ユバの徽 – Wikipedia

『ユバの徽』(ユバのしるし)は、DMM.comより配信されているブラウザゲームおよびスマートフォン向けゲームアプリ。2016年8月サービス開始。 2018年9月26日をもってサービス終了[2]。 人身御供を信仰する神の世界を題材にした作品。プレイヤーは神の血を引く“ユバの戦士”を束ね、囚われた祈り人を救出しながら侵略者に奪われた神の地“ユバの大地”を奪い返していく。祈り人との“契り”を結び新たな”ユバの戦士”誕生・育成させる。 人身御供を題材としているのでキャラクター削除コマンドが「生け贄」となっており、ユバの戦士および祈り人には明確な死亡描写が存在し、戦闘時に敵を倒すと画面に血しぶきが舞う演出が見られるなど、残虐要素が強い作品となっている。肉体が切断される描写は、戦闘時に敵の侵略者の頭部が切られて血しぶきが舞う事で間接的に表現されているが、ユバの戦士および祈り人の生け贄時には肉体切断の描写は存在しない。 また「契り」のコマンドは儀式時に性描写の強いセリフが出てくるが男女のキャラクター共に全裸の画像は一切存在しない。 上記の残虐要素および性描写のセリフがある作品ではあるが全年齢向けの作品となっている。 ゲームシステム[編集] 内容は横スクロール型のアクションゲーム。ユバの戦士3人で部隊編成をし「ウル」と呼ばれるエネルギーを集めながら制限時間内にステージ(クエスト討伐)をクリアしていく。祈り人を救出しながら宝箱ボーナスが3つ貰えるランクSを狙う。移動と戦闘は全て自動で行い、画面操作はフィールド上に設置しているウルをカーソルでクリックもしくはタップして集める事となる。 ゲーム序盤は剣の者の少女[3]「ユバ」を所持しているのみで、救出した祈り人と契りを交わして子孫を増やし、生け贄をして神の力を得てレベルアップをしていく。 ステージによっては祈り人を同行してステータスを調整しなければ制限時間内にクリアができないため、ステージクリアに見合う祈り人を選択して連れて行く必要が出てくる。 祈り人は救出直後はトラウマを抱えており、「祈り人の記憶」と言うアイテムを与えて記憶を開放しなければ本来の力を発揮できず、戦士と契る事もできない。そのため戦士をパワーアップするためには祈り人を積極的にウルを与えてレベルアップさせ、進化させていく必要も出てくる。 また本作は明確な死亡描写が存在するが、戦闘時に戦士の体力が0になると死亡してキャラクターが消えるシステムではなく「体力が0になると戦闘不能となって非戦闘時に時間経過によって体力が回復する」システムとなっている。 主要システム[編集] 契り 新たなユバの戦士を作る儀式でいわゆる子作り。生命の種を所持している進化した祈り人とユバの戦士が可能な行為で、戦士と祈り人との遺伝子によって強い子供を作る事が可能となる。 遺伝子のしるしは全部でタテ3段、ヨコ2マスとなっており、上段が戦場に同行できる祈り人の人数、中段がエレメント属性、下段が職業となっており、各しるしの組み合わせによって基本的な強さや職業が決定する。なお中段のエレメント属性の色が左右のマスが同色になると「突然変異」の強い戦士が誕生するが、突然変異の戦士は子孫を残す事はできなくなる。 また本作の生殖システムは通常とは異なり、ユバの戦士が牡、祈り人が牝の扱いとなっており、同性の組み合わせおよび女戦士と男祈り人の組み合わせであっても、祈り人側が男女の性別に関係なく子供を授かるものとなっており、誕生する子供もユバの戦士のみとなっている。 生け贄 本作の唯一の削除コマンド。戦士と祈り人との性質が異なる。 このゲームの戦士は戦闘によってレベルアップせず、生け贄を捧げた人数によってそれぞれの職業のレベルがアップする。なお一族の始祖である「ユバ」だけは生け贄にする事はできない。そのため「ユバ」は彼女のみが受けられる専用のクエストをたくさんクリアしない限り強くなれない。

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長田秋濤 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “長田秋濤” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年10月) 長田 秋濤(おさだ しゅうとう、明治4年10月5日(1871年11月17日) – 大正4年(1915年)12月25日)は、劇作家・仏文学者・翻訳家。別号は酔掃堂。本名・忠一(ただかず)。外交官の子として生まれ、『椿姫』の翻訳で名を上げたが、遊蕩生活でも知られ、ロシアスパイの嫌疑をかけられ、南方でゴム園を経営するなど奔放な生涯を送った。 静岡県静岡市西草深町に徳川家直参から外交官になった長田銈太郎の長男として生まれる。フランスなど海外駐在から帰国した父に伴われて幼少期に上京し、学習院に入るも中退し、仙台の第二高等学校に入学。1889年に父親が事故で急逝。 1890年(明治23年)英国ケンブリッジ大学に入学し法律と政治を学んだが、人種差別的な扱いをされて憤慨し、フランスに移り、ソルボンヌ大学で法律を学ぶという名目で外務省留学生となった[1]。演劇にも関心をもち、1893年(明治26年)帰国[2]、『早稲田文学』でフランス演劇紹介や演劇改革を論じた[1]。岐阜県知事小崎利準の娘仲子と下田歌子の媒酌で結婚[1]。伊藤博文に可愛がられ、政界・財界とつながりを持ち、1895年には初代台湾総督となった樺山資紀に随行、1896年には伊藤の推薦で帝国ホテルの支配人となり、1897年(明治30年)には英国ヴィクトリア女王即位六十年祭に伊藤の秘書格で随行し再び渡欧[1]。 帰国後、文学に親しみ硯友社の一派と交わった。川上音二郎らと演劇改良のため働き、翻案戯曲小説『椿姫』を1903年(明治36年)に刊行、尾崎紅葉と縁が深かったが、自然主義の勃興とともに文壇から遠ざかる。1903年8月に日本電報通信社の権藤震二(権藤成卿の弟)が同社発行の『電報通信』紙上で秋濤を露探(ロシアへの情報提供者)と断定したため、名誉棄損で東京地方裁判所に訴えたが敗訴した[3]。同じ頃、紅葉館の芸妓お絹を身請けし、妻妾同居する[4]。お絹は踊り手として川上音二郎一座への参加を頼まれ、巡業先で倒れて1906年に病死[5]。東京の大森を引きはらって大阪に移り、川上一座の座付作者の傍ら、大阪日報社長・吉弘白眼(茂義)の入獄中の主筆として同紙を預かる[1]。 1909年に大倉信太郎出資のゴム園経営のためシンガポールに渡り、現地の邦人らと日本人会を結成し、会長となる[6]。1911年に英国ジョージ五世の戴冠式出席のため渡英した東伏見宮と東郷平八郎、乃木希典が途中シンガポールに立ち寄った際には拝謁を希望したが、日露戦争時の露探嫌疑の件で叶わなかった[6]。1912年に大倉の死去によりゴム園は新組織となり、同社の相談役に退く[7]。晩年は韓国人が建てた神戸市垂水区東垂水仲ノ町の屋敷を借り受けて暮らした[1]。 1917年(大正6年)に、南洋開発の書『図南録』が刊行された。本書は秋濤が口述したものを妻が代筆した[1]。跡継ぎとなった末弟の長田戒三(大倉組支配人)により三回忌が開かれ、和田垣謙三、秋山定輔 小川平吉 岡田朝太郎、黒田清輝らが追悼会に集まった[8][9]。 没後直後に結成された秋濤会により1937年に小冊子『長田秋濤居士』が刊行された[5]。同書では、秋濤の露探事件は、秋濤の後ろ盾であり対露協調論者だった伊藤博文と対立する桂太郎首相の策謀であろうと見ている[5]。

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ボワロー=ナルスジャック – Wikipedia

ボワロー=ナルスジャック(Boileau-Narcejac)は、フランスの2人共同の作家。 推理小説を2人名義で数多く執筆した。映画化された『悪魔のような女』(クルーゾー、1955年)、『めまい』(ヒッチコック、1958年)が知られる。それぞれ推理作家として出発、1948年に出会い、共同執筆を始めた。アルセーヌ・ルパンの名で書かれたリュパンものの新作も2人の手になる。ボワローは、日本では「ボワロ」「ボアロー」とされることも多い。推理小説の理論書も著している。 ピエール・ボワローは1906年、パリのモンマルトル生まれ。本名ピエール=ルイ・ボワロー。幼少期から推理小説を愛読して育ち、推理作家にあこがれながらも、経済的な事情から作家を目指すことが難しかったため、商業学校で簿記を学ぶ。卒業後は、建設会社や広告会社や食品会社など職業を転々としながら、短編推理小説を執筆して雑誌に投稿する。二、三の雑誌で短編が好評だったことから、作家として本格的に活動することを決意し、長編推理小説にもとりかかる。1938年には『三つの消失』で冒険小説大賞を受賞。この時期の作風は、主に名探偵アンドレ・ブリュネルによるトリックの解明を描いた本格推理小説に属する。しかしその後、第二次世界大戦の勃発によって、推理作家としての活動は中断させられる。さらに戦後のフランスでは、ジェイムズ・ハドリー・チェイスが好評を得たことをきっかけに「ロマン・ノワール(暗黒小説)」が流行し、ボワローが理想とする謎とトリックの解明に重点をおいた推理小説は時代遅れとなってしまった。謎の解明よりも暴力と犯罪の描写に重点をおいたロマン・ノワールの流行に馴染めず、推理作家として行き詰るボワローだったが、1947年にトーマ・ナルスジャックによる評論『探偵小説の美学』『ブラッフの終り―ハードボイルド論』を読んだことから感銘を受け、ナルスジャックに手紙を書いたことから文通が始まった[1]。 トーマ・ナルスジャックは1908年、ロシュフォール=シュル=メール生まれ。本名ピエール・エイロー。船乗りの家系に生まれたが、8歳のときに事故で片目を失明したことから家業を継ぐことを断念させられた。船乗りをあきらめたころから読書に夢中になり、とくに推理小説を好むようになる。とりわけ成人してからジョルジュ・シムノンに感銘を受けた。推理作家志望ではなかったものの、1945年に個人的な趣味でシムノンのパスティーシュ(パロディ)小説を書いてみたことがきっかけとなり、さまざまな推理作家を模倣したパスティーシュ小説を執筆。これらの作品は、ナルスジャック自身は出版する意図はなかったものの、新興出版社を設立した友人の目に留まって翌年の1946年に出版され、好評だったことからその後も第2巻、第3巻が刊行された。これらのパスティーシュ小説は、日本においては『贋作展覧会』として一部の作品を抜粋して翻訳出版されている。このころナルスジャックは大学の哲学教授をつとめていたため、推理小説の出版に本名を使うのは差しさわりがあったことから、少年時代に過ごした二つの村「サン=トーマ村」「ナルスジャック村」からヒントを得た「トーマ・ナルスジャック」というペンネームを作り、短編集出版後には推理小説に関する評論を発表。その後もいわゆる本格派に属する推理小説を執筆した。推理作家としてのナルスジャックを見出してくれた友人の出版社はその後まもなく倒産してしまうが、ナルスジャックは他の出版社に移籍し、船乗りの家系に育った知識をもとに海を舞台とする推理小説を連作するなど方向性の転換を模索した[1]。 1948年、トーマ・ナルスジャックが『死者は旅行中』で冒険小説大賞を受賞。ナルスジャックはその受賞パーティで、文通相手のピエール・ボワローと初めて面会した。二人は推理小説についての熱い議論を交わしあい、その後生涯にわたる友情を結ぶこととなる[1]。 そして1952年、ボワローとナルスジャックは共同で推理小説を執筆する。合作第1作『悪魔のような女』では、二人のそれまでの本格謎解きとは趣向を変えた。探偵や刑事による捜査の描写を切り捨て、犯罪者の心理を中心におきつつ、ロマン・ノワールに描かれるような肉体的な暴力ではなく、幻想的な謎の解明を描いた、恐怖小説的な展開の推理スリラーとなっていた。当初はいくつもの出版社に原稿を持ち込むたびに拒絶されたものの、推理小説で名高いパリのドノエル書店から出版されるとたちまち評判となり、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督による映画化も世界的な大ヒットとなった。1954に発表された合作第3作『死者の中から』はアルフレッド・ヒッチコック監督によって『めまい』(1958年)として映画化され、原作者ボワロー=ナルスジャックの名声も確かなものとなった。 以降はボワロー=ナルスジャックのコンビによるサスペンス小説を数多く発表。1989年にボワローが亡くなるまでコンビは続いた。ボワローの死後も数作のプロットが残されたために、ナルスジャックが小説として完成させ、ボワローの死から2年後の1991年までボワロー=ナルスジャック名義の新作が刊行された。 ボワロー=ナルスジャックが切り開いた推理小説の新しい手法は、その後のフランスの推理作家のルイ・C・トーマ、ユベール・モンテイエ、セバスチアン・ジャプリゾなどに影響を与えたほか、日本においても泡坂妻夫、連城三紀彦、皆川博子などに影響を及ぼした。一方でカトリーヌ・アルレーは、ボワロー・ナルスジャックの作風に対して批判的な意見を述べている[1]。 合作のスタイルを聞かれると二人は「ボワローが骨で、ナルスジャックが肉なのだ」と語っている。これはつまり、ボワローが主にプロットを考え、ナルスジャックが文学的に発展させるという形式をとっていたということである[1]。執筆に関しては、ナルスジャックが主導しながら二人で文章を整えていたとされる。また、二人は映画脚本家としてもいくつかのフランス映画に協力し、とりわけジョルジュ・フランジュ監督の名作ホラー映画『顔のない眼』(1960年)においては、ボワロー=ナルスジャックの脚本参加が作品の方向性に決定的な影響を与えた。当初プロデューサーが意図した通俗的怪奇映画としての方向性を避け、ボワロー=ナルスジャックはシナリオの重点を、マッド・サイエンティストの医師よりもその娘クリスティーヌへとずらすことで、抒情的なタッチをもつ恐怖映画へと導いた[2]。 ボワロー=ナルスジャックの推理小説は、日本においては1979年の『銀のカード』までは順調に翻訳が出版されていたが、1980年のLes intouchables及びTerminus以降はまったく翻訳されなくなった。日本で未訳となっている晩年の作品においては、かつての彼らの作品を特徴づけていた幻想的な謎や強烈なスリルは影をひそめ(ただし1987年の“Mr. Hyde”は怪奇的な謎を扱った作品)、より文学を志向した心理ドラマ中心のサスペンス小説が主流となっている。 ボワロー=ナルスジャック作品[編集] 長編[編集] 『悪魔のような女』1952年(北村太郎訳 早川書房 世界探偵小説全集 1955年 のち文庫) 『影の顔』1953年(三輪秀彦訳

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桂由美 – Wikipedia

桂 由美(かつら ゆみ、1932年4月24日[2] – )は、女性ブライダルファッションデザイナー、実業家。本名:結城 由美(旧姓:満生)。株式会社ユミカツラインターナショナル社長、株式会社桂由美ウエディングシステム社長、一般社団法人全日本ブライダル協会会長、全米ブライダルコンサルタント協会名誉会員、アジアブライダル協会連合会会長、NPO法人地域活性化支援センター理事、アジア・クチュール協会創立メンバー[3]。 東京都出身[3]。父は旧郵政省の官吏、母は洋裁学校(現在の東京文化デザイン専門学校[2])を立ち上げた人物で長女である由美を跡継ぎとしたかった[4]。幼少期はおとぎ話や絵本が好きで、戦時中でも白馬の王子様や美しいお城が現れる世界が頭の中を占めていたという。共立女子中学校・高等学校を経て[5][6]、母の意向で共立女子大学家政学部被服学科[7]に入学するも浴衣も縫えないほど縫製が苦手だった[7]。また、共立女子学園では軍国少女が海軍派と陸軍派に分かれており、桂は海軍派のリーダーであった。特攻隊員に憧れ、「私たち女性も飛行機に乗れるようにして下さい。特攻隊は男だけではありません。」という血書を書いて海軍省に送ったこともあったという[8]。 在学中は学生委員を務め、当時の学長・鳩山薫(鳩山一郎の妻)との接点も多く選挙の手伝いもした[4]。また、子供の頃から好きだった演劇部の部長も務める[2]など、一時期演劇にのめりこむが才能の限界を感じるようになり(大学1年のとき文学座の研究生となり1年過ごした。俳優ではなくプロデューサー志望だった。[4])芥川比呂志の言葉もあって大学で学び続けることを決意[4]。やがてファッション業界に身を置く決心を固める。大学後半は文化服装学院の夜間部にも通っていた[4]。 大学を卒業後、フランスに1年留学。デザイン、クチュール技術を学ぶ。帰国後は母が経営する洋裁学校で教鞭をとる[2]。その中で「日本ではまだ誰もやっていない婚礼衣装をやろう」と決意[4]。学生の卒業制作にウェディングドレスを出し、生徒と共に生地探しを行っていた[2][7]。 1964年、日本初のブライダル専門店をオープンしブライダルファッションデザイナーとして活動開始[9][7]。 1987年1月、パリにおいてグランドコレクションを挙行。 1993年に、ローマ法王へ祭服を献上。3か月後の復活祭で着用される。 その後もブライダルファッションの第一人者として活動している。 桂由美ブライダルハウス(乃木坂) 政治活動[編集] 桂由美The First Class Wedding(2011年、ユミカツラインターナショナル/世界文化社発行) 桂由美MAGIC(2008年集英社)

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カスティーリャ・イ・レオン州 – Wikipedia

カスティーリャ・イ・レオン州(カスティーリャ・イ・レオンしゅう、Castilla y León、レオン語:Castiella y Llión、ガリシア語:Castela e León)は、スペインを構成する自治州。 北はアストゥリアス州とカンタブリア州、東はバスク州とラ・リオハ州とアラゴン州、南東はマドリード州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州、南はエストレマドゥーラ州、西はガリシア州とポルトガルに接している。 自治州の法には州都が定められていないが、バリャドリッドが州都の役割を果たしている。自治州政府はフンタ・デ・カスティーリャ・イ・レオン(Junta de Castilla y León)。 この州は中世のレオン王国とカスティーリャ王国の中心地だった地域で、19世紀にはレオン地方と旧カスティーリャ地方に分かれていた。1978年憲法で自治州制度が導入されると、州をどのように構成するかが問題になった。一県一州からラ・マンチャ地方を含む大カスティーリャ構想まで意見が分かれたが[1]、最終的にレオン地方と旧カスティーリャ地方の県が一州にまとめられた。旧カスティーリャに含まれるカンタブリア(サンタンデール県)とラ・リオハ(ログローニョ県)は一県一州の州として分離した。 県と都市[編集] カスティーリャ・イ・レオン州は、9つの県によって構成される。県と県都の名前はすべて同名である。 県 県都 面積(km²) 人口(人)

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東久留米市立図書館 – Wikipedia

東久留米市立図書館(ひがしくるめしりつとしょかん)は、東京都東久留米市にある公共図書館。 中央図書館、滝山図書館、ひばりが丘図書館、東部図書館からなる。 中央図書館は東久留米市による直接運営、滝山図書館、ひばりが丘図書館、東部図書館の3地区館は2013年(平成25年)4月から指定管理者制度を導入し、株式会社図書館流通センターが指定管理者となっている。 前史[編集] 町制時代の文庫活動[編集] 町制時代の昭和30年代半ば、久留米町は大規模団地が次々に建設され、1960年(昭和35年)からの10年間で4.1倍という東京都で最大の増加率を記録し、一時は人口約7万8千人で、町としては日本一人口が多かった[6]。人口増加に行政の各種公共施設整備が追いつかず、団地の自治会や公務員住宅の住民活動から子どものための文庫が多く誕生したが、これらの文庫の活動は子どもへ本を手渡すサービスを行うとともに、行政へ公立図書館の設置を働きかけるという側面も持っていた。 1970年(昭和45年)8月、公立図書館の建設に向けた図書選定委員会が発足し、1,016冊を選定した。発足時の図書選定委員19名には、児童文学作家の古田足日ら文庫の関係者3名も含まれていた。同年9月には、町内の7文庫が参加した東久留米地域文庫・親子読書連絡会(以下、文庫連)が発足。同年10月、久留米町は市制施行し東久留米市となる[6]。 婦人子ども図書館開館と中央図書館建設への動き[編集] 1971年(昭和46年)2月、市内の上の原地区に、面積39m2、蔵書約5,000冊の婦人子ども図書館が開館する。これは、東久留米団地自治会が、その団地集会室ではじめた自治会文庫を市に寄付したものである。同年4月には、団地自治会の働きかけもあり、移動図書館「くるめ号」が巡回業務を開始した(開始当時の駐車地は21ヶ所)。この時期の東久留米市では、自治会と家庭文庫活動が公共図書館をつくる運動を後押ししたが、中でも文庫連絡会会長や図書館協議会委員も務めた山本幸世の功績は大きい。 1972年(昭和47年)10月、文庫連は勉強会に日野市立図書館長の前川恒雄を招へいし、講演「新しい市民の図書館はどうあるべきか」を行い、11月には市長および教育長とそれぞれ懇談の場を持っている。こうして1973年(昭和48年)には、図書選定委員会を前身とする図書館運営員会が発足するが、役割としては購入図書の選定のみではなく、毎回理想の図書館のあり方が討議され、運営協議会的な性格を持つ会であった。こうした中、中央図書館建設計画が市の長期総合計画(昭和53年-60年)に盛り込まれた。 翌1974年(昭和49年)11月19日、ひばりが丘図書館が開館し、12月には中央図書館の開館を見据えた図書館条例が制定された。 東久留米市で市民が公共図書館建設のための運動が起こった同時期、東京都は美濃部知事のもとで、区部と多摩地域の図書館設置状況の格差是正のため、昭和46年度から市町村に対し、図書館を新設する際に必要な建設費の二分の一の額の補助金と、開設後3年間の図書購入費の二分の一を補助するという振興政策推進を行っていた。東久留米市では、人口急増により学校の建設が急務であったため、中央図書館建設において他市に遅れを取っていた。1975年(昭和50年)9月、初代東久留米市立図書館長として畔上知男が就任して、ようやく中央図書館建設計画が現実的になるが、1976年(昭和51年)、前年のオイルショックに伴う不況の影響を受けた東京都の財政悪化により、図書館建設助成事業はわずか6年間で中断されてしまう。しかし、振興政策の継続を願って結成された「三多摩の図書館を考える会」に市民らが参加し、知事に質問状を出すなど熱心な運動を行って、最終的には図書館建設分の交付金8千万円を獲得する。 中央図書館の開館[編集] 1977年(昭和52年)3月、中央図書館建設用地の購入費が議会で承認され、同年5月、図書館協議会で建設設計計画についての検討を開始する。同年9月には、建設設計委託料900万円も議会で承認される。市政アンケートにおいては、市民の中央図書館の「利用したい」という回答が87.5%と、期待が高かった。 1978年(昭和53年)3月、建設費が承認議決されると、同年6月には建設工事に着工するが、同年10月、後に「黒い霧事件」と呼ばれる汚職事件が発生し、当時の市長は引責辞任、図書館建設工事が遅れる事態に陥る。このときも、文庫連は要望書や陳情書を出し続け、中央図書館が予定通り完成するよう市に働きかけていた。 こうして、中央図書館は1979年(昭和54年)5月に本体工事を終了し、同年8月4日に待望の開館をむかえる。開館4か月の貸出数は約8万9千冊、利用者数は約3万7千人にもなった。 中規模館3館の開館[編集] 廃止になった上の原図書館の跡 中央館建設前の市の長期総合計画においては、上の原、ひばりが丘、滝山、青少年センター、浅間町、野火止、南町地区センターの小規模7分館構想で図書館整備計画を打ち出していたが、1985年(昭和60年)9月議会において、小規模分館を廃止し、滝山、ひばりが丘、大門町の各地区に3つの中規模分館をつくる内容が明らかとなった。この縮小構想に、分館を望む市民の反対運動は起こるが、活動が実ったのは南町地区の自主運営図書館のみで、市が年間400万円の助成で管理運営は市民が担う「南町コミュニティ図書室」開設が実現した(開設は1989年)[27]。 1987年(昭和62年)に出された「東久留米市立図書館基本構想」での中央館1館、中規模館3館の構想に基づき、最初に滝山図書館が西部地域センターに移設された。

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浦江飯店 – Wikipedia

浦江飯店(中国語: 浦江饭店)、またはアスター・ハウス・ホテル(Astor House Hotel)は、中国上海市のホテルである。1846年にリチャーズ・ホテル・アンド・レストラン(礼査飯店)としてオープンし、1858年には上海市の外灘、虹口区の黄浦江と呉淞江という2本の川の合流地点、外白渡橋の北側の現在の場所に移転した。 1900年前後には世界で最も有名なホテルのひとつ[2]、東洋一のホテルと称されていた[3][4]。第二次世界大戦、文化大革命を経てその輝きを失ったが、20世紀の末にはバックパッカーのたまり場として日本人や欧米人の人気ゲストハウスになり、2000年代には大規模な改修が行われて、ある程度の輝きを取り戻している。 ロケーション[編集] 浦江飯店は1858年以来、上海市の外灘の北、外白渡橋のすぐ近くに位置している[5]。4,580平方メートルの敷地に、延べ床面積は16,563平方メートル、134の部屋とスイートルームを有している[6]。かつては虹口区のランドマークで、1956年に和平飯店がオープンするまでは外国人の社交の中心であった[7]。浦江飯店は1ブロックをまるまる占有しており、向かいにはロシア領事館がある。加えて以前はその並びにドイツ、アメリカ、日本の各大使館が軒を連ねていた[7]。 背景と前身であるリチャーズ・ホテル[編集] 1842年8月29日、アヘン戦争の結果として南京条約が結ばれ上海を含む5港が開港された[8]。その後徐々に上海でのイギリスの租借地が画定されてゆき[9]、イギリス人の住民も増えていった。上海には1844年の時点で50名の外国人が暮らしていたと記録されている[9]。 初期の移民の一人であるスコットランドの商人、ピーター・フェリックス・リチャーズは1840年より上海で雑貨屋など船乗りや旅行者相手の商売を営んでいたが[10]、1846年に上海で初めての西洋料理店と、中国で初めての西洋式ホテル、リチャーズ・ホテル(礼査飯店、「礼査」はリチャーズの音訳)を開店した[11][12]。これらは洋涇浜(黄浦江の支流)の南に位置していた[13][14]。 このホテルは一棟からなる、これといった特徴のない[15]バロック建築のホテルだった[6]。1846年12月22日には上海共同租界の第1回の会合がリチャーズのホテルで開かれている[16]。しかし1856年の5月15日、リチャーズはニューヨークでのビジネスの不調から英国領事裁判所より債務超過を宣告される[17]。上海のホテルを含むリチャーズの一切の資産は債権者であるウィリアム・ハーバート・ヴァシェ(英語版)とチャールズ・ウィルスの手に渡った。 現在の場所への移転、そして発展[編集] 1858年の2月、リチャーズの雑貨店、ホテル、レストランはチャールズ・ウィルスの土地である呉淞江(蘇州河)の北岸、すなわち現在の場所に移転した[18]。このホテルは2階建ての東インド(英語版)様式であった[19]。1859年にはリチャーズ・ホテルからアスター・ハウス・ホテルと改名した[20]。一方で中国名「礼査飯店」はおよそ100年後の1959年まで残ることとなる。 その後ホテルの所有者は何度か代わり[21][22]、1876年には拡張工事が行われる[19]。この改装によってアスター・ハウス・ホテルは4棟からなる煉瓦造り、ネオルネッサンス様式のホテルとして生まれ変わった[7]。1880年代の頭には中国で初めて電気が通った建物となり[23]、初めて水道が通った建物となった[24]。ホテルの評価もあがり、1880年代後半にはシンガポールのラッフルズ・ホテルと比較されるまでになっていた[25]。 1889年にはホテル裏手の土地を取得[26]、再び大規模な拡張が始まった。そして1890年代にはアスター・ハウス・ホテルは上海に暮らす外国人の社交の中心であり[27]、名声は世界的なものとなっていた[2]。1897年11月5日には中国で初めての舞踏会がこのホテルで開かれ、西太后の60歳の誕生日が祝われた[28]。1900年の時点では上海で初めてのファースト・クラス・ホテル[29]、東洋随一のホテルと称されるまでになっていた[3]。 1901年、この時のオーナーであるオーギュスト・ヴァーノンは株式会社アスター・ハウス・カンパニーを香港に設立した[30]。ヴァーノンはこの年に地権者からホテルのあるブロックをまるっと借り上げた[31][32]。そこに新しく別館を作り、全体で300室あるホテルへと成長させる計画を立てたが[33]、夢半ばでヴァーノンは体調を悪くし引退を余儀なくされた[34]。 1906年の7月には元イギリス海軍艦長で日本郵船の艦長も務め、横浜グランドホテルのアソシエイト・マネージャーであったフレデリック・デービスがアスター・ハウス・ホテルのマネージャーに就任している[35]。 1907年にホテルのマネージャーがウォルター・ブローエンに変わると、アスターホテルの改装と別館建設計画が持ち上がる。メインの3棟のデザインはデイビス・アンド・トーマス(Davies & Thomas)が担当し、新古典主義

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太平山三吉神社 – Wikipedia

太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)は、秋田県秋田市に鎮座する神社。山岳信仰の対象。太平山のふもとに里宮が、山頂に奥宮がある。 大己貴大神、少彦名大神、三吉霊神(みよしのおおかみ)を祀る[1][2]。 三吉霊神は太平の城主、藤原三吉(鶴寿丸)が神格化されたと社伝にあるが、基本的に山岳信仰による神である。力、勝負、破邪顕正を司る神である[2]。 社伝によれば白鳳2年(673年[3])、役小角が創建したという[1][2][4]。その後延暦20年(801年)征夷大将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願して社殿を建立し[1]、鏑矢を奉納したという[2]。 中世を通じて薬師如来を本地仏とする修験道の霊場として崇敬され[2]、近世には秋田藩主佐竹氏からも社領を寄進され、現在の里宮は8代曙山佐竹義敦の建立である[1]。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督 九条道孝の祈願所となった[2]。 現在も東北地方を中心として全国に三吉神社が祀られ[1]、太平山講、三吉講も広く分布している[4][2]。 境内外社[編集] 祭神:大己貴大神、少彦名大神、三吉霊神 創建:伝白鳳2年 祭神:金山比古神、金山比賣神 創建:弘化3年(1846年) 神仙山神社:(秋田市太平八田字矢櫃、前岳山頂【地図】) 祭神:事代主神、大綿積神、猿田彦神 創建:弘化年間以前 御手洗神社:(秋田市仁別字務沢1) 祭神:火産霊神、祓戸神 創建:不明 御滝神社:(秋田市仁別字務沢) 祭神:火産霊神、祓戸神

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