Month: August 2021

地子 – Wikipedia

地子(じし/ちし)とは、日本の古代・中世から近世にかけて、領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代を指す。賦課した地目に応じて田地子・畠地子・塩浜地子・林地子・屋地子などと呼ばれた。元々、地子は生産物地代の性格を持ち、その土地の生産物が地子として納入されていたが、中世後期ごろから貨幣経済が進展していくと、貨幣による地子の納入が増加していった。そのため、米(稲)で納入する地子を地子米(地子稲)といい、銭で納入する地子を地子銭といって区別した。 8世紀初頭に成立した律令制のもとでは、公田のうち口分田を班給した後に余った乗田を国衙が百姓らに貸し付けて、収穫物の2割を納入させる賃租の規定があった(「田令公田条)。このとき、納入させた2割の収穫物を地子または地子稲(じしとう)と呼んだ。地子稲収入は畿内・伊賀国では正税の補充に、大宰府管内諸国では対馬国・多禰国(後に廃止)の公廨の補充に、陸奥国・出羽国では兵士の兵糧や蝦夷への狄禄の補充に充てられ、他の令制国では中央に近い諸国や沿岸諸国では舂米の形で、それ以外の国々では地子交易を行って軽貨の形で太政官厨家に納入されることが定められていた[1]。 なお賃租は、国衙だけでなく、初期荘園を経営する大寺社なども行っていた。初期荘園は賃租に伴う地子収入によって経営されていた。 9世紀から10世紀ごろにかけて、富豪百姓らによる私領(私営田)の形成が進んでいった。私領も国家租税である官物の賦課対象であったが、領主は、私領から私的な得分を収取することについて国衙の承認を受けており、地子の語はこの私的得分を指すようになった。 さらに11世紀から12世紀にかけて荘園制または荘園公領制が成立すると、それまで国家租税とされていた官物の収取権が、荘園領主へ移譲されていき、官物は年貢へと変質した。年貢は、官物、ひいては田租に由来しており、荘園租税体系の中心に位置する税目であり、現地の下級荘園領主(開発領主や荘官など)が上級領主へ納入すべき税目であった。かりに年貢しか徴収しないとすると、現地の下級領主の得分は何も存在しないことになる。そのため、下級領主たちは自らの得分とすべく、様々な名目で地代を荘民から収取するようになった。これが中世における地子である。地子は加地子と呼ばれることもあった。中には、本年貢の数倍に及ぶ地子を収取する領主が存在したことも、記録に残っている。 中世の中期(鎌倉時代中期・後期)ごろから、商品流通の活発化とそれに伴う貨幣経済の進展が次第に顕著となっていくと、地子を貨幣で納入する事例が増えていった。これを地子銭という。地子銭の納入は決して多くはなく、一部の都市(京)などにとどまっていたが、中世末期の戦国時代ごろになると、農村部でも銭貨による地子納入の事例が見られるようになった。近世の畑年貢に相当し、麦の生産期である6月に納めていた夏地子も銭納とする場合が増えた。 豊臣秀吉の太閤検地によって、中間得分の収取が否定された。これは、中世的な地子が廃止されたことを意味する。以後、近世には田地へ賦課される地子は見られなくなった。ただし、都市域において屋敷地に賦課される地代が地子と呼ばれるようになった。都市では貨幣経済が定着していたため、地子は銭貨で納入されるのが一般的であり、地子銭と呼ばれた。 明治になり、近代税制が確立すると地子は姿を消した。明治以降でも、地主が小作から収取する地代は地子的性格を有していたが、これは小作料と称された。 外国原産のインコなどで、日本国内で生まれた個体を地子、地仔(じご)という[2]。漢字は地子(じし)と一緒だが、読みが違う。 ^ 延喜14年(914年)8月に出された太政官符によれば、毎年諸国より地子稲を財源として総額にて舂米5,453石、絹990疋、商布8,841段、調布3,222端、細布20端、(真)綿1,152斤・4,692屯、鉄1,146廷、鍬2,100口が地子稲416,680束より地子交易などによって調達・上供され、その他に油・調味料・魚介・海藻・筵・墨・紙・塩・雑穀など計30種の物資が上供された(例進地子雑物)。 ^ 「小鳥の飼育と繁殖」(文研出版 前澤和明)P184 関連項目[編集]

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シュコダ03T – Wikipedia

03Tは、シュコダ・トランスポーテーションとイネコン・グループによって開発・製造が行われた路面電車車両。両社が初めて手掛けた超低床電車で、2001年以降はシュコダ・トランスポーテーションが単独で2006年まで製造・展開を実施した[1][2][3][4][5]。 ビロード革命による民主化、ビロード離婚と呼ばれるスロバキアとの分離を経たチェコ共和国では、多数の企業が路面電車市場に参入を始めた。そのうちシュコダは1995年にシュコダ交通技術会社(現:シュコダ・トランスポーテーション)を設立し、1997年からチェコ各地で運用されていたタトラT3の更新事業を開始した。一方、1990年に設立されたイネコン・グループはタトラT3を始めとするタトラカーと呼ばれる路面電車を製造したČKDタトラの買収を計画し、実現はしなかったもののČKDタトラから多数の従業員が移籍した事を受けて本格的に路面電車製造に着手した。この両社による合弁事業として製造が始まったのが03Tと呼ばれる超低床電車である[4][6]。 中央に台車がないフローティング車体を挟んだ片運転台式の3車体連接車で、両端の車体下部に非同期電動機を2基備えた台車が設置されている。ただし台車には回転軸が無く、方向は車体に固定されている。制動装置は回生ブレーキを備えている。中央のフローティング車体は低床構造(床上高さ350 mm)となっている一方、両端の車体は2段のステップを介した乗降が必要となる高床構造(床上高さ780 mm)であり、編成全体の低床率は50%である[1][2]。 03Tはメーカー側からアストラ(Astra)と言う愛称が付けられており、”非同期電動機(Asynchronní)を搭載した路面電車(Tramvaj)”と言う意味を持つ。ただしブルノ市電では”非同期電動機(Asynchronní)を搭載した超低床(Nízkopodlažní)路面電車(Tramvaj)”の略称であるアニトラ(Anitra)という独自の愛称で呼ばれている。また、シュコダとイネコンによる合弁事業時代はLTM10.08という形式名も与えられていた[1][3][5]。 運転台(ブルノ市電) 車内(ブルノ市電) 車庫で修繕中の車内(オストラヴァ市電) 後方の車体には運転台がない(オロモウツ市電) 1997年6月に最初の試作車(301)が製造され、当初はプルゼニ市電で試運転が行われ、翌1998年から営業運転に投入された。また、試運転期間中には一時的にオストラヴァ市電へ貸し出された事もあった。だが2006年の事故により運用から離脱し、部品取り車両として長期に渡って留置された後、2008年までに解体された。一方、1998年にはもう1編成の試作車(302)が製造されており、こちらは量産車と仕様を合わせた改造を経てプルゼニ市電で長期に渡り運用された[1][2][3]。 これらの試作車の実績を受け、1998年にオストラヴァ市電・プルゼニ市電を皮切りにアストラの量産が始まった。意見の相違や不均衡によりシュコダとイネコンの業務提携が解消されて以降はシュコダによる単独展開が実施され、2006年までに以下の路面電車路線に導入された。ただしプルゼニ市電の車両についてはアライアンスTW製のEVO2への置き換えにより、2021年3月までに営業運転を終了している[1][2][3][4][5][7][8]。 発展形式[編集] シュコダ・トランスポーテーション製車両[編集] イネコン・トラム製車両[編集] 関連項目[編集] 注釈[編集] 出典[編集]

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アジキ – Wikipedia

アジキ(Aǰiqi ? – 1306年以降)は、モンゴル帝国の皇族。チンギス・ハーンの次男であるチャガタイの孫ブリの息子。『元史』などの漢文史料では威遠王阿只吉、『集史』などのペルシア語史料ではاجیقیĀjīqīと記される。 アビシュカの父ブリはルーシ遠征に従軍した折、オゴデイ家のグユクとともに総司令官バトゥを宴席にて侮辱した。この一件によってブリはバトゥとの間に怨恨を生じさせ、バトゥの後援によってモンケがカアンに即位するとブリはバトゥによって殺されてしまった。このため、ブリの諸子たちの間には反モンケ政権の傾向があったと見られる[1]。 モンケ・カアンが南宋への親征の途上で病没すると、次代のカアン位を巡ってクビライとアリク・ブケとの間で帝位継承戦争が勃発した。アリク・ブケ派はカラコルムを中心としてモンケ政権を引き継ぐ形となったため、反モンケ的傾向のあるブリの諸子(アビシュカ、アジキら)はクビライ派に立って参戦した。クビライの支持基盤は東方三王家や「左手の五投下」といった帝国東方の諸勢力であり西方三王家(ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家)の支持者は殆どいなかったが、中統元年(1260年)に開かれた上都クリルタイではアジキはオゴデイ家のカダアンとともに数少ない西方諸王として出席している。 共にクビライ派として参戦した兄弟のアビシュカがアリク・ブケ派に捕殺された後、アジキはクビライ派の数少ないチャガタイ家皇族として河西〜ビシュバリク方面の総司令官としての役割を果たした。アルグの死後、内紛が続くチャガタイ・ウルスから逃れてきたチャガタイ系諸王はアジキを頼って大元ウルスに入り、その多くが河西〜ビシュバリク方面に居住した。これは、クビライが大元ウルスに逃れてきたチャガタイ系諸集団を集めてチャガタイ・ウルスを吸収したカイドゥ・ウルスとの国境地帯に配備することで、カイドゥの侵攻に対処させる目的があったためと推測されている[2]。 大元ウルスに移住してきたチャガタイ系諸王にはアルグの諸子(カバン、チュベイ、トク・テムル)、アジキの兄弟アフマドの諸子(ババ、トレ)、バラクの息子ベク・テムル、モチ・イェベの孫バイダカンらがいたが、この中で最もクビライに信任され力を持っていたのはチュベイであった。クビライの治世末期〜テムルの治世において、河西〜ビシュバリク方面ではチュベイが最前線にあってチャガタイ系諸王を率い、アジキがその後方に控えるという体制が取られていた。このような状況を反映して、『集史』などの史料では大元ウルス西方の有力者としてチュベイとアジキの名前を並記している[3]。 カイドゥ・ウルスと大元ウルスとの戦いにおいて、主戦場はアルタイ山脈方面であり、中央アジア戦線では大規模な軍事的衝突は比較的少なかった。しかしクビライ・カアンの治世末期、1290年代にはドゥアが大軍を率いて河西方面を急襲することがあった。最前線にあったチュベイはドゥアの奇襲を察知して応戦したが後方にいたアジキは戦闘に参加できず、アジキが直属の上司である安西王アナンダに援軍の要請をした頃にはドゥアは既に退却していた。このため、アジキは罰として9回笞打たれたという[4]。 大徳七年(1303年)にはそれまでアジキに委ねられていた河西一帯のジャムチの管理をチュベイに任せる記述が表れ、この頃には河西地方における軍事代表者としての地位をチュベイに委ねつつあったと見られる。大徳十年(1306年)を最後にアジキに関する記述は史料に表れなくなり、この頃に亡くなったものと見られる[5]。同年4月にはチュベイに「甘粛等の地の軍站事」が正式に一任され、アジキに代わってチュベイが河西における第一人者として扱われるようになった。 『元史』巻107宗室世系表は威遠王阿只吉に威遠王忽都鉄木児と赤因鉄木児という息子がいたと記しているが、『集史』にはナリクを打倒しようとしたオルグ(Örüg)という息子がいたと記されている[6]。 ^ 杉山2004,77頁 ^ 杉山2004,310頁 ^ 杉山2004,316-317頁 ^ 杉山2004,315頁 ^ 杉山2004,319頁

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イルビング・ロサノ – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はロサノ、第二姓(母方の姓)はバヘナです。(Template:スペイン語圏の姓名) イルビング・ロサノ メキシコ代表でのロサノ(2018年) 名前 本名 イルビング・ロドリゴ・ロサノ・バヘナHirving Rodrigo Lozano Bahena ラテン文字 Hirving Lozano 基本情報 国籍 メキシコ 生年月日 (1995-07-30) 1995年7月30日(26歳) 出身地 メキシコシティ

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ハワード・マークス – Wikipedia

この項目「ハワード・マークス」は途中まで翻訳されたものです。(原文:英語版 “Howard Marks (investor)” 03:56, 26 May 2016 (UTC))翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2016年7月) ハワード・スタンリー・マークス(Howard Stanley Marks、1946年4月22日 – )は、アメリカ合衆国の投資家、著述家。シティバンクの役員を務めた後、1985年にTCWグループに加わり、ハイイールド (High Yield)、コンバーティブル・セキュリティーズ (Convertible Securities)、ディストレスト・デット (Distressed Debt)

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アンドロマケ (エウリピデス) – Wikipedia

『アンドロマケ』(アンドロマケー、希: Ἀνδρομάχη, Hippolytos、羅: Andromache)は、古代ギリシアのエウリピデスによるギリシア悲劇の1つ。 トロイア戦争終結後、トロイア王子ヘクトール妻だったアンドロマケを妾としたアキレウスの子ネオプトレモス、その後の妻であるスパルタ王メネラーオスの娘ヘルミオネー等の愛憎が交錯した物語が、テッタリア地方プティーアーのネオプトレモスの館前を舞台に描かれる。 上演された記録は無い。紀元前425年頃の作品と推定される[1]。 目次 1 構成 2 日本語訳 3 脚注・出典 4 関連項目 この節の加筆が望まれています。 日本語訳[編集] 『世界古典文学全集9 エウリピデス』 松平千秋訳、筑摩書房、1965年 文庫版『ギリシア悲劇Ⅲ

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アマドコロ属 – Wikipedia

アマドコロ属(アマドコロぞく、学名 Polygonatum)は、キジカクシ科(Asparagaceae)の1属。別名ナルコユリ属[4]。 学名 Polygonatum は「多くの膝」という意味で、長く連なる地下茎のことである[6]。 英語では Solomon’s seal(ソロモンの印章)と総称する。語源には諸説あるが一説に、地下茎の断面が印章に似るからという[7] 。 北半球の亜熱帯・温帯から極地にかけて分布する[1][5]。 葉序は、近縁種が互生なのに対し、アマドコロ属は互生、輪生、対生が混在している。節で言えば、sect. Verticillata は各種混在しており、sect. Sibirica は輪生、sect. Polygonatum は互生である。近縁種を含めた祖先形は互生であろうが、アマドコロ属の祖先形が何かははっきりしない[5]。 アマドコロ属はこの科で最大の属で、約57種[1][5]~約63種[8] が属す。63種中、20種が中国固有種である[8]。 Tamura

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相模原市立図書館 – Wikipedia

相模原市立図書館(さがみはらしりつとしょかん)は、神奈川県相模原市が運営する公立図書館の総称である。中央区鹿沼台にある相模原市立図書館、相模大野図書館、橋本図書館、相武台分館の4館で構成される。図書館は秦野市、厚木市、大和市、伊勢原市、海老名市、座間市、綾瀬市、愛川町、清川村と神奈川県外の町田市、八王子市、上野原市の在住者が相互利用可能である。 相模原市立図書館[編集] 沿革[編集] 1945年(昭和20年)以降のGHQの民生教育施策の一つに図書館施策があった。全国各地にCIE図書館が設置され、神奈川県下でも10館が設置された。 そのうちの一つとして1948年(昭和23年)末に、CIEと神奈川軍政部の資材を受けて高座郡相模原町にもCIE図書館が設立され、アメリカ野戦の兵舎をほとんどそのまま利用したようなカマボコ型の図書館、「県軍政部相模原図書館兼相模原町立公共図書館」が相模原市立上溝中学校前に誕生した。1949年(昭和24年)11月の軍政部の解散により、12月からは横浜CIE図書館(講和条約発効の1952年(昭和27年)4月よりアメリカ文化センター)となったが、町立図書館としても図書の購入を行い、月2回のレコードコンサートや英語講座を開催し、社会教育関係団体の会議室として利用された。1954年(昭和29年)に相模原町は相模原市になり、市制施行に伴い名称を「相模原市立公共図書館」と改めた。同1955年(昭和30年)の運営状況は蔵書2600冊、年間貸出し冊数4600冊、年間入館者数1万3000余人となり、館長も31年から専任化され、次第に図書館としての体制が整えられた。1965年(昭和40年)に市制施行10周年記念事業として建てられた市民会館の会議室棟の2階に市立図書館が開設された。1972年(昭和47年)8月に移動図書館の「みどり号」が、1974年(昭和49年)4月に図書館協議会も設立され、同年11月に新館が開館した[3]。建物は1974年度神奈川県建築コンクール最優秀賞を受賞した。 立地[編集] JR横浜線淵野辺駅南口から徒歩3分の場所にある。駐車場は施設全体で75台、そのうち身体障害者用のものが2台。料金は無料となっている。また、土日祝日は混雑するため、公共の交通機関の利用を薦めている[6]。 施設概要[編集] 相模原市立図書館の閲覧席数は267席あり、そのうち児童室は25席用意されている。利用者が利用できる集会室も設置されている。書架状況としては集密書架の電動を採用している。相模原市の図書館の中で最も規模の大きい図書館である。学生読書室は200席設けており、また吹き抜けとガラス面によって開架室とつながるよう設計されている。視聴覚ライブラリー(383平方メートル)を併設しているのが特徴である。 障がい者サービスとして、録音図書(カセットテープ)の貸出及び郵送サービスや拡大読書器が用意され、一般の利用可能な朗読CDも所蔵されている[7]。 また複写サービスも利用可能である。視聴覚資料は、館内でビデオ、CD、DVD、LDの視聴ができる。ただし、LDのみ貸出は行っておらず、その他のビデオ、CD、DVDについては本人のみに3点まで貸出可能である。返却の際は、ポストではなくカウンターでの返却となっている[10]。 利用案内[編集] 開館時間 火~金 午前9:30~午後20:00 土・日・祝日 午前9:30~18:00 12月28日は午前9:30~17:00(この日が月曜日にあたる場合には休館となる。) 休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は次の日が休館日となる。) 図書館整備日は1月と4月を除く月の第2木曜日となる。(その日が祝日の場合は次の日が図書館整備日となる。) 年末年始は12月29日~1月4日

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医師たちの恋愛事情 – Wikipedia

『医師たちの恋愛事情』(いしたちのれんあいじじょう)は、2015年4月9日から6月18日まで毎週木曜日22:00 – 22:54に、フジテレビ系列の「木曜劇場」枠で放送されたテレビドラマ。斎藤工のフジテレビの連続ドラマ初主演作でもあった。 あらすじ[編集] 大学病院を舞台に、医師それぞれが「秘密」を抱えながらも、出世争い・恋愛・不倫・三角関係など、さまざまな欲望が渦巻く中で生きていく「医療ドラマ」と「恋愛ドラマ」が融合した「医療ラブストーリー」。 キャスト[編集] 主要人物[編集] 守田春樹〈35〉 演 – 斎藤工 同院外科医。患者の立場に立った物の見方をするが、時に度を越すこともある。仕事優先しながらも千鶴に心を奪われていく。冷静で真面目な性格。学生時代は勉強ばかりしていた。千鶴をだんだん好きになっていく内に、彼女と一緒に朝食を食べる等の行動をやりたがるようになる。 近藤千鶴〈42〉 演 – 石田ゆり子 同院外科医。敏腕な医者だがそのため婚期を逃し、「鉄の女」と呼ばれ、同僚からは煙たがられることも[要出典]。次第に春樹に惹かれていく。冷静な性格で結婚願望が無い。奈々・友子と仲が良く、一緒につるんでいる事が多い。 河合奈々〈31〉 演 –

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コインブラの旧大聖堂 – Wikipedia

旧大聖堂の西ファサード コインブラの旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)は、ポルトガルのコインブラにある、同国で最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。1139年のオーリッケの戦い後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、首都と定めたコインブラに建設された大聖堂である。初代コインブラ伯でモサラベ(アラブ領に住んでいたキリスト教徒)でもあったシスナンド・ダヴィデスはこの大聖堂に葬られた。 コインブラ(古代ローマ時代はアエミニウム)は、市から南へ約16キロメートル離れたコニンブリガが468年にスエビ族に侵略され、破壊された後にキリスト教司教座となった町である。コインブラの旧大聖堂以前にどのような聖堂が存在していたかは定かでないが、前代の建物はかなり傷んでいたようである。そこでアフォンソ1世はオーリッケの戦い後、新たな大聖堂建設に資金を提供することを決めた。司教ミゲル・サロマォンの資金援助によってこの大事業の遂行が決定的となり1162年ごろに着工された。大聖堂は1184年に一般に公開された[1][2] 。1185年には2代目のポルトガル王となったサンシュ1世がこの大聖堂で戴冠していることから、このころには建設がかなり進んでいたと考えられる。基本的な建物の建設は1300年代前半で終わり、回廊の工事がアフォンソ2世治下の1218年に始められた。 ロマネスク様式の大聖堂建設計画は、当時リスボン大聖堂建設を指揮し、コインブラを定期的に訪れていたフランス人と思われる建築家ロベール(ロベール親方とも呼ばれた)によって進められた。現場の監督はやはりフランス人と思しきベルナール親方からポルト周辺の教会建設に携わったソエイロ親方に引き継がれた。 16世紀、大聖堂に対して数々の改造が実施された。礼拝堂では、本堂の壁と柱がタイルで覆われ、ファサード北側には、ポルタ・エスペシオーサと呼ばれる巨大な扉口が追加された。また、アプスの南側礼拝堂はルネサンス様式で建てなおされた。ただし、大聖堂の基礎的な建築構造はロマネスク様式のままである。1772年、ポンバル侯によるイエズス会追放の数年後、司教座は古い中世のこの大聖堂からマニエリスムのイエズス会派教会、コインブラの新大聖堂へ移された。 コインブラの旧大聖堂は、レコンキスタ時代からほぼそのまま現在まで残る唯一のロマネスク建築である。ポルト大聖堂、ブラガ大聖堂、リスボン大聖堂など他都市のものは後世に大きく手が入れられている。 外観[編集] 外から眺めると、旧大聖堂は狭い窓と銃眼付き胸壁をもち高さがあるため、小さな要塞に似た姿である。これは、ムーア人と交戦中の時代に建てられたことを意味している。西ファサードの中ほどに扉口と、扉口に似た窓を上部に持つ塔のような建物がある。扉口も窓もどっしりとした、アラビア風・ロマネスク前派の影響を受けたモチーフで飾られている。大聖堂は丘を下る場所に建てられているため、ファサードは角の厚い控え壁で補強されている。 北ファサードには、ポルタ・エスペシオーサと呼ばれるルネサンス様式の扉口があり、腐食が進んでいるものの、見る者の目を惹く。この3階建の扉口は1530年代にフランス人彫刻家ジャン・ド・ルーアンにより建てられた。東側には半円形アプスを有する三つ葉型の放射礼拝堂を見ることができる。南側礼拝堂はルネサンス様式で再建されているが、主礼拝堂と北側礼拝堂はロマネスク様式のままである。翼廊交差部の上部は細部にバロック要素を持つロマネスク様式のドームがある。 内装[編集] 聖堂内部は2つの側廊を持つ身廊と小型の翼廊からなっている。東側のアプスは三つ葉型の礼拝堂がある。身廊は半円筒天井(トンネルヴォールト)に覆われている。身廊は上階に広々としたトリフォリウムがある。内部の全ての円柱には柱頭装飾が施されており、主に野菜、動物、幾何学紋様のモチーフである。ランタン塔の窓と西ファサードの大きな窓は、大聖堂内に自然光を取り入れる光源である。 アフォンソ2世治下の13世紀初頭に建てられた回廊はロマネスクからゴシック様式への過渡期の作である。中庭に面したゴシック様式の特徴を持つ尖頭アーチはそれぞれロマネスク様式の半円形アーチ2つを取り囲む。 柱頭[編集] ロマネスク様式の特徴が最もよく表れているのは柱頭に施されたおびただしい数の彫刻である。その数約380にのぼる彫刻群はポルトガル国内でも有数の規模である。彫刻群はロマネスク以前の様式やアラブ的性格の影響を受けており、モチーフとなっているの野菜や幾何学紋様が主であるが、中には対面するケンタウルスや四足獣、鳥類の彫刻もある。人や聖書をモチーフとしたものはない。人物像の彫刻が存在しないのは、大聖堂の工事に関わっていた美術工の大半が12世紀にコインブラへ移住してきたモサラベであったためと思われる。モサラベの芸術家たちは、イスラム教の禁忌である偶像崇拝を避けて人間の姿を芸術に用いなかった。 墓[編集] 側廊沿いには、横たわる像を墓碑に持つゴシック時代(13世紀から14世紀)の墓が残されているが、浸食が激しいものもある。これらの中には、14世紀初頭にビザンツからポルトガルへ来てディニス1世妃となったイサベルと、同行して来た貴婦人ヴァタサ(Vataça

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