カクシンハン – Wikipedia

カクシンハン(Theatre Company KAKUSHINHAN)は、日本の劇団。東京都渋谷区を本拠地としている。主宰は演出家の木村龍之介。 東京大学で文学、蜷川幸雄カンパニー、及び文学座演劇附属演劇研究所で演出を学んだ木村龍之介が、主宰として2012年に旗揚げ。以降全作品を手掛けており、古典の大胆な解釈や斬新な演出を特徴とする。 演出・俳優・スタッフによるフラットな共同制作を行い、現在はシェイクスピア作品を中心として単独公演、プロデュース公演を行っている。2016年度シアター風姿花伝プロミシングカンパニー選出。[1] 2016年劇団を法人化、現在は株式会社トゥービーが劇団運営/マネージメントを行う。 公演スタイル[編集] フルスケール公演(本公演)とポケット公演がある。 ポケット公演とは、ポケットに入れて持ち運ぶように、”古典を手軽にハイスピードで楽しんでもらう”というコンセプトのもと展開されているシリーズ。[2] メンバー[編集] 木村龍之介(主宰/演出/作家) 真以美 河内大和 岩崎MARK雄大 のぐち和美 井上哲 公演作品[編集] フルスケール公演(本公演)[編集] 旗揚げ公演:ハムレット×SHIBUYA ~ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか~,

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ハンス・ファイト・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ – Wikipedia

ハンス・ファイト・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ伯爵、1898年 ハンス・ファイト(3世)・マクシミリアン・カスパー・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ(Hans Veit (III.) Maximilian Kaspar Graf zu Toerring-Jettenbach, 1862年4月7日 アウクスブルク – 1929年10月29日 ミュンヘン)は、ドイツ・バイエルン王国の貴族、政治家。伯爵。 クレメンス・マリア・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ伯爵とその妻の伯爵令嬢フランツィスカ・フォン・パウムガルテンの間の長男として生まれ、1891年に父が死ぬとテーリンク伯爵家の家督を継いだ。1898年7月26日にミュンヘンにおいて、バイエルン王室に連なる上級貴族であるバイエルン公カール・テオドールの娘ゾフィーと結婚した[1]。この結婚を通じてベルギー王アルベール1世、バイエルン王子ループレヒト(のち王太子)の義兄となった。この親族関係もあって、摂政宮ルイトポルト王子から侯爵(フュルスト)への昇格を打診されたが、辞退した。 バイエルン参議院(ドイツ語版)における自由主義野党勢力の代弁者であり、民主主義者であると噂されていた。社会福祉政策に精通しており、ミュンヘンの住宅難への対策案、農場経営や林業経営における労働協約締結の要求への対策案を提案していた。使用者として召使や農場労働者に模範的な金額の失業給付を支払っていたが、これは自らに付けられた「赤い伯爵(Roter Graf)」という呼び名を意識した行動だったと言われる。 1918年初め、ベルン駐在ベルギー公使フェルナン・ペルゼ(Fernand Peltzer)を通じてベルギー政府と接触している。しかし1918年8月23日、テーリンクは帝国国務大臣パウル・フォン・ヒンツェ(ドイツ語版)宛ての書簡において、ベルギーとの和平交渉は無駄に終わったと通告している[2]。ヴァイマル共和国時代になっても、他のドイツ貴族と同様に家名の一部として貴族称号の使用を許された。1921年9月にグスタフ・フォン・カールがバイエルン州首相を辞職した際、バイエルン人民党から次期首相の座を提供されたが、辞退している[3]。 1897年、居城ゼーフェルト城(ドイツ語版)に建築家ガブリエル・フォン・ザイトル(ドイツ語版)設計による列拱廊付きのオランジュリーを建てた。1916年以降、所領内のアウバッハ(ドイツ語版)渓谷の土地改良を進めた。またヴィッダースベルク池(ドイツ語版)とピルゼン湖(ドイツ語版)の間に16の養魚池を設け、そのうち6つが現在も養魚池として使用されている[4]。

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トニー・ストーム – Wikipedia

トニー・ストーム プロフィール リングネーム トニー・ストームストーム 本名 トニー・ロッサル 身長 166cm 体重 65kg 誕生日 (1995-10-19) 1995年10月19日(26歳)[1] 出身地 ニュージーランドオークランド 所属 AEW トレーナー Mason ChildsImpact

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スターユニットシリーズ – Wikipedia

スターユニットシリーズとは、株式会社タミヤよりリリースされている1/14スケール電動RCカーのシリーズ名称である。2017年12月からは1/8スケールの3輪バイク「ダンシングライダー」が加えられた。 インドアからアウトドアまで気軽に遊べる事がコンセプト[1]。 単3形電池4本をパワーソースにした後輪駆動の電動RCカーとなっている。 ボディは軽量なポリカーボネート製。 ミニ四駆をイメージさせるトレーニングバンパーを取り付ける事ができるものもある。 メカニズム[編集] SU-01 SU-01シャーシは370モーターをリヤエンドに搭載した後輪駆動タイプ。ギヤボックスは密閉され、デフギヤを装備。サスペンションはシンプルなストラットタイプの4輪独立。完成品ではESCと受信機を一体化したTRE-01ユニットを搭載し、配線も極力抑えた構成になっている。組立キットの場合は任意のRCメカを選んで搭載できる。 T3-01 T3-01シャーシは後輪駆動タイプの3輪バイク(前輪1、後輪2)。車体を傾けて左右に曲がる。リヤにはギヤデフを内蔵。フロントサスペンションはテレスコピックタイプ。370モーターを使用。バッテリーは単3形アルカリ電池4本やLF1100バッテリーが使用出来る。サポートアームを使い、転倒しても自力で起き上がれるよう工夫されている[2]。 ラインナップ[編集] No.1 ライトニングホーク 2015年10月発売[3]。オールインワンの完成電動RCバギー。TRE-01ユニットを搭載。送信機の背面にはスピード切り換えスイッチがあり、ノーマル・パワーの2段階にスピードを切り替えられる。 No.2 エアロ アバンテ(組立キット) 2016年2月発売[4]。未組立て、未塗装の組立キット。両サイドにローラーを装備できるトレーニングバンパー付き。Mシャーシ用タイヤやホイールが装着可能。プロポなどのRCメカは別売。 No.3 エアロ

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大曲工業団地 – Wikipedia

大曲工業団地(おおまがりこうぎょうだんち)は、北海道北広島市にある工業団地および町名。この項目では、大曲新工業団地や大曲第3工業団地についても記載している。 道央の中心部に位置して道央自動車道・国道36号・羊ケ丘通の広域幹線道路が通っており、札幌市と新千歳空港などを結ぶ立地条件になっている[4]。近くにはインターヴィレッジ大曲や三井アウトレットパーク 札幌北広島などの商業施設や北広島輪厚工業団地がある。 大曲工業団地は1969年(昭和44年)に民間が開発した工業団地。大曲新工業団地は大曲工業団地の後背地にあり、北広島市が進出企業の誘致後に希望を取り入れて造成する「オーダーメイド方式」の分譲を北海道内で初めて行った。大曲第3工業団地は大曲新工業団地の北西にあり、北広島市大曲ふれあいプラザやつつじヶ丘公園がある[6]。 企業進出に対して北広島市・北海道・札幌市による優遇措置を設けている[7][8]。 大曲工業団地 大曲新工業団地 大曲第3工業団地 所在地 大曲工業団地1〜4丁目 大曲工業団地5〜6丁目 大曲工業団地6〜8丁目 宅地面積 67.0 ha 23.8 ha 29.0 ha 用途地域

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安俊洙 – Wikipedia

安 俊洙(アン・ジュンス、ハングル: 안준수、ラテン翻字: Ahn Joon-soo、1998年1月28日 – )は、韓国出身のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。U-23韓国代表。Kリーグ2・釜山アイパーク所属。 7歳でサッカーを始め、父親の知人で忠毅中学校サッカー部の監督であったミン・ジェホンに師事した[1][2]。ミン・ジェホンは安の守備時の集中力の高さや、ボールに対して物おじしない性格からゴールキーパーとして育てようと決意[1]。小学校在学中に浦項製鉄中学校サッカー部より獲得のオファーがあったがこれを断り忠毅中学校に入学[2]。FC議政府(英語版)と提携関係にあり、専任のゴールキーパーコーチも在籍するという同中学校の環境下で、ゴールキーパーだけではなくフィールドプレーヤーの技術習得にも努めた[1]。2013年にU-15韓国代表に選出。この時は忠毅中学校サッカー部のチームメイトでもある従兄弟と共に選出され、「不正な方法で息子が代表入りしたのではないか」と父親が慌てた、というエピソードも残っている[1]。中学校3年次の夏休みには日本へ渡り、後に加入することになるセレッソ大阪に短期留学した[2]。 卒業後はFC議政府のU-18チームに加入。同チームは授業への参加が免除される他校のサッカー部とは違い、正規の高校課程にて学業を終えてから放課後に活動するクラブであったが、その後も代表チームに招集された。U-17代表チームのゴールキーパーコーチであった車相光(朝鮮語版)に師事するようになってから更に成長を遂げ[1]、AFC U-16選手権2014、2015 FIFA U-17ワールドカップに出場。ワールドカップでは背番号1番を付けて3試合に出場した。 2016年7月、かつての留学先であったセレッソ大阪に入団した[3]。2017年12月、鹿児島ユナイテッドFCへ2018年シーズンの期限付き移籍が発表された[4]。2018シーズンのJ3リーグでは29試合に出場し、2019シーズンも期限付き移籍期間を延長して鹿児島に在籍[5]。 プレースタイル・評価[編集] 恵まれた体格や反射神経の鋭さを生かした守備が特徴である[6]が、それに加えてFC議政府U-18の監督である鄭聖勲(朝鮮語版)や車相光は、ゴールマウス前での冷静さを挙げている[1][7]。PK阻止率も高く、中学・高校サッカー関係者からは「PK戦の神」の異名で呼ばれていた[1]。 所属クラブ[編集] ユース経歴 回龍小学校 忠毅中学校 議政府FC

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中央通り (大分市) – Wikipedia

中央通り昭和通り交差点から南を見る。 中央通り大分駅前交差点から北を見る。右手に見える大分パルコは2011年1月閉店。 中央通り(ちゅうおうどおり)は、大分県大分市の大分駅前交差点から昭和通り交差点に至る市道である。正式名称は大分市道中央通り線。 市街地の中央を南北に走る大分市のメインストリートである。全長約400mで、車線数は片側3車線、車道幅員20m。南端の大分駅前交差点で国道10号(産業通り)に、北端の昭和通り交差点で国道197号(昭和通り)にそれぞれ接続する。道路自体は昭和通り交差点を越えても新川交差点まで北にまっすぐ続いており、この部分も中央通りの名で呼ばれることが多いが、路線上は、昭和通り交差点から新川交差点までの部分は市道ではなく大分県道511号大分港線となる。 大分駅前交差点から昭和通り交差点までの間は、通りに沿って、トキハ本店、大分オーパといった大型商業施設を含む商業施設や、大分銀行本店をはじめとする金融機関の本支店が立ち並ぶ。通りの西側北部は大分県で最も早くタイル舗装を取り入れた商店街のひとつであり、赤レンガ通り商店街と名付けられている。また、ガレリア竹町商店街、府内五番街商店街などの商店街は、中央通りを起点として東西に延びる。中央通りに並行して西側にセントポルタ中央町商店街が延びており、中央通り方向に通行する歩行者の代替路の役割も果たしている。 中央通り沿いには、大分バス、大分交通のバス停留所が多数設けられ、市街地中心にバスターミナルを有さない両社にとって、大分駅前と合わせて実質的にバスターミナルの機能を果たしている[注 1]。このため多数のバスが停車、通行し、市街地や大分駅にアクセスする乗用車と相まって、中央通りの混雑の原因ともなっている。 毎年8月に行われる大分七夕まつりの際には、中央通りは歩行者天国とされ、府内戦紙やチキリンばやし市民総おどり大会の会場となる。毎年12月に行われるおおいたファンタジーというイルミネーション・イベントでもメイン会場となり、通りは華やかな電飾に彩られる。 22時から翌朝5時までの間、指定車を除く排気量125cc以上の二輪車は通行禁止となっている[1]。 戦前の中央通り[編集] 明治時代中期まで、この通りの北側の部分は大分銀行旧本店(現大分銀行赤レンガ館)の辺りまでが府内城の堀で、その南側は住宅が散在する湿地であった。現在の中央通りにあたる通りは、1911年(明治44年)に豊州本線(現在の日豊本線)大分駅が現在地に開業したのに合わせて堀を埋め立てて造られたものである。 かつての大分市の市街地は、現在よりもやや北側の新川や竹町を中心とした場所にあった。しかし、大分駅が開業し、1918年(大正6年)には路面電車の大分交通別大線がこの通りを通って大分駅前まで延伸されたことから、1936年(昭和11年)にトキハ本店が出店するなど、次第に中央通りに沿って中心街が形成された。 府内城の中堀だった頃に、現在の竹町付近に碩田橋という橋が架かっていたことから、かつてこの通りは碩田橋通り(せきでんばしどおり)と呼ばれた。なお、「碩田」(おおきた)は、『豊後国風土記』において景行天皇が豊後国(現在の大分県の一部)に対して名付けたとされる、この地域の古名である。また、かつて大分交通別大線が通っていたことから、電車通りとも呼ばれていた。 1945年(昭和20年)7月17日、大分空襲により、中心部は壊滅的な被害を受けて焼け野原となり、駅前から中央通りを見るとその先に海が見えたという。 地下横断歩道と歩道橋[編集] 1967年(昭和42年)9月9日には、中央通りの地下を横断して、トキハ(現トキハ本店)前・府内会館(現大分銀行赤レンガ館)前と住友銀行大分支店前・山崎ビル前とを結ぶ大分県初の地下横断歩道が完成した[2]。 1968年(昭和43年)5月には、この通りの北端の昭和通り交差点に「ロ」の字形の歩道橋が設けられた。しかし、バリアフリー化のために、2012年(平成24年)8月に横断歩道が設けられるとともに、歩道橋は2013年(平成25年)5月6日に閉鎖[3]。7月15日から解体工事が行われ、10月15日深夜から16日早朝にかけて本体部分が撤去された[4]。 路面電車の廃止と歩行者天国[編集] 1972年(昭和47年)4月5日には大分交通別大線が廃止され、5月8日から軌道の除去及び整備工事が行われて、中央分離帯(グリーンベルト)の設置などが行われた[5]。この中央分離帯は2006年度に除去され、両側の車線を一体的に利用できるようになった。これを受けて、2006年度及び2007年度には、中央通りを歩行者天国とする社会実験が2度にわたり行われている[6]。その後、歩行者天国は実施されなかったが、2016年に9年ぶりの実施されている[7]。 整備計画[編集]

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熱海市立図書館 – Wikipedia

熱海市立図書館(あたみしりつとしょかん)は、静岡県熱海市の公共図書館。熱海町に居住していた坪内逍遥の蔵書などを中心として1915年(大正4年)に開館した。静岡県に現存する最古の図書館であり、2015年(平成27年)に創立100周年を迎えた[1]。 貸出カードの作成可能者(この他に熱海市内の別荘保持者) 鉄骨鉄筋コンクリート構造6階建の東京電力熱海営業センタービルの3階以上を賃貸借している。東電ビルの総延床面積3,779.37m2のうち、図書館は2,535.16m2を使用している。東電ビルへの移転によってカウンターが3か所に増え、図書館員だけでは対応が困難となったため、図書館はカウンターボランティアを導入した[3]。カウンターボランティアは図書の貸出・返却、書架の図書整理、図書の修復作業にあたっており、同様のボランティアの存在は全国でも例がないとされている[3]。 市民1人あたりの蔵書数は静岡県内トップクラスである[4]。熱海市在住者に加えて、隣接する神奈川県湯河原町在住者も貸出カードを作成することができる。さらに、熱海市内に別荘などを有している者またはその家族は、熱海市に「在住」(定住)していなくても貸出カードを作成することができる。 熱海市は温泉(熱海温泉)で栄えた町であることから、4階中央部には温泉資料コーナーを設けている[6]。開館100周年記念事業として、2015年度(平成27年度)から郷土資料のデジタル化に取り組んでいる[7]。2015年8月28日には「熱海市立図書館デジタルライブラリー」を公開し、和綴じ本、坪内逍遥関連の文献、行政資料、丹那トンネル資料などを公開している[8]。 逍遥が寄贈した書籍は辞書や教科書などであり、さらに逍遥は妻の名前でシェイクスピア全集を寄贈している[9]。逍遥の寄贈書は少なくとも700点が現存している[10]。開館当初は貸出を行っていたが、その後は一般公開されることなく保管されていた[11]。2009年10月の図書館フェアでは現代になって初めて公開され[11]、さらに2015年には開館100周年を記念して特別展示が行われた[10]。 年表[編集] 1915年(大正4年) : 熱海尋常高等小学校内に町立熱海図書館として開館 1930年(昭和5年) : 本町温泉療養所「噏滊舘」内に移転 1936年(昭和11年) : 旧熱海御用邸内に移転、逍遥先生記念町立熱海図書館に改称 1937年(昭和12年) : 市制施行にともなって逍遥先生記念市立熱海図書館に改称 1944年(昭和19年) : 市立熱海図書館に改称 1950年(昭和25年) : 熱海市青年会館に移転 1953年(昭和28年) :

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栗山自動車工業 – Wikipedia

栗山自動車工業株式会社 本社 種類 株式会社 略称 栗山自動車 本社所在地 日本〒134-0015東京都江戸川区西瑞江5-6-29 設立 1996年7月1日(創業1966年4月1日) 業種 卸売業・小売業 法人番号 6011701002559 事業内容 トラック中古車販売、トラック中古・リビルドパーツ販売、損害保険代理業、トラック買取事業、レッカー業務、レンタル・リース事業、経営コンサルタント事業 代表者 栗山義広(代表取締役) 資本金 2,000万円

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鏡の女たち – Wikipedia

『鏡の女たち』(かがみのおんなたち)は、2002年の日本のドラマ映画である。監督を吉田喜重が務め、主演を岡田茉莉子、田中好子、一色紗英が務めている。第55回カンヌ国際映画祭の特別招待作品である[1]。 あらすじ[編集] 東京都に暮らす川瀬愛(岡田茉莉子)は、24年前に失踪した娘の美和を捜しつづけている。ある日、愛は市役所の戸籍課から連絡を受ける。幼女誘拐の容疑で逮捕された女性が美和の母子手帳を所持しているのだという。その女性は記憶を喪失しており、現在、尾上正子と名乗っている。愛は、孫娘の夏来(一色紗英)をアメリカ合衆国から呼び寄せる。 数日後、釈放された尾上正子(田中好子)のマンションを愛が訪ねてくる。その部屋にかけられている割れた鏡について愛が正子に聞くと、ヒステリーを起こして割ってしまったのだと正子は答える。愛の屋敷にも、美和によって割られた鏡がかけられている。愛は、正子と喫茶店で言葉を交わす合間に、紅茶のカップについた口紅の跡を指で拭き取る。その仕草を見た正子は、自分の母親もそうして拭き取っていた気がする、と話す。愛は正子が美和であることを確信する。 愛の屋敷を訪れた正子は、ひとつの情景を思い出す。それは、病室の窓から見える海に小さな島がいくつも浮かんでいる、というものであった。愛は、正子と夏来を連れて、広島県広島市の病院に向かう。 海辺の病院に着いた愛は、正子と夏来に真実を語り始める。美和が4歳の頃、この病院で美和の本当の父親は命を落としていた。広島市への原子爆弾投下の際、愛は防空壕で彼と出会った。両親を亡くした愛は、彼と暮らし始めた。戦後、C級戦犯として占領軍に拘置された彼は、捕虜虐待の容疑で起訴されたが、原爆後遺症であることが判明し、1年後に釈放された。愛は、彼の反対を押し切り、美和を産んだ。彼は、美和の父親が誰であったかは伏せておいてほしいという遺言を残して、息を引き取った。愛が真実を語り終えると、3人は肩を寄せ合い、涙を流す。 帰京した愛は正子のマンションを訪れるが、養女になってほしいという愛の願いは正子に断られる。その後、正子は母子手帳を持って失踪する。その連絡を聞いた愛は、夏来とともに、閉ざされた障子の前に腰を下ろす。愛は「神様だったのね、あの人は。ふと現れて、ふと消えてしまう神様」と話す。障子には、無邪気に遊ぶ1人の少女の影が映っている。やがて、全てが白い光に包まれていく。 キャスト[編集] 2002年5月23日、第55回カンヌ国際映画祭にて上映された[3]。日本では2003年4月5日に一般公開された[4]。 『Variety』のデヴィッド・ストラットンは「本作の主役は中堀正夫による撮影であり、ショットのひとつひとつが芸術作品である」と述べた[5]。 第77回キネマ旬報ベスト・テンにて、日本映画の第6位に選ばれた[6]。第46回朝日ベストテン映画祭では、日本映画の第1位に選ばれた[7]。 注釈[編集] ^ 本作は、2002年6月15日に肺癌で死去した室田日出男の遺作となった[2]。 出典[編集] 外部リンク[編集]

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