Month: August 2021

神戸市立谷上小学校 – Wikipedia

神戸市立谷上小学校(こうべしりつ たにがみしょうがっこう)は、兵庫県神戸市北区山田町下谷上にある市立小学校。 年表[編集] 1873年(明治6年) – 浄光寺に上谷上小学校が、寿福寺に下谷上小学校がそれぞれ開校 1876年(明治9年) – 上谷上小学校と下谷上小学校を統合し、天王神社(現・下谷上八阪神社)に誠心小学校を設置 1881年(明治14年) – 現在地に移転 1887年(明治20年) – 山田村立谷上簡易小学校に改称(八部郡第五番学区、修業年限3年) 1891年(明治24年) – 山田村立谷上尋常小学校に改称(修業年限4年) 1908年(明治41年) –

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アルバート・グレイ (第4代グレイ伯爵) – Wikipedia

第4代グレイ伯爵アルバート・ヘンリー・ジョージ・グレイ(英語: Albert Henry George Grey, 4th Earl Grey, GCB, GCMG, GCVO, PC、1851年11月28日 – 1917年8月29日)は、イギリスの政治家、貴族。 1904年から1911年にかけてカナダ総督を務めた。英首相の第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイの孫にあたる。 1851年11月28日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で生まれる[3]。父は第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(元首相)の次男である陸軍中将チャールズ・グレイ(英語版)。母はその夫人キャロライン(第2代準男爵サー・トマス・ハーヴィー・フォークワーの娘)。アルバートは次男であるが、兄チャールズは1855年に早世している[4]。 ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学し、マスター・オブ・ローズ(英語版)(LLM)の学位を取得[3][5]。 1880年から1885年にかけて南ノーサンバーランド選挙区(英語版)から選出されて自由党所属の庶民院議員を務める。ついで1885年から1886年にかけてはタインサイド選挙区(英語版)から選出される[5][3]。1894年10月9日に伯父の第3代グレイ伯爵ヘンリー・グレイから第4代グレイ伯爵の爵位を継承した[5][3]。 南ローデシア行政官(英語版)や勅許会社の社長を経て、1904年からカナダ総督に就任し、1911年まで務めた[5][3]。総督として1906年から1908年にかけてはケベック市創設300周年記念行事に尽力した。1907年には日本の皇族伏見宮貞愛親王を出迎え、その翌年にはケベックで皇太子ジョージ(後のジョージ5世)を出迎えている[6]。1907年には「演劇音楽グレイコンクール」を創設した[6]。1909年にはカナディアン・フットボール・リーグのプレーオフ優勝チームに与えられるグレイ・カップを寄贈した[6]。総督官邸リドー・ホール(英語版)に総督用の書斎と温室を追加した[6]。 1911年の退任後、イギリスへ帰国。王立植民地協会(英語版)の会長などを務めた[6]。

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アレックス・ラファエウ・メスキーニ – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “アレックス・ラファエウ・メスキーニ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年3月) アレックス・ラファエウ・メスキーニ(Alex Raphael Meschini, 1982年3月25日 – )は、ブラジル・パラナ州出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(左サイドハーフ)。 2004年3月11日、グアラニFCから45万ユーロ、4年契約でSCインテルナシオナルへ移籍した。 2008年10月12日、故障で離脱したジュリオ・バチスタの代わりにブラジル代表に初招集され、同年10月12日の2010年南アフリカワールドカップ・南米予選・ベネズエラ戦の71分にカカとの交代でピッチに立ち、代表デビューを果たした。 2009年2月20日、移籍金5万ユーロで、FCスパルタク・モスクワへ移籍。契約期間は2013年12月31日まで。2011年5月17日、SCコリンチャンス・パウリスタに移籍した。コリンチャンスではコパ・リベルタドーレス制覇に主力として貢献。2012年7月17日、アル・ガラファに移籍した。2013年7月20日、古巣SCインテルナシオナルへ復帰した。 タイトル[編集] クラブ[編集]

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小笹芳央 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “小笹芳央” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年2月) 小笹芳央(おざさよしひさ、1961年5月-)は日本の実業家、馬主。組織人事コンサルタント。1986年リクルート入社。2000年に経営コンサルティング会社リンクアンドモチベーションを設立。オンテックス会長の小笹公也は実弟。 大阪府大阪市生まれ。大阪府立住吉高等学校、早稲田大学政治経済学部を卒業後、1986年リクルート入社し、人事部で採用活動などに携わる。組織人事コンサルティング室長、ワークス研究所主幹研究員などを経て、2000年4月株式会社リンクアンドモチベーション設立、同社代表取締役社長就任。2013年1月グループ拡大に伴い全体の代表権を持つ代表取締役会長CEO就任。現在、グループ14社の会長を務める。 馬主として[編集] 2014年にJRAで馬主登録[1]。自分の名前「芳央」の音読みから「ホウオウ」を冠名としている[1]。2014年の日本ダービー当日に知人から東京競馬場の来賓用特別室「ダービールーム」に招かれ、日本ダービーを観戦して感動したのがきっかけ[1]。冠名「テーオー」の小笹公也は実弟。 主な所有馬[編集] 管理者向け モチベーション・ドリブン 働き方改革で組織が壊れる前に(2019年 KADOKAWA) 松下幸之助に学ぶ モチベーション・マネジメントの真髄 ―ダイバーシティ時代の部下の束ね方―(2017年

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シゲトゥ・マルマツィエイ – Wikipedia

シゲトゥ・マルマツィエイ (ルーマニア語: Sighetu Marmaţiei / Sighetul Marmaţiei; ウクライナ語: Сигіт; ハンガリー語: Máramarossziget; ルシン語: Syhot; イディッシュ語: סיגעט-Siget‎)は、ルーマニア、マラムレシュ県の都市。「シゲトゥ」は「シィゲトゥ」とも表記する[1]。シゲト(Sighet)とも呼ばれる。ウクライナのザカルパッチャ州と接し、イザ川近くにある。ハンガリー語名マーラマロシゲトは、「マーラマロシュ県(ハンガリー王国時代の県)の島(sziget = 島)」を意味する。 2002年調査時の市人口は44,185人だった[2]。 シゲトのシナゴーグ 1910年の調査によると、市は人口21,370人で、そのうち17,542人

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志ほせ饅頭 – Wikipedia

志ほせ饅頭(しおせまんじゅう)は、東京都中央区明石町にある塩瀬総本家が製造・販売する薯蕷(じょうよ)饅頭[1]。擂り下ろした大和芋と米粉で皮を作り[2]、小豆餡を包んで蒸し上げた一口饅頭で、上面に「志ほせ」の焼印が押してある[1]。 製造には機械を使わず、徹底して手作りにこだわっている[3]。日本の饅頭は、虎屋系の酒まんじゅうと塩瀬系の薬(やく)まんじゅうの二系統があるが[4]、志ほせ饅頭は後者の名を650年余にわたり受け継いできた直系ブランドにあたり[1]、塩瀬総本家は日本の饅頭発祥の店ともされる[5]。 塩瀬総本家 本店(東京都中央区明石町) この饅頭のルーツは、南北朝期の帰化宋人・林浄因(りんじょういん)に遡る。浙江省生まれの浄因は[6]、宋の高名な詩人・林和靖の後裔と伝えられ[1]、元に渡って修業中の龍山徳見が寄宿していた禅寺で饅頭(マントウ)職人を務めていた[7][8]。 1341年に龍山が帰国する折にはその俗弟子となって付き従い[6]、漢國神社がある今の奈良市漢国町の林小路という場所に居を構え、肉などを詰めて作るマントウをヒントに自ら考案した「饅頭」という菓子を作り始めた[9]。それは、戒律で肉食できない日本の禅僧のため[6]、小豆餡に甘葛煎(あまずらせん)と塩を加えた漉し餡を具とし、小麦粉を水で練り発酵させた老麺(ラオミェン)を使って皮とするものだった[10]。甘味といえばせいぜい柿や栗の干したものしかない当時の日本において[11]これは革新的な菓子であり[10]、寺院や上流貴族の間で大評判となった[11]。 場所柄これは「奈良まんじゅう」と呼ばれ[1]、形状は底が扁平で上が丸く膨れ上がり[12]、浄因が表に紅で「林」の一字を描いていた[1]。浄因がこの饅頭を後村上天皇へ献上したところ、天皇はこれを大いに褒め、浄因を寵遇して宮女を賜った[13]。彼女との婚礼に臨み、浄因は紅白饅頭を作って諸方に配り、これが慶事の紅白饅頭の嚆矢となった[14]。浄因は帰化し[1]二男二女をもうけたが[13]、龍山禅師が没すると寂しさのあまり帰国してしまい、饅頭作りは残された妻子だけで続けられた[15]。 ほどなく一族の一部は京都に移り、奈良の南家と京都の北家に分かれた[16]。京都の一族はさらに京都北家と京都南家に分かれてそれぞれ繁盛し[16]、京都北家はのちに「塩瀬」の名を冠して現在の塩瀬総本家に繋がり、京都南家からは戦国時代に林宗二が出て文化人として活躍することになる[17]。奈良の南家は大坂夏の陣の後に貸屋業へ転じ饅頭屋は廃業した[18]。 浄因の孫の林紹絆は中国に渡って製菓を学び、薯蕷饅頭の製法を会得して帰国した[10]。以降、それまでの小麦粉に代わって山芋と米の粉をこねた皮で餡を包むようになり[11]、これが塩瀬系の薬まんじゅうの原型となった[6]。現在の塩瀬総本家はこの当時のレシピを今も守り味を変えていないという[19]。1462年に紹絆の店は烏丸三条へ移転したが[6]、応仁の乱による荒廃で商売どころではなくなり、三河国の塩瀬村(現在の愛知県新城市塩瀬)へ疎開した[11]。やがて乱が収まり京に戻ると、長く居た「塩瀬」の名を屋号に据えるようになった[11]。紹絆は饅頭を時の後土御門天皇へ献上し、五七の桐の紋を賜った[6]。(後には後水尾天皇から「塩瀬山城大掾」[20]と称することも許された[21]。)塩瀬の饅頭は評判を呼び、8代将軍足利義政から「日本第一番 本饅頭所 林氏鹽瀬」の直筆の看板を貰い受け[6]、代々御所の御用を務めることになった[6]。 塩瀬の饅頭は織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康といった著名な戦国大名に献上され愛好された[11]。長篠の戦いの折には、家康出陣にあたって林宗二が「本饅頭」[22]を献上し、家康はこれを兜に盛って軍神に供え、戦勝を祈願した[23]。 江戸時代になると、塩瀬の一族から宗需が江戸に移り、そこで新たに塩瀬饅頭の暖簾を構えた[24]。関東で塩瀬の饅頭は「下りもの」として珍重されて飛ぶように売れた[25]。1777年刊の『江戸富貴地座位』という富貴番付には「菓子の部」として、一位に林氏塩瀬(中橋)を挙げている[26]。方外道人の『江戸名物詩』では、次のように塩瀬の店を詠んでいる[26]。 伝馬町頭塩瀬店 饅頭元祖製造尤新毎朝蒸立皮如解 争買世間下戸人 塩瀬の饅頭は将軍家御用達、明治維新後は宮内庁御用達となり[11]、店は伝馬町、有楽町と場所を変え、戦災後は明石町の現在地で営業している[1]。 ^ a b

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バルレッタ=アンドリア=トラーニ県 – Wikipedia

バルレッタ=アンドリア=トラーニ県 Provincia di Barletta-Andria-Trani バルレッタ=アンドリア=トラーニ県(バルレッタ=アンドリア=トラーニけん、イタリア語: Provincia di Barletta-Andria-Trani)は、イタリア共和国プッリャ州に属する県の一つ。バルレッタ、アンドリア、トラーニがともに県都とされている。このうち、アンドリアが最大の人口を有する。 2004年にフォッジャ県とバーリ県の一部を分割して編成された(自治体としての発足は2009年)、イタリアで最も新しい県の一つである(2013年3月現在)。 位置・広がり[編集] プッリャ州北部に位置し、北東側はアドリア海に面する。最大の都市アンドリアは、州都バーリから西北西へ約50km、フォッジャから東南東へ約68km、ポテンツァから北東へ約77km、ナポリから東北東へ約175km、首都ローマから東南東へ約328kmの距離にある。 バルレッタ=アンドリア=トラーニ県概略図 隣接する県は以下の通り。 主要な都市[編集] 2001年の国勢調査に基づく居住地区(Località abitata)別人口統計[2]によれば、人口3万人以上の都市は以下の通り。 行政区画[編集] バルレッタ=アンドリア=トラーニ県は、10のコムーネから構成される。2004年の法律により、バーリ県北西部の7コムーネ(バルレッタ、アンドリア、トラーニなど)、フォッジャ県南東部の3コムーネ(マルゲリータ・ディ・サヴォイア、サン・フェルディナンド・ディ・プーリア、トリニターポリ)が分離されて新たに誕生した県であり、2009年に県知事・県議会が選出されて地方自治体として正式に発足した。 左端の数字はISTATコードを示す。人口は2012年1月1日現在[1]。面積は2001年のデータで[3][4]、単位はkm²。 自治体名

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ハリー・ホール – Wikipedia

ハリー・ホール(Harry Hall、1814年頃 – 1882年4月22日)はイギリスの画家である。乗馬した人物や、競走馬を描いた。 ケンブリッジで生まれた。生年は1813年から1816年までの諸説がある[1][2][3][4][5] 。競走馬の競売をするタタソールズ社に、「British Racehorses」や「The Sporting Review」などの競走馬に関するメディアの挿絵画家として出入りするようになった。「The Field」誌のチーフ・アーティストになり、たくさんの作品を描くようになり、大部分の作品は版画にされ出版された。「The Sporting Magazine」から114枚の版画からなる版画集を出版し[6]、絵入り新聞、「イラストレイテド・ロンドン・ニュース」にもイラストを描いた[7]。 肖像画家としても働くようになり、1838年にはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会にも出展し、1845年に出展した荷役馬を描いた作品で評価された。 競馬場のあるニューマーケットなどで働き、ヨーロッパ大陸の競馬場なども訪れた。ニューマーケットで没した。 競走馬「Hermit」と騎手 競走馬「Broomilaw」と騎手 競走馬「Daniel O’Rourke」と馬主と騎手 John Barham

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ヘンシュラ – Wikipedia

ヘンシュラ(アラビア語:خنشلة)(タマジグト:ⵅⴻⵏⵛⴻⵍⵜ)はアルジェリア北東部のヘンシュラ県の県都。 かつては「マスクラ」と呼ばれていた。 アトラス山脈の中のアウレス山脈(英語版)の海抜1200mに位置する。 住民はベルベル人のチャオウイ人(英語版)が中心である。 2008年の人口は約11.4万人。 ヘンシュラは涼しい地中海性気候(Csb)で、平均年間降水量は446mmである。 夏は暖かく乾燥し、冬は肌寒く湿潤で、雪も降る。 アルジェリアで最も寒い都市の1つである。 ヘンシュラの気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月

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