陳雷 (政治家) – Wikipedia

陳雷と李敏(1945年) 陳雷(ちん らい、チェン・レイ、1917年10月25日 – 2006年12月5日)は、中華人民共和国の政治家。漢族。黒竜江省の省長などを歴任した。妻は黒竜江省政協副主席を務めた李敏(朝鮮族)。出生名は姜士元、別名陳雨田、筆名は老泉山人。 1917年10月25日、黒竜江省樺川県の東火竜溝村に生まれる。1925年10月、樺川県第12小学校入学。1930年夏、樺川県中学入学。1931年、満州事変が勃発すると、教師の唐瑶圃、張耕野らに率いられて樺川県中学の生徒は街頭で抗議のデモ行進を行った。これにより抗日運動に身を投じた陳雷は、1936年2月、中共下江特別委員会委員の高禹民の紹介を受けて中国共産党に入党した。同年9月に建設されたジャムス市委員会では宣伝工作を担い、1937年9月よりジャムス市委書記となった。しかし、1938年3月にジャムス市委は壊滅し、陳雷は逃亡を余儀なくされた。 1938年4月、中共北満省委員会との連絡に成功し、東北抗日連軍第6軍政治部組織科長に任命された。1938年7月には第6軍第2師の政治工作責任者として西征に参加。その後、第3軍第3師長の張光迪とともに北征部隊を率い、海倫県の八道林子を出発。嫩江県の松門山で日本軍・満州国軍の攻撃により20名が戦死し、張光迪は負傷したが、北上を継続した。1939年2月上旬、部隊はソ連国境付近で日満軍に追い詰められ、やむなく入ソした。同年6月27日、陳雷らは趙尚志(中国語版)の指揮下に入り満州へ帰還した。同年冬、趙尚志に従って再度入ソ。1940年6月から8月にかけて、劉鳳陽を隊長、陳雷を政治委員とする小部隊は数度に渡って満州に潜入し、偵察を行った。1940年9月、第3路軍長張寿籛(李兆麟(中国語版))、同政治委員馮仲雲(中国語版)の指示によりハバロフスク近郊に北野営を建設。1941年3月、満州へ戻り遊撃戦を展開。同年5月、第3路軍総指揮部宣伝科長として第3支隊の政治工作を担当し、数度に渡り満州で遊撃戦を行ったが、戦闘中に重傷を負った。1942年2月26日、入ソし北野営で治療に当たる。同年5月以降、ソ連軍第88独立狙撃旅団第3大隊第6中隊副中隊長、第1大隊党支部宣伝委員、政治教員を歴任。 1945年9月9日、中共東北委員会により綏化地区の責任者に任命され、ソ連から北安県へ移動。同年12月、綏化に到着し、ソ連軍綏化衛戍区副司令官となる。それ以降、綏化中心県委員会書記、竜南縦隊政治委員、黒竜江警衛第1旅政治委員、竜南専署専員、西満第3地区委員会副書記兼第3軍分区副政治委員、黒竜江省委員会秘書長を歴任。1952年8月から1954年8月までの間は黒竜江省委員会常務委員、省政府副主席、主席。1954年8月から1966年8月までの間は黒竜江省委常務委員、省委基建部長、省委工業部長、副省長兼経済委員会主任、計画委員会主任、省委書記処候補書記、書記を務めたものの、文化大革命期には迫害を受けた。1977年6月、黒竜江省建委主任、党委書記。1977年12月、省革命委員会副主任、省委書記。1979年12月、省委書記、省長。1982年8月、省委副書記、省長。1985年5月、黒竜江省顧問委員会主任。1988年、引退。2006年12月5日、ハルビン市にて死去。 第8回中共党大会代表。第12期中共中央委員会委員。第13期中共中央顧問委員会委員。第1、5、6期全国人民代表大会代表。 参照文献[編集]

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広瀬川 (群馬県) – Wikipedia

広瀬川河畔緑地(前橋市) 広瀬川(ひろせがわ)は、群馬県渋川市、前橋市及び伊勢崎市を流れる利根川水系の一級河川である。 群馬県渋川市で利根川から分かれ前橋市街を南東へ流れる。概ねJR両毛線に沿った形で流れ、伊勢崎市で利根川に合流する。合流点の至近には埼玉県深谷市との県境がある。 小出発電所から出て、県営競技場東から前橋市立岩神小学校東では暗渠となっている。上毛電気鉄道中央前橋駅付近では、駅前ロータリーの整備により暗渠化されている。 戦国時代まで利根川の本流は広瀬川のあたりを流れていたといわれる。この古利根川は 江戸時代には比刀根川と呼ばれ、利根川を利用した灌漑用水として整備された。 上流部は広瀬用水、途中で分流・合流する桃の木用水と併せて広桃用水、広瀬桃木用水とも呼ばれ、現在は疏水百選に選ばれている。 古くは江戸から物資などを運ぶ舟運などで栄えたが、現在では親水施設を整備し「水と緑と詩の町」として前橋市のシンボルとなっている。 1947年(昭和22年)に発生したカスリーン台風の影響により、広桃用水取水口が壊滅的打撃を受けたため、協議の結果対岸を流れる天狗岩用水と共同の取水口を設置することになり、北橘村(現在の渋川市)に新たに坂東大堰合口を設置、隧道内で分岐をし、一方を広桃用水、もう一方を天狗岩用水として板東橋直下をトンネルで対岸へ渡す工事が行われ、1950年(昭和25年)5月に完成した。 しかし砂礫などの流入が多く、取水口からだけの取水では水量が安定しなかったため、1964年(昭和39年)より取水口の改修、隧道の延長等により佐久発電所からの放水を新たに加え、板東大堰合口を予備とすることとなり、昭和42年3月に同工事が完了し安定した水量を確保することが可能となった。 群馬県企業局により、坂東水系総合開発事業の一環として広瀬用水各所に田口、関根、小出、柳原の4発電所を建設、東京電力により前橋発電所、日本カーリットにより広桃発電所がそれぞれ建設された。 柳原発電所手前の広瀬川制水門以南より(一級河川の)広瀬川として利根川の支流となり、下流にて分流した桃ノ木川なども合流し、伊勢崎市境平塚付近にて再び利根川と合流する。 1947年のカスリーン台風接近時には、集中豪雨のために決壊。伊勢崎市内を広範囲に水没させる契機となった[1]。 風呂川(分流) 柳原放水路(分流) 端気川(分流) 佐久間川 韮川(分流) 桃ノ木川 荒砥川

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ブリランテ・メンドーサ – Wikipedia

ブリランテ・メンドーサ(Brillante Mendoza, 1960年7月30日 – )は、フィリピンの映画監督である[1]。 商業映画のプロダクション・デザイナーからキャリアをスタートさせ、広告業界へ転身。CMのプロダクション・デザイナー、アート・ディレクターとして活躍していた[2]。 2005年に『マニラ・デイドリーム』を製作し、映画監督としてデビュー。ロカルノ国際映画祭でビデオ部門金豹賞を受賞した。 2007年の『Tirador』は第57回ベルリン国際映画祭カリガリ賞を受賞。2008年の『サービス』によってフィリピン映画としては24年ぶりとなるカンヌ国際映画祭コンペティション部門への出品を達成。2009年の第62回カンヌ国際映画祭では、2年連続でコンペティション部門出品となった『キナタイ -マニラ・アンダーグラウンド-』により監督賞を受賞した[3]。また同年、『Lola』が第6回ドバイ国際映画祭で作品賞を受賞した[4]。2012年の第62回ベルリン国際映画祭では『囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件』がコンペティション部門で上映された[5]。 また近年では、自身が主催する映画祭「シナグ・マニラ・フィルム・フェスティバル」を立ち上げ、若手への援助も積極的に行っている[6]。 フィルモグラフィ[編集] マニラ・デイドリーム Masahista (2005) 監督・原案・製作 Kaleldo (2006) 監督・原案 Manoro (2006)

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柄沢英二 – Wikipedia

柄沢 英二(からさわ えいじ[1] 、1935年11月28日[1] – )は、日本の俳優。本名:柄沢 栄治[1] 。 東京都出身[1]。聖学院高等学校卒業[1] 。劇団青俳[1]、劇団舞芸座[1]、劇団新劇場を経て[1]、東京俳優生活協同組合に所属していた[1]。 出演作品[編集] 映画[編集] テレビドラマ[編集] NHK NTV 右門捕物帖 第21話「女殺し出世地獄」(1970年) 火曜日の女シリーズ「人喰い」(1970年) 太陽にほえろ! 第34話「想い出だけが残った」(1973年)

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デランシー・ストリート – Wikipedia

経路図: ウィキデータにあるKML デランシー・ストリート (Delancey Street) は、ニューヨーク市マンハッタン区ロウアー・イースト・サイド地区を東西に走る通りである。この通りの西端はバワリーであり、東端はFDRドライブである。クリントン・ストリート (Clinton Street) の地点でウィリアムズバーグ橋へと接続しており、ブルックリンと結ばれている。デランシー・ストリート自体は、クリントン・ストリートの地点でこの橋の脇に逸れ、それより東は橋の高架沿いをFDRドライブに突き当たるまで続く。クリントン・ストリートより西では、道路幅は8車線あり、中央には街路樹が植え込まれた分離帯がある。バワリーより西では、デランシー・ストリートはケンモア・ストリート (Kenmare Street) となる。これは4車線の道路で、4.5ブロック先のラファイエット・ストリートに突き当たるまで続いている。 この通りの名前は、現在のロウアー・イースト・サイドに広大な土地(農園)を所有していたジェームズ・デランシー・シニア (en) より取られている。 この通り沿いにはデリカテッセンやバーなどが並んでいる。また、デランシー・ストリートは長らくディスカウント、バーゲン衣料品店が並んでいることでも知られていた。有名な施設としては、1929年に建てられたバワリー舞踏場 (en)、ラトナーズ (en) コーシャー・レストラン(閉店)、そしてエセックス・ストリート・マーケット (en)

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シネマ・チュプキ・タバタ – Wikipedia

シネマ・チュプキ・タバタは、東京都北区にあるミニシアターである。2016年(平成28年)9月開館。日本初[1]のバリアフリー映画館(ユニバーサルシアター)である。「チュプキ」とはアイヌ語で「自然の光」を意味する。東京都北区唯一の映画館である[2][3]。 アートスペース・チュプキ[編集] 2001年(平成13年)4月に設立されたバリアフリー映画鑑賞推進団体「シティ・ライツ」は、かねてより視覚的な情報を補う音声ガイド普及の取り組みを進めていた。配給会社から請け負った音声ガイド製作費を元手に、2014年(平成26年)11月22日には東京都北区の上中里駅前のビルに上映スペース「アートスペース・チュプキ」をオープンさせた。吹き抜けの空間に20席が設けられ、120インチのスクリーンと、FM電波を使用した音声ガイドの設備を整えた[4][2]。入場料にはドリンク代が含まれ、上映後に観客がハーブティーを飲みながら感想を語り合える場を目指したが、興行場法の規定により上映回数は一か月に4回までと制限された。建物オーナー側の事情もあり、「アートスペース・チュプキ」は2016年2月に閉館となった[5]。 シネマ・チュプキ・タバタ[編集] 法令に適合した新たな常設映画館開設をめざしてクラウドファンディングが行われ、約1880万円の募金が寄せられた[6]。田端駅から徒歩5分ほどのテナントビルを借り受けることができ、1階を改装して2016年(平成28年)9月1日に「シネマ・チュプキ・タバタ」を開館した。初上映作品はチャールズ・チャップリン監督・主演作品の『街の灯』で、浮浪者と盲目の花売り娘との物語を描くサイレント映画であるが、配給元の許諾を得て座席備え付けのイヤホンから場面の解説が流された[7]。なお『街の灯』の原題である『City Lights』は、母体となった団体名の由来である。 2019年(令和元年)8月1日に刊行された『夢のユニバーサルシアター』(平塚千穂子(「シティ・ライツ」代表) 著、読書工房 出版、ISBN 978-4-902666-37-3)では、本劇場について第1章の「シネマ・チュプキ・タバタができるまで」で述べられている。 スクリーンサイズは120インチ[8]。音響は11.1chのドルビーアトモス&DTS-X対応で、音響監督の岩浪美和が監修した[9]。固定座席15席・車いす席3席を有し、補助席を出して最大25席と座席数は小規模である。 音声ガイドシステムは、従来のFM方式ではノイズが入るため有線式に改められ、各座席にイヤホンジャックが取り付けられた。イヤホンは音量調節が可能で、音声ガイドを聴くことができるだけでなく、映画本編の音声を増幅することも可能である。日本映画を上映する際にも、日本語字幕をつけて上映する。音声ガイドの一部は、声優の小野大輔が声をあてており、視覚障碍の方だけでない健常者も楽しんでもらえるようにしてある[10]。 後部に親子鑑賞室があり、幼児連れや発達障害等で集団での観賞が困難な人でも楽しめる配慮がなされており、上映中に赤ちゃんが泣いてしまったり、子供がぐずってしまった時でも、鑑賞室に移動して映画を鑑賞できる。親子鑑賞室は、完全防音構造で、スクリーンの見える窓と、映画の音が流れるスピーカーを設置している[11]。 外部リンク[編集]

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小野お通 – Wikipedia

小野 お通(おの の おつう、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。浄瑠璃の嚆矢『十二段草子』の作者と誤伝されてきた謎多き人物である。阿通、於通とも書き、「おづう」とも読む。 その出自や経歴については諸説ある。生年は1568年(永禄10年)と見られるが、没年は1631年(寛永8年)とする説や、1616年(元和2年)とする説[1]がある。大日本史料によると、美濃国の地侍・小野正秀の娘で、淀殿に仕えたという。あるいは美作国津山城の東、押入下村の岸本彦兵衛の娘とする説[2]や、九条稙通に和歌を学び、織田信長や豊臣秀吉、高台院に仕えたとする説、豊臣秀次の家人・塩川志摩守の妻となり一女を儲けたのち離別し、東福門院や新上東門院に仕えたとする説[3]などがある。 詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったという。寛永の三筆の一人である公家・近衛信尹に書を習ったとされ、当代を代表する女筆、お通流と謳われた。醍醐花見短籍や歌仙手鑑が現存するほか、柿本人丸画像や達磨図の自画賛ものが伝存する[4]。 浄瑠璃の起源とされる『十二段草子』(『浄瑠璃物語』ともいう)の作者に擬せられてきたが、浄瑠璃はお通の生前15世紀半ばには成立していたと見られ、作者説は否定されている。また、『十二段草子』中編15本に曲節をつけた改作者とする説が有力になったこともあるが、不特定多数の手になる語り物の性質上、作者や改作者を特定の人物に擬すことは疑問視されている。近世初期、新興の浄瑠璃は賤しめられており、その対抗として、当時の権力者に近い才媛のお通が創作者に祭り上げられたと考えられる[5]。 真田信之はお通に思いを寄せていたという説がある。信之が元和8年(1622年)に上田藩から松代藩へ転封になった際、お通から見舞状を受け取った信之は、返書に姥捨山や更科といった古典に出てくる名勝が松代藩領となっているのでぜひとも松代に下って来てほしい、とお通に松代へ来るよう誘っている[6]。お通の娘の宗鑑尼(そうかんに、? – 1679年・延宝7年12月18日没)は、信之の次男で信濃国松代藩第2代藩主・真田信政の側室となり、信就を生んだ[7]。真田氏ゆかりの広徳寺には信就と宗鑑尼の墓が並んでいる[8]。 登場作品[編集] 真田淑子『小野お通』風景社、1990年5月。 小椋一葉『小野お通 歴史の闇から甦る桃山の華』河出書房新社、1994年5月。 笠原ひさ子『小野家の女たち、小町とお通』翰林書房、2001年12月。

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