Month: September 2018

ストーンウォール・ジャクソン (原子力潜水艦) – Wikipedia

ストーンウォール・ジャクソン(USS Stonewall Jackson, SSBN-634)は、アメリカ海軍の原子力潜水艦。ジェームズ・マディソン級原子力潜水艦の8番艦。艦名は「ストーンウォール」と渾名されたアメリカ連合国の将軍、トーマス・J・ジャクソンに因む。ジャクソン将軍に因んで命名された艦としては第一次世界大戦後に建造したタンカー(IX-185)以来3隻目(先の2隻はストーンウォールと名付けられた。南北戦争時に南軍が発注し、戊辰戦争時に明治新政府が購入し東艦と改名したストーンウォール号を含めると4隻目となる)。 ストーンウォール・ジャクソンの建造は1961年7月21日にカリフォルニア州ヴァレーホのメア・アイランド海軍工廠に発注され、1962年7月4日に起工した。1963年11月30日にジュリア・クリスチャン、マカフィーによって進水し、1964年8月26日にブルー班艦長ジョン・H・ニコルソン中佐およびゴールド班艦長リチャード・A・フロスト中佐の指揮下就役した。 ストーンウォール・ジャクソンは9月3日にヴァレーホを出航し、整調巡航のためフロリダ州ケープカナベラルへ向かう。ブルー班乗組員はミサイル発射訓練を無事に終え12月2日にゴールド班と交代した。12月16日にゴールド班乗組員がミサイル発射に成功すると、ストーンウォール・ジャクソンは整調巡航を完了するため太平洋へ向かう。1965年2月13日に整調後の信頼性試験に入り、その後ワシントン州バンゴールで海外配備のための最終準備を行う。4月にストーンウォール・ジャクソンは最初の戦略抑止哨戒を開始した。 1965年6月にゴールド班乗組員はグアムのアプラ港でブルー班と交代する。ストーンウォール・ジャクソンは続く5年にわたって同港を拠点として哨戒任務を行った。1970年の春に大西洋艦隊に配属替えされる。4月23日、特別任務のため真珠湾を出港し、5月7日にパナマ運河を通過、大西洋艦隊に合流し第5潜水小艦隊 (Submarine Flotilla 5, SubFlot 5) から第6潜水小艦隊 (SubFlot 6) に配属された。8日後にストーンウォール・ジャクソンはコネチカット州ニューロンドンに到着した。 ストーンウォール・ジャクソンはニューロンドンで5月の後半を維持のために過ごす。その後6月1日に南に向けて出航し、6月7日から10日まで海軍兵学校に停泊、士官候補生の訓練を行い続いて特別任務に赴く。7月の第1週にサウスカロライナ州チャールストンでミサイルを降ろし、7月10日にニューロンドンに到着した。7月15日、ストーンウォール・ジャクソンはグロトンのエレクトリック・ボート社のドック入りし、ポセイドン C-3 ミサイル運用のための改修が行われた。作業は1971年10月29日に完了し、ブルー班乗組員が巡航の準備を始めた。1971年10月から1972年3月までブルー、ゴールド両班の乗組員はアメリカの南東海岸でそれぞれの整調巡航を行った。3月4日にグロトンに帰還、8日にエレクトリック・ボート社で整調後の信頼性試験を行う。 4月7日にストーンウォール・ジャクソンはチャールストンでに向けて出航し、改修後初の大西洋における戦略抑止哨戒の準備に入る。

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復活号 – Wikipedia

復活号 韓国空軍士官学校で展示される復活号のレプリカ 復活号(ブファルホ、ハングル:부활호)は、大韓民国で初めて開発された軍用機。 朝鮮戦争中の1953年6月、大韓民国空軍技術学校校長・金成泰(キム・ソンテ)大佐は、航空機の設計・製作実習と練習機として使用することができる複座機の製作を指示した。これを受けて、ソウル大学校航空工学科の一期生だった空軍技術学校整備教育大整備課長・李元馥(イ・ウォンボク)少佐と空軍技術学校教官を中心とした26人のチームが構成され、さらにソウル大学航空工学科の学生が参加することになった。機体の開発は1953年6月28日から開始された。設計製作は空軍泗川基地の資材倉庫で行われ、産業基盤がない中各所から資材を集め、独自生産ができなかった資材は米軍基地から調達した[1]。制作の最後の3日間は一睡もせず制作に邁進し、朝鮮戦争休戦から4ヶ月が経過した1953年10月10日に機体は完成した。 復活号の特徴的な二重尾輪 完成した復活号は尾輪式の航空機であり、通常の尾輪式航空機とは異なり、尾輪を2つ有しているのが特徴だった。地上滑走時に前方視界を良くするために、尾輪はかなり低い位置に設置されていた。また、半島という韓国の地理的特性上、 水上機としても使用できるようにするため、主車輪をフロートに換装することができた。この場合、2つの尾輪はフロートを固定するためのハードポイントとして使用される。また、朝鮮戦争時に智異山で活動したパルチザン勢力に投降を勧誘するビラの散布や写真撮影を行うために、胴体後部には投下窓が設けられていた。エンジンはコンチネンタル O-190-1(英語版)(出力85馬力)が使用された。 初飛行は製作が完了した翌日の1953年10月11日に行われ、閔泳洛(ミン・ヨンナク)少佐の操縦のもと李元馥少佐が同乗、午前10時頃に飛行を開始した。このとき、復活号は2時間の間に高さ1,300 mまで飛行した。その後、空軍本部の指示によって東明飛行場に空輸され、金信作戦局長による試乗が行われた。 1954年4月3日、空軍金海基地の空軍技術学校で復活号の命名が行われた。この時、李承晩大統領が「戦争のために疲弊した大韓民国の復活」という意味をこめて、復活号に「復活」という揮毫を自筆で授けた。また、試験飛行の再現も行われた。復活号の機体番号は1号機ではなく1007号機とされたが、これは1950年9月1日に撃墜され戦死した韓国空軍のパイロット千奉植(チョン・ボンシク)中尉の姓「千」と発音が同じ数字1000に、国運隆盛を願う幸運の数字7を加えたものである。 行方不明と再発見[編集] 復活号は1機のみ製造され、1960年まで韓国空軍で連絡機および基本練習機として使用された。1960年に空軍金海基地で廃棄処分されようとしたが、当時大邱月同行緊急滑走路近くにあった韓国航空大学[2]に製作実習のため寄贈された[3]。韓国航空大学は、1963年に韓国航空初級大学に名前が変更された後、1966年2月28日に廃校になった。そして、1967年3月2日に同じ場所に慶尚工業高校(朝鮮語版)が開校することになり[4]、復活号はその後数十年の間、倉庫に保管されたまま忘れ去られた。一方、復活号製作を指揮していた李元馥少佐は、これを全く知らないまま、1955年3月まで米空軍の技術学校で1年間維持管理研修を受けた。李元馥少佐は帰国した直後に復活号が行方不明となったニュースを耳にして復活号を探し回ったが、発見することはできなかった。その後、彼は1999年に韓国空軍に残された写真と仕様を元に復活号を実物と同様に復元し、3月25日に韓国空軍士官学校博物館に展示した[5]。 李元馥は、2003年12月17日の中央日報に「消えた復活号を探す」という記事を掲載するに至った。幸いなことに、1974年まで慶尚工業高校の庶務課長として勤務した人物から、慶尚工業高校の倉庫に飛行機が保管されているという情報提供を受けることができ、最終的に2004年1月13日に、復活号の製作当時板金作業を引き受けた文龍浩(ムン・ヨンホ)元一等中士と共に、慶尚工業高校の地下倉庫で復活号を発見した。発見当時、復活号は外皮がほとんどないまま骨組みだけが残っており、翼、エンジン、プロペラなどの主要部品がすべて失われ形を認識することができなかった。しかし、カウリングの直筆揮毫が半分残ったままになっていたので、復活号であることを確認することができたという。また、2階の倉庫でプロペラも発見された。 復活号が発見されたことは、2004年1月15日に中央日報に掲載され世に知られた。これを受けて、韓国空軍内部で復活号の回収・復元計画が開始されることになる。発見された復活号の胴体は再利用が可能と判断され、主翼などが再制作されることになった。製作は、すでに空軍士官学校博物館に展示されているモデルを作成した第81航空整備廠(제81항공정비창)所属の整備士で構成される復元の専門チームが引き受けることになった。この専門チームの人員は、最初に復活号を制作したのと同じ27人だった。2004年6月9日には李元馥と文龍浩も参加し、第81航空整備廠の整備士たちによって復活号が地下倉庫から運び出された。この際の作業は、復活号を損傷させないよう重機を使用せずに人力のみで行われた。 復活号復元機に書かれた「復活」の文字 復元作業は、第81航空整備廠に移送された直後に始まった。胴体側面に書かれた揮毫が消えてしまうことを懸念して、あらかじめ文字の形を残しておき、骨組みの錆を除去し非破壊検査を行った。設計図が残っていなかったため、全体の寸法は残っている骨組みからリバースエンジニアリングされた。このとき李元馥と文龍浩の助力を得て、200枚を超える設計図が作成された。各部品は製作する前に紙で模型を作って実験・検証し、機体を製作するときは機械を使用せずにオリジナルと同じ手作業を行った。ただし、直筆揮毫と機体番号は、コンピューターを使用してデータの写真と比較し、破壊された文字を再生した。また、50年前と同じ部品を探すために米国の航空機メーカーと中古品市場を訪れ、O-190と似た仕様のエンジンを調達した。復活号の復元は9月30日に完了した。この時、1台のモックアップが同時に製作され、2005年5月8日に慶尚工業高校に寄贈された。 復元記念行事は、復活号が初飛行した日である10月11日に行われる予定だったが、10月22日に延期された。復元記念行事は第81航空整備廠の駐機場で開かれたが、この日の復活号は飛行せず、KT-1と並んで地上滑走するに留まった[6]。これは韓国初の航空機と韓国初の量産型航空機が並ぶという象徴的な意味を持っていた。この日の行事には李元馥や李承晩元大統領の息子李仁秀(朝鮮語版)(イ・インス、元空軍大尉)、そして第81航空整備廠の将兵と軍務員などが参加したが、復活号の製作と復元のもう一人の立役者だった文龍浩は、2004年9月3日に78歳で他界していたため、参加することはできなかった。 その後、韓国空軍は復活号の文化財登録申請を行い、2008年10月1日に復活号は大韓民国登録文化財411号に登録された。これを記念して、2008年10月23日に設計者李元馥の胸像の除幕式が行われた。この胸像は慶尚南道泗川市にある泗川航空宇宙博物館の屋外展示場に設置されている。 改良復元[編集]

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八坂刀売神 – Wikipedia

八坂刀売神(やさかとめのかみ、正字:八坂刀賣神)は神道の女神である。 八坂刀売命(やさかとめのみこと)、八坂斗女命とも表記される。文献には前八坂刀売神、八坂刀自神、八坂比売命、八坂姫、姫大明神等という呼称も見られる。 諏訪大社の祭神である建御名方神(諏訪大明神)の妃神とされ、諏訪大社下社ほか、各地の諏訪神社などに祀られている。記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる[1]。 名義は不詳であるが、「八坂」は一説に「弥栄(いやさか)」に通じるとされ、神名は「ますます栄える女性(トメ)」の意味とも考えられる[2]。 諏訪大社下社春宮 弊拝殿(長野県諏訪郡下諏訪町) 『古事記』や『日本書紀』には登場せず、相違している断片的な説話が残るのみの神であるため、出自については様々な説がある。 一説では安曇氏出身とされる。北安曇郡にある川合神社の社伝では、綿津見命の娘で穂高見命の妹とされているが[3][4]、宝賀寿男は世代という独自の研究からこれを否定する説を提唱している[5]。饒速日命に従って天降った天八坂彦命(神産巣日神の6世孫である長白羽神の子)の娘とする説もあるが、これは江戸時代の同じ神名をつなげた臆説であるとされる[4][6]。 安政4年(1857年)に書かれた『諏訪旧跡志』(飯塚久敏著)によると「八坂入姫命」という妹がいるという[7]。下社の祭神の名を「八坂入姫」とする文書は存在するが、これは「八坂刀売」の誤記もしくは誤解と考えられ、崇神天皇の孫にあたる八坂入媛命との名前の一致は偶然である[8]。なお『旧跡志』と似た説は『洲羽事跡考』(嘉永年間)に見られ、これによると諏訪大神の正妻は信濃国祖・八坂瓊之命の娘の「八坂とめの命」で、側妻は姉妹の「八坂乃命」である[7]。 一方、中世に流布していた垂迹説話においては下社の女神は天竺出身で、波斯匿王の娘とされている[9]。『諏方大明神画詞』(1356年成立)によると「下宮は大慈大悲の薩埵、千手千眼の示現なり。(中略)南天の国母、北極の帝妃、月氏の雲を出で、日域の塵に交り給ふ」という[10]。 上社との約諾[編集] 宝治3年(1249年)に諏訪上社の大祝(おおほうり)の諏訪信重が鎌倉幕府に提出したといわれる『諏訪信重解状』によると、守屋山に天降った上社の諏訪大明神は地主の守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした後、下社の「姫大明神」と夫婦の契約をなしたという古くから伝わる伝承がある[11][12]。このことから、下社の訴えに対して上社こそが諏訪の本宮であると信重は主張した[注釈 1]。 この説話は、中世の二神約諾神話[14]のバリエーションの一つと考えられる[12]。 治水伝説[編集] 川合神社の伝承によれば、海水が氾濫していた昔、建御名方神と八坂刀売神は治水のために水内郡の山をうがち、越の海(日本海)へと水を流し出して、始めて平地を得た[注釈 2][3]。 湯玉伝説[編集] 2018年に出現した御神渡り 建御名方神と喧嘩をした八坂刀売神が諏訪下社に移った時、化粧用の湯玉(湯を含ませた綿)を持ち運んだが、移動途中に湯がこぼれ、雫が落ちたところに湯が湧いた。これが上諏訪温泉の始まりというのである。やがて下社に着いた八坂刀売神が湯玉を置いたところ、地面から温泉が湧き出した。このことから下諏訪温泉は「綿の湯」とも呼ばれる。この湯に心の汚れた人が入ると湯口が濁るといい、「湯口の清濁」として諏訪下社の七不思議の一つに数えられている[15][16][17][18]。

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セバスチャン・アントン・シェラー – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年12月) セバスチャン・アントン・シェラー(Sebastian Anton Scherer、1631年10月3日 – 1712年8月26日)は、バロック時代に活躍したドイツの作曲家・オルガニストである。 シェラーはウルムで生まれ、死ぬまで同地に住み続けた。 1653年6月17日、彼は町の音楽家に選出され、同じ時期には当時有名なウルム大聖堂のオルガニストであったトビアス・エーベルリン(Tobias Eberlin)の助手となったという。シェラーはおそらく同時にエバリンに師事し始め、後に彼の娘と結婚し、1671年になると大聖堂のオルガニストとしてその後を継いだ。その後、ストラスブールの聖トマス(Église St. Thomas)にて、オルガン奏者に任命されたのかそれとも単にオルガン演奏の顧問になったのか、資料によって意見が分かれているが、1712年に亡くなるまでウルムの大聖堂のオルガン奏者であったらしいので、おそらく後者であろうといわれている。 この時代においては典型的なことであるが、シェラーの作品はほとんどが残っていない。また、1680年に1冊の本として出版された14曲のトリオ・ソナタはいずれも質の高いものであり、2部構成のオルガン曲集もある。後者の出版物にはイタリアの影響、特にジローラモ・フレスコバルディの影響が見られ、シェーラーが代表する伝統(現在は北ドイツ・オルガン楽派という)の典型となっている。全編タブ譜で書かれた第1部は「Intonationes breves per octo Tonos」と題され、各教会モードごとに4つずつ、計32の短い詩が収録されており、各モードにはイントナシオ・プリマ(intonatio prima、トッカータ的、持続低音(ペダルポイント)を多用)、セクンダ(secunda)、テルチア(tertia、トッカータ的)、クァルタ(quarta)がある。第2部には8つのトッカータが収録されているが、いずれもやはりペダルポイントを多用している。 他にも聖歌や世俗的な声楽曲があり、リュートの組曲がアウグスブルクで出版された形跡があるが、それらの作品は失われているという。 作品一覧[編集] Musica

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恋のつぼみ – Wikipedia

この項目では、倖田來未の楽曲について説明しています。その他の用法については「恋のつぼみ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 奥華子の楽曲「恋つぼみ」とは異なります。 倖田來未 > ディスコグラフィ > 恋のつぼみ 「恋のつぼみ」 倖田來未 の シングル 初出アルバム『Black Cherry』 リリース 2006年5月24日 録音 2006年 ジャンル J-POP レーベル rhythm

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ミネソタ州会議事堂 – Wikipedia

ミネソタ州会議事堂 ミネソタ州会議事堂(ミネソタしゅうかいぎじどう、Minnesota State Capitol)は、アメリカ合衆国ミネソタ州の州都セントポールに立地する同州議会の議事堂。ミネソタ州議会の上下両院の議場、司法長官室、州知事室を備える。ミネソタ州最高裁判所の法廷も有しているが、ほとんどの裁判は隣接するミネソタ司法センターで行われている。 議事堂のルネサンス調の建物はカス・ギルバートの設計によるもので、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂をモデルとしている。最上部には支柱のない大理石造のドームが覆いかぶさっている。支柱なしの大理石のドームを有する建物はこのミネソタ州会議事堂を含め、世界に4-5棟しかないと考えられている[1]。建設は1896年に始まり、1905年に完成するまで10年の歳月を要した。現存する議事堂は3番目の建物である。最初の建物は1881年に火災で焼失し、2番目の建物は1883年に完成したが、すでに手狭になっていた。 議事堂のドームとクアドリガの彫刻 議事堂の南入り口の真上にあたるドームの前には、The Progress of the State(州の進歩)と呼ばれるクアドリガが飾られている。このクアドリガは2名の彫刻家、ダニエル・チェスター・フレンチとエドワード・クラーク・ポッターによる作品である。彫刻は議事堂の完成した翌年、1906年に完成し、屋根のドームの前に飾られた。1994年から翌1995年にかけて、彫刻の金箔を張り替えるなどの修復がなされた。また、大理石のドームを飾る球体にも同様の修復作業が行われた。 ミケランジェロによるサン・ピエトロ大聖堂のドーム以降に造られたドームはおよそ比べられるものであるが、ギルバートの設計したドームはミケランジェロに対する敬意の表明としてサン・ピエトロ大聖堂のドームによく似せたものでありながら、いくつかの相違点があった。もともとの設計では、ギルバートはより広い壁体を用い、より大きいドームを作る予定であった。小さいドームは「小さすぎる」という批判を浴びるおそれがあったからである。しかし実際には、ミネソタ州会議事堂のドームはサン・ピエトロ大聖堂のドームよりも小さく、簡素化された設計になっていた。例えば、上部のランタンを囲む円柱は2本ではなく1本になっていた。ドームの梁はサン・ピエトロ大聖堂のものほどはっきりとはしていないが、それでも視覚的に明らかであった。ギルバートはサン・ピエトロ大聖堂のドームが不安定に近かったことを知っていた。サン・ピエトロ大聖堂のドームは壊れ、強化される必要があった。議事堂を建てるこのプロジェクトにおいてギルバートを補佐した技術者、ガンバルド・オースは、まず鉄製の強化帯の中に煉瓦造のドームを造った。次いでギルバートは円柱を取り囲む梁を組にし、そこに大理石をかぶせた。サン・ピエトロ大聖堂とこのミネソタ州会議事堂のほかには、大理石造のドームはインド・アーグラのタージ・マハルとロードアイランド州の州都プロビデンスのロードアイランド州会議事堂にある。 この場には不適切であると思われた凱旋門のデザインに似ないよう、ドーム直下の入り口は3連にする必要があった。同様に、議事堂がミネソタ州民に対し攻撃的な姿にならないよう、ギルバートはいかなる宮殿にも似せないように設計した。しかし、ギルバートは地元ミネソタ州産の石ではなく、ジョージア州産の石を使ったことで憤怒を買った。そこでギルバートは建物の基礎や内装にミネソタ州産の様々な石を使うという妥協策を取った。完成後、議事堂の出来映えは外装・内装ともに高く評価され、ギルバートの元にはウェストバージニア州やアーカンソー州など他州の州会議事堂や、その他有名な建物の設計依頼が数多く寄せられた。 ミネソタ州会議事堂の建設には当時の貨幣価値で450万ドルを要した。議事堂は1905年1月2日にその門戸を公に開いた。現在の貨幣価値ではこの議事堂はおよそ4億ドル相当であると推定されている。2005年に行われた築100周年記念式典の一環として、政治家たちは6,500万ドルの改修費用に充てる寄付への支持が得られることを望んだ。 ミネソタ州会議事堂は1972年に国家歴史登録財に指定された。 参考文献[編集] Andersen, Elmer L. Elmer’s

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スラヴォニア王国 – Wikipedia

スラヴォニア王国 Kraljevina Slavonija(hr)Regnum Sclavoniae(la)Szlavón Királyság(hu)Königreich Slawonien(de)Kingdom of Slavonia(en) (国旗) (国章) 1751年のスラヴォニア王国。(黄) スラヴォニア王国(クロアチア語: Kraljevina Slavonija 、ラテン語: Regnum Sclavoniae 、ハンガリー語: Szlavón Királyság

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トロピカルVACATION – Wikipedia

『トロピカルVACATION』(トロピカル・バケーション)は、Twinkleから2014年10月31日に発売されたリゾートアドベンチャーゲームである。 2009年発売の『トロピカルKISS』の続編にあたり、前作のキャラクターも登場する[1]。 あらすじ[編集] 巨大スパリゾート施設「ALOHA」(アロハ)のすぐ隣に、同業他社の「COCKTAIL OCEAN」(カクテル・オーシャン)がオープンする。COはALOHAよりも優れた設備を備えながらも、サービスの質が悪いことから客足が遠のき、経営危機に陥る。困り果てた運営会社は、サービスの修業に出ていた柿木坂八雲に再建を託すことになる。COの立て直しに乗り出した八雲は4人の女性と再会する[1]。 登場人物[編集] メインキャラクター[編集] 柿木坂 八雲(かきのきざか やくも) 主人公。 神楽坂 波音(かぐらざか なみね) 声 – 夏野こおり 出身地:フランス(パリ) / 年齢:23歳

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田中睦夫 – Wikipedia

田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)[1]7月10日[2][3] – 1978年(昭和53年)7月22日[4])は、日本の英文学者。和洋女子大学教授。専門はイギリス小説で、日本におけるサマセット・モーム研究の第一人者だった[1]。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市)上福元出身[1][2]。1918年(大正7年)谷山男子尋常小学校入学[2]。1924年(大正13年)鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)入学[2]、1929年(昭和4年)[5]卒業[1]。1930年(昭和5年)青山学院英語師範科入学[2]。同科卒業[1]。1934年(昭和9年)私立福山中学校 (旧制)教諭、1939年(昭和14年)東京府立第七中学校 (旧制)教諭、1946年(昭和21年)東京都立第三中学校 (旧制)教諭[2]。戦後の1951年(昭和26年)に、アメリカのノースウェスタン大学入学[2](大学院[1])。同大学で近代文学研究をおこなう[1]。翌年修了[2]。明治大学講師(兼任)、母校の青山学院大学講師(兼任)を経て[2]、1961年(昭和36年)に開設された和洋女子大学英文学科の主任教授[1]。死去まで同大学で教授を務める[4]。 1960年、中野好夫や朱牟田夏雄らへ呼びかけて「日本モーム協会」を設立[1]。幹事を務めた[2][4]。随筆も書き、日本ペンクラブと日本翻訳家協会の会員だった[1]。 著書 『わがモーム』(垂水書房、1967年) 『モーム 人間像と文学』 (朝日現代叢書(朝日出版社、1970年) 『英文学への道 若き人々のために』(八潮出版社、1973年) 『一筋の道』(桐原書店、1976年) 訳書

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