Month: April 2022

アエガテス諸島沖の海戦 – Wikipedia

アエガテス諸島沖の海戦はシチリア島西方のアエガテス諸島付近で、紀元前241年3月10日に発生した、カルタゴとローマの海戦である。第一次ポエニ戦争最後の海戦であり、ローマが決定的勝利を収めたことにより長期間続いていた戦争が終結した。 アエガテス諸島沖の海戦に使用されたカルタゴ軍ガレー船の衝角。V型の傷はローマ軍ガレー船と正面から衝突したためについたものである アエガテス諸島沖の海戦前の数年間は、第一次ポエニ戦争の中でも比較的平穏な期間であった。紀元前249年のドレパナ沖の海戦での敗北とそれに続く海難事故での損失により、戦争初期から有していた艦船のほとんどを失ったため、ローマには艦隊が不足していた。しかし、カルタゴはこの有利な状況を利用しようとはしなかった。戦争はこう着状態にあり、シチリア島での小規模な戦闘が行われているだけであった。カルタゴのハミルカル・バルカ将軍は徐々に陸地での優位を築きつつあったが、おそらくはそれに対応するため、ローマは艦隊を再建し海上での優位性を取り戻すことを決定した。この決意にも関わらず、実際には20年間の戦争のためにローマの状況は悲劇的で国庫は空であった。これを救ったのはローマ人の精神であった。裕福な市民たちは愛国心を発揮して、個人のときもあり何人かで共同したときもあったが、それぞれが軍艦一隻分の建艦費用を寄付した。こうして国費の支出なしに、約200隻の五段櫂船が建造・艤装され、乗員も準備された。 艦隊は紀元前242年に完成し、執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルスが司令官となり、法務官クィントゥス・ウァレリウス・ファルトが副司令官となった。過去の海戦での経験から、ローマの軍艦は悪天候にも対応できるよう、より頑丈に作られ、初期の海戦でローマに勝利をもたらした接舷戦闘用のカラス装置は、その重量のために操艦が困難になることから装備されなかった。また、カトゥルスとファルトは安全な海域で乗員を徹底的に訓練した。このため海戦時には艦隊の能力・連度は最高となっていた。 一方のカルタゴも、ローマの動きを黙って見ていた訳ではない。およそ250隻からなるカルタゴの海軍が再建され、ハンノ(en)が司令官となったが、乗員の数は不足していた。 アエガテス諸島[編集] カトゥルスはシチリア西側の港湾都市であるリルバイウム(現在のマルサーラ)とドレパナ(現在のトラーパニ)の攻囲戦を再開し、同時に海上封鎖を行った。これはシチリアのバルカ将軍に対するカルタゴからの補給と連絡を絶つためのものであった。その年の残りの期間、カトゥルスはカルタゴの動きを待っていた。翌紀元前241年に、元老院はカトゥルスをプロコンスルに任命して引き続き軍の指揮を執らせた。 カルタゴ海軍は海上封鎖を破るために出撃したが、リルバイウムに向かのに好都合な風を待つために、ハンノはアエガテス諸島に艦隊を待機させた。しかし、このカルタゴ艦隊の動きはローマに察知され、カトゥルスは封鎖を解いて決戦に向かった。 3月10日早朝、カルタゴ艦隊に有利な風となったために、ハンノは直ちに出撃を命じた。カトゥルスは風に向かって攻撃することの不利と、ハンノをシチリアに到着させハミルカル将軍を救援させリルバイムが開放されることのリスクを秤にかけた。状況は必ずしも有利ではなかったが、カトゥルスはカルタゴ艦隊阻止のためにローマ艦隊に出撃を命じた。出撃前にマスト、帆、不要な物品を降ろし、荒天時の耐波性を向上させていた。カトゥルス自身は怪我のため戦闘に参加することができず、海戦での指揮は副司令官であるファルトが執ることとなった。 必要な物だけで海戦に望んだローマ艦は機動性に優れ、他方カルタゴ艦は人員、装備、食料品で重量が嵩んでいた。またカルタゴの乗員は厳しい徴兵で集められており、経験も不足していた。ローマ艦はその機動性を利用して直ぐに上手を取り、敵艦に対して衝角攻撃を実施した。約半数のカルタゴ艦が沈没するか鹵獲された。残り半数が無事だったのは、途中で風向きが変わりローマ艦隊から逃走できたためであった。この海戦で沈んだ何隻かのローマ艦・カルタゴ艦の衝角[1]、積荷のアンフォラ、ヘルメットなどが発見されている[2]。 第一次ポエニ戦争の終結[編集] 海戦での決定的な勝利の後も、カトゥルスはハミルカルとその陸軍が守備するリルバイム、エリュクス(現在のエリーチェ)およびドレパナに対する攻撃を継続した。カルタゴ議会は艦隊を再建する負担を考えて戦争を継続するのに消極的となった。議会はハミルカルに対しローマと講和交渉を開始することを命じ、副司令官のゲスコが派遣された。講和条件はカルタゴに不利なものであったが、これで第一次ポエニ戦争は終結した。 この勝利を記念して、カトゥルスはカンプス・マルティウス(現在のトッレ・アルジェンティーナ広場)にユートゥルナ神殿を建設した。 参考資料[編集] 座標: 北緯37度58分00秒 東経12度12分00秒 / 北緯37.9667度 東経12.2000度

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田代敏朗 (画家) – Wikipedia

田代敏朗(たしろとしあき、1980年3月1日-)は、日本の画家。佐賀県出身。 1980年佐賀県三養基郡みやき町出身。佐賀県立佐賀北高等学校芸術コースを卒業。私立大阪芸術大学芸術学部映像学科中退。 高校在学中の1996年佐賀県展洋画の部にて出品した作品「NEVER CHANGE」が県知事賞、山口亮一賞を受賞。 卒業後、映画製作を学ぶため、私立大阪芸術大学芸術学部映像学科へ進学するも中退している。中退後は舞台芸術を学ぶために東京へ上京しているが、数年後に故郷である九州に戻り福岡での生活を始める。当時描きためていた絵を、地方紙である「No!」の編集部に持ち込み、連載ページを掲載される[1]。 2003年、六本木ヒルズ森アーツセンター「Artist by Artist」に選出される。 2011年から「5000円プロジェクト」を開始[2]。 2014年、株式会社ひよ子本舗100周年記念として誕生したブランド「DOUX’ DAMOUR」のパッケージのデザインの元となるアーティストに起用される[3]。その際に制作した作品の巡回展「eternity」が福岡、京都、東京で開催される。 2015年、言葉とゲシュタルト崩壊をテーマにした「New Language, New Communication」を発表。2016年には巡回展を開催し[4]、初の作品集「New Language, New Communication(Wooly Arts)」を出版した。 2020年、クラウドファンディングにて、絵画を学び始めた15歳から40歳までの25年間をまとめる作品集を制作するにあたり資金を調達。

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泰山貴和駅 – Wikipedia

泰山貴和駅(たいざんきわえき、タイシャンクェイホゥーえき)は台湾新北市泰山区にある桃園機場捷運(桃園捷運機場線)の駅。駅番号は(A6)。普通車のみが停車する。 ホームは地上4階にある。相対式ホーム2面2線の高架駅。ホームドア設置駅。出口は西側に1つ設けられる[2]。開業時点での駅構内の案内表示は「往台北」「往中壢(環北を指す)」「往機場」であり、実際の利用時は注意が必要。 駅階層[編集] 駅出口[編集] 出口1:新北大道 利用状況[編集] 年 年間利用客数 1日平均 乗車 下車 乗降計 出典 乗車 乗降 2017 436千 434千 870千 [注

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福島関所 – Wikipedia

福島関所(ふくしませきしょ)は、中山道にあった関所の一つ。諸国関所一覧表によると、福島(福島関所)は、所在地が信濃国筑摩郡で、管理者が山村甚兵衛家、管理者身分が尾張藩代官であった。また、関所の最重とされ、東海道の今切関所、箱根関所と同等の扱いであった[1]。現在は長野県木曾郡木曽町福島。関所は、宿場の北入口にあった。 福島関所の設置[編集] 木曾福島関所の設置時期には諸説あり、慶長7年(1602年)、慶長8年(1603年)、慶長9年(1604年)、または慶長7年以前とする説、大阪の陣の頃との説がある[2]。 『心計記』によると、妻籠に口留番所がおかれていたが、関ケ原以降の交通整備により福島に移転した[3]。元和9年(1623年)に、福島関所は妻籠口留番所に代わって本格的な関所が置かれた[3][✝ 1]。 御関所は慶長の頃まで、急度は之れなく、つまごに口留番所と申し、石川備前代より之れ有の由、関ケ原大坂御勝利、天下一統御泰平に罷り成り候て、国々の往還道筋、宿並びに関所等も極り候節、福島へ引候て、中山道にて福島碓氷両所の御関所と定まり候由 — 『心計記』、家高荒治郎著『木曽福島関所』、(大島(1995)150-151頁。所収) 福島関所の所在地[編集] 福島関所の図、(福島関嗌『木曽路名所図会』に拠る。) 福島関所の所在地は、木曾谷のほぼ中央、駒ヶ岳の北支脈が木曾川に迫る突端の根の井山(関山)麓の崖上にある[✝ 2]。木曽福島関所の所在地については、「木曽路名所図会」に示されている[3]。 北緯35度51分03秒 東経137度42分09秒 / 北緯35.85069684度 東経137.70254966度 / 35.85069684; 137.70254966座標: 北緯35度51分03秒

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インゲ・パウル – Wikipedia

1911: エルザ・レントシュミット • 1912: Luise Strasilla • 1913–1914: テア・フレンセン • 1917–1918: テア・フレンセン • 1919–1920: エレイン・ヴィンター • 1921: エレン・ブロックヘフト • 1922: エレイン・ヴィンター • 1923–1927: エレン・ブロックヘフト • 1928–1931: Katrin Flebbe •

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寺尾博 – Wikipedia

寺尾博 寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日[1] – 1961年(昭和36年)7月16日[2])は、日本の農学者。東北帝国大学教授。貴族院勅選議員。参議院議員(緑風会)。農学博士。日本学士院賞受賞。 目次 1 経歴 2 著書 3 脚注 4 参考文献 静岡県出身。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。旧制第一高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業(恩賜の銀時計授与)、農商務省に入った[1]。農事試験場技手、同技師、農林技師を歴任し、1941年(昭和16年)に農事試験場長に就任した[3]。同年に東北帝国大学教授・農学研究所長を兼ねた[3]。 1944年(昭和19年)、「水稲冷害の生理学的研究」で日本学士院賞受賞。 1946年(昭和21年)8月14日に貴族院議員に勅選された[4]。翌年に貴族院が廃止されると、第1回参議院議員通常選挙に出馬し、当選を果たした。 『植物育種要説』岩波書店、1931年。 『農の理法』生活社、1946年。

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川辺町 (鹿児島県) – Wikipedia

川辺町(かわなべちょう)は、鹿児島県薩摩半島南部の川辺郡に存在した町。2007年12月1日に川辺郡知覧町、揖宿郡頴娃町と合併し南九州市となった。 乗馬が体験できる馬事公苑がある。 山 熊ヶ岳、下山岳、田上岳 河川 万之瀬川、神殿川、野崎川、麓川、永里川、大谷川、佐々良川 湖沼 川辺ダム湖 とも池 東端:東経130度29分22秒 西端:東経130度18分48秒 南端:北緯31度18分17秒 北端:北緯31度28分18秒 隣接していた自治体[編集] 沿革[編集] この節の加筆が望まれています。 町村制施行により川辺郡平山村・田部田村・永田村・野間村・宮村・高田村・今田村・小野村・両添村・野崎村・古殿村・清水村・神殿村・本別府村が合併し、川辺村が発足。 同じく川辺郡上山田村、中山田村、下山田村が合併し、勝目村が発足。 川辺村が町制施行。 川辺町本別府を勝目村に編入。

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中野和高 – Wikipedia

中野 和高(なかの かずたか) 生誕 1896年4月5日[1]愛媛県大洲[1] 死没 (1965-03-08) 1965年3月8日(68歳没)[1]東京都渋谷区[1] 国籍 日本 教育 葵橋洋画研究所[1] 出身校 宮城県立仙台第一中学校[1] 著名な実績 洋画 代表作 「少女」(1958年)[1][2][3] 受賞 「少女」日本芸術院賞(1958年)[1][2][3]。

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ラングーン (映画) – Wikipedia

『ラングーン』(Rangoon)は、ヴィシャール・バルドワジ監督、マシュー・ロビンス、ヴィシャール・バルドワジ脚本による第二次世界大戦を背景にした2017年のインド映画である。2015年11月より2016年3月まで撮影され、2017年2月24日より全インド・アメリカ他世界各国にて公開。日本人俳優の 川口覚の他、日本人スタントマンが8人出演している[1]。日本未公開。 キャスト[編集] 受賞・ノミネート[編集] 賞 ノミネート対象 結果 24th Star Screen Awards 2017 BEST SOUND DESIGN Shajith koyeri 受賞 3rd FOI

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伴資健 – Wikipedia

伴 資健(ばん すけゆき、1835年12月31日(天保6年11月12日) – 1913年(大正2年)1月28日)は、安芸国(現広島県)出身の政治家。広島市長を3期務めた。幼名保之丞、のちに後十郎兵衛、資知と改名。 目次 1 経歴 2 栄典 3 脚注 4 関連項目 1835年(天保6年)広島藩士太田三郎右衛門敬信の次男として、広島中ノ町(現・広島市中区中町)に生まれる[1]。広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)に学ぶ[2][3]。1855年(安政2年)叔父伴勇次郎資道の養子となる。1862年(文久2年)御奥詰、1863年(文久3年)若殿付御奥小姓、1865年(慶応元年)御目付役を歴任。1866年藩命をうけ山田十竹と共に藩学の洋学生50名を引率し江戸に遊学[4]。1868年(明治元年)御勘定奉行となる。その後、広島県第八大区長、広島県賀茂郡長を歴任し、1889年(明治22年)11月28日から1906年(明治39年)8月30日まで3期広島市長(官選)を務める。1902年(明治35年)フランス共和国よりシュウリユード・ローガン・ナショナル・ド・レジョンドノール勲章受章、1906年(明治39年)日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章。1913年(大正2年)1月28日逝去。79歳。従六位[5]。 1895年(明治28年)10月 – 勲六等瑞宝章・明治二十七八年従軍記章 1902年(明治35年)12月28日 –

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