本郷町 (横浜市) – Wikipedia

本郷町(ほんごうちょう)は神奈川県横浜市中区の町名[5]。現行行政地名は本郷町1丁目から本郷町3丁目(字丁目)で、住居表示未実施[6]。面積は0.200km2[1]。 中区の中部に位置し、北は千代崎町、東は本牧町、南は本牧満坂および本牧緑ケ丘、西は西之谷町と上野町に接する。1丁目から3丁目までの字丁目が設けられ、北西部が1丁目、北東部が2丁目、南部は3丁目となっている。1・2丁目を東西に本牧通り(市道関内本牧線)が走り、その両側は商店街となっている[7]。3丁目は、根岸の台地を北から侵食する谷戸と丘陵で、主に住宅地となっている[5]。3丁目を南北にガス山通りが通り、中ほどにガス山公園がある。これは昭和30年代後半まで東京ガスのガスタンクがあったことに由来する[8]。本牧通りには昭和40年代まで横浜市電が運行されていたが、廃止されて以降町内に鉄道路線はない。関内駅から本牧まで横浜市営地下鉄3号線を建設する計画があったが、当時の地下鉄建設は開削工法が主体のため港湾物流への影響に対する懸念や、商店街の一部の反対があり、断念された[9]。本牧通りを走る路線バスが移動手段の主力となり、「千代崎町」「本郷町」のバス停が設けられているほか、山手駅から本郷町3丁目を通り本牧満坂方面への路線バスも運行されている。 古くは久良岐郡本牧本郷村の一部で、1889年(明治22年)4月1日に町村制の施行により、北方村と合併して本牧村となる。1901年(明治34年)4月1日に横浜市に編入。1927年(昭和2年)10月1日に区制施行により、旧村域が中区になる。1928年(昭和3年)に、中区本牧町から本郷町が分離・新設された。当時は1・2丁目が設けられたが、1933年に本牧町・北方町の一部を編入、1~3丁目に改められる[10]。地名は、枝郷や出郷に対する「本郷」を意味する[11]。本郷を冠する地名には、市内に瀬谷区本郷、栄区本郷台、緑区東本郷がある。 世帯数と人口[編集] 2021年(令和3年)7月31日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。 丁目 世帯数 人口 本郷町1丁目 179世帯 277人 本郷町2丁目 336世帯 558人 本郷町3丁目 1,178世帯 2,243人 計 1,693世帯 3,078人

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アジャド要塞 – Wikipedia

カアバとアジャド要塞、1889年。 アジャド要塞[1](トルコ語: Ecyad Kalesi、アラビア語: قلعة أجياد‎)は、かつてサウジアラビアに存在していたオスマン帝国時代の要塞である。アジャド要塞はイスラーム教徒にとって最高の聖地であるメッカのマスジド・ハラームを見下ろす形で小高い丘(ブルブル山)の上に存在した。18世紀の後半に建てられたもので、2002年に商業開発の目的でサウジアラビア政府によって破壊された。この開発計画は国際的な批判を浴びたが、ブルブル山は整地され、跡にはアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが建設された。 目次 1 歴史 2 反応 3 関連項目 4 参考文献 この要塞はカアバやモスクを盗賊などから守る目的で1780年にオスマン帝国の治世下に建設された。当時、盗賊や侵略者の間にはワッハーブ派の過激思想が広まっており、オスマン帝国は彼らが街に入ることを望まなかった[2][3]。要塞はブルブル山の2万3千平方メートルを覆い、南方にマスジド・ハラームを臨んでいた。 アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ建設のために2002年のはじめにはアジャド要塞は破壊され、ブルブル山の大部分が整地された[4]。2012年の開業が予定されたこの複合施設は高層の居住施設群と五つ星ホテル、レストラン、ショッピングセンターからなり、サウディ・ビンラディン・グループによって建設された[5]。このプロジェクトは最終的に150億ドルを要した[6]。 この歴史的建造物の破壊は国内外から批判を集めた[7]。トルコでは外相イスマイル・ジェムをはじめとした様々な組織がこのオスマン帝国の遺産を破壊から守るために手を尽くした[8]。民主左派党の副代表はサウジアラビアへの渡航のボイコットを呼びかけた[9]。トルコ文化観光省(トルコ語版、英語版)はアジャド要塞の破壊をタリバンによるバーミヤンの大仏の破壊と比較して、オスマン建築を軽視し続けるサウジアラビア政府の姿勢を非難した[10]。 批判に対してサウジアラビアのイスラーム関連相(アラビア語版)(Minister of

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ホテルモントレ – Wikipedia

ホテルモントレ(Hotel Monterey)とは、ホテルモントレ株式会社が日本で展開、運営するホテルチェーンである。 大阪市の不動産賃貸会社「マルイト株式会社」が1986年にホテル事業に進出した際に、「ホテルモントレ」ブランドを採用。1995年9月に、ホテル部門がホテルモントレ株式会社として同社から独立して、現在に至っている。なお、マルイトは、丸糸呉服店を発祥とするアコムの同根企業である。 Montereyは、スペイン語でmonte(モンテ)が「山」、rey(レ、レー)が「王」となり、「山の王」を意味する。初出店の地が大田区山王だったことに由来する。 2009年10月に、プロサッカークラブ「ガンバ大阪」とのオフィシャルスポンサー契約を締結。 ホテル一覧[編集] ホテルモントレ札幌(2008年7月) ホテルモントレエーデルホフ札幌(2018年4月) ホテルモントレ ラ・スール大阪(2012年11月) 親会社のマルイトが保有する建物(マルイトXXビル)に入居する形態で運営されているものが多い。主に西洋各地の伝統的建築様式をヒントに内外装をデザインしたホテルを展開している(括弧内はイメージ・モデルとした世界各国の都市や街を示す)。 一部のホテルの名称にある「ラ・スール(仏:la soeur)」および「エルマーナ(西:hermana)」はいずれも「姉妹」、すなわち姉妹館であることを意味するが、単独で展開している地区も存在する。 北海道 東北 関東 近畿 九州・沖縄 ホテルモントレ長崎:1997年4月開業(ポルトガル) ホテルモントレ

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カステリョー・ダンプリアス – Wikipedia

カステリョー・ダンプリアス(カタルーニャ語: Castelló d’Empúries)またはカステリョン・デ・アンプリアス(スペイン語: Castellón de Ampurias)[1]は、スペイン・カタルーニャ州ジローナ県のムニシピ(基礎自治体)。公式名はカタルーニャ語名のCastelló d’Empúries。クマルカ(郡)としてはアルト・アンプルダーの構成自治体のひとつである。フィゲーラスの9km東に位置する。自治体内にはヨーロッパ最大級の別荘併設型ヨットハーバー(マリーナ)で知られるアンプリアブラーバ地区がある。 サンタ・マリーア教会 アンプリアス郡(英語版)の政庁所在地だったアンプリアスがあまりにも簡単に海賊の略奪を受けたため、1079年にはカステリョー・ダンプリアスがアンプリアス郡の政庁所在地となった。1325年から1341年には町の拡大が行われ、1385年にはアラゴン=カタルーニャ連合王国に組み込まれた。 半島戦争中の1809年には、ナポレオン率いるフランス軍の第113戦列歩兵連隊(フランス語版)がここで戦った[2]。 1970年代にはコスタ・ブラバの海岸にアンプリアブラーバの人工都市ができたため、カステリョー・ダンプリアスの旧市街はやや縮小している。 面積は42.3km2であり、市庁舎がある旧市街の標高は17mである。地中海のロザス湾から約4km内陸にある旧市街のカステリョー・ダンプリアス地区、ロザス湾に面しているアンプリアブラーバ地区と、2つの人口中心地を有している。近隣の町には、フィゲーラス、ロザス、パララーダ(英語版)、フルティアー(英語版)などがある。 自治体域にはアンプルダー湿地自然公園(スペイン語版)がある。アンプルダー湿地はロザス湾の一部であり、エブロ・デルタ同様にマラリア性湿地だった。4,800ヘクタールの面積を持ち、カタルーニャ州で2番目に大きな湿地である。アンプルダー湿地はフルビアー川(スペイン語版)とムガ川(スペイン語版)に挟まれている。1983年に自然公園に指定された。中世の市街地はムガ川に三方を囲まれており、北東方向にはカステリョー池(カタルーニャ語版)が存在した。やがてカステリョー池は干拓されて農地となり、ムガ川の最下流部は最短距離で地中海に注ぐこととなった。 カステリョー池が描かれた1748年の地図 カステリョー池が描かれた18世紀の地図(下辺が北) 地区[編集] 2000年時点では3,039人が旧市街のカステリョー・ダンプリアス地区に、3,227人が海岸部のアンプリアブラーバ地区に住んでいた。2000年時点では両地区の人口差はわずかだったが、カステリョー・ダンプリアス地区の人口増加が緩やかなのに対して、アンプリアブラーバ地区の人口増加は急激であり、両地区の人口差は拡大した。2009年の自治体人口は12,111人であり、8,001人がアンプリアブラーバ地区、3,971人がカステリョー・ダンプリアス地区に住んでいる。139人は散居形態にある。 アンプリアブラーバ地区 : 8,001人 カステリョー・ダンプリアス地区 :

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キラー・トーア・カマタ – Wikipedia

キラー・トーア・カマタ プロフィール リングネーム キラー・トーア・カマタトーア・カマタドクター・モトキング・カマタ 本名 マクロナルド・カマカ ニックネーム 流血大王 身長 183cm 体重 140kg(全盛時) 誕生日 1937年3月9日 死亡日 (2007-07-23) 2007年7月23日(70歳没) 出身地 アメリカ合衆国 ハワイ州ホノルル郡ホノルル

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川越市産業観光館 – Wikipedia

川越市産業観光館(かわごえしさんぎょうかんこうかん)は、埼玉県川越市新富町にある商業施設。旧酒造会社の建物を転用した上で川越市が設置し、株式会社まちづくり川越が指定管理者となっている。愛称は「小江戸蔵里(こえど くらり)」で、2010年(平成22年)10月1日に開業した。 川越市産業観光館は、1875年(明治8年)に創業した旧・鏡山酒造の酒蔵(国の登録有形文化財)を保存・改修し、2010年(平成22年)10月に開業した施設である。旧・鏡山酒造は、川越市内に最後まで残った造り酒屋で、明治・大正・昭和期に建てられた蔵が残されていたが、2000年(平成12年)に廃業した。それらの歴史的・文化的な施設を保存・活用すべきであるとの市民の声に応えるため、川越市が土地と建物を取得し、地域の産業と観光のための施設として計画・設置したものである。施設は、市民と観光旅行者との交流の場となり、地域の活性化を図ることを目的とし、地域周辺の物産などを紹介し販売している。酒造蔵は、明治蔵は「おみやげ処」、大正蔵は「まかない処」、昭和蔵は「ききざけ処」に各々活用した3つの蔵で構成されている[1][2]。 愛称「小江戸蔵里」の由来 「小江戸」は、川越市の別名であり、川越の蔵造りの町並みを表現する「蔵」と、心のふるさとの「里」という意味を表現した[1]。 1875年(明治8年) – 鏡山酒造が創業。 2000年(平成12年) – 鏡山酒造株式会社が廃業。 2008年(平成20年)3月 – 旧鏡山酒造の蔵3件が国の登録有形文化財に登録される。 2010年(平成22年) 4月1日 – 川越市産業観光館が開設した。 10月1日 –

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悲しみの聖母 – Wikipedia

悲しみの聖母 (かなしみのせいぼ:ラテン語:Beata Maria Virgo Perdolens) は、聖母マリアの人生における悲しみに関連した称号・信心であり、嘆きの聖母・悲しみの御母・慈愛の聖母・七つの悲しみの聖母・七つの嘆きの聖母などといった称号で呼ばれることもある。また、カトリック教会におけるマリア美術(英語版)の主題でもある。 「悲しみの聖母」の祝日は9月15日である。カトリックを信仰するいくつかの国々においてはそれ以外に、悲しみの金曜日の祝日(英語版)にも「悲しみの聖母」への信心を行うことがある。 聖母マリアの七つの悲しみ[編集] 「マリアの七つの悲しみ」は、カトリック教会の信心業の中でも普及しているものである。カトリック教会における共通した宗教画として、聖母マリアが悲しみにくれて涙を流し、7つの矢に心臓を貫かれ、しばしば流血している姿が描かれる。この信心業における祈祷文も、聖母の悲しみを瞑想することから成り立っており、これはルカによる福音書に記されたシメオンの預言を基にした聖母の七つの悲しみを詳しく述べるところから始まる。 この「悲しみの聖母」における信心業で一般的なものは「七つの悲しみのロザリオ(英語版)」や「聖母の七つの悲しみのチャプレット」、そして最近では「聖母マリアの悲しみと汚れなきみ心(英語版)」がある。 聖母マリアの七つの悲しみとは、聖母マリアの人生において起こった7つの出来事を指している。これは「聖母マリア 7つの悲しみの道行」として一般的に普及している信心業であり、「聖母マリアの七つの悲しみ」の各シーンは、美術絵画としても頻繁に描かれるテーマである[1]。 カトリック教会で一般的に行われている信心業の行い方は、「主の祈り」を1回、それぞれの7つの玄義ごとに「アヴェマリアの祈り」を1回ずつ唱える。なお、この七つの悲しみは、ロザリオの祈りの5つの玄義と混同すべきではない。 シメオンの予言 (ルカ 2:34-35) エジプトへの逃避 (マタイ 2:13) 幼子イエスをエルサレム神殿で見失う (ルカ

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ラウジッツ辺境伯領 – Wikipedia

ラウジッツ辺境伯領(ドイツ語: Mark(grafschaft) Lausitz)は、神聖ローマ帝国の東境に置かれた辺境伯領。ポラービアン・スラブ人が定住していた地域に置かれ、965年のゲロ辺境伯領の分割により創設された。いくつかのザクセン貴族の一族、特にヴェッティン家が辺境伯位を相続したが、その支配権をポーランド王やアスカニア家のブランデンブルク辺境伯と争った。また領土の一部は1367年にボヘミア領に組み込まれた。 目次 1 地理 2 歴史 3 歴代 (下)ラウジッツ辺境伯 3.1 マイセン辺境伯 3.2 ランツベルク辺境伯 3.3 ブランデンブルク辺境伯 4 脚注 5

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一宮市立図書館 – Wikipedia

一宮市立図書館(いちのみやしりつとしょかん)は、愛知県一宮市の公共図書館の総称。 1915年(大正4年)に一宮町立図書館として開館した。2005年(平成17年)に旧一宮市、尾西市、葉栗郡木曽川町の2市1町が合併して新一宮市が誕生してからは、中央図書館、尾西図書館、玉堂記念木曽川図書館、尾西児童図書館の4図書館に加え、子ども文化広場図書館(図書館類似施設)、移動図書館からなる。2015年(平成27年)に100周年を迎えた。 中央図書館[編集] 歴史[編集] 高等女学校時代(1915-1931)[編集] 近世の一宮は真清田神社の門前町として栄えた町であり、「三八市」と呼ばれる門前市では綿織物や絹織物などの繊維製品が取引された。1915年(大正4年)には日本各地で大正天皇御大典記念事業が企画された。愛知県中島郡一宮町の一宮町会は記念事業として一宮町立図書館を設置することを決定し、図書館設備費1,000円の支出を議決。12月24日には館則が制定され、その後松井茂愛知県知事に対して設立申請書を提出して認可を受けた。この頃の資料を欠いているため、実際の開館日は定かでないが、今日の一宮市立図書館は館則が成立した12月24日を創立記念日としている。 一宮高等女学校時代の規則 開館時間 04月01日-07月20日 : 16時-21時(一学期) 07月21日-08月31日 : 08時-16時(夏季休暇中) 09月01日-12月24日 : 16時-21時(二学期) 12月25日-01月07日 : 09時-16時(冬期休暇中) 01月08日-03月31日 : 16時-21時(三学期) 閲覧冊数 3部15冊以内

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上野町 (横浜市) – Wikipedia

上野町(うえのちょう[5])は神奈川県横浜市中区の町名[6]。現行行政地名は上野町1丁目から上野町4丁目(字丁目)、住居表示未実施[7]。 中区の中部に位置し、北は山手町、東は千代崎町および本郷町、南は西之谷町、西は大和町・麦田町・妙香寺台に接する。1丁目から4丁目までの字丁目が設けられ、南西部が1丁目、南東部が2丁目、中部が3丁目、北部は4丁目となっている。1・2丁目を東西に本牧通り(市道関内本牧線)が走り、その両側は商店街となっている。横浜北方郵便局は、この通り沿いの2丁目にある。4丁目の北端は横浜市立元街小学校の敷地に掛かる[6]。昭和40年代まで本牧通りに横浜市電が運行されていたが、廃止されて以降町内に鉄道路線はなく、本牧通りを走る路線バスが移動手段の主力となる。本牧通りに「上野町」のバス停があるほか、港の見える丘公園方面に通じるビアザケ通り上にある「妙香寺前」も町内に位置する。 地価[編集] 住宅地の地価は、2017年(平成29年)1月1日の公示地価によれば、上野町2-89の地点で30万円/m2となっている[8]。 かつての久良岐郡北方村の一部で、1873年(明治6年)に県による街並み整備により起立した。1889年(明治22年)に横浜市に編入。1927年に、区制施行により中区の町名となる。1928年に山手町と北方町の各一部を編入し、1~4丁目を置いた。1936年にはさらに山手町と北方町の各一部を編入した[9]。上野の小名は『新編武蔵風土記稿』の北方村の項にも記されている。中島利一郎の『日本地名学研究』には、「東京、横浜のいずれにも上野、根岸があるのは面白いが、上野は断崖上の平原丘と解し、または熊、鹿等の猟の少ない平山つづきの地と解釈してもいいと思う」と記している[11]。 世帯数と人口[編集] 2021年(令和3年)7月31日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。 丁目 世帯数 人口 上野町1丁目 440世帯 725人 上野町2丁目 301世帯 489人 上野町3丁目 117世帯 220人 上野町4丁目

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