公明党 – Wikipedia
公明党(こうめいとう、英語: Komeito[注釈 1])は、日本の政党[4]。日本の仏教系宗教法人創価学会[26]を支持団体として、中道政治の実現を目指して結成された[27]。自由民主党との連立政権を形成している[28]。略称は公明[29]。1字表記の際は、公と表記される[29]。 現在の党キャッチコピーは、「小さな声を、聴く力。」[30][31]。 1964年の結党後、党としては1965年の第7回参議院議員通常選挙、1967年の第31回衆議院議員総選挙で議席を確保した。1993年の第40回衆議院議員選挙での55年体制崩壊後の非自民・非共産連立政権では政権入りを果たし、再び野党になった自社さ連立政権下での選挙である1996年の第41回衆議院議員選挙では新進党に合流し第二党になるも、その後公明党に復帰し、1999年から自公連立政権を成した。2009年の第45回衆議院議員総選挙後の民社国連立政権・民国連立政権では野党になったが、次の2012年の第46回衆議院議員総選挙で自民党が与党になってから再び連立をくみ、2022年現在は与党政党である。 支持母体は宗教法人の創価学会である[32][33][34][35][36][37]。政教分離に関して、1988年の質問主意書への内閣の回答で、政党は憲法第二十条第一項後段の「政治上の権力」に当たらないという見解を示している[38][39]。また、2014年の質問主意書でも政党所属者が公職につき国政を担っても「政治上の権力」の行使に当たらないとしている[40]。 中道政党としての結党[編集] 公明党は宗教団体の創価学会を主な支持団体としている。 第二次世界大戦後に宗教法人として規模を拡大させた創価学会が、1954年(昭和29年)11月、政界進出を目的として創設した文化部が源流である。文化部は翌1955年(昭和30年)の第3回統一地方選挙で首都圏の自治体議会選挙に候補者を擁立し、合計で53議席を得た。 1956年(昭和31年)には国政進出を果たし、第4回参議院議員通常選挙(1956年)で3議席を、第31回衆議院議員総選挙(1967年)で25議席を獲得した。 初期の政界進出の旗振り役となったのは創価学会第2代会長戸田城聖と後の第3代会長池田大作である。政界進出の動機としては以下が挙げられる。 国民生活を改善するには、密接にかかわっている政治を変革することが大事である。 政界に創価学会の人材を輩出し、より良き社会を建設する。 住民のための、住民による政治。 1960年(昭和35年)に池田が第三代会長に就任すると政界進出の動きは加速し、1961年(昭和36年)には政治局、同年11月には政治団体の公明政治連盟(こうめいせいじれんめい)へと改組し、メディアの発信や各界への人材輩出を強化した。 1963年(昭和38年)の東京都議会議員選挙(都議選)では17議席を獲得し、55年体制の下、戦後しばらく日本の国政で二大政党制を構成した自由民主党・日本社会党に次いで第3党に躍進する。1964年(昭和39年)、創価学会から公明政治連盟が切り離されて独立し、現在の日本の国政政党の公明党が誕生した。11月17日の結党大会は当時国内で最大級の規模を誇る施設であった日本大学講堂(当時、旧両国国技館)で挙行され、1万5000人の党員が集結した。結成大会にはニューヨーク・タイムズ含め外国メディア14社の記者が取材に訪れた。 綱領は次のようなものであった。 一、宇宙時代にふさわしい世界観、恒久平和への新しい指導理念の確立が、今日ほど強く渇仰される時代はない。この待望の指導理念こそ、生命哲学の神髄、王仏冥合の大理念であると堅く信ずる(注:王仏冥合、読み:おうぶつみょうごう=王法とは政治を意味し、仏法とは思想であり生命哲学である。この王法と仏法を冥合させて、社会の繁栄と個人の幸福を一致させるという政治理念[45])。公明党は、王仏冥合の大理念を高く掲げて、地球民族主義にのっとり、人類の危機を救い、世界に恒久平和の礎を築くことを誓うものである。 二、資本主義、社会主義の両体制に共通する基本的欠陥は、人間疎外、人間性の抑圧である。公明党は、豊かなる人間性の尊重を基調とする人間性社会主義によって、個人の幸福と社会の繁栄が一致する大衆福祉の実現を確約するものである。 三、公明党は、国民大衆の中に仏法民主主義、すなわち人間性尊重を基調とした真実の民主主義の基盤をつくり、大衆とともに前進する真実の大衆政党である。言論、思想、信仰の自由等、基本的人権を尊重するはとうぜんである。われわれは大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいくことを誓うものである。
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