『大石兵六夢物語』(おおいしひょうろくゆめものがたり)は、毛利正直が執筆した戯作文学。 原典は江戸時代から鹿児島で広く読まれている『大石兵六物語』であり、細かな内容が異なる幾つもの物語が存在している。その中でも毛利正直が執筆した『大石兵六夢物語』は、日本児童文学の先駆者である巖谷小波が昭和初頭に出版した『小波お伽全集』第一巻の奇怪篇で、大石兵六夢物語を巻頭1番目に掲載し日本全国の青少年に読まれ、海音寺潮五郎が「職業がら、いくつもの藩の江戸時代に書かれた文学書をずいぶん読んできたが、この作品に匹敵する作品を読んだことが無い」と高く評価するなど、『日高(ひだか)山伏物語』や『日当山侏儒物語(ひなたやましゅじゅものがたり)[注釈 1]』という古くから民話として語り継がれ椋鳩十も執筆した話をはじめとする、鹿児島に伝わる郷土文学の中でも最も評価されており、セイカ食品が発売している兵六餅はこの『大石兵六夢物語』にちなんで創られた[1][2][3][4][5][6]。 『大石兵六夢物語』は、正直が天明4年(1784年)に移住した草牟田村池之平(現在の鹿児島市草牟田)で23歳ごろに完成した代表作[7]。戯作らしい文章が原文の面白味にもなっている[8]。内容は、正義感が強く典型的な薩摩男児の、いわゆる血気盛んな兵児二才(へこにせ)[注釈 2]のボッケモン[注釈 3]である主人公「大石兵六」は、二才[注釈 2]同士の仲間との会話中に、近ごろ狐の化け物が約4里[注釈 4]離れた吉野の野原に現れ、通行人を脅したり騙したり坊主頭にしたりすると聞き、退治してやると口にしたものの内心ではしまったと思いながら、村人に悪さをする化け物を退治するため一人で吉野へ向かうも、これを知った野狐たちにより、狐が化けた様々な妖怪から命からがら逃げ延びたり、父に化けた狐に騙されたり、和尚らに化けた狐から吉野の寺山地区で、風呂と騙された肥溜めに入り顔などを洗ったり、頭を坊主にされたりと、時には脅され時には騙されつつ、最終的には道端の地蔵に化けていた狐2匹の急所を刀で刺し貫いて仕留め、村へ帰ってくるという物語[10][7]。兵六は間が抜けており、当初の威勢とは裏腹に化け物に出遭うごとに怖れをなし、妖怪に立ち向かう場面も多くない[10][2]。薩摩の支配階級である武士が、野狐にたぶらかされ、さんざんな目にあい失態を重ね、その権威の象徴である頭の月代を丸坊主にされ武士の権威を失墜するパロディ作品であり、ドン・キホーテとは共通点が多く似ているところがある物語だと評価されている[3]。 『大石兵六夢物語』は正直の完全なオリジナル作品ではなく、それ以前から大きな筋立ては似ているが内容が異なる『大石兵六物語』が幾つも存在している[7][2][12]。『大石兵六夢物語』の正直が書いた序文によると、大石兵六夢物語は亡き賢人と正直が仰ぐ川上先生[注釈 5]の著書であり、正直は公務で出張していた鹿屋の中名村で、百姓の諸右衛門が持っていた兵六物語を読み、誤りが多いことに驚き、中には中神怡顔斎(なかがみがんさい)による正しく伝えられた優れている書はあるものの、世に広まる過程での異説や誤謬を正して師の真意を伝えるためには書き改めねばと決意し、執筆したと述べている[7][8][注釈 6]。大石兵六研究の第一人者である伊牟田は、『大石兵六物語』は川上先生の原作、正直が書いた以前のものと思われ『大石兵六夢物語』と共通点が多い書は中神怡顔斎の原作で、それを毛利正直が整えたという推測もできなくはないが確証はないと分析しており、鹿児島県立図書館所蔵の嘉永6年(1853年)正月に書かれた写本のあとがきにも、それと似た見解が述べられている[15]。 狐や大ガニなどの妖怪は、不正を行う役人などを風刺したものとも言われている[10]。物語の登場人物たちに、礼儀知らずの若い武士、軟弱な若者、金に抜け目のない町人、賄賂好きな役人、贅沢を好む者、偽者の学者、口だけは達者な堕落した僧侶といった、社会に対する批判を語らせるなど、物語の裏には社会への風刺の要素が含まれているが、正直が執筆した年は薩摩藩が幕府に命じられた木曽川の治水工事により財政難にあえぎ、島津重豪が当時の京都などの生活文化を導入したり、商人の進出による商業の繁栄などをはかった安永という時代の直後であり、それに便乗して政治を行なう権力者への批判を口にすることができない時代でもあったため、江戸時代の事件を題材としながらも、徳川将軍家に遠慮して人物や背景が鎌倉時代や室町時代になっている仮名手本忠臣蔵のように、改変するにあたり正直は、実際には正直が生きている時代の鹿児島の社会を描写しながらも、時代設定を元々の寛永元年(1624年)8月下旬ではなく、主に『太平記』を参照しつつ略応[注釈 7]元年に変更して、辛らつな批判をぼかしながら笑いと風刺を織り交ぜている[7][2][8]。正直が直筆した本として毛利家に受け継がれ、現在は尚古集成館が所蔵している兵六夢物語には、署名した日付は天明4年霜月猫の日、作者は薮原実房とぼかして書かれているが、この作者名は正直のペンネームといわれている[8]。写本の中には、まえがきやあとがきを多くの人々が書き記しているが、元々は当時の薩摩藩の家臣たちが、藩主に媚びへつらい堕落していることを憂いたことから書いた意見書が原作だったが、藩から厳重注意を受けた著者が、兵六と狐になぞらえた物語に修正して難を逃れた作品という噂や、藩の批判や武士の堕落についての風刺や暗示がある内容だった大石兵六夢物語が話題になり、その一冊を殿様に差し出すよう命じられた正直は、当たり障りの無いよう藩の家臣を狐に例えパロディとして一夜で書き改め提出したが、その内容が今残って定着している物語だという噂が書かれているものもある[4][15]。ただし、写本に書かれた噂は大作や名作にはつきものの、あまり信用ならないこじつけ話と断じる意見もある[15]。ちなみに、兵六が忠臣蔵の主人公である大石内蔵助の子孫だと語っているのも、正直の理想とする武士像を反映したのだろうと『鹿児島市史』では解説されている[8]。 寛政6年(1795年)に木版印刷による刊本が出た『大石兵六夢物語』は、『大石兵六物語』よりも現存している数が多く、当時から城下の武士や民だけにとどまらず広く薩摩藩内で読まれ、多くの写本が作られ出回るほど好評で、芝居や狂言などでも親しまれ、明治以降も何度か出版され、鹿児島の郷土文学として長年読み継がれてきた[10][7][2]。 兵六餅のパッケージに描かれている、刀を腰に差して歩く勇ましい兵六の姿は、第二話「兵六吉野の原へと向かう話」の場面であり、この絵以外にも特大サイズの箱や手さげ袋タイプには、飛びかかってきたガマの妖怪「牛わく丸」に、驚きへたり込む兵六を描いた、第十話「牛わく丸に襲われ危機一髪の話」の場面、巨大な赤いカニの妖怪「山辺赤蟹」の鋏に片足を捕まれ、あわてふためく兵六を描いた、第十一話「山辺赤蟹と歌合戦をする話」の場面、狐の上に乗って取り押さえようとする兵六を描いた、第十三話「父に化けた狐にたぶらかされる話」の場面を含めた全4種類のパッケージイラストがあり、どのパッケージイラストも赤い狐火が宙に漂っている。パッケージ裏[注釈 8]には縦書きで「五百年來世上人(ごやくねんらいせぜうのひと)」「見來皆是野狐身(みきたればみなこれやこのしん)」「鐘聲不破夜半夢(せうせいやぶらずやはんのゆめ)」「兵六争知無意眞(ひょうろくいかでかむいの志んを志らん)」という漢詩が書かれているが、これは第二十三話「長々し夜の夢物語」において、総大将の老弧が化けた和尚[注釈 9]が語っている「500年来ずっと世間の人を見てきたが、みんな野狐の本性を失ってはいない。暁の鐘の声を聞いても夜半の夢から覚めやらぬままなのに、兵六がどうして無位の真[注釈 10]を知ることができようか」という言葉であり、セイカ食品の資料ではその意味を、「宇宙の出来事全ては理にかなって事が運ばれているにもかかわらず、人間社会は割り切れないことの何と多いことか。譲歩、妥協、契約、かけひき、善悪。誰も誠とは何かを知ることはできない」と解説されている[7]。また、8粒入りの箱が複数詰められ大きな箱に入った特大サイズの箱の裏面には、『大石兵六夢物語』をなぜ選んだのかという理由を、夢廼舎主人こと秀一郎が記した文章が掲載されている。 セイカ食品は色彩豊かな巻物を所蔵しており、門外不出の宝として厳重に保管されている[10]。兵六餅のウェブサイトでは、物語が挿絵入りで二十三話に分けられ掲載されている。セイカ食品では現在も、挿絵入りの物語を23種類のしおりにして、おまけとして付けたり、物語の解説冊子を希望者に送るなど、普及に力を入れている[10]。 作品の特徴[編集]
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