小湊鉄道キハ6100形気動車 – Wikipedia

小湊鉄道キハ6100形気動車(こみなとてつどうキハ6100がたきどうしゃ)は、小湊鉄道が1956年(昭和31年)に導入した気動車である[1]。 キハ6100形(以下「本形式」)は元来電車であった車両を内燃動力車へ改造した車両であり、本形式に次いで導入されたキハ5800形のほか、常総筑波鉄道(現・関東鉄道)が導入したキハ40084・キハ40085以外に例のない、極めて珍しい改造例であった[2]。また上掲各形式はいずれも日本国有鉄道(国鉄)より払い下げられた買収国電を種車とした点が共通する[2]。 国鉄において、可部線における運用を最後に1955年(昭和30年)1月に廃車となったクハ6100形6100・6101の2両を譲り受けた車両である [2][1]。形式記号が示す通り原形は電車であり、2両とも後に青梅線となる路線を敷設・運営した青梅電気鉄道が1926年(大正15年)および1928年(昭和3年)に導入したデハ100形(のちモハ100形)を出自とする[2]。クハ6100(青梅モハ102)は1926年(大正15年)に日本車輌製造東京支店にて、クハ6101(青梅モハ104)は1928年(昭和3年)に川崎造船所にてそれぞれ新製された車両で[3]、両者は車端部台枠露出の有無・屋根上ベンチレーター配列など細部に相違点を有した[3]。青梅線の戦時国有化後は国鉄へ継承され、直後に電装解除による制御車化改造を施工、国鉄在籍最晩年は2両ともに運転関連機器を撤去されて車内の1/3を荷物室として区分し、記号は制御車を示す「クハ」のままながら事実上客荷合造構造の付随車「サハニ」として運用されたとされる[2][* 1]。 国鉄からの払い下げに際しては、客車ハ6100形6100・6101として1955年(昭和30年)12月15日付で譲渡設計変更認可を得た上で[4]、翌1956年(昭和31年)4月5日付で気動車への設計変更が認可され[2]、キハ6100(←ハ6100←国鉄クハ6100←青梅モハ102)が日本車輌製造東京支店において、キハ6101(←ハ6101←国鉄クハ6101←青梅モハ104)が帝國車輛工業[* 2]において、それぞれ気動車化改造が施工された[2][* 3]。 気動車化に際しては車体周りの徹底的な更新修繕が施工された[2]。前後妻面は完全新製され、原形の平妻3枚窓形状[3]からノーシル・ノーヘッダー構造の2面折妻の2枚窓形状[4]となり、窓の固定支持方式もHゴム固定に改められた[2]。ただし、台枠部分のアンチクライマーのみ原形通り存置された[4]。前照灯は埋め込み形に改造され、ケースを介して前後各1灯、屋根上中央部に設置された[4]。その他、客用扉の鋼製化・戸閉器(ドアエンジン)新設による自動扉化のほか客用扉下部には内蔵ステップを新設、車内も木部を中心に修繕工事が施工された[2]。車内は電車当時同様にロングシート仕様である[2]。 新規搭載された機関は縦型直列6気筒ディーゼルエンジンのDMF17B(公称定格出力160 PS)で、当時小湊鉄道に在籍する気動車の中では最大出力であった[2]。変速機は機械式で、台車は電車当時からのTR14を公称する国鉄制式釣り合い梁式台車[2][* 4]を装着するが、転がり抵抗軽減のため軸受を従来のすべり軸受(平軸受)仕様から転がり軸受(コロ軸受)仕様に改造した[4]。連結器は貨車牽引を目的として、簡易連結器を装着した従来車とは異なり、シャロン式下作用形の自動連結器を装着した[2]。 導入後は主力車両として運用され、後年には機関がDMF17Bを設計変更したDMF17C(定格出力180 PS)に換装され出力が向上、変速機についてもTC-2液体変速機に換装された[4]。また、前照灯の2灯化および腰板部左右への移設も施工された[5]。その後、キハ200形の新製増備に伴って旅客運用より離脱、機関車代用として貨物列車牽引用途へ転用された[4]。貨物列車による貨物運輸は1969年(昭和44年)に廃止となり、その後は主に保線用車両として運用されたのち[4]、キハ6100が1976年(昭和51年)10月に、キハ6101が1978年(昭和53年)1月にそれぞれ廃車となり、いずれも解体処分された[1]。 注釈[編集] ^ ただし、クハ6101については国鉄における廃車当時も前照灯など運転関連機器を存置した状態であったことが記録されている[3]。 ^ 小湊鐵道公式においてはキハ6101の改造もキハ6100同様に日本車輌製造において施工された旨記録されている[1]。 ^

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時間厳守 – Wikipedia

時間厳守(じかんげんしゅ、英語: Punctuality)とは、指定された時間までに要求されたタスクを完遂する、ないしは義務を果たすこと[1]。類義語に時間通り(じかんどおり、英語: on time)、対義語に遅刻・遅延がある。 文化圏ごとに時間厳守に対する考え方には差が見られ、許容される遅れの程度は異なる[2]。多くの文化では少々の時間の遅れは許容され、例えば西洋文化は病院の予約時間や学校の授業時間を除き、おおよそ30分 – 1時間程度は許容範囲である[3]。一方軍隊の文化は時間厳守がより徹底して求められる。 アフリカ人の時間感覚(英語版)のように一部の文化では、明言された締切と実際の締切が異なるという暗黙の了解がある。例えばこうした文化の下では、公式に発表された時間よりも1時間遅れて人々が現れる、と理解されることがある[4]。この場合、「午後9時にパーティーが始まる」と伝えられたら、人々はみな午後10時から始まると理解するが、みなが午後10時に到着するので誰も困らないのである[5]。 時間厳守に価値を持つ文化では、遅れるということは他人の時間に敬意を払わないと見なされるばかりか、場合によっては侮辱していると捉えられかねない[6]。この場合、社会的な罰を課されることがあり、例えば会議の場では遅刻者は除外されることもありうる。このような考慮は、計量経済学において時間厳守の価値を、待ち行列理論において他者に対する遅れの効果を導く。 各国の状況[編集] この節の加筆が望まれています。 イギリス[編集] イギリスはヨーロッパの中でも時間厳守の国であると言われている[7]。イギリスの時間厳守は「時間通り」を意味し、約束の時間より少し早めに着くのではなく、約束の時間ちょうどに現れることが時間を守るということを意味する[7]。逆に時間より早く到着するのは先方に対して失礼という考えである[8]。 一方、鉄道などの公共交通機関の遅延は常態化しており、それに対して苦情を申し入れる国民も少ない[7]。15分程度の遅れであれば「時間通り」と見なされ、特に1対1の約束の場合はあまり厳密に時間を守らなくてもよい[8]。またパーティーに招待された場合は、15分程度遅刻して行くのが「礼儀」である[8]。 ドイツ[編集] ドイツにはPuenktlichkeit ist alles.(時間厳守がすべてである)という慣用句があるほど時間厳守が徹底している[9]。一度契約を交わしたら何を置いても納期を守らなければならず、原則として変更は認められない[9]。打ち合わせの開始時間も決められた時間通りである[9]。更に終業時間通りに退社するのが通例で、無理して当日中に仕事を終わらせようとはせず、残業を前提とするような納期の契約は決して結ばない[9]。 日本[編集] 日本では、時間厳守が社会人の常識とされている[10]。取引先との約束がある場合、先方の受付に5分前には到着しておくのがビジネスマナーであるが、始業後すぐまたは昼休み明けの場合は先方の準備が整っていない可能性を考慮し、時間通りか1

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茂来山 – Wikipedia

茂来山(もらいさん)は、信州百名山の一つで、南佐久郡北東部にある標高1,718mの山。 佐久地域の人々からことに親しまれる名峰。その山容は、東西南北になだらかな裾野を広げ、均整のとれた美しい錐体で、周囲に高い山がなく抜きん出ていることもあり、1,700m級の山とは思えない存在感で佐久平のどこからも目を引く。 地質・地形[編集] 基盤は秩父古生層、山体は大日向酸性深成岩で構成され、西部は閃雲花崗岩、北縁は角閃石、閃緑岩が中心で、表層は厚いチャートの岩盤が続く[1][2]。谷の浸食の差異が大きく、断層も多く、険峻。 植生[編集] 高山帯、亜高山帯がない1,700m級の山にしては、珍しい植物が多く生育している。サンヨウブシが佐久地域で初めて採取され、バイカツツジは佐久地域の他の場所では見られない。レンゲショウマの群生地もある。また、谷が険峻であるため、原生に近い山林が多く残っている[2]。 民俗[編集] 古くは雨乞いの山として信仰を集め、田植えの季節、日照り続きの時には、山頂に登って雨乞いをした[3][4]。山頂には、大山の祭神である石尊大権現を勧進して祀った、1793年(寛政5年)建立の石宮がある[4]。大山は雨降山とも呼ばれ、雨乞いと豊作を願う山岳信仰の対象である。石宮は、「茂来山を愛する会」によって新しいものが建立されている[5]。 小海町では、1935年(昭和10年)から尋常高等小学校が全校登山を行っており、戦後に一旦廃止されたが、やがて復活した[4]。 登山口は、佐久穂町側の国道299号沿いに、槇沢コースと霧久保沢コースの2ヶ所、小海町側の親沢地区林道に1ヶ所(親沢コース)[6][7]。 見どころ[編集] 巨大トチノキ「コブ太郎」 山頂は、ほぼ360度眺望が開け、佐久平が一望できる。山頂から間近に見る八ヶ岳連峰は圧巻。 佐久穂町側、霧久保沢コースの中腹には、「森の巨人たち百選」に選ばれたトチの巨木(通称「コブ太郎」)がある。 千曲川を挟んで西に聳える八ヶ岳連峰の一つ、硫黄岳の火山噴火の際に、飛んできた岩をもらって山ができた「貰い山」が由来といわれる。 「もらい」が嫁(婿)をもらいたいに通じることから、縁結びの山としても知られ、山頂には願掛けの石祠が祀られている。 良質な磁鉄鉱石の産地で、周辺には 江戸時代末期に営まれた鉄山やたたら製鉄所の遺跡が残る[8]。しかし、鉱脈は断続的で、採掘の労力と比較して産出量が少なく不採算であったため、産業として確立はされなかった[9]。 ^ 信濃毎日新聞社編

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藤田房子 – Wikipedia

ふじた ふさこ藤田 房子 本名 同 生年月日 (1916-04-02) 1916年4月2日 没年月日 不詳年 出生地 日本 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布1-3丁目及び六本木6-7丁目辺り) 身長 151.5cm 職業 女優、元子役 ジャンル 軽演劇、劇映画(時代劇・現代劇、サウンド版、サイレント映画・トーキー) 活動期間

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キ90 (航空機) – Wikipedia

キ90は、大日本帝国陸軍が計画した爆撃機。開発は三菱重工業が担当した。 1943年(昭和18年)7月9日、陸軍は航密8454号で[1]三菱に対して双発近距離爆撃機キ90の試作を命じた[1][2][3]。キ90は四式重爆撃機の後継機とすることを目指したもので[1]、陸軍からの要求性能は常用高度が4,000 – 10,000 m、行動半径が1,500 km + 余裕2時間、固定武装は20mm機関砲2門、13mm機関砲2 – 3門、爆弾搭載量は最大1,000 kgで魚雷装備の研究も行うというものだった[2]。また、高高度水平爆撃とともに急降下爆撃も可能なことが要求されていた[2]。 設計の規範となったのは海軍が1940年(昭和15年)末に双発急降下爆撃機の研究のためにドイツから輸入したJu 88A-4で[3]、エンジンは排気タービンを備えた三菱「ハ214ル」空冷複列星型18気筒(離昇2,500 hp[4])を使用する予定だった[1][5]。4名の乗員の配置は機首キャビンに集中されている[1][3]。1946年(昭和21年)3月の審査完了が予定されていたが[2]、太平洋戦争の戦局悪化を受けて[1]1945年(昭和20年)5月に行われた試作機整理統合によって、設計段階で計画は中止された[1][6]。 Ju 90改設計機[編集] 上記のキ90とは別に、九二式重爆撃機の後継機として[7]陸軍が1938年(昭和13年)2月頃に計画したJu 90の爆撃機型にも、「キ90」の計画番号が仮称として与えられていた[2][6][7]。これは日独共同で改設計したJu 90をユンカース社で生産し、日本へ空輸するという計画で[2][8]、生産数は10機[2]、日本側の改設計チームは陸軍と三菱の人員からなると予定されていた[8]。 ユンカース社との交渉は三菱が担当し、1938年7月25日にデッサウのユンカース社工場で開始されたが[6][9]、国際情勢の悪化によって輸出向け機体の開発を行う余裕がユンカース社から失われたため[10]、同年9月9日に簡単な一般図が示されたのを最後にユンカース社からの反応が途絶え、計画は断念されている[6][10]。

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静岡県小笠山総合運動公園アリーナ – Wikipedia

静岡県小笠山総合運動公園アリーナエコパアリーナ(静岡アリーナ) 施設情報 愛称 エコパアリーナ 用途 バレーボール、バスケットボール、コンサート他[1] 収容人数 6,308席(固定席4,832席、可動席1,440席、移動席・車椅子席36席)[1] 設計者 佐藤総合計画・斎藤公男JV[2] 施工 大成・東急・鈴与・永井JV[2]東芝空調・静岡日立JV[2]西原・エクノスJV[2]川北・木伏・藤田JV[2] 建築主 静岡県[2] 管理運営 静岡県サッカー協会グループ 構造形式 鉄筋コンクリート構造・鉄骨鉄筋コンクリート構造・鉄骨構造[2] 敷地面積 20,000 m²[2]

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梅津志悠 – Wikipedia

獲得メダル 日本 柔道 世界ジュニア 金 2017 ザグレブ 78kg級 梅津 志悠(うめづ しゆう、1997年4月24日 – )は、大分県出身の、日本人の女子柔道選手。階級は78kg級。身長170cm。血液型はA型。得意技は大外刈。現在は三井住友海上に所属[1][2][3]。 目次 1 経歴 2 戦績 3 脚注 4

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沢崎麻衣 – Wikipedia

沢崎 麻衣(さわさき まい、1994年1月24日 – )は、石川県金沢市出身の女優。 小学校6年間水泳、小・中学校合わせて5年間ピアノを習っていた。初舞台は幼稚園のお遊戯会での『青い鳥』、ミルクの精役。小学3年生の時に観た映画がきっかけで俳優を志す。小学校では文化祭などで舞台を経験し、中学校では市民児童劇団、高校では演劇部に所属し、県大会では主演を務め、最優秀賞を受賞した。その後上京し、明治大学文学部文学科ドイツ文学専攻に入学。明治大学シェイクスピアプロジェクトに参加し、その仲間とナナイロスペースという劇団を立ち上げた。大学の卒業公演を観にきていたマネージャーに声を掛けられ、株式会社エコーズに所属。2018年12月退所。2019年7月の舞台をもって引退。 出演作品[編集] 舞台[編集] 『青い鳥』(ドラマ工房☆キッズ☆クルー)良い空気の幸福役 (2006.12) 『天使は瞳を閉じて』(B-baby)チハル役 (2015.5) 『ヘンリー四世』ピートー役 (2013.11) 『ヘンリー五世』ロビン役 (2014.11) 『ウィンザーの陽気な女房たち』ロビン役 (2014.11) 『ヘンリー六世』エリナー役 (2015.11)

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