岡玄卿 – Wikipedia

岡玄卿

岡 玄卿(おか げんけい / げんきょう、嘉永5年7月18日[1](1852年9月1日) – 大正14年(1925年)3月25日[2])は、日本の医師、華族(男爵)、宮中顧問官。医学博士。位階および勲等は正三位勲一等。

津山藩士の岡清二郎の子として大坂の藩の蔵屋敷で生まれる[3]。父は早くに死に、母は再婚したため、親戚の岡芳蔵のもとに引き取られ、養育された[4]

明治になり上京し、大学東校(1874年に東京医学校に改称)に入学して医学を専攻し、ドイツ帝国からのお雇い外国人医師であるレオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンに医学を学ぶ。1876年に東京医学校を第一期生として首席で卒業[4]。翌年に東京大学医学部に改称された同校で助教授、教授を歴任し、大学病院内科部長を務めた[3]

1884年、宮内省より侍医に任じられ、さらにドイツに留学した[3]。玄卿は侍医に任じられた最初の東大医学部の卒業生であった。1889年には在官のままオーストリア帝国のウィーン大学に私費留学し、更なる研鑽を積んだ[4]。2年後に帰国すると職務に復帰し、広島大本営で行われた陸軍大演習を始めとした天皇の行幸に随行。その後侍医局長の不在中に局長心得(代理)に任じられるまでになった。

1898年(明治31年)に侍医局長を拝命[4]。翌年に医学博士の学位を受け、1907年(明治40年)には男爵を授けられた[5]。翌年、宮内省の官制改革により侍医頭となる[4]

1912年(明治45年)の7月初め頃から明治天皇が御不例(貴人が病気になること)となり、東京帝国大学医学部教授の青山胤通、三浦謹之助と共に治療にあたる。同年7月30日午前0時43分明治天皇崩御。その場には上記二人と共に立会い、崩御の報の連名を行った[4]

時代が大正となると、侍医頭を辞し、宮中顧問官・侍医寮御用掛となり、屋敷も麹町区飯田町(現在の飯田橋)から牛込区原町(現在の新宿区原町)に移す。[5]。1925年(大正4年)には勲一等瑞宝章が授与された[4]。1925年3月25日薨去。享年74。葬儀は麻布教会で行われ、皇室から供花を受けた[4]。墓所は青山霊園。

  • 1922年(大正11年)2月28日 – 正三位[6]
  • 長男 岡俊二(貴族院男爵議員)[7]

参考文献[編集]

  • 『立身致富信用公録 第14編』国鏡社、1903年。
  • 『苫田郡誌』苫田郡教育会、1927年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位
先代:
叙爵
男爵
岡(玄卿)家初代
1907年 – 1925年
次代:
岡俊二