尾澤豐太郎 – Wikipedia

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尾澤 豐太郞(おざわ ほうたろう、1857年11月17日《旧暦安政4年10月1日》 – 1920年(大正9年)2月7日[1])は、日本の薬剤師、実業家。旧姓は大駒(おおこま)。「澤」は「沢」、「豐」は「豊」、「郞」は「郎」とも表記される。

尾澤分店、全治水本舗を経営したのち、満韓起業株式会社取締役、内国国債株式会社取締役、株式会社東京医薬商会監査役などを歴任した。

武蔵国出身の薬剤師、および、実業家である。薬種店を営んでいたが[2]、やがて工場を新設し医薬品の製造事業に乗り出した[2]。日本人として初めてエーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリウムの製造に成功したことでも知られている[2]。また、各地の薬局を束ねてチェーンストア化するなど[2]、先進的な経営戦略を次々と打ち出した。

生い立ち[編集]

1857年11月17日(旧暦安政4年10月1日)、武蔵国にて大駒平五郞の二男として生まれた[3][4]。東京府豊島郡牛込筑土八幡町(現・東京都新宿区筑土八幡町)で「尾澤薬舗」を営む尾澤良甫の甥であったため[2]、豐太郞は良甫の下で修業することになった。尾澤薬舗は1796年(寛政8年)に創業した老舗であり[5]、江戸時代においては著名な薬種店であった。江戸府内では高く評価されており、「脈をとらせても当代一」[2]と謳われるほどであった。明治維新以後も官営病院御用薬舗として知られていた[5]。1875年(明治8年)、東京府豊島郡上宮比町(現・東京都新宿区神楽坂)に「尾澤分店」が新設され[2]、豐太郞はそちらの運営を任されることになった[2]。1877年(明治10年)11月、豐太郞は良甫の長女と結婚し[3][6]、良甫と養子縁組をしている[6][4]

薬剤師として[編集]

分店を運営する傍ら、欧米の進んだ学問を学びたいと考え、外国人から物理学、化学、調剤学などの手解きを受けた[2]。これらの知識を身に着けたうえで、内務省の薬舖開業試験を受験し[2]、合格を果たした[2]。その結果、日本で42人目の薬舗主となった[7][8][註釈 1]。なお、1889年(明治22年)の薬品営業並薬品取扱規則に基づき、従来の「薬舗主」は「薬剤師」に移行した。

その後は薬局の経営だけでなく、医薬品や医療機器の製造に乗り出した[2]。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に工場を建設し[2]、日本人として初めてエーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリウムの製造に成功した[2]。また、店頭では、疣や黒子に対する売薬を取り扱うなど[2]、当時としては珍しい医薬品を多数扱うようになった[2]。その結果、「神楽坂尾澤薬舖に行けばどんな薬もある」[2]と評されるようになり、東京府の薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」[2]と謳われるようになった。

近隣に住んでいた小説家の尾崎紅葉らも訪れるようになり、小説家の夏目漱石も胃腸薬を処方してもらうため通っていたという。

実業家として[編集]

『賣藥製法全書』に尾澤が掲載した「全治水」の広告(1917年)[9]

日露戦争終結後は、「長寿丹」や「全治水」といった薬が大変な人気を博し[2]、豐太郞の薬局では店員が30名ほど店先に並んで詰めかける客を捌いたとされる[2]。店員が銭箱に売上を放り込む音と[2]、店員の挨拶の声は[2]、当時の神楽坂の名物の一つとされていた[2]。また、1908年(明治41年)に日本新聞社の主催で神楽坂の商店の総合セールが行われ[2]、豐太郞の薬局もそれに参加したところ売上がひじょうによかったことから[2]、以降は豐太郞の薬局のみ単独でセールを行うようになった[2]。中元と歳末にそれぞれ7日間ずつ行われたが、商品を購入した顧客に対して籤の入っている紅白最中を配布し[2]、その籤で鏡台、反物、火鉢、薬缶、塵取りといった景品が当たるという趣向だった[2]。蓄音機で音楽を流し[2]、景品が当たる度に店員が鈴を鳴らす様子は[2]、評判を呼んだ。その結果、豐太郞の薬局のセール期間中は、同業他店の医薬品や化粧品の売上が減少する事態となった[2]。また、同じく神楽坂に住んでいた小説家の石橋思案に依頼し、『桃太郎』や『浦島太郎』をベースにした創作噺『是非御覧日本一』を制作している。この『是非御覧日本一』は、ストーリーの中に豐太郞の薬局の商品の宣伝が盛り込まれており、プロダクトプレイスメントの手法が用いられている。

1913年(大正2年)には、のれん分けして独立させていた従業員や親族の薬局をチェーンストアとして組織化し[2]、その本部として東京医薬商会を設立した[2]。工場で大量生産した医薬品をチェーンストア傘下の各店に配送するという手法は[2]、当時の薬局としては革新的な方式であった[2]。その後、1918年(大正7年)になると、拡大し過ぎた事業をいったん整理し[2]、東京府東京市牛込区上宮比町(現・東京都新宿区神楽坂)の薬局の運営を退くと[2]、東京府東京市牛込区払方町(現・東京都新宿区払方町)に移転し以降は自らの薬業に専念した[2]

そのほか、満韓起業の取締役[6]、内国国債の取締役など[4]、多くの企業の役員を務めた。

のちに喫茶店事業も展開するようになり、神楽坂店の横に「カフェーオザワ」を出店した[10]。もともと神楽坂には著名な喫茶店として田原屋があったが[10]、カフェーオザワはその真向かいに位置しているため[10]、その出店は驚きをもって迎えられた[10]。田原屋はこじんまりとした店舗で料理が評判だったのに対し[10]、カフェーオザワは2階が食堂になっており広く開放的であったことから[10]、自ずと棲み分けができていった。結果的に神楽坂の高級喫茶店では田原屋とカフェーオザワが双璧を成すようになり、小説家の加能作次郎は「神楽坂のカッフェといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされている」[10]と評している。しかし、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東地震により関東大震災が引き起こされ、カフェーオザワも大きな被害を受けた。罹災の様子について、小説家の浅見淵は「老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていた」[11]と描写している。なお、1922年(大正11年)12月18日には、カフェーオザワに評論家の島中雄三、青野季吉、ジャーナリストの鈴木茂三郎、高橋亀吉、政治活動家の赤松克麿、福田秀一らが来店し[12]、店内で会合が開かれている[12]。これが政治問題研究会の第1回会合とされており[12]、これをきっかけに無産政党の結成に向けた動きが加速していった。

家族・親族[編集]

染井霊園にはおじである尾澤良甫の業績を顕彰する『尾澤君之碑』が建立されている[15]。豐太郞は良甫の長女と結婚しており[6]、良甫と養子縁組もしているため[6]、良甫は豐太郞の岳父、および、養父でもある[6]。その後、豐太郞は良甫の家から分家しており[6]、良甫の家督は、良甫の長男であり豐太郞の妻の弟でもある尾澤良助が継承している[3]。良助も薬剤師であり[3]、東京府東京市牛込区筑土八幡町の尾澤薬舗を継承し[3]、尾澤総本店と称していた[3]。総本店も分店と同様に興隆を極めており、明治40年代には良助と豐太郞の両名が、直接国税の多額納税者としてそれぞれ名を連ねていた[3]。良助の長男に尾澤良靖がいる[3]。岡山医学専門学校[註釈 2]教授などを務めた医学者の舟岡英之助は、舟岡周介の長男であり、良助の姉と結婚している。

また、豐太郞の長男の尾澤良太郞も薬剤師である[6]。良太郞は千葉県の政治家である重城敬の長女と結婚し[16]、豐太郞の家督を継承した。良太郞は、合名会社である尾澤商店の代表に就くとともに、株式会社となった東京医薬の社長に就任した。良太郞の長男に盛がいる[4]。また、豐太郞の二男の尾澤豐明と三男の尾澤豐三郞は[4]、それぞれ分家している[16]。豐太郞の四男に尾澤豐四郎がいる[4]。豐太郞の長女の夫である尾澤洪は[6]、片岡義道の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をしたうえで[3]、のちに分家している[3][6]。洪もヘアカラーリング剤の製造に関する特許を持つなど[17][18]、医薬品や化粧品に関する事業に従事した。洪の長男に尾澤良彦がいる[3]。豐太郞の二女の夫である尾澤改作は[4]、根岸啓作の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をした[4]。改作も薬剤師として薬局を経営した。

  • 大駒平五郞(父) – 実業家[6]
  • 尾澤良甫(おじ・岳父・養父) – 実業家[2][6]
  • 尾澤良助(義弟・養弟) – 薬剤師
  • 舟岡英之助(義養弟) – 医学者
  • 尾澤良太郞(長男) – 薬剤師[6]
  • 尾澤豐明(二男) – 実業家[16]
  • 尾澤豐三郞(三男) – 実業家[16]
  • 尾澤豐四郞(四男) – 実業家
  • 尾澤洪(娘婿・養子) – 薬剤師[6]
  • 尾澤改作(娘婿・養子) – 薬剤師
  • 尾澤良靖(義甥・養甥) – 実業家
  • 舟岡省吾(義養甥) – 医学者
  • 尾澤良彦(孫) – 実業家
  • 尾澤盛(孫) – 実業家
尾澤薬舗の外観と商品が描かれた絵葉書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大駒平五郞

 

尾澤豐太郞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豐太郞の長女

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤良甫

 

良甫の長女

 

 

 

 

 

 

 

尾澤良彦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤洪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤良太郞

 

尾澤盛

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤豐明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良甫の二女

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤改作

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤豐三郞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤豐四郞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良甫の二女

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舟岡英之助

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾澤良助

 

尾澤良靖

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

註釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 「(死亡広告)父尾沢豊太郎儀」『朝日新聞』、1920年2月9日、4面。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 「神楽坂4丁目・6丁目――尾澤薬局」『かぐらむら: 今月の特集 : 記憶の中の神楽坂』サザンカンパニー。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を49頁。
  4. ^ a b c d e f g h 內尾直二編輯『人事興信錄』4版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1915年、を28頁。
  5. ^ a b 粋なまちづくり倶楽部監修『神楽坂を良く知る教科書――神楽坂検定初級』2015年11月、6頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 內尾直二・礒又四郞編輯『人事興信錄』2版、人事興信所、1908年、300頁。
  7. ^ 薬舖開業免状番号第42号。
  8. ^ 橫井寛編輯『內務省免許全國醫師藥舗産婆一覽』島村利助、1882年、106頁。
  9. ^ 塩見伊八郞編纂『賣藥製法全書』艸樂新聞社、1917年、巻末23頁。
  10. ^ a b c d e f g 加能作次郞「早稻田神樂坂」東京日日新聞社編『大東京繁昌記』山手篇、春秋社、1927年。
  11. ^ 浅見淵『昭和文壇側面史』講談社、1968年。
  12. ^ a b c 高橋亀吉『《私の実践経済学》はいかにして生まれたか』東洋経済新報社、2011年。
  13. ^ 吉田保次郎編輯『東京名家繁昌圖錄』初編、吉田保次郎、1883年、60頁。
  14. ^ 『截瘧強壯丸・治方丸おりの邪氣拂薬』。
  15. ^ 岸田吟香篆額、森斌撰文、中根半嶺書、關安兵衛鐫『尾澤君之碑』1894年11月。
  16. ^ a b c d 内尾直二編輯『人事興信録』6版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1921年、を35頁。
  17. ^ 特許番号23782号。
  18. ^ 橋本小百合・庵雅美編『発明に見る日本の生活文化史』化粧品シリーズ2巻、ネオテクノロジー、2015年、137頁。

関連人物[編集]