Month: August 2021

あばれ祭り – Wikipedia

あばれ祭(あばれまつり)または宇出津のキリコ祭り(うしつのきりこまつり)は、石川県鳳珠郡能登町宇出津(うしつ)で、毎年7月第1金曜日および土曜日に行われるキリコ祭りである。以前は7月7日、7月8日に行われていた。なお1989年(平成元年)10月23日に、県の無形民俗文化財に指定されている[1]。 「あばれ祭」が正式名称。送り仮名は必要ない。 宇出津の八坂神社の祭礼に、酒垂神社(さかたるじんじゃ。地元での呼称は「さかたりじんじゃ」)・白山神社(はくさんじんじゃ)の宮司が奉仕する祭礼で、装飾性こそ少ないが、構造的には最も複雑な形状をしているキリコとその激しい動き、そして御輿の「あばれ」の勇壮さが特徴である。 宇出津湾をはさんで向き合うように立つ酒垂神社・白山神社のそれぞれの氏子が担ぐ八坂神社の御神輿(各1台)と宇出津の各町内で管理運営される40本以上のキリコが町内を練り歩く。 1997年(平成9年)12月4日、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選ばれた「能登のキリコ祭り」の1つに含まれる[2]。また2015年(平成27年)4月24日には、「灯り舞う半島 能登 〜熱狂のキリコ祭り〜」の中の1つとして日本遺産に認定された[3]。 2020年(令和2年)は、新型コロナウイルスの影響で記録が残る限り、初めて神輿巡行とキリコの運行は中止となった[4][5]。しかし、御神事としての例祭は7月5日に八坂神社で執り行われ、同時に新型コロナウイルス感染防止と邪悪な疫病神から守るため鎮疫祭も併せて斎行した。鎮疫祭の実施は宮司棚木家の文書によると1860年(万延元年)にコレラの終息を願って執り行われたとの記録があり160年ぶりの斎行となる。鎮疫祭で祈祷された御札は宇出津地区全氏子に配布され、「コンセールのと」内の「たびスタ」でも限定500枚が頒布された。 奉燈(キリコ)[編集] キリコは各町内の多数の男女50人から80人によりかつがれ、キリコの上には子供たちが多数乗り、子供や若い女性が笛を吹き鉦を鳴らし太鼓を叩く。そしてキリコは乱舞する。 キリコをかつぐ時に肩の所に紐付きのざぶとんを当てるが、このざぶとんの柄がきれいで見ていて楽しい。 多数のキリコが「デデンコデンデン・デンコデンデン」というキリコ太鼓の音に合わせた「いやさかやっさい、さかやっさい」のかけ声と共に町の中心部に多数集結してくる様は壮観である。 キリコが乱舞する時には鉦・太鼓と同じリズムで「ちゃちゃんかちゃんちゃん・ちゃかちゃんちゃん」というかけ声もかかる。 1日目のクライマックスには能登町役場前に並んだ大松明の周りをキリコが乱舞する。 御輿(みこし)[編集] 御輿は屈強な男達にかつがれ昼間は町内を練り歩き、夜のクライマックスでは水中や火中に放り込まれる。 御輿は「ちょうさ・ちょうさ」のかけ声でかつがれ、町内各地でとめて神主が祝詞をあげて町々の平和と繁栄を祈願する。 2日目のクライマックスでは八坂神社前の焚き火の中に御輿は何度も投じられたりする。 御輿をかつぐ男たちは火中の御輿によじ登ったり、また燃えている御輿をかついで火のまわりを回ったりし、最後は八坂神社の拝殿に運び込み、神主が祝詞をあげ御輿に酒を掛ける。 人々[編集]

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セルゲイ・ダヴィドフ (フィギュアスケート選手) – Wikipedia

セルゲイ・ダヴィドフSergei Davydov 2007年欧州選手権でのダヴィドフ 選手情報 生年月日 (1979-03-02) 1979年3月2日(43歳) 出生地 ロシア ロストフ・ナ・ドヌ 身長 159 cm[1] 元コーチ エレーナ・チャイコフスカヤウラジミール・コーチンニーナ・ルチキナS. Melechina 元振付師 エレーナ・チャイコフスカヤウラジミール・コーチンS. Rykov 所属クラブ

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広木康二 – Wikipedia

広木 康二(ひろき やすじ、1929年(昭和4年)5月27日[1] – 2015年(平成27年)10月4日[1])は、日本の政治家。群馬県富岡市長を3期12年務めた。富岡市文化協会名誉会長、群馬県猟友会理事、全国市長会評議員、全国市議会議長会理事などにも着任した[2]。 群馬県出身[1]。1946年(昭和21年)富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を卒業した[1]。 富岡市議会議員、同議長を務めた[1]。1983年(昭和58年)現職の市長を破って富岡市長に当選した[2]、2期目となる1987年の市長選でも2位に大差をつけて当選した[2]。富岡まつり実行委員会の会長も兼務し、1988年の天皇陛下の体調不良に際しては同年10月15-16日開催予定だった第14回富岡まつりの中止を決定している[3]。1991年9月8日の市長選では、『人を大切にする行政』を訴え、新人の建設会社役員今井清二郎(50歳)に僅か36票差の僅差で3選した(当時62歳)[4][2]。選挙戦は保守系同士の一騎打ちとなり、福田康夫、中曽根康弘両元総理大臣、小渕恵三自民党幹事長(当時)の3系列が入り混じる乱戦となったが、小渕系と中曽根系の大半から支持を受け、「市政の継続」を訴えた広木が、福田系と中曽根系の一部から支持され「世代交代」を訴えた今井を振り切った[2]。開票作業を見守る同市七日市の広木の選挙事務所には、中曽根弘文参院議員や佐田玄一郎らも駆けつけ、僅差の開票結果の行く末を見守った[2]。広木は3期目を「8年間の市政の集大成」として、工場の誘致実績や計画中の美術館、博物館の建設といったこれまでの成果を市民にアピールした[2]。 落選の今井は、市選挙管理委員会と県選挙管理委員会に当選無効の申し立てを行い、富岡市選挙管理委員会だけでも5回の委員会を開催して誤記などがある投票用紙の解釈について検討された[5]。1991年10月、市選挙管理委員会は今井の申し立てを却下した[5]。県選挙管理委員会は11月29日に投票用紙の再点検を行ったが、その結果12月になってから市選挙管理委員会と同じく今井の申し立てを棄却する決定を下した[6]。 1992年度の予算では、胃、乳、子宮、大腸癌検診の費用を、全額市の負担とする癌検診委託事業に3000万円、要介護老人の入浴サービスを民間老人ホームに外部委託する、デイサービス事業入浴施設整備補助に2000万円など、福祉関連を充実される内容であった[4]。また県道富岡内匠線の整備事業に5億700万円、1993年開通予定の上信越自動車道の富岡インターチェンジと富岡市街を結ぶアクセス道路の整備にも予算を割いた[4]。1985年度から工事を行っている上黒岩の北部運動公園整備事業では3億9300万円を計上し、バレーボール、バスケットコート、トレーニングルーム、柔道室、ジョギングコースなどを備える「多目的体育館」(延べ床面積約5400メートル、地上2階建て)の建設に着手した[4]。その他にも、富岡市新庁舎建設基金積立金として1億円、富岡総合病院増改築・公立かぶら病院(仮称)建設事業1億3400万円、中学校校庭拡張事業1億4100万円、東富岡駅北地区土地区画整理事業9700万円を割り当てた[4]。このため、歳出は前年度7.4%増の177億8850万円となったが、市債の発行は前年度35.2%減の8億8500万円に減らし、不足分は市の財政調整基金約21億6000万円を切り崩して穴埋めした[4]。 1994年には富岡市発注の公共工事を巡る贈賄容疑事件があった[7]。東京都中央区の浅野工事の社員が、上水道工事の落札に便宜を図ってもらうなどの目的で1992年8月に広木の自宅を訪ねて500万円を渡したとされる[7]。広木は20日後に現金を返却した[7]。返却が20日後になった理由について広木は「見知らぬ男が訪ねてきて、帰った後に500万円が入った茶封筒が置いてあったのに気が付いた。訪問してきた男が誰だか分からなかったので、市長室の机の中で保管していた。後になってその人物が市役所内を歩いているのを見つけ、浅野工事の富岡営業所長だと判明したので返却した」と説明した[8][9]。広木はその日のうちに浅野工事の営業所に現金を持参したが「これは表に出る金ではないので、何かの足しにしてください」と営業所長は受け取りを拒んだという[8]。そこで広木は、「富岡市ではこのようなお金は一切受け取らない。あなたの企業に対する忠誠心は分かった。これは収めていい仕事をしてください」と伝え、現金を返却したとされる[8]。この事件で浅野工事の関係者数人が贈賄で逮捕された[7]。警察に現金を届けず、市長室に保管していた理由については「市の入札で過去に見かけた顔だったので、再び会うという確信があった。警察に届けると彼が逮捕されてしまうと思った。一線の営業マンだけが逮捕され、上層部がヌクヌクとしていると思うと彼が気の毒になった。」と語った[8]。広木は3期在任して1995年(平成7年)に引退した[1]。 1995年の市長選では、元富岡地域医療事務組合副管理者の田村泰彦が広木の後継候補者とされたが、今井清二郎に1074票差で敗れた[10]。1994年の市長選でも田村と今井の一騎打ちとなったが、今井が2選を果たしている[10]。 2015年10月4日腎不全で死去[11]。死去時の住所は富岡市別保[12]。同年10月30日に正五位[12]。 ^ a b c d e f 『現代物故者事典

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タマリアン人 – Wikipedia

タマリアン人、タマリアン星人またはタマリア人(Tamarian、別名「ターマの子供たち (Children of Tama)」)は、アメリカのSFテレビドラマ『新スタートレック』第102話「謎のタマリアン星人」(原題“Darmok”)に登場する架空の異星人。 縦に長い鼻の穴・厚ぼったい目蓋・頭部と一体化した耳・鼻の頭から頭頂部にかけての隆起が特徴。頭髪はなく、暗いオレンジ色の肌をしている。 翻訳不能とされた言語[編集] 何よりも重大な事はタマリアン人の話す言語は全く持って翻訳不能である事にある。それは24世紀宇宙艦隊の、数千言語規模の言語パターンを蓄積し、初遭遇種族とも何の問題もなく意思疎通が可能な「異星言語翻訳マトリクス」が通用しないという異様さであった。なぜならば彼らの話す構文はほとんどが固有名詞で構成され、まったく意味をなさないのである。これは彼らの言語がすべて「引用・比喩」で構築されているからである。 彼らは他の多くのヒューマノイド種族とは異なった精神構造をしており、自分達の神話や歴史上の逸話を引用してコミュニケーションを図る。このためタマリアン語は一見意味不明な言葉の羅列にしかならず、彼らの神話を知らない者にとっては意思疎通が不可能である。 エンタープライズDのディアナ・トロイ少佐の説明では、たとえば「バルコニーのジュリエット」がロマンスの意味となるくだりに似ている。この時問題となっていたのは「タナグラのダーモク」の意味であったが、タナグラは地名・ダーモクは人名であり文法を掴むまでは辿り着いたものの、しかしそのダーモクの逸話を知らない限り彼らの意図は理解できないのである。 翻訳機対応[編集] 『スタートレック:ローワーデッキ』12話「ケイション 彼の目は開かれた」にて宇宙暦58001.2の時点でU.S.S.セリトスにタマリアン人の宇宙艦隊士官・ケイション中尉が登場。地球人と何の問題もなく会話が成り立っており、TNG102話「謎のタマリアン星人」の宇宙暦45047.2から劇中時間で13年を経て惑星連邦の翻訳機がついにタマリアンの言語に対応している様子が描かれている。 慣用句[編集] カラシュ、立ち上がる時 危険を冒してもやらなければならないこと。 顔を濡らした、キアジの子 感動。 シャカ、壁は崩れ落ちる 失敗。 ジンダ、黒い顔と、赤いまぶた

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本気汗 – Wikipedia

ポータル ラジオ 『本気汗』(まじる)は、1999年10月 – 2000年9月29日までCBCラジオ(中部日本放送)で放送された夜の若者向け夜ワイド番組。 目次 1 概要 2 放送時間 3 パーソナリティ 4 コーナー 4.1 高田寛之&シュードの担当コーナー 4.2 海砂利水魚の担当コーナー 4.3 松村邦洋の担当コーナー 5

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ジュニーエ – Wikipedia

この記事は語句の内部リンク、見出しのマークアップなどスタイルマニュアルに沿った修正が必要です。ウィキペディアの体裁への修正にご協力ください(ヘルプ)。(2017年8月) 座標: 北緯33度58分11秒 東経35度36分56秒 / 北緯33.96972度 東経35.61556度 / 33.96972; 35.61556 ジュニーエ جونيه 市 ジュニーエ ジュニーエの位置 北緯33度58分11秒 東経35度36分56秒 / 北緯33.96972度 東経35.61556度

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タマゴグモ科 – Wikipedia

タマゴグモ科 Onopidae はクモ下目のクモの1群。体長4mm以下の小さなクモで、あまり目立ったものはない。 体長は4mmまでの小型のクモ類[1]。背甲は縦長か長さと幅が同じくらいで、盛り上がり方は種によって異なるが、中窩(頭部と胸部の境目の中央に生じるくぼみ)はない。眼は6眼で、比較的大きくて互いに接近して配置するが、その範囲(眼域)は頭部の幅の半分以上を占める[2]。特に中眼が大きく、眼域の形は横長となっている。上顎は長いが、その先の節に当たる牙は短く、牙堤には歯がない。下顎には小鋸歯がある。腹部は卵形で下面に書肺が1対あり、気門は書肺気門と器官気門が各1対ある。気管気門は書肺気門のすぐ後ろにあるため、一見ではトタテグモ下目のもののように書肺が2対あるかのように見える[3]。糸疣には篩板はなく、糸疣は3対で前疣と後疣がほぼ同じ長さとなっている。間疣はないか、ある場合には板状で1対の毛がある。腹部の背面と腹面に硬化したキチン板(板状体という)を持つ例がある。これは柔らかな腹部を物理的に保護すると思われるが、同時に乾燥に対する防御の効果を持つとも考えられる[4]。単性域類に属し、雄の触肢器官、雌の雌性生殖器は共に単純な構造となっている。 Bannana crassispina雌の各部 生態など[編集] 土壌性の種が多いが、樹皮の下や樹冠に生息するものもある[5]。主として暗い湿った場所に生息するものであり、人為的な環境にはなかなか馴染まないものが多い[6]が、日本ではオキツハネグモが人家や倉庫の中の物陰などに生息している[7]。網を張らない狩猟性のものである[8]。 分布と種[編集] 世界の熱帯域から暖温帯域に500種が知られるが、熱帯地域には未記載種が数多くいると考えられている[9]。 単性域類のイノシシグモ上科 Dysderoidea に所属するとされる[10]。 下位分類としては上記のように500種が知られ、70属に分類されている。なお腹部の背面と腹面に板状体のあるものをダニグモ亜科 Gamasomorphinae 、なくて柔らかな腹部のものをタマゴグモ亜科 Oonopinae と大きく分ける。ただし板状体は幼生では明瞭に発達しない場合があり、判別が難しくなる例もある[11]。実際に日本からタマゴグモ Oonopus corticalis

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北花沢のハナノキ – Wikipedia

北花沢のハナノキ。2019年9月6日撮影。 北花沢のハナノキ(きたはなざわのハナノキ)は、滋賀県東近江市北花沢町にある国の天然記念物に指定されたハナノキである[1]。 ハナノキ(花の木、学名 Acer pycnanthum)は長野県・岐阜県・愛知県の、おもに木曽川流域の湿地周辺に自生するカエデ科カエデ属の落葉樹である[2]。北花沢のハナノキの生育地の近隣にも同じく国の天然記念物に指定された南花沢のハナノキがあるが、いずれも自生地である木曽川流域の自然分布域からは外れた場所にあるため、両樹とも他所から移植されたものと考えられている[3]。 国の天然記念物に指定されたハナノキは日本全国に自生地としてのものが6件[4]、個体としてのものが3件(株)ある[4]が、個体指定木3株中の2株が互いに600メートルほどしか離れていない北花沢および南花沢のハナノキである。いずれもハナノキの巨木として有数のものであることから[5]、それぞれが1921年(大正10年)3月3日に国の天然記念物に指定された[1][6]。 北花沢のハナノキの位置 後継樹の幹の表面。2019年9月6日撮影。 北花沢のハナノキのある滋賀県東近江市北花沢町は、湖東三山のひとつ百済寺に程近い水田の広がる一帯で、国の天然記念物に指定された北花沢のハナノキは国道307号北花沢交差点北東角[7]、標高約160メートル付近の平坦地に生育している。北花沢町という地名は、このハナノキ(花の木)からきたもので、南南西約600メートルの場所にある同じく国の天然記念物の、南花沢のハナノキのある南花沢町と同様、古くから南北花沢地区ではこの樹木が人々に親しまれ[3]、ハナノキの葉1枚持ち帰らず霊木神木として崇められてきたという[8]。 ハナノキは雌雄異株であり北花沢のハナノキは南花沢のものと同様雄株である[5]。天然記念物に指定された北花沢のハナノキの周囲は2002年(平成14年)3月23日に竣工した「ハナノキ公園」という小さな公園が整備されており、指定木以外に3本のハナノキが後継樹として植樹されている。指定木は樹齢約300年以上と推定されており、根元の周囲約4.9メートル、高さ約17.27メートル、目通り幹囲約2.8メートル、地上から約3メートルの高さで6本の枝に分かれている[9]。昔は根元から2本の太い幹に分かれていたが1866年(慶応2年)の暴風で1本が折れ[5][9]、さらに1950年(昭和25年)に襲来したジェーン台風によって倒れてしまった[5][10]。その後、地域の人たちの手厚い保護の手が加えられ樹勢を回復しつつあるが[10]、残存しているのはかつての半分ほどの大きさで、昔は根元の総周囲約8メートルに達していたという[9]。今日では幹の内部はほとんどが空洞で樹勢はあまり良い状態ではない[5]。 南花沢のハナノキと同様に聖徳太子お手植えの伝説が残されており[5][11]、地区に残されている『北花沢共有文書』によれば[10]、1805年(文化2年)、当地の庄屋西澤甚五兵衛が、風で折れた北花沢のハナノキの枝で阿弥陀如来像を新たに彫り、比叡山正覚院不動(延暦寺東塔にあった天台密教の道場)二十世豪恕より開眼供養を受けたという[12]。1829年(文政12年)、彦根藩第11代藩主井伊直中が天寧寺を建立する際、新たに彫る本尊に、花沢のハナノキを霊木として求めたが、北花沢の人々は主君とはいえ古くから崇めたハナノキを差し出すことに応じられず、庄屋の甚五兵衛はかつて折れた枝から阿弥陀如来を彫った残りの枝を献上したところ、村人の信心に直中は感心し、この枝を使って新たに本尊を彫刻させて天寧寺に安置し、残った枝を使って地蔵菩薩を作り甚五兵衛に与えたという記録が残されており[12]、当時の人々からも聖徳太子ゆかりの霊木として大切に扱われていた様子が分かる[10]。また、1910年(明治43年)、当地を訪れた当時の皇太子(後の大正天皇)がハナノキに非常に興味を示したため、翌年10月、ハナノキの苗木2鉢を献上したという[12]。 ハナノキは湿地など絶えず水の湧き出る場所を好み[5]、北花沢のハナノキも指定木のすぐ側には、かつては豊富な湧水があったという小さな池があるが、今日では湧水量も減り、それにくわえトラック等車の往来の激しい国道307号線がすぐ隣を走っており、乾燥や大気汚染に弱いハナノキの今後が懸念されている[10]。その一方で林野庁所管の国立研究開発法人森林研究・整備機構の関西育種場(岡山県勝田郡勝央町)では、北花沢のハナノキと南花沢のハナノキの挿し木による増殖に成功し、2005年(平成17年)11月、苗木にした2本のハナノキを鉢植えにして北花沢および南花沢へ里帰りさせた[13]。整備されたハナノキ公園には2代目、3代目のハナノキが植えられ大きく成長している[11]。 指定木は樹勢が衰えている。 後継樹は3本あり、いずれも樹勢は良好である。 交通アクセス[編集] 所在地 滋賀県東近江市北花沢町398[7]。 交通 ^ a

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