリエ・パトロンをつとめ、そこでフェルナン・プーィヨン、フランソワ・シュペーリ、クリスティアン・ド・ポルザンパルク、アントワーヌ・グランバック等を指導する。1961年にアカデミー・デ・ボザール会員になり、1958年から1966年までフランス都市計画家協会会長、そして国際建築家連合会長に選出(1960年から1964年まで)。 彼のアーカイヴ資料の一部がフランス建築研究所に保存されている。 主要なプロジェクト[編集] 1940年以前のすべてのプロジェクトはマルセル・ロッドとの協働で実現されている。 1930-1939 : シテ・デュ・シャン・デ・ゾワゾー、バニュー(オー=ド=セーヌ県) 1931 :

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藤原基隆 – Wikipedia

  凡例 藤原基隆 時代 平安時代後期 生誕 承保2年(1075年) 死没 天承2年3月21日(1132年4月8日) 別名 家政 官位 従三位、修理大夫 主君 白河上皇→堀河天皇→鳥羽上皇 氏族 藤原北家中関白家 父母 父:藤原家範、母:藤原家子 兄弟

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