Month: June 2021

小松島市葬斎場 – Wikipedia

小松島市葬斎場(こまつしましそうさいじょう)は、徳島県小松島市田野町にある火葬場、斎場である。 基本データ 開場時間:午前9:00 – 17:00(ただし通夜、霊安室は24時間体制) 休場日:1月1日、友引日及び施設点検日 駐車場:有り 1948年(昭和23年) – 小松島町葬斎場使用条例(昭和23年小松島町条例第101号)を制定。小松島町葬斎場として開場。 1951年(昭和26年)06月01日 – 市制施行により、小松島市葬斎場と改称。 1988年(昭和63年)10月01日 – 小松島市葬斎場使用条例(昭和23年小松島市条例第101号)の全部を改正する。小松島市葬斎場条例(昭和63年小松島市条例第19号)を制定。即日施行。 2016年(平成28年)05月17日 – 新葬斎場着工[1]。 2016年(平成28年)05月23日

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望月のり子 – Wikipedia

望月 のり子 個人情報 国籍 日本 生誕 (1967-07-16) 1967年7月16日(54歳) スポーツ 競技 体操 望月 のり子(もちづき のりこ、1967年(昭和42年)7月16日 – )は、日本の体操選手。 経歴・人物[編集] 日本女子体育大学出身[1]。日本女子体育大学附属二階堂高等学校2年生時[2]、1984年ロサンゼルスオリンピックに出場し女子団体総合で6位に入賞した[3]。 ^ “OG列伝

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トライネラ – Wikipedia

トライネラ・ボートのイラスト トライネラ(スペイン語: trainera)は、北大西洋にあるビスケー湾南部のカンタブリア海沿岸に見られる伝統的ボートの名称であり、そのボートを用いたボートレース競技の名称。かつては風を受けて帆走するヨットだったが、現在はオールを用いるボートである。美しいラインのボートであり、高い船首と丸みを帯びた船尾を持ち、カンタブリア海の荒波にもよく耐える。漁師がその日に釣ったアンチョビやイワシを海から市場へ持って行く際、しばしばボート同士の競争となり、やがてこの歴史的伝統がレース競技となった。 名称と語源[編集] スペイン語ではトライネラ (trainera)、バスク語ではトライネルやトレイネルやトレニェロやトリネロ (traineru, treineru, treñero, trinero)[1]、フランス語ではtraînière、ガリシア語ではトライニェイラやトライーニャ (traiñeira, traíña)[2]となる。イワシやアンチョビの漁業に使用する、密に織られた網をトライナ (traína)と呼んでおり、この単語に由来する[3][4]。この網自体は、「引っ張る」を意味するtrahĕreから来るラテン語のtragināreに由来する[3]。 トライネラ・ボートの製造には、少なくとも1か月から1か月半の期間を必要とする。ボート自体は長さ12m、中央部の幅172cm、船首95cm、船尾75cm、深さ60.5cmである。バトン、漕座、ヒッターを含む総重量は210-230kgであり、オールや各種装備を除いて200kg未満であってはならない。長年、ボート全体に木材を使用しており、特にスギ材やブナ材を使用していた。現在、トライネラの製造にはカーボンやケブラーなどの素材が使用されており、エアバスA380の製造に導入されているものと類似した航空技術も使用されている[5]。トップクラブで使用されるボートの寿命は一般的に20年から30年である。高級トライネラ・ボートにはGPS機能が搭載されており、そのことが価格を押し上げている。1970年代にはトライネラ・ボート1艇あたり約45,000ペセタだったが、2008年には1艇あたり約25,000ユーロが最低金額である[5]。 今日のトライネラ競技では、14人のクルーがトライネラ・ボートに乗り組む。漕手の12人は2人1組で座り、13人目のクルーであるバウ(舳手)は、14人目のクルーであるコックス(舵手)の近くに単独で座る。他の類似するボート競技で一般的なように、コックスはチームの士気を高め、ボートを操舵する役割を持つ。各ボートは特定の旗を付け、クルーはチームウェアを着用する。多くの場合、ボートにはチームカラーが塗られている。レースはブイまでの片道かスタート地点までの往復であり、一般的に5.5kmの距離を走行する。それぞれのボートは自分たちのレーンを漕ぎ、他のボートのレーンを横切ったり、異なるボート本体やそのオールと接触してはならない。もしレース開始から20秒以内に予想外の出来事が起こった場合、一般的に再スタートを行う。レースごとの賞金とは別に、勝利チームには町や自治共同体の旗(バンデラ)が授与される。伝統的に、勝利チームはすべてのオールを空に向かって垂直に掲げる、レモス・アリバまたはアラウナク・ゴラまたはオールス・アップと呼ばれる行動を取る。 競技会[編集] 歴史的には、トライネラ・レースはバスク語でエストロパダク (estropadak)と呼ばれ、ビスケー湾沿岸で行われる人気のスポーツだった。バスク地方、カンタブリア地方、アストゥリアス地方、ガリシア地方の海岸全域で、7月から10月にかけて行われた。毎年多くの競技会が開催されており、もっとも歴史のあるレースはサンタンデール旗、もっとも有名なレースはコンチャ旗(英語版)である[6]。様々なトライネラのリーグがあり、最上位リーグとして聖ミゲル・リーグ[7]、2部リーグとしてカンタブリア海ボート協会リーグ[8]やガリシア・トライネラリーグ[2]がある。 起源と黎明期[編集] トライネラ(trainera)

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エド・オバノン – Wikipedia

エド・オバノン(Edward Charles O’Bannon, Jr. 1972年8月14日- )はカリフォルニア州ロサンゼルス出身の元バスケットボール選手。UCLA時代は、”Ed-O”と呼ばれるスター選手だった。しかしNBA入り後の活躍は人々の期待通りではなかった。ポジションはスモールフォワード。彼の弟のチャールズ・オバノンもUCLAを経た後、デトロイト・ピストンズでプレイし、日本のトヨタ自動車アルバルクなどでもプレーした。 彼はハイスクール時代、マクドナルド・オールアメリカンに選抜された。 UCLAに進学した彼は1995年のNCAAトーナメントトーナメント決勝で30得点、17リバウンドを記録してチームの優勝に貢献した。そのシーズン彼は1試合あたり20.4得点、シュート成功率53.3%、3ポイントシュート成功率43.3%、8.3リバウンドをマークしてジョン・ウッデン賞、オスカー・ロバートソントロフィーを獲得した。彼の大学時代の背番号31番は永久欠番となっている。 1995年のNBAドラフトで1巡目全体9位でニュージャージー・ネッツに指名された。しかし、彼はNBAのフォワードとしては小さすぎて、ガードとしては遅すぎた。ネッツでプレイした最初の2シーズンは1試合あたり6.2得点、4.2得点に終わった。ダラス・マーベリックスにシーズン途中移籍したが輝きを見せることはなく、オフシーズンにデレック・ハーパーと共にオーランド・マジックにトレードに出されるが、シーズン開幕前の9月24日にカットされた。現在彼はNBAドラフト史上最も期待外れに終わった選手の1人と考えられている。[1] NBAでプレイした後、彼はイタリア、スペイン、ギリシャ, アルゼンチン、ポーランドなどでプレイした。彼はひざの手術を受けた後、新しくできる中国プロバスケットボールリーグでのトライアウトを受けていた。しかしモチベーションが上がらず引退をついに決意した。 彼はUNLVで学士の学位を修めている。彼は現在ラスベガスに妻と子供と住み、車のセールスをしており、選手としても、コーチとしても返り咲くつもりはないことを告白している。[2] ^ http://www.ncnewsmedia.com/archive/madness/stories/DAY22/040306ed.htm ロサンゼルス・タイムズ ^ http://www.ncnewsmedia.com/archive/madness/stories/DAY22/040306ed.htm 外部リンク[編集] nba.com Basketball-Reference.com

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ふじのくに県民クラブ – Wikipedia

ふじのくに県民クラブ(ふじのくにけんみんくらぶ)は、国民民主党・立憲民主党・無所属の議員によって構成されている静岡県議会の院内会派。第二会派ではあるが、川勝平太知事を支える県政与党となっている[1][2][3][4]。 静岡県議会にて、立憲民主党、国民民主党といった旧民主党系県議で構成されている。2021年5月には初の女性代表が就任している。同会派は2021年の静岡県知事選挙にて、現職の川勝平太知事を支援する方針を示した[5][6]。 2021年11月には野党共闘候補山崎真之輔への参議補選選挙応援演説で、「人口は8万強しかないところ。その市長をやっていた人物か。あちらはコシヒカリしかない。だから飯だけ食って、それで農業だと思っている。あちらは観光しかありません」と御殿場市侮辱発言などで批判された川勝への連名抗議文が自民・公明・無所属の全議員49名から提出され、1973年以来の全県議67名中51名賛成で可決される不信任決議も提出の方針も決めた際に[4][7]、無所属議員5人のうち共産党県議を含む2人の反対が予想された中で会派内から3人以上造反が出ると可決される不信任決議案の採決が無記名投票になることを想定した場合の造反票対策にと「投票用紙を机上に置いて反対の票を投じる姿勢を周囲に明らかにする」、「議会に遅刻しないよう公共交通機関で移動する」「採決時に互いに反対票を確認する」ことなどを対策とし、会派内一致で決議に反対することを表明した。そのため、辞職賛成派議員らは知事不信任決議案を可決させる全議員の4分の3には3名不足するため、辞職勧告決議することに決めた[8][9]。静岡朝日テレビによると、このように絶対に一人も造反議員を出さない姿勢をした背景には会派に強い影響力を持つ日本労働組合総連合会(連合)が造反した議員には連合静岡による公認を与えないことを事実上表明したことにある[7]。2021年11月24日の辞職勧告決議採決は1人ずつ公開投票形式で行われた。その結果、賛成が自民(議長を除いた39人)、公明(5人)と完全無所属3人の47人、反対がふじのくに県民クラブ(17人)と完全無所属1名と日本共産党1人となり、出席議員66人の過半数(34人以上)を超え可決された。全会派議員一致で反対票を入れることを決めていたふじのくにクラブに所属する県議の一人は「かなり気持ちが揺らぐような話があったことは事実」と打ち明けている[10]。 組織体制[編集] (2021年11月現在) 会長 佐野愛子 常任顧問 岡本護林芳久仁阿部卓也 副会長 中澤通訓 幹事長 田口章 幹事長代理 廣田直美 政調会長 伴卓 政調副会長 廣田直美 総務会長

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ザ・ライフ・アンド・タイムス – Wikipedia

ザ・ライフ・アンド・タイムス(The Life and Times)は、アメリカのロックバンド。シャイナー解散後の2002年に、フロントマンだったアレン・エプリーを中心に結成。 2002年にアレン・エプリー、ジョン・メレディス(ex-Someday I)、マイク・メイヤーズ(ex-The String and Return)の3人で結成され、2003年に6曲入りEP「The Flat End of the Earth」でデビュー。その後ツアーを行うがエプリー以外の2人が脱退、一旦の休止期間を経てエリック・アーベルト(ex-Ring Cicada)、クリス・メトカーフ(ex-Stella Link)の2人が加入、セッションを経て新作のレコーディングを行い、2005年7月に1stアルバム『Suburban Hymns』をリリース(日本限定ボーナストラック1曲収録)。長期の全米ツアーや、スプリットEPで共演したスペインのポストロックバンド、Nueva Vulcanoと共にスペインツアーを行う。2006年9月にSTIFF SLACKより日本限定EP『The Magician』がリリースされ、その後の日本ツアーも成功に終わる。11月、12月にも北米ツアーを行った。

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空中盆栽 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “空中盆栽” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年6月) 空中盆栽 (Air Bonsai) は、日本の新しい伝統文化として発表されたアート作品である。 中国や日本に古くから伝わる盆栽や盆景を磁力を利用し、空中に浮かべて鑑賞する新しい伝統芸術である[1]。 空中盆栽は草木を軽石や苔玉に植え、枝ぶり葉姿はもとより日本の陶磁器を含めた姿全体を鑑賞し、ゆっくり回る植え込まれた植物を見ながら時間の移り変わりを楽しむという和風の趣向も含まれている。植え込まれる草木に関しては自分好みのものや風土にあったものを自分で植え替え、育てる楽しみも含んだアート作品の要素もある。 空中盆景とは、お盆の上に土や砂、石、コケ、草木を配置して自然の景色をつくり、鑑賞する盆景を空中に浮かべることにより、インテリアアートとして評価を得ている。盆栽、生け花と同様に、自然の美を立体的に写実、表現しようとする立体造形芸術であることに違いはなくインテリアとしても活用できるように工夫されている。 九州在住のクリエーター今吉将之[2]が2015年〜2017年にかけ発明、創作、発表を手がけた[3]。日本の新興企業Hoshinchuにより日本発のプロジェクト「世界初の浮遊する盆栽(Air Bonsai/ floating bonsai)」を発表。日本古来の植物芸術だった盆栽にテクノロジーを足すことで盆栽を浮かせることに成功した。2016年2月15日発行の米国誌「TIME

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誰がために鐘は鳴る (宝塚歌劇) – Wikipedia

誰がために鐘は鳴る(たがためにかねはなる)は宝塚歌劇団のミュージカル作品。 原作はアーネスト・ヘミングウェイ[1]の同名小説『誰がために鐘は鳴る』。 公演期間と公演場所[編集] 1978年・星組 5月12日から6月27日[2](第一回・新人公演:5月30日[3]、第二回・新人公演:6月16日[3])まで宝塚大劇場で、8月4日から8月31日[4](第一回・新人公演:8月13日[3]、第二回・新人公演:8月20日[3])まで東京宝塚劇場で上演した。 2010年・宙組 11月12日から12月13日[5](新人公演:11月30日[6])まで宝塚大劇場で、2011年1月1日から1月30日[5](新人公演:1月20日[6])に東京宝塚劇場で再演。 ストーリー[編集] ※『宝塚歌劇100年史(舞台編)』の宝塚大劇場公演のページ(初演)を参照[2] 第二次世界大戦のスペインを舞台に、ファシスト軍を打倒するためにゲリラに身を投じたアメリカ合衆国の青年ロバート・ジョーダンが、敵の重要な橋梁を爆破しようと挺身する3日間を描く。 ロバートと、ファシストによって両親を殺され、自身も被害を受けた少女マリアとの短くも激しい恋物語。 主な配役[編集] ※「()」の人物は新人公演・配役 1978年[編集] この節の加筆が望まれています。 (2016年7月) ※下記のデータは宝塚・東京共通 ロバート・ジョーダン – 鳳蘭(第一回:峰さを理、第二回:孝まりお)[3]

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アストリッド・サンペ – Wikipedia

アストリッド・サンペ Astrid Sampe アストリッド・サンペ。1940年代 生誕 1909年5月27日ストックホルム、ナッカ 死没 2002年1月1日ストックホルム、ファルスタ 国籍 スウェーデン 職業 テキスタイルデザイナー アンナ・アストリッド・サンペ(Anna Astrid Sampe、1909年5月27日ナッカ生まれ[1]ー2002年1月1日ファルスタ没[2])はスウェーデンのデザイナー。主にテキスタイルの分野で活躍し、北欧のモダンテキスタイルデザインの発展に大きく貢献した。 テキスタイル製造業に従事していたオットー・ペテルソン・サンペとアンナ・ラーソンの娘として生まれる。1919年に家族で移住したボロースで育つ[3]。幼い頃から、宿題をした後にはテキスタイル作りを手伝うなど才覚を現していた。1928年から1932年までストックホルムのアートスクール、コンストファックで学ぶかたわら、ロンドンのロイヤルカレッジ・オブ・アートでも学ぶ。一方でスウェーデンのクラフト組合の一員となる。卒業した後1934年にはドイツ、フランス、イタリア、チェコスロヴァキアを旅行し、その経験は後のテキスタイル制作において大きな影響をもたらす。 1936年にはストックホルムの百貨店NK(エヌコー)に就職し、一年後には同社で新しく発足したテキスタイル部門の主任となる。戦後1950年代に入り、質が高くデザイン性の高いテキスタイルへの需要が高まる中、エヌコーは「署名入りテキスタイル」プロジェクトを立ち上げ、サンペがプロジェクト主任として任命される。このプロジェクトでは高品質で公共スペースでの使用にも適したテキスタイルを生み出すため、建築や芸術、科学などさまざまな分野から12名が選ばれ、デザインを担当することになった。12名の中には建築家のアルヴァ・アールトやスヴェン・マルケリウス、グラフィックデザイナーのオーレ・エクセル、工業デザイナーのスティグ・リンドベリなどが含まれている。1954年にはエヌコーで展示会が開催され評判となる。同展覧会はそれまでとくに認識されることのなかったテキスタイルデザイナーの名前を世間にアピールする上でも大きなきっかけとなった。1960年にはテキスタイル部門の管理職に任命され、同社の取締役の一人となる。 サンペはスウェーデンで初めて防水かつ難燃性のグラスファイバーの基盤を作った人物とされている。 1939年にはニューヨークで開催された万博のスウェーデンパビリオンのインテリアデザインをスヴェン・マルケリウスとともに担当している。1955年にヘルシンボリで開催された展覧会、H55ではアストリッド・サンペ、マリアンヌ・ニルソン、アルメダールス社によるスウェーデンリネンの革新的なシリーズ『リネン・ライン(Linnelinjen)』が発表された。同シリーズではパターンや色彩において新しいアイデアが寝具やナプキン、キッチンクロスなどに表現された。同展では赤と黒のシンプルな縞をデザインした麻のキッチンタオル『Kökstrivsel』が「より美しい日用品を」のスローガンとともに発表された。このキッチンタオルは現在もヴァームランドにあるリネン織物会社のクラスボルスにより製造されている。 1950年代のスウェーデンではプリントのキッチンタオルは画期的な存在であり、人気を博した。とくにサンペがデザインした『ペーションさんのスパイスラック』(1950年代初頭に画期的なスパイスジャーシリーズを作った陶芸家のシグネ・ペーション・メリンからインスピレーションを受けた作品)は注目された。1952年にはシンナにあるカーペット製造会社カストホールとのコラボレーションで、控えめな縞と幾何学模様のウィルトンシリーズのカーペットをデザインした。

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