Month: January 2021

行器 – Wikipedia

行器(ほかい)(外居とも表記される)とは、中世から近世の日本において、儀礼の際に食物を運搬する目的で用いられた容器である[1]。アイヌ語では「シントコ」と呼ばれる[2][3]。 行器は直径3,40㎝内外の円筒形で、3ないし4本の脚を持つ蓋つきの漆器である[1]。 名称の「ほかい」は「ほかう」(祝う)の名詞形で、元来は神仏に食物を捧げる行為を意味し、 神饌を盛り付ける器だった[1]。 時代が下るにつれて供物以外にも、野遊びなどハレの行事の折に食物を持ち運ぶ用途にも用いられ、「行楽の器」として「行器」の字が当てられた。 さらに「ほかい」の音に「外に居る際の器」の意をかけて「外居」との当て字も生まれた[1]。実際に持ち運ぶ場合は、脚に絡ませた紐で蓋を固定したうえ、天秤棒に結わえる。 行器はすでに平安時代より使用の痕跡が見られ、中世の風俗が詳細に記された『春日権現験記』には、2つの行器を天秤棒の前後に固定して持ち運ぶ 人物が描かれている[1]。この時代の行器は素木の曲物の基本形から大きく出ない簡素なものであった。 近世以降は民間において出産や還暦祝いに赤飯や饅頭を行器に詰めて贈る風習が定着した。 行器は家格を表すものとして、タガを嵌めて漆で蒔絵を施すなど、次第に複雑な技巧が凝らされていった[1]。 長野県佐久地方の一部では行器(ほかい・ほけえ)という風習がある。会葬者が、行器に白米または米粉などを詰め、香典と一緒に霊前に供えることを言う。なお行器を使用せず、布袋や紙袋の中に米など入れ、供える行為も「行器」と呼ぶ[4]。また、会葬者が持ち寄った米などを行器添(ホケーゾエ)と言う[5]。 アイヌによる利用[編集] 近世以降、北海道や樺太のアイヌ民族は日本本土より移入されたイタンキ(椀)、オッチケ(膳。折敷の訛り)、エトゥヌㇷ゚(片口)、エチュシ(湯桶)など漆器類をイコㇿ(宝物)として珍重してきたが、「シントコ」と呼ばれる行器は漆器類の中で最も重要視されていた[2]。イオマンテやイチャルパ(先祖供養)、チセイノミ(新築祝い)など重要な儀礼の際はシントコを儀礼時の容器としてトノト(どぶろく)を醸造し、カムイに捧げた後に客人に振るまった。さらにシントコは宝物として贈答品、あるいはチャランケ(談判、裁判)で負けた者が賠償として払う品とされた。 かつてアイヌの社会では、多くの漆器類を所有している家が「猟運・商才に優れ、人望がある」富家と見なされ、特にシントコの数が家の格を示すものとされていた[3]。 参考文献[編集] 岩井宏實 (1994). ものと人間の文化史75 曲物. 法政大学出版局. ISBN 978-4588207518 

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ヒューマニスティック – Wikipedia

『ヒューマニスティック』(Humanistic) は、アバンダンド・プールズのデビュー・アルバム。2001年9月にエクスタシー・レコード・インターナショナルから発表された。収録曲のうち2曲が共同で作詞・作曲されているが、トミー・ウォルターのソロ作品である。新曲のほか、テリーやメトロマックス時代に制作した楽曲もいくつか収録された。 「レメディー」「ブラッド」のようなダークで陰鬱、時にアグレッシヴな楽曲と、「スタート・オーヴァー」「サニー・デイ」に見られる、より静かでアップビートな楽曲の対照性がこのアルバムの特徴である。暗い歌詞のテーマにキーボードが皮肉めいた明るい旋律を奏でる「ルーイン・ユア・ライフ」、激しいコーラスの「フルオレセイン」のほか、様々な収録曲で不明瞭なボーカル・レコーディングがフィーチャーされているなど、明らかなインダストリアル・ロックの要素が見られる。また、シンセ・エフェクトを使用した楽曲も数多い。フレンテ!のアンジー・ハートが、バッキング・ボーカルとして4曲に参加しており、ハートのハーモニー・スタイルとウォルターのアンドロギュノスな声質がユニークな化学反応を聴かせている。 ツアーとプロモーション[編集] 『ヒューマニスティック』は2001年9月に発表されたが、主なプロモーションは2002年初頭から半ばまでの間に行われた。その結果、アルバムとそのシングルは2002年3月までチャート入りせず、ピークを記録するのは5月ごろであった。ツアーでは、サポート・メンバーとしてリア・ランディとブライアン・ヘッドがベースとドラムスで参加した。全米ツアーは成功を収め、ガービッジやレニー・クラヴィッツらとともにヘッドライナーを務めたりもした。 アルバムのリード・シングル「レメディー」はミュージック・ビデオも制作され、MTV2で回数多く放送された。第2弾と第3弾ビデオ/シングルとして「マーシー・キス」と「モンスター」も制作されたが、後者はツアーの映像を使用しており、ずっと後になってMTVのウェブサイトで公開に至った。「スタート・オーヴァー」は2002年3月に発表された『ヴァン・ワイルダー』のサウンドトラックに収録された。 2002年6月5日放送の『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』と、同年6月26日放送の『ザ・レイト・レイト・ショー・ウィズ・クレイグ・キルボーン』に出演し、「レメディー」を演奏した。同年11月に放送開始になったMTVのアニメ番組『クローン・ハイ』では、『ヒューマニスティック』の収録曲が数多く使用されており、「スタート・オーヴァー」は番組のエンディング・テーマに使用された。2003年2月の『クローン・ハイ』終了後、主にエクスタシー・レコード・インターナショナルの解散を理由にツアーが中止になった。 アルバムは総じて高い賞賛を受けた。ポップマターズのジェイソン・トンプソンは『ヒューマニスティック』をビリー・コーガンのソロ作と比較した上で、『ヒューマニスティック』をより高く評価した。トンプソンは「素晴らしいアルバムであり、エレクトロ・ポップの傑作として見なすことができる」「ウォルターはヘヴィネスを維持しながら、羽毛のように軽快なデンス・ポップ作品を生みだす才能がある」と公言した。オールミュージックのトム・ジュレックは、31歳のウォルターは「子供」だと何度も言及しながらも、ウォルターを「傷つきやすく、道に迷った感情を、群を抜くには充分なほどロックな言葉で表現するそのスタイルは、まさにハード・ロック版のトミー・グノーシスである」と表現した。 全作詞作曲:特記なき限りトミー・ウォルター。 「レメディー」(The Remedy) – 3:57 「マーシー・キス」(Mercy Kiss) – 3:17 「スタート・オーヴァー」(Start Over) –

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麻績御厨 – Wikipedia

麻績御厨(おみのみくりや)は信濃国筑摩郡(現在の長野県麻績村、筑北村)にあった伊勢神宮の御厨。筑北盆地(麻績盆地)一帯の麻績川流域にあたる。 平安時代に伊勢神宮内宮の御厨として立荘され、嘉承年間の「皇大神宮建久巳下古文書」に記載がある。その後は本家が伊勢平氏、本所が内宮という状態にあったが[1]、『兵範記』保元2年(1157年)3月29日条の太政官符に「信濃国 肆箇所 麻続(麻績)御厨」とあり、保元の乱で謀反人となった平正弘から没官領として収公され、後院領となったことがわかる。 鎌倉時代には、『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年4月3日)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」では再び伊勢神宮内宮の所領となる一方で、後白河上皇に領家分が納入された。貞応3年(1224年)には伊賀氏の変に敗れた伊賀光宗が配流され、永仁2年(1294年)には伊賀頼泰から光貞に所領として荘内の矢倉村が、室の藤原氏に大吉郷が相伝されている[2]。また伊賀氏一族の藤原時盛が永仁4年(1296年)に書いた願文が福満寺に残存している[3]。 南北朝時代の建武3年(1336年)には、北条氏残党勢力と小笠原氏らが大吉郷の十日市場で交戦し(『市河家文書』)、同4年(1337年)には、伊賀盛光の代官として土着した麻績盛清が、伊勢氏の所領陸奥国好嶋荘周辺の戦闘で活躍し、関東にも転戦している[4]。室町時代には口入神主の荒木田氏の私領化し、寛正5年(1464年)には内宮禰宜荒木田永量から、永尚、永家の二子に折半され、この時期に御厨としては退転した[4]。戦国時代には武田氏の支配の下、青柳頼長の所領となっており、天正9年(1581年)には内宮御師の宇治久家が訪問している(『信濃国道者之御祓くばり日記』)。 『神鳳鈔』には「麻績御厨八ケ条」とあり、本家の内宮への神貢(供祭上分料)として、「鮭150隻、同児1桶、搗栗1斗、干棗1斗」等を納入し、領家の内宮禰宜荒木田元雅には口入料として、「六丈布60端、四丈布16疋、鮭30隻、同児1桶」を負担していたことがわかる。 御厨の鎮守は麻績神明宮であり、御厨の退転後も八ケ条(8か村)で祭祀や造営を負担している[5]。十日市場は神明宮の門前に形成された市場町とみられる[6]。 ^ 「国史大辞典」p.915 ^ 「長野県史」p.314 ^ 「長野県の地名」p.562 ^ a b 「日本史大事典」p.1260 ^ 「角川日本地名大辞典」p.293

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イオンタウン幕張西 – Wikipedia

イオンタウン幕張西ÆON TOWN Makuharinishi 地図 店舗概要 所在地 〒261-0026千葉県千葉市美浜区幕張西4-2-12 座標 北緯35度39分43.6秒 東経140度02分33.6秒 / 北緯35.662111度 東経140.042667度 / 35.662111; 140.042667 (イオンタウン幕張西)座標: 北緯35度39分43.6秒 東経140度02分33.6秒 /

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双海町 – Wikipedia

双海町(ふたみちょう)は愛媛県の中予地方にあった町である。2005年4月1日、(旧)伊予市、中山町と対等合併し、新しい伊予市の一部となった。 瀬戸内海のなかでは島が少ない伊予灘に面し、西が開けていることから、「しずむ夕日が立ちどまる町」というキャッチフレーズ[1]で独自の視点から町おこしを行ってきた。 位置[編集] 地形[編集] 中央構造線に沿って、伊予灘に接する海岸線が北東から南西方向に伸びており、伊予灘になだれ込むような地形で山が迫り、平地はきわめて乏しい。傾斜地と海岸線を縫うように敷設された予讃線は車窓の間近に伊予灘を望み風光明媚なことで知られている。反面、地盤がもろく、災害の発生しやすい地形をしており、台風接近時には土砂崩れでの不通が頻繁に発生した。そういった事態を回避するために向井原駅より内子まで、山沿いをトンネル主体の予讃線新線をひき、内子線に接続した。さらに新谷駅からは五郎駅へ回り込むルートを至るルートは、新谷駅から伊予大洲駅へ向かうよう付け替えをした。この結果伊予大洲以南と松山方面のスピードアップが図られ、特急などの優等列車はそちらを通ることとなった。伊予上灘、下灘経由の路線は、「愛ある伊予灘線」と副名称が決まり、現在は主に普通列車と観光列車が運行されている。 海岸に沿って、集落が点在しているほか、旧・中山町に接し、いくつかの集落がある。 町名の由来[編集] 昭和の合併当時、双方ともに「灘」がつく、海にちなむ名称だったため、融和を図るため「双海」とした[2]。 造語であるため、全国各地の会合などに出ると「そうかい」と読まれたり、「二見」と表記されることがたびたびあったという。 江戸期には、大洲藩に属し、6箇村(高岸、上灘、高野川、串、大久保、石畳)があった。 1896年(明治29年)12月15日 – 町村制施行により、上灘村と下灘村になる。 1908年(明治41年)9月30日 – 大字石畳が喜多郡満穂村(現在の喜多郡内子町)に境界変更。 1921年(大正10年)9月3日 – 上灘村が町制施行して上灘町となる。 1925年(大正14年)4月1日

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